中川菜々から優木せつ菜へ 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
どれほどの時間が経過したのでしょうか。
永遠とも、瞬きの間ともとれる静寂の後、ふと感覚が戻ってきました。
真っ暗な視界の向こう側から、ぼんやりとくぐもった、けれどどこか力強い声が聞こえてきます。
「頑張れ! 頑張れ! 七海!」
「はぁ……はぁ……っ!!」
若い男性の必死な励ましと、それに応えるように「七海」と呼ばれた女性が荒く息を吐き、力を込める声。
……誰、でしょうか?
お医者様や看護師さんの声ではありません。それに、歩夢さんの声でも。
私が運ばれたのは、緊急救命センターのはずですが。
その時でした。
「――おぎゃあ! おぎゃあ!」
鼓膜を突き刺すような、瑞々しくも力強い赤ちゃんの産声が響き渡りました。
すると不思議なことに、私の頬を温かい何かが伝う感覚がしたのです。
悲しくもないのに、どういうわけか、涙が溢れて止まらない。
「おめでとうございます! 優木さん! 元気な女の子ですよ!」
弾んだ看護師さんの声。
あぁ……なるほど。
この声はきっと、隣の病室かどこかで、新しい命が誕生した瞬間なのでしょう。
なんという偶然でしょうか。片や命を落としかけるくらいの重症負ってる私と、片や今まさにこの世に生を受けた赤子が同じところにいる。
おめでたいことですね。どこのどなたか存じ上げませんが、どうかその子が、光に満ちた健やかな人生を歩めますように。ご家族みんな、お幸せに……。
「でかしたぞ! 七海! やったな!」
男性の歓喜に満ちた声が響きます。
ですが、おかしいですね。
こうして周囲の状況が鮮明に聞こえるということは、私の手術は成功したのでしょうか?
というか先ほどまでの死を覚悟した激痛が嘘のように消えています。
助かったんですか?
歩夢さんをあんなに泣かせてしまいました。早く目を覚まして、無事な顔を見せて謝らないといけませんね。
「誠一さん、この子の名前は考えてくれた?」
「あぁ、せつ菜にしようと思うんだけど、どうかな?」
「せつ菜? ふふっ、いい名前ね」
……変です。
さっきからどうも、この男女の声がやたらと近くに聞こえるのです。
すぐ耳元で囁かれているような、まるで私に語りかけているような、そんな錯覚です。
相部屋なのでしょうか? それとも、ただの幻聴?
不審に思い、私は重い瞼をゆっくりと押し上げました。
「あ、せつ菜が目を開けたわ!」
視界が白く霞んでいます。焦点がなかなか合いませんが、目の前に二人の若い男女の顔が浮かんできました。二人は、横たわっている私を慈しむような、とろけるような笑顔で見つめています。
……えっ? あ、あの、どちら様ですか……?
「せつ菜~、初めまして~! パパですよ~!」
男性が顔をくしゃくしゃにして、私の視界いっぱいに迫ってきました。
はい? パパ? 何をおっしゃっているのですか。
私の父は警察官で、もっとその、威厳のある顔立ちをしています。
そもそも、私は「せつ菜」ではありません。中川菜々です。
人違いも甚だしいですよ! どなたですか!?
「せつ菜~、ママですよ~」
今度は女性が優しく微笑みかけてきた。
だから、せつ菜じゃありませんってば!
混乱する私を余所に、自称パパの男性は、顔を両手で覆い、勢いよく広げました。
「いないいない……ばぁ~!」
……はっ?
な、何を、何をしていらっしゃるのですか!?
やめてください、私はこれでも虹ヶ咲学園の生徒会長ですよ!
いくらなんでも、見ず知らずの高校生に「いないいないばあ」ってからかっているのですか?
私はたまらず、誠一さんの顔を遠ざけようと手を伸ばしました。
その瞬間です。
……えっ?
自分の視界に突き出された「それ」を見て、思考が停止しました。
白くて、丸っこくて、ふにふにとした……驚くほど小さな、紅葉のような手。
えっ? 嘘……。私の手、小さすぎませんか!?
困惑する私の小さな指を、誠一さんが大きな手で優しく包み込みました。
「そうかそうか! パパがわかるか! 握り返してくれたぞ、七海!」
「もう~、誠一さんったら。ふふっ、ママのこともわかるかしら?」
違います! 握り返したんじゃなくて、突き飛ばそうとしたんです!
あなたたちは私のご両親じゃありません!
「ばぁ~!」
再び、誠一さんの渾身の変顔が迫ります。
ですから! そんなだらしない顔を近づけないでください! 非常に不愉快です!
大体、こちらはトラックに跳ねられて生死の境を彷徨っていた怪我人なんですよ!
不謹慎にも程があります! 静かに休ませてください!
「ふふふっ、誠一さん、面白い顔。せつ菜も喜んでるみたい」
「はははっ! そうだろ? 練習した甲斐があったな! ……あれ? この子、笑わないな?」
当たり前です!
女子高生が、初対面の男性の「いないいないばあ」で笑うわけがありません!
ましてや、こんな重傷の体で!
「あら? おかしくなかったのかしら?」
いいえ、おかしいですよ。
……あなたたちの頭が!
そうだ、それより歩夢さんです! 付き添ってくれていたはずの歩夢さんはどこですか!?
看護師さん! 先生!
「とりあえず、記念写真を撮ろうぜ!」
「えぇ。せつ菜、おいで」
七海さんが、愛おしそうに私を抱き上げました。
ちょっと、待って……。
高校生の私を、片手でひょいと持ち上げるなんて、この女性、一体どれだけの怪力なんですか!?
視界が急激に高くなり、私はパニックに陥りました。
すぐ側に、先ほどの看護師さんが立っているのが見えました。
男性は、自前のデジタルカメラを看護師さんに手渡しています。
看護師さん、助けてください!
この不審な男女を部屋から出してください!
「では撮りますよ~、はい、チーズ」
カシャッ!
軽快なシャッター音が室内に響いた。
看護師さんはにこやかに笑いながら、カメラの液晶画面をこちらに向けて見せてくれました。
「こちらでいいですか? とっても可愛く撮れましたよ」
「ありがとうございます!」
覗き込んだ画面の中。
幸せそうに微笑む若い夫婦の間に収まっていたのは。
真っ赤な顔をして、おくるみに包まれた、小さい赤ちゃんの姿がいました。
この赤ちゃんが写っているのは、今、私がいるこの場所。
この夫婦が抱いているのは、間違いなく私。
ということは……?
もしかして、この赤ちゃんは……?
私ですかぁぁぁ~~~~~~っ!?