中川菜々から優木せつ菜へ 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
23章「シキジカとの思い出」
窓の外では、柔らかな春の風に誘われた桜の花びらが、ひらひらとダンスを踊るように舞っています。
私がこの「優木せつ菜」という新しい命を授かり、この世界に足跡を刻み始めてから、早いもので、幼稚園を卒園しました。
そして今日は、一つの大きな節目。
私としずくさんが交わしたあの日からの大切な約束。
『トレーナーズスクール』への入学式当日です。
「準備はできたか? せつ菜。遅れるなよ、今日は主役なんだからな」
リビングで、誠一さんが少し落ち着かない様子でネクタイを整えながら声をかけてきました。
ジムリーダーとしての厳格な顔ではなく、娘の晴れ舞台に浮き足立つ父親の顔です。
「せつ菜、忘れ物はないわね?」
七海さんが優しく微笑み、私の襟元を整えてくれます。
その温かな掌の感触に、私は小さく頷きました。
「はい。準備は万端です。行きましょう、誠一さん、七海さん」
「ワンワン!」
「ピチュー!」
足元では、私の大切なパートナーたちが、期待に満ちた声を上げました。逞しく成長したイワンコと、すっかり家族の一員として馴染んだ、いたずら好きのピチュー。
彼らもまた、新しい生活の始まりを予感しているようです。
家を出る直前、私はふと、つい先日迎えた幼稚園の卒園式を思い出しました。
卒園の時は、本当に大変でした。
クラス全員、というか私としずくさんが、中心となってお世話をしていた幼稚園の飼育ポケモンのシキジカさんとの別れは、胸に迫るものがありました。
四季の移ろいに合わせてその体色を変え、私たちに季節の美しさを教えてくれたシキジカさん。
お別れの際、しずくさんは案の定、大粒の涙を流して彼女の首元に抱きついていました。
思えば、そのシキジカさんこそが、すべての始まりだったのです。
4歳の春、この街の幼稚園に転園してきたばかりで、周囲に馴染めず、いつも一人で俯いていたしずくさん。
当時、すでに中身が大人ゆえに、周囲の園児から浮き気味で、一人で黙々とシキジカのブラッシングをしていた私に、彼女が後ろから消え入りそうな声で話しかけてきたあの日のこと。
『私も一緒に…シキジカさんのブラッシング…、してもいい……?』
もしあの日、あの場所で、私たちがシキジカを通じて言葉を交わしていなかったら、今のこの特別な関係は築かれていなかったかもしれません。
玄関の扉を開け、外の清涼な空気を胸いっぱいに吸い込むと、そこにはすでに先客がいました。
ヨーテリーを大切そうに抱っこしたしずくさんが、門の前で待っていたのです。
「せつ菜ちゃん、おはよ!」
「しずくさん、おはようございます。いよいよ今日からですね!」
しずくさんの後ろには、彼女の両親の信一さんと由美さんの姿もありました。
「誠一さん、七海さん。おはようございます。今日はいい天気でよかったですね」
「おはようございます。2人とも、スクールの制服がとっても似合ってるわよ」
誠一さんと七海さんも「おはようございます」と返し、自然と会話が弾みます。
ピチューゲットの一件以来、しずくさんは頻繁に私の家に遊びに来るようになり、送り迎えの際に親同士が顔を合わせる内に、両家はすっかり家族ぐるみの付き合いとなっていました。
そんな賑やかな様子を眺めていた私の脳裏に、不意に、前世の鮮明な記憶がフラッシュバックしました。
この感覚は、あの時と同じです。
東京お台場。同じマンションの隣同士に住んでいた、上原家との交流。
歩夢さんとは学校へ行く時も、帰る時も、休日も。
両親たちがリビングで笑い合い、私と歩夢さんがその隣で夢を語り合っていた、あの眩しい日々。
今のこの光景は、まるであの頃の焼き直しのようです。
歩夢さんとの思い出が、しずくさんとの日々に重なり、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、けれどどこか救われるような……不思議な温もりに包まれます。
「せつ菜ちゃん、どうしたの? ぼーっとして。……もしかして、緊張してる?」
しずくさんが心配そうに私の顔を覗き込んできました。
その瞳は、あの日シキジカの前で震えていた頃の弱さは消え、希望に満ちた強い光を宿しています。
「あ、いえ。何でもありません。ただ少しだけ…、昔のことを思い出していただけです……」
「昔のこと?」
しまった…!
「いいえ、何でもありません! それよりしずくさん、今からトレーナーズスクールの入学式ですよ! 気合を入れなくてはいけません。準備はいいですか?」
私の言葉に、しずくさんは少しだけ肩をすくめて、恥ずかしそうに笑いました。
「う、うん! 楽しみだけど、やっぱり、ちょっとドキドキしちゃうな。私、ちゃんと授業についていけるかな?」
「しずくさんなら、絶対に大丈夫ですよ。あんなに熱心に私の講義を聞いていたのですから、基礎知識は、他の子たちよりもずっと身についているはずです。自信を持ってください!」
「……えへへ。せつ菜ちゃんにそう言ってもらえると、なんだか本当に大丈夫な気がしてくるよ」
「はい!」
私が力強く頷くと、それまで親同士で話し込んでいた誠一さんが、大きく手を叩きました。
「よし、行くぞ、せつ菜、しずくちゃん!」
「出発進行〜!」
信一さんの元気な掛け声を合図に、私たちは一斉に歩き出しました。
桜の絨毯が敷き詰められた通学路。
横に並んで歩くしずくさんの温もりと、足元で跳ねるポケモンたちの鳴き声。
私の二度目の人生の本格的な幕開け。
『トレーナーズスクール』が、今、最高の青空の下で始まったのです。