中川菜々から優木せつ菜へ 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
リビングに漂うスパイスの香りは、本来なら家庭の幸福そのものを象徴するはずのものでした。
しかし、今夜の食卓を支配していたのは、それとは対極にある重苦しい沈黙です。
カチリ、カチリとスプーンが皿に当たる音だけが規則正しく響きます。
足元では、イワンコとフシギソウ、そして誠一さんのパートナーポケモンでもあるピジョットとリザードンが専用のポケモンフーズを黙々と食べていました。彼らもまた、主たちに漂うただならぬ気配を敏感に察しているのか、いつもより静かです。
誠一さんは、うつむいたままカレーを口に運んでいました。ジムリーダーとしての威厳など微塵も感じられないほど小さく、丸まっています。
対する私も、感情を鉄の仮面の下に押し殺し、機械的に食事を進めていました。
その異様な空気に、ついに七海さんが耐えかねたように口を開きました。
「……ねぇ、二人とも。何かあったの? さっきから一言も喋らないなんて、不自然よ」
七海さんの不安げな視線が、私と誠一さんの間を往復します。
私はスプーンを置き、一度深く息を吐きました。
いつまでも隠し通せることではありませんし、このままでは七海さんのことまで「バカな親」として思ってしまいそうです。
私は冷静に、誠一さんに話した事の顛末をもう一度、今度は七海さんにも説明し始めました。
「今日、公園で起きたことです。しずくさんのヨーテリーが、たけしくんのビードルによって無理やりバトルを強いられ、いえ、一方的にいじめられていました。しずくさんは泣いて、何もできずに立ち尽くしていました」
私の淡々とした語りに、七海さんが「まあ……」と絶句します。
「私はそれを見過ごすことができず、図鑑で学んだ知識を頼りに、イワンコと共にビードルを止めました。たけしくんが怪我を負ったのは、その際の不可抗力です。……それを先ほど、誠一さんは事情も聞かずに、私の非だと決めつけ、私の頬を叩きました…」
私の最後の一言に、七海さんの視線が鋭く誠一さんを射抜きました。
誠一さんはビクリと肩を震わせ、絞り出すような声を出しました。
「……せつ菜。さっきは……いきなり怒鳴って、手を上げて、本当にすまなかった…。 お前の言葉通り、俺は…親として、あまりな態度を取ってしまった…。 事実を知ろうともせず、お前の正義を否定してしまった…」
反省してるようですし、いつまでも子供のように拗ねていても、仕方ありませんね。
「……いえ。私も、あなたに対して度が過ぎた文句を並べました。それについては、謝罪いたします」
私の言葉はまだ硬いものでしたが、誠一さんはようやく顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめました。
その瞳には、先ほどの傲慢さは消え失せ、一人のトレーナーとして、そして父としての真剣な光が宿っていました。
「だが、せつ菜。これだけは言わせてくれ…。 父親として、一人のトレーナーとして、伝えておかなければならないことがある」
「……何でしょうか?」
「いいか。 ポケモンバトルっていうのは、決して遊びじゃないんだ。 誰かを守るためであっても、戦いの場に引き出すなら、そこには命を預かる責任が伴う。 お前は図鑑の知識だけで戦場に飛び込んだ。 もし、あの場でビードルの毒がイワンコを直撃して、取り返しのつかない怪我を負っていたら、お前はどうするつもりだったんだ?」
その指摘は、私を鋭く刺しました。
前世の理屈や「正義感」に酔っていた私の死角を、彼は的確に突いたのです。
確かに、あの時の私は自分の知識を過信していました。
イワンコという生身のパートナーの安全よりも、目の前の「不条理を正すこと」を優先してしまっていた。
「……その通りです。それは私の落ち度でした」
私は、椅子を降りて、首を傾げるイワンコに頭を下げました。
「ごめんなさい、イワンコ。あなたを危険に晒してしまいましたね…」
「ワン?」
イワンコは不思議そうに、けれど優しく私の手に鼻先を寄せました。
その温もりが、私の独りよがりな正義感を溶かしていくようでした。
誠一さんは、私のその反応を見て、ようやく少しだけ表情を緩めました。
「でも、お前のその気持ちは…確かに伝わったよ。 よくやったな、せつ菜。お前は…立派に友達を守ったんだな」
「…!」
不意に贈られた肯定の言葉に、私は思わず顔を上げました。
「はい!」
叩かれた頬の痛みは、いつの間にか消えていました。
誠一さんは不器用な手つきで私の頭を一度だけ撫で、照れ隠しのようにまたカレーを食べ始めました。
「うふふ、そうね。せつ菜、あなたは本当に優しくて、強い子だわ。 お父さんも反省したみたいだし、これでおしまいね!」
七海さんが明るい声を上げ、食卓にようやく本来の暖かさが戻ってきました。
完膚なきまでに論破したはずの「バカ親」に、結局のところ、私は一番大切な「責任」を教えられてしまったようです。
トレーナーズスクール……。行く前から、学ぶべきことは山積みのようですね。
私は少しだけ口角を上げ、再びスプーンを手に取りました。
明日の朝、しずくさんに会ったら、今度は2人で、強くなるための約束を深めよう。そんなことを考えながら食べるカレーは、先ほどよりもずっと、深い味わいがしました。