中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
職員室の空気は、まるで濁った泥水のようでした。
私を包囲する彼らの口から吐き出されるのはお説教。
いいえ、あまりにも支離滅裂な戯言の数々。
「いいか、優木。あの装置は親御さんに全額弁償してもらう。当然、反省文と一週間の謹慎は免れないと思え!」
「そもそも、桜坂さんは努力が足りないんだよ。体で痛みを覚えれば、少しはバトルの厳しさが分かるはずだ。それを邪魔するなんて、君は彼女の成長を阻害しているんだぞ」
「過干渉はよくないな。これも立派な教育の一環だ」
「バトルが怖い? そんなのは甘えだ。甘えを許すのは、この学校の『正義』に反する」
……吐き気がしました。
彼らの言う「教育」も「正義」も、その本質は強者が、弱者を効率よくすり潰すための傲慢なシステムに過ぎません。
自分たちの怠慢と残虐を「指導」と言い換えるその浅ましさに、私の奥底で、かつて学校という組織を誰よりも信じ、愛そうとしていた前世の理性が、完全に音を立てて決壊していくのが分かりました。
「……黙って聞いていれば、勝手なことばかり……! それは『正義』ではありません!そもそもなぜあのような違法な装置がこのスクールにあるんですか!? あんなもので弱い者をいたぶり、痛みを強いることが教育だというのなら、そんな教育は、そんなスクールは間違っています!」
私の決死の拒絶に、職員室の温度が跳ね上がります。
「なんだと……っ! 君はまだ自分の罪が分かっていないのか!?」
一人の男が顔を真っ赤にして立ち上がり、感情のままに私の頬を叩こうと、その太い腕を振り上げた、その時――。
カツン、カツン、と。
騒がしい職員室の喧騒のすべてを、一瞬で凍りつかせるような、不自然なほど規則正しく、冷徹な足音が廊下の向こうから響いてきました。
その硬質な足音が近づくだけで、私を囲んでいた害獣たちの背筋が、まるで操り人形の糸を強引に引かれたかのように一斉にピンと伸び、その表情から一滴の血の気すらも引いていくのが目に見えて分かりました。
先ほどまで怒声を上げていた男の腕が、怯えを含んで空中で静止します。
職員室の重厚な木製の扉が、一切の抵抗を感じさせないほど音もなく静かに開き、あの人物が姿を現しました。
「……そこまでです」
低く、だが驚くほど深く、部屋の隅々にまで染み渡るように響く声。
「校長……!?」
「キミが、優木せつ菜さんだね? お初にお目にかかります。 校長の倉田です」
この人が、倉田校長……!
入学式の講堂の壇上や、全校集会のプロジェクター越しにしかその姿を見たことがありませんでしたが、ついにこの狂気の帝国の支配者と、直接対話する瞬間が訪れたのです。
「はい、4年D組の優木せつ菜です、よろしくお願いします」
私が努めて冷静に、しかし一切の妥協を排した視線で名乗ると、彼は眼鏡の奥の細められた瞳で私を見つめました。
それは私を威圧するでもなく、かと言って、子供と侮るでもなく、ただ実験室のガラスケースの向こう側にいる珍しいモルモットの行動を観察する学者のような、不気味なほど平坦で、底の知れない光を宿していました。
「キミのことは日々聞いてるよ。この3年間、実に素晴らしい学年トップの成績をおさめてると同時に、クラスの最下位である桜坂しずくさんを庇う、優秀な生徒だと」
倉田校長は、口元だけに三日月のような不気味な笑みを浮かべました。
その言葉の裏にある「優秀な生徒」という響きが、何よりも汚らわしい皮肉として私の耳に届きます。
私を不自然に持ち上げることで、しずくさんとの間に横たわる、彼らが作り出した序列の格差を暗に強調し、私を揺さぶろうとしているのです。
「友人を助けるのは当然のことです。そこに成績や順位など、何の関係もありません」
私が一歩も引かずに、冷徹なトーンで言葉を返すと、倉田校長は「ふむ……」と細い顎に指を当て、じっと凝視してきました。
やがて、彼は何かに満足したように小さく首を縦に振ると、周囲の教師たちに向けて、言葉を挟むことすら許さない絶対的な仕草で片手を払い、下がらせました。
「優木さん、少し私と校長室で話さないかい? キミという『天才』と、じっくり意見を交わしてみたい」
案内された校長室は、まるでスクールの喧騒から完全に隔離された異空間のような静寂に包まれていました。
重厚なデスク、壁一面に飾られた歴代の「優秀な卒業生」たちのモノクロの写真、そして棚に整然と並べられた数々の黄金のトロフィーや表彰状。
そのすべてが、この学校が積み上げてきた「勝利の結晶」であると同時に、その華やかな影で踏みにじられ、使い捨てられてきた無数の「脱落者」たちの血と涙で築かれた墓標のようにも見えました。
校長は、深い焦げ茶色の革張りのソファに私を促すと、自らもその対面に音もなく腰掛け、デスクに用意されていた紅茶を静かに一口啜りました。上質なアールグレイの香りが室内に漂いますが、それがかえって私の警戒心を極限まで高めます。
「実にいい正義の心を持ってるね、優木さん。友を助けたいという慈悲の深さ。……ですが、その優しさは時として、守るべき相手を破滅させる致命的な毒になるのを理解してるかな?」
「毒ですか? 私はそうは思いません。あのような非人道的な違法装置を平然と校内に設置し、一人の女の子の心と身体を踏みにじることこそが、このスクールにはびこる本当の、そして最悪の毒ではありませんか」
私の確信に満ちた反論に対しても、倉田校長は意外そうに眉を上げることもなく、ただ楽しげに、ククク……と喉の奥で低く笑いました。その笑い声は、私の命がけの怒りのすべてを「無知な子供の浅知恵」として優雅に切り捨てるような、絶対的な強者の余裕に満ちていました。
「キミの弱点がわかったよ、優木さん。 成績トップでありながらも、若さゆえに純粋すぎることだ。 いや…、純粋というよりは、システムというものの本質に対して、盲目だと言ったほうが正しいか?」
「どういうことですか……?」
「キミは先ほど、あのフィールドを『違法な装置』と呼んでいたね? ……確かにあれは、公式のポケモンジムや、リーグが主催する全スタジアムはもちろん、公式大会では、法律によって、使用が厳格に禁止されている装置だ。それは事実だよ。 ……しかし、逆を言えば、なぜリーグがあれを禁止したのか、その真の理由を、キミは本当に理解しているかね?」
「そんなの、決まっています! ポケモンとトレーナーの双方に、過剰な肉体的・精神的苦痛を強いるからです! 人道的観点からも、医療的安全面からも、教育の場において、決して許されるものではありません!」
私が一息に言い放つと、倉田校長は紅茶のカップをソーサーにカチリと静かな音を立てて置き、眼鏡の奥の瞳を冷ややかに光らせました。
「あぁ~…やはりその程度の認識か…。 キミのような優秀な頭脳が、そんな大衆向けの薄っぺらな人道主義に騙されているとは、少し拍子抜けだよ……。 優木さん、リーグがあれを禁止した真の理由はね――
ただ単に『見栄えが悪く、商業的に非効率だから』だよ」
「……見栄え、ですか?」
「そうだ。 現代におけるポケモンバトルは、世界最高峰のエンターテインメントであり、観光資源であり、莫大な額の富を生み出す巨大なビジネスだ。 スタジアムを埋め尽くす何万人もの大衆や、巨額の資金を投じるスポンサーたちが求めているのは、華やかで、感動的で、誰もが憧れるような美しいポケモンバトル、筋書きのないドラマだ」
倉田校長は、組んだ膝の上に手を置き、淡々とその冷酷な方程式を紡ぎ続けます。
「そんな光り輝く夢の舞台で、トレーナーが電気に焼かれて無様に床をのたうち回る姿など、誰も見たくはないだろ? それを放映すれば、結果として興行収入が落ち、市場が縮小する。 リーグがあれを排除したのは、倫理的に悪だからではない。 大衆を不快にさせ、利益を損なうリスクがあるからだ。 つまり、表舞台のルールとは、正義のために作られているのではなく、商業的な最大公約数を守るために作られているに過ぎないんだよ」
言葉を失う私を、倉田校長は静かに見つめ、その口元をさらに深く歪めました。
「だが、ここは表舞台ではなく、その舞台に立つための鍛錬の場だ。大衆に夢を見せる必要もなければ、カメラに映る見栄えを気にする必要もない。 ただ、本物の強者を創り出すためだけの隔離された温室だ。
……キミは、こんな話を知ってるかね?」
倉田校長はソファの背もたれに深く身体を預け、まるで古いおとぎ話を語るかのような声音で、しかしその眼光には確かな狂気を宿して、静かに語り始めました。
「かつて、カントー地方の四天王、そしてジョウト地方のチャンピオンにまで上り詰めた