中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
激しい雨が叩きつける音だけが、ポケモンセンターの清潔で無機質な待合室に響いていました。
受付のジョーイさんに、ぐったりとしたヨーテリーを託した直後、私としずくさんは椅子へと腰を下ろしました。
ふと、時計に目をやると、午後の授業が始まってから、すでに1時間が経過していました。
器物損壊という重大な違反に加え、今度は、無断外出及び授業放棄。
我ながら、この世界に来てからというもの、随分といい度胸が据わったものです。
明日、登校した瞬間に待ち受けているであろう教師たちの罵倒や、クラスメイトからの制裁。
それらを想像しても、不思議と私の心には1ミリの罪悪感も、後悔も湧いてきませんでした。
むしろ、喉の奥にこびりついた鉄のような怒りが、私の理性を研ぎ澄ませていくのを感じていました。
規律が正義を守らないのであれば、その規律を破ることに何のためらいがあるというのでしょうか。
「ヨーテリー、お願い……! 無事でいて……!」
しずくさんが祈るように両手を組み、消え入りそうな声で呟いたその時、電子音と共に処置室の自動ドアが開き、ジョーイさんが疲れた表情を見せながらも、優しい笑みを浮かべて出てきました。
「ジョーイさん、ヨーテリーはどうですか?」
私がしずくさんの代わりに一歩前に乗り出すと、ジョーイさんは小さく頷きました。
「幸い、命に別状はないわ。すぐに連れてきてくれた判断が良かったのね。 だけど、過度な電撃による神経と筋肉へのダメージがひどいから、今晩はここの専用装置で、体内に残留した電気をゆっくりと抜いてあげましょう。 数日は安静が必要ね」
ジョーイさんの言葉に、しずくさんはようやく、肺に残っていた空気をすべて吐き出すような深い溜息をつきました。その小さな肩が、安堵で激しく上下します。
その後、ジョーイさんから連絡が行き、1時間もしないうちに、しずくさんのご両親の信一さんと由美さんが、顔を真っ青にしてセンターへ駆け込んできました。
「しずく! ヨーテリーは!? 一体何があったんだ?」
信一さんの切実な問いかけに、しずくさんは椅子の上の膝に置いた両手を小刻みに震わせ、自らのスカートの裾をぎゅっと握りしめました。
「……ううん、大丈夫。ちょっと、バトルの練習で、私が失敗しちゃって…ヨーテリーに無理させちゃったの……」
彼女は、涙を堪えながら消え入りそうな声で、不器用な嘘をつこうとしました。
自分がいじめられていること、あんな残酷な放電装置にかけられたこと、そして自分が最下位だから見捨てられたこと。
それをありのまま話せば、大好きな両親をどれだけ悲しませ、心配させてしまうか、しずくさんのどこまでも健気な優しさが、真実を隠そうと必死に抵抗していたのです。
………ごめんなさい、しずくさん。
あなたの気持ちは痛いほど分かりますが、こればかりは、そうはいきません!
私は一歩前に出ました。
ここでしずくさんの嘘に合わせて黙っていることは、あの倉田校長が支配するスクールの悪に、間接的に加担することと同じです。
大人が子供を実験材料にし、それを子供が隠す。そんな連鎖は、ここで私が絶対に断ち切ってみせます。
「信一さん、由美さん。聞いてください。これは、しずくさんの失敗などではありません。スクールの管理下で行われた、あまりに悪質な嫌がらせ。…いいえ、事件です」
「せつ菜ちゃん、やめて……!」
しずくさんの制止する声を、私は強い眼差しで受け止めましたが、しかし私は彼女の肩にそっと手を置き、首を振らせてもらいました。
これ以上、あなた一人に理不尽を背負わせるわけにはいかないのです。
私は信一さんと由美さんに向き直ると、今日起きたことのすべて、あの『感覚同期型・通電フィールド』という狂気の装置のこと、しずくさんが浴びせられた電撃の真実、
そして、それを見て見ぬふりをし、装置を壊した私を犯罪者扱いした先生たちの冷淡な対応。そのすべてを、一言一句漏らさず、感情に流されず理路整然と伝えました。
話が進むにつれ、信一さんの拳は骨が白くなるほど強く握りしめられ、その全身から怒りのオーラが立ち上っていくのが分かりました。
由美さんは、あまりの非人道的な事実に言葉を失い、口元を押さえてボロボロと涙を流し始めました。
その2人の姿を見ながらも、私は語ることを止めませんでした。
すべてを白日の下に晒すことこそが、しずくさんを守る第一歩だと確信していたからです。
ヨーテリーの入院手続きを終えたあと、私はしずくさん一家の車に乗せていただき、優木家まで送ってもらうことになりました。
激しくなる雨の中、車のフロントガラスを流れる無数の雨粒が、外の街灯の光を歪ませて、まるで水族館の底にいるような錯覚を覚えさせます。
ですが車内は、信一さんはハンドルを固く握り締めながら、バックミラー越しに、私の隣のシートで、精神的にも肉体的にも疲れ果てていたのか、眠りについたしずくさんの姿を、何度も確認していました。
しずくさんの左手は、眠りの中でも何かの恐怖から逃れるように、私の右手を握りしめたままでした。
「せつ菜ちゃん……教えてくれて、本当にありがとう。しずくは昔から、自分が我慢して、自分が傷つけばその場が丸く収まるって思っちゃう子だから……。私たちがもっと気付いてあげるべきだったのに……」
助手席の由美さんが、涙で掠れた声で私に深く頭を下げ、お礼を言いました。
「いいえ。私は彼女の親友ですから、当然のことをしたまでです。……明日から、学校側は私に対しても、装置を破壊した件や今日の授業放棄を理由に、さらに厳しい態度をとってくるでしょう。ですが、私は絶対に屈しません。 信一さん、由美さん。どうか、しずくさんを家で温かく支えてあげてください」
「あぁ、もちろんだ。大切な娘をあんな目に遭わせておいて、黙っていられるわけがない。……学校には、明日俺から直接乗り込んで、校長も含めて徹底的に話をさせてもらうよ。場合によっては教育委員会や警察に被害届を――」
父親としての、静かですが燃え盛るようなマグマのような決意が、信一さんの声に宿っていました。しかし、私はその言葉を遮るように、静かに、しかし断固とした口調で首を振りました。
「いいえ、信一さん。 明日、学校へ抗議に行くのは止めてください。 学校へは、ヨーテリーが回復するまでの数日間、体調不良でしずくさんを休ませるという、最低限の連絡を入れるだけに留めておいてほしいのです」
「えっ!? なぜだい、せつ菜ちゃん!? あんな危険な場所に、これ以上しずくを通わせるわけにはいかないし、親として抗議に行くのは当然だろう?」
信一さんがバックミラー越しに、困惑した目で私を見つめました。
私が、信一さんの当然の親としての怒りを止めさせた理由。
理由は、もちろん――あの倉田という怪物の本質を、私が校長室の対話で完全に理解してしまったからです。
もし今、信一さんが感情のままにスクールへ怒鳴り込み、正面から抗議をしたとしても、あの倉田校長には通用しません。
それどころか、彼はその抗議すらも、あの屁理屈で丸め込もうとしてきます。
もちろん信一さんが、そんなまやかしにのるわけないと思いますが、今度は逆に、逆らえば、前任校での圧倒的な実績と、裏で繋がっているであろう富と権力を駆使して、桜坂家を社会的に、あるいは規律違反を盾に完全に圧殺してくるでしょう。
最悪の場合、しずくさんが「バトルの試練に耐えられず、親を巻き込んで逆恨みした、トレーナーの素質がない落ちこぼれ」という汚名を着せられ、自主退学に追い込まれるのがオチです。
それでは、倉田校長の思うツボなのです。
「信一さん、由美さん。倉田校長は、私たちが正規の手続きで戦えるような相手ではありません。 彼は、しずくさんが傷つく姿を人質にして、私の心が折れるのを待っているんです。 だから、大人の抗議は彼に都合のいい口実を与えるだけになってしまいます。……しずくさんの戦場は、あのスクールの中にあります。 そして、彼女の盾になると決めたのは、私です」
私は、しずくさんの握る手にさらに力を込め、前を見据えました。
「ですから今は、しずくさんの心とヨーテリーの身体を休めることを最優先にしてください。学校のことは、私に任せてください。私が必ず、あのスクールの歪んだ天井を、内側から叩き割ってみせます」
私の、10歳児のものとは到底思えない、前世のすべての経験と今世の決意を乗せた冷徹なトーンに、信一さんと由美さんは息を呑み、圧倒されたように沈黙しました。
やがて、信一さんは深く息を吐き、ハンドルを握る手に力を込めました。
「……分かった。せつ菜ちゃん、君を信じる。だが、無理だけはしないでくれ。何かあれば、いつでも俺たち大人を頼ってほしい」
「ありがとうございます」
車は激しい雨を切り裂きながら、私の家の前へと滑り込みました。
助手席で小さく頭を下げる由美さんに挨拶をし、私はしずくさんの手をそっと離して、車を降りました。
走り去る車のテールランプを見送りながら、私は迫り来る明日の登校の瞬間を思いました。
一人で戻るあの学び舎は、明日から私にとって完全な敵地となります。
教師たちの冷ややかな目、クラスメイトたちの遠巻きな囁き、そして、上層階から見下ろしているであろうあの老悪魔の視線。
ですが、私の心に宿る炎は激しく赤く燃え上がっていました。
私の正義のやり方で、あなたを倒す。見ていなさい、倉田校長――!
私はカバンを強く握り締め、優木家の玄関のドアノブへと手を伸ばしました。
私の本当の戦いは、明日の朝、あのスクールの門を潜った瞬間から始まるのです。
家の中には、誠一さんと七海さんが待っているはずです。
さてと、まずは――!
誠一さんに一言、文句言わないと気が済みませんね!!