中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
「ただいま帰りました」
雨に濡れた靴音が、玄関の冷たいフローリングに重く響く。
私は体中で溢れ出しそうな激情を、冷え切った指先で辛うじて抑え込みながら、リビングの重い木製のドアを力任せに開けました。
そこには、いつものようにソファでくつろぎ、新聞に目を落とす誠一さんと、キッチンで夕食の支度をしている七海さんの、温かで穏やかな日常がありました。
お鍋から立ち上るスープの優しい匂い、テレビから流れる他愛のないニュースの音。
そのあまりに平穏な光景が、今の私には酷く残酷な、現実感を欠いた蜃気楼のように見えてなりませんでした。
つい数十分前まで私が目撃し、戦っていた地獄と同じ街の中に、こんなにも暖らかな空間が存在していること自体が、脳をバグらせそうになるほど理不尽に思えたのです。
「おかえり、せつ菜。あら? いつもより帰りが早いんじゃない? まだ学校の時間……って、大変! 服がそんなに濡れてるじゃないの。傘はどうしたの?」
「おかえり。……どうした、せつ菜? そんな恐ろしい仏頂面して。まさかサボりか?」
誠一さんは冗談めかして笑いましたが、私の瞳に宿る、抜き身の刃のような鋭い光に気づくと、即座にその笑みを消して姿勢を正しました。
新聞を持つ彼の大きな手が、わずかに強張るのが見えました。
「ど、どうした? これからバトルタワーの最上階にでも殴り込みに行くような顔だな」
「誠一さん…! あのスクールは、一体何なんですか!?」
私の絞り出すような叫びに、部屋の温かな空気が一瞬で凍りつきました。
「えっ? どうしたんだ、急に」
「せつ菜、落ち着いて。何があったの? 順を追って話してごらんなさい」
七海さんが慌ててキッチンから駆け寄り、私の濡れた肩にそっと手を置きましたが、私はその手を振り払うような勢いで、この4年間、胸の奥底に澱のように溜まっていた、正義の学び舎の真実をぶちまけました。
バトルの戦績だけで決まる露骨な階級制度。
教師たちの見て見ぬふり、それどころか弱者を「努力不足」「甘え」と切り捨てる冷酷な指導。
そして今日、しずくさんがかけられた非人道的な通電フィールドの惨状、そして倉田校長が校長室で語った、ポケモンと人間を実験材料にする狂気の『強制限界突破システム』の計画……。
一通り話し終えた私を待っていたのは、誠一さんの全てを最初から予期していたかのような表情でした。
「そうか…。やっぱりあのスクールは、そんな場所にまで腐り落ちていたのか。倉田の野郎、ついに本性を現しやがったな」
誠一さんのその一言が、私の胸に新たな激しい火種を投げ込みました。
「……知ってたんですか? 知っていたなら、なぜ今まで黙ってたんですか!? 街の子供たちが、ポケモンたちが、道具のように潰されているのを知りながら、なぜ見過ごしていたんですか!!」
私は誠一さんの膝元に詰め寄りました。
彼はジムリーダーとして、この街の治安とポケモンの生態系を守る絶対的な立場にあるはずです。
その大人が、この惨状を黙認していたという事実が、私にはどうしても許せませんでした。
しかし、誠一さんは私の激しい糾弾を真っ正面から受け止めながらも、自嘲気味に息を吐き、静かに視線を合わせました。
「何で黙ってたかって、お前に言われたくないな~。……確証がなかったんだよ。 それに、お前だってそうだったから、今まで俺たちに、何も言えなかったんだろ?」
「それは……! そうですが……っ!」
確かにそうです。
私も、スクールの歪みを感じつつも、自分が「学年トップ」という特権階級に守られていること、そして下手に騒げば、誠一さんや七海さんに迷惑がかかるという事なかれ主義の理性が邪魔をして、今日まで決定的な抗議をしてこなかった。
しずくさんが目の前で傷つき、デバイスを突きつけられるまで、本当の闇から目を背けていたのは、他ならぬ私自身だったのです。前世の「中川菜々」として掲げていた正義すら、この世界のシステムに甘んじることで曇らせていた事実に、胸が締め付けられるように痛みました。
「……あそこに関しては、外部には不穏な噂程度しか耳に入ってこなかったんだ」
誠一さんは、頭をガリガリと掻きむしりながら、苦渋を絞り出すように語り続けました。
「俺だって、この街のジムリーダーだ。 何人もの親から相談を受けて、何度も教育委員会や、警察に内部調査の要請は出したよ。 だが、あの倉田という校長は、世渡りがあまりにも上手すぎる。 前任のアカデミーでの圧倒的な実績と、そこから輩出されたリーグの重鎮たちとのコネを盾にして、教育委員会の役人や、リーグの上層部を完璧に抱き込み、都合の悪い証拠は、すべて裏で隠滅しやがるんだ。 俺のジムリーダーとしての公的な権力が届かないところで、巧妙に正義の教育という看板を掲げていやがったんだよ…。手を出そうとすれば、逆にこっちのジムの資格を剥奪すると脅される始末だ」
この人もまた、この街の理不尽な権力の壁に何度も跳ね返され、大人としての悔し涙を呑んできたのだと理解しました。
理解しました。
ですが、それならそれで!!
「そんな場所に!! 何で私としずくさんを入学させたんですか!? 他にもまともなトレーナーズスクールはあったはずです!! どうして、あんな場所に私たちを送り込んだんですか!?」
私の叫びがリビングに響き渡ったその時。
「せつ菜なら!!」
誠一さんの突然の、地鳴りのような強い声に、私は息を呑みました。
「せつ菜なら、なんか……。 わかんねぇけど、なんか…、あそこのおかしい部分を見つけて、ぶち壊してくれるんじゃねぇかって……そう思っちまったんだよ…!」
「っ……!」
「なんていうのかな……。 お前のその…変に大人びてるっていうか、怖ぇくらい年相応と思えない冷めた態度や、物事の本質を見抜くような目を見て、俺は確信したんだ。この子は、俺たち大人の事情や法律の壁に縛られて手を出せない腐ったシステムを、その剥き出しの正義感で叩き割れる本物だって。……しずくちゃんも、バトルの才能という数値の面で、あの時点で、受け入れ先があそこしか入学できる枠がなかった。 だから、お前が一緒にいれば、あそこの闇を暴き、あの子を守りながら、内側から学校を変えてくれるんじゃないかって……。 情けない話だが、俺はお前のその、強さと正義に、俺たちの敗戦処理を押し付けちまったんだよ。 すまなかった、せつ菜」
誠一さんはそう言うと、父としての、そしてジムリーダーとしてのプライドのすべてを捨て去ったように、拳を膝に置き、娘である私の前で、深く、深く頭を下げました。
隣で、七海さんも痛ましそうに顔を伏せ、涙を浮かべています。
リビングを包む、長い、重苦しい沈黙。
大人が子供に、世界の歪みの解決を託してしまったという、あまりにも重い告白。
外では、冷たい雨の音だけが激しく窓を叩き続けていました。誠一さんの下げられた頭を見つめながら、私は自分の肩に、この世界の目に見えないほど巨大な天秤が載せられたことを、明確に意識していました。