中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
「せつ菜、聞いて。私も由美さんから、何度も相談を受けていたのよ。しずくちゃん、スクールから帰ってくるといつも元気がないって。理由を聞いても、『なんでもない』『授業が少しきつかっただけ』としか言わないって…」
七海さんのその言葉を聞いて、私の脳裏に、2年生の時の記憶が鮮明に蘇りました。
まだ今ほど状況が最悪になる前、一度だけ放課後、いつもの公園のベンチで、小さく俯くしずくさんに対して、私は胸のざわつきを抑えられずに提案したことがあったのです。
『……しずくさん、一度ご両親にスクールでのことをすべてお話しされてみてはいかがですか?』
大人の理性として、それとなく退路を用意するための言葉でした。ですが、結果はダメだった。
『ううん……お父さんやお母さんには、絶対に言いたくないの…。心配させたくないし……私がもっと、頑張ればいいだけだから……っ!』
しずくさんは溢れそうになる涙を必死に指先で拭い、頑なに首を横に振りました。私はその健気さが歯がゆくて、「いや、もう十分心配をかけていますよ」と、さらに言葉を重ねようとしましたが、彼女は私の手をそっと包み込み、こう続けたのです。
『それに……せつ菜ちゃんがいるもん。せつ菜ちゃんがここにいてくれるから、私は毎日、スクールに行くのが楽しいんだよ』
『ですが、しずくさん! これ以上あなたが傷つくのを、私は見ていられません!』
私の必死の訴えに、彼女は困ったように、けれどどこかすべてを包み込む聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべたのです。
『せつ菜ちゃんは、この学校で誰よりもバトルが強くて、正義感が強くて、本当にかっこいいよ。 私、知ってるんだ。せつ菜ちゃんが私のために、周りの意地悪な人たちと戦ってくれてること。 だから、大丈夫。 せつ菜ちゃんなら、この場所でもっともっと高みへ行けるはずだよ』
『いや、そうではなくてですね! 私が言いたいのは――』
『私はね、せつ菜ちゃんがこれからも、もっと優しくて、強くて、世界で一番かっこいいトレーナーになれるように、一番近くで支えたいの。それが私の、今の目標なんだよ』
あの日、夕暮れの公園で彼女が言った、支えたいという言葉の、本当の重みを――私は今の今まで、全く理解できていませんでした。
彼女は、自分がどれほど虐げられようとも、私の進む道……私がこの世界で見つけようとしている、正義の輝きを曇らせたくなかったのですね。
学校のシステムがどれほど歪んでいようとも、そこで私がトップとして輝いている以上、自分が脱落してしまえば、私の居場所や私の正義までもが否定されてしまうかもしれないと、幼い心で恐れていた。
私という「盾」があるから彼女が救われていたのではない。
私という「光」を絶やさないために、彼女は自ら泥を被り、あの暗闇の中で私の盾になろうとしていたのです。
…なんて、なんて愚かで、愛おしい人なのでしょう……!
胸の奥から突き上げてくる愛おしさと切なさに、視界が熱くにじみそうになります。
しずくさんは、私が「強い優木せつ菜」であり続けるために、あの地獄のような教室にただ一人で踏み止まっていた。
自分の肉体が引き裂かれるような痛みよりも、私の居場所を守ることを選んでいた。すべては、私の理想を、私の正義のトレーナーとしての輝きを信じてくれていたから。
そう気がついた瞬間、胸を焼いていた濁った怒りは、不思議と消え去っていました。
代わりに残ったのは、澄み切った絶対的な使命感。自分の肩に課せられたその想いの重さが、私の背筋を冷たく、しかしひどく心地よく引き締めました。
誠一さんが、私の頭に大きな手をどんと置きました。その手はかすかに震えていました。
「せつ菜。もう隠す必要はない。あそこは教育の場じゃない、狂った実験場だ。 明日の朝、俺が直接乗り込んでやる。 ジムリーダーの権限をフルに使って、あの校長のツラを拝みに行ってやるよ。大人の喧嘩ってやつを教えてやる」
「……いいえ、誠一さん。それは私がやります。 私は、誰に押し付けられたわけでもなく、自分の意志で、あの学校を叩き割ると決めました…。校長にも、正面からそう宣言してきました」
「それって……?」
ベルトの上のイワンコとピチューのボールが、私の言葉に呼応するようにカチリと力強い音を立て、内側から熱を帯びます。
「誠一さんたちが、法律や大人の手続きで動けないなら好都合です。 私は私の『正義』のやり方で、あのスクールの歪んだルールを、力ずくで、根底から覆してみせます。だから――」
私は、驚愕の表情を浮かべる誠一さんと、涙目を浮かべる七海さんを真っ直ぐに見据え、不敵な、優木せつ菜としての最高の笑みを浮かべました。
「明日から、どれだけ学校から苦情が来ても、私の味方でいてください。それだけで十分です!」
規律をも超える真の正義の形を、私はこの世界で、この両親の背中を見ながら、私自身の炎で証明してみせる。
大人の事情で届かない場所があるなら、子供である私が、その境界線を踏み越えて、悪魔の首を獲りに行くだけです。
腰のモンスターボールに触れました。
中にいるイワンコとピチューの力強い鼓動が、手のひらを通じて伝わってきます。
「しずくさんが私を信じて残ってくれたのなら…、私は彼女の期待に応える『最高に強くてかっこいい姿』で、あのスクールを終わらせます」
その夜、私は自室でイワンコたちのブラッシングを続けました。
毛並みを整えるたびに、私の覚悟は研ぎ澄まされ、ピチューの小さな頬から漏れる火花が、私の横顔を照らし出します。
前世のルールもまるで違う世界。だけど、守るべき大切な人のために命を燃やす情熱だけは、何も変わらない。
明日本当の戦いが、今、灰色の雨の向こうで静かに燃え上がり始めていました。