中川菜々から優木せつ菜へ 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜   作:あいライス

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3章「異世界の生き物たち」

自分が赤ん坊という、あまりにも無力で小さき存在に成り果ててしまったことに気づいてから、数日が経過しました。

窓から差し込む陽光は穏やかですが、私の心の中は未だに荒れ狂う嵐の真っ只中にあります。

 

意識ははっきりとしていますし、中川菜々として過ごした16年間の記憶は、色褪せるどころか、むしろ失ったものの大きさを強調するように鮮明に脳裏に焼き付いていました。

真面目だけが取り柄だった生徒会の日々。廊下ですれ違う生徒たちが向けてくれた信頼の眼差し。そして、何より大切だった歩夢さんと過ごした放課後の時間。

 

最期の瞬間に聞いた歩夢さんの悲痛な叫びを思い出すたび、胸が締め付けられるような思いがします。

 

私はあそこで一度、確かに死んだのですよね。

 

それなのに、今、私はこうして見知らぬ天井を見上げ、見知らぬ男女に「せつ菜」と呼ばれながら生き永らえています。

 

この数日間、私はこの新しい両親となるであろう、お二人――誠一さんと七海さんの接し方に、頭を悩ませていました。

七海さんは物腰の柔らかな方なので、まだマシですが、問題は誠一さんのほうです。

 

「せっちゃん、おむつ替えまちゅよ〜。ちゅっきりしまちゅね〜」

 

……っ! やめてください! 本当にお願いですから、その話し方をやめていただきたい!

私の精神年齢は高校二年生、多感な時期の女子高生なのです。

いくら外見が赤ん坊だからといって、成人男性にそんなふざけた幼児語で語りかけられるのは、羞恥心を通り越して屈辱でしかありません。

 

前世の父は、厳格な警察官でした。口数は少なかったけれど、常に凛とした背中を見せて私を導いてくれた、尊敬してやまない自慢の父親です。反抗期らしい反抗期もなかった私にとって、父親という存在は、敬うべき対象でした。

 

それに比べて、この誠一さんという人はどうでしょう。鼻の下を伸ばし、締まりのない顔で私をあやそうとするその姿。比べる相手が悪いのは重々承知していますが、どうしてもイラ立ちを隠せません。

 

「ほ〜ら、せっちゃん。高い高いでちゅよ〜!」

 

視界が揺れ、胃のあたりが浮き上がるような感覚。

 

(いい加減にしてください! 私は荷物ではありません!)

 

心の中でいくら叫んでも、口から漏れるのは「あうー」という情けない吐息だけ。

 

誠一さんも七海さんも、心の底から私を愛してくれているので、悪い人ではないのは痛いほど伝わってきます。その純粋な愛情が理解できてしまうからこそ、冷たく突き放すこともできず、ただただ気恥ずかしさと居心地の悪さに悶絶するしかないのです。

 

 

そんな悶々とした日々の中で、私はある決定的な違和感に気づきました。

それは、ある日の昼下がりのこと。

 

七海さんが私を抱きかかえ、退屈しのぎに窓の外を見せてくれた時のことです。

 

青い空を、数羽の鳥が横切っていきました。

大きさは鳩くらいでしょうか。ですが、その羽の色やシルエットは、私の知っている「ドバト」や「キジバト」とは明らかに異なっていました。

 

「せつ菜、見てごらんなさい。マメパトが飛んでるわよ〜。可愛いわねぇ」

 

七海さんが優しく指差した先。

 

……マメパト?

 

私は必死に前世の記憶を掘り起こしました。一般教養には自信がありましたし、図鑑を見るのも嫌いではありませんでした。けれど、「マメパト」なんていう種類の鳩は、一度も聞いたことがありません。

 

聞き間違いでしょうか?

 

いえ、彼女ははっきりとマメパトと言いました。

 

それに、あの鳩の胸元のハートのような模様。

 

赤ちゃんの姿になって、生まれ変わったのは分かっていましたが、どこに生まれ変わったのかというのは重要でした。

 

だけど、見たことない鳩を見て、ざわざわと、胸の奥で嫌な予感が波打ち始めます。

 

これは単なる外国や、見たこともない地方に生まれたというレベルの話ではないのではないのかもしれません。

 

前世で大好きだった漫画やアニメ、ライトノベルなどで語られる、あの突飛な現象が、まさか自分の身に起きているのではないでしょうか?

 

いえいえ、そんなまさか。

 

そんな不安を嘲笑うかのように、誠一さんが威勢よく病室の扉を開けました。

 

「七海、来たぞ! 仕事、光の速さで片付けてきたぜ!」

 

「誠一さん! お疲れ様」

 

また来ましたか…。

まあ…奥様とお子さんの顔を見に来るのは立派な心がけだとは思いますが、もう少し静かに入ってきていただけませんか。

 

「せっちゃんも、いい子で待ってまちたか〜? パパに抱っこさせてくだちゃいね〜」

 

当然のように私を抱き上げる誠一さん。

その「くだちゃいね〜」などという赤ちゃん言葉禁止にしてほしいです!

 

「ふふっ。誠一さん、すっかり親バカの顔ね」

 

「何言ってるんだよ、七海だってせつ菜の写真、もう何百枚も撮ってるじゃないか」

 

睦まじい夫婦のやり取り。どうやら私は、この「優木家」の長女として、第二の人生をスタートさせてしまったようです。

中川菜々という名は消え、これからは「優木せつ菜」として生きていく。その事実は、少しずつ、けれど確実な重みを持って私にのしかかってきました。

 

「イワンコにも、早くせつ菜を会わせたいな」

 

誠一さんが、ふと思い出したように言いました。

 

イワンコ? ワンコ……?

 

あぁ、なるほど。この方の家では犬を飼っているのですね。

 

前世の私は、マンション暮らしだったこともあり、動物を飼うことができませんでした。散歩中の柴犬を見かけるたびに、いつか自分もと夢見ていたものです。

イワンコ。少し変わった名前ですが、きっと愛嬌のあるワンちゃんなのでしょう。

 

どんな犬種でしょうか。ゴールデンレトリバー? それともトイプードル? 早く会ってみたいですね。動物なら、赤ちゃん言葉で話しかけてきたりしませんし。

 

誠一さんは私を抱いたまま、病院の庭が見下ろせる大きな窓の側へと移動しました。

 

「ほら、せつ菜。外は賑やかだぞ」

 

私は誠一さんの腕の中から、地上を見下ろしました。

そこは病院に併設された広々とした公園で、多くの人々が憩いのひとときを過ごしていました。

ですが、次の瞬間、私の思考は完全にフリーズしました。

 

そこには、私の知っている動物に似てはいても、その動物は一匹もいなかったのです。

 

いるのは、噴水の周りを二足歩行でトコトコと歩く、青いラッコのような生き物。

池の表面で、バシャバシャと激しく跳ね回る、金色の髭を蓄えた巨大な赤い魚。

そして、ベンチの下で丸くなっている、額に金色の小判を貼り付けた猫。

 

なんですか……っ!? あの生き物たちは一体何なんですか!?

 

現実逃避気味に目を擦りますが、光景は変わりません。

 

空にはマメパトが舞い、芝生の上では見たこともない色とりどりの生き物たちが、人間と当たり前のように共存している。

 

「あれは、ミジュマル、コイキング、ニャースでちゅよ。せっちゃんも大きくなったら、一緒に遊べまちゅね~!」

 

誠一さんが、隣の家の住人を紹介するかのような気軽さで、その異形たちの名前を口にしました。

 

ミジュマル。

コイキング。

ニャース。

 

聞いたこともない名前。見たこともない生態。

もう認めざるをえませんでした。

 

ここは、私がいた東京でも、日本でも、ましてや地球ですらないと。

 

自然法則も生物体系も、根本から異なる「別の世界」なのだと。

 

「たやや、たやややたやたや〜!?(私、本当に異世界転生しちゃったんですか〜〜!?)」

 

脳内では完璧な日本語で叫んでいたのですが、未発達の声帯を通り抜けたそれは、ただの喃語となって室内に響きます。

 

「お、おい、今喋ったぞ!?」

 

「せつ菜、もしかして……もう言葉が出始めたのかしら!? すごいわ、この子、天才かも!」

 

二人は目を輝かせ、私の顔を覗き込んできました。

 

「パパって言ってみようか? パ・パ!」

 

「だめよ、誠一さん。こういうのはママが先って決まってるの。ほらっ、ママよ、マ・マ!」

 

「いやいや、俺がこんなに可愛がってるんだから、パパだろ!」

 

うるさいです!!

 

どちらが先とかどうでもいいです!

 

なぜなら私は、あなたたちのことをそんなふうに呼ぶつもりはありませんから!

 

だって…、私のお父様とお母様は、世界でただ一人の……。

 

 

ふと、視界の端に自分の小さな手が映りました。

 

この手でもう二度と、あの優しいお父様の大きな手を握ることはできない。

温かいお母様の料理を食べることも。

 

そして…、歩夢さんと肩を並べてお台場の海を眺めることもできない……。

 

 

「……あぅ……」

 

もう会えない。

 

別れの言葉すら言えずに、私はあの日、すべてを失ってしまった。

 

歩夢さん。今、どこで何をしていますか? 私の葬儀で、まだ泣いていたりしませんか?

 

「菜々ちゃん」と呼ぶあなたの声が、今はどうしようもなく恋しいです。

 

 

「おや、どうしたんだ? 急に静かになっちゃって」

 

誠一さんの大きな手が、私の頭を優しく撫でました。

その手の温もりが、前世の父のものとは違うと分かっていながら、今の私にはあまりにも心地よくて、それが余計に悔しくて、悲しくて。

 

これから先、この騒がしい「新しい両親」と、見たこともない「不思議な生き物」たちが溢れる世界で、私は生きていかなければならない。

 

一体、どんな運命が私を待ち受けているのでしょうか。

 

「……たや……」

 

私は諦めたように、誠一さんの胸の中に顔を埋めました。

 

異世界での「優木せつ菜」としての暮らし。そのあまりにも不透明な未来に、私はただ一抹の不安と、消えない郷愁を抱き続けることしかできないのでした。

 

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