中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜   作:あいライス

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キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

まあ、うん…。トップの前書きに書いてあるとおりです。


39章「逃れられない業務命令」

◆浜野side

 

 

俺は7年間、このニジガサキシティ ポケモントレーナーズスクールで、教師をしている浜野だ。

 

6年前にあの男――倉田先生が校長に就任されてから、このスクールの方針は、ガラリと変わってしまった。

 

かつての生温い、仲良しこよしのトレーナーごっこを推奨していた旧体制の教育など、今思えば、反吐が出るほど非効率な時間の無駄遣いだったと言わざるを得ない。

 

俺自身、最初は戸惑いがなかったわけではないが、今では校長の意見に賛同だ。

 

最近のポケモンは、甘やかされすぎていて、人間を舐めてるのではないかと思える節が多々あったからだ。

 

言うことを聞かない。あるいは、バトルの恐怖から逃げ出そうとするポケモンに対して、必死に顔色を窺い、おやつを貢いで、機嫌を取るトレーナーが何と多いことか。

 

そんなものは教育でもなければ、トレーナーとポケモンの関係でもない。

 

ただの主従関係が逆転したペット飼育だ。

 

そんな生温い環境で育ったヌルい個体が、ポケモンリーグの苛烈な戦場で通用するわけがないだろう。

 

俺のバンギラスを見ろ。俺の指示にすごく従順だ。20年ポケモントレーナーの道を極めた俺の成せる業ってか?

 

 

 

倉田校長が掲げる教育方針のルールは、“正義”、ただ一つ。

 

勝てば正義、負ければ悪。

 

これ以上ないほどシンプルだ。

 

 

 

トレーナーという人種は、こんな場所なら、ポケモンを使って勝つことでしか偉くなれない。

自分の実力と価値を他人に認めさせるには、ポケモンを完全に服従させて、圧倒的な力で、ねじ伏せるのが一番手っ取り早い。

 

弱者に耳を傾ける時間など、勝者には1秒たりとも必要ないのだ。

 

実に素晴らしい、合理的で分かりやすい世界だ。

 

これこそが、弱肉強食というこの世界の心理を、最も正しく体現した最先端の教育現場と言える。

 

そんな偉大なスクールの中で、俺は現在、4年D組の担任を任されている。

 

そう、このスクールの最高の問題児である優木せつ菜と、そのおまけとしてぶら下がっている最下位の落ちこぼれ、桜坂しずくの担任だ。

 

優木は成績こそ座学・実技ともに学年トップを独走しているが、その中身は最悪だ。

 

あの剥き出しの、周囲の空気を一切読まない独善的な正義感とやらで、学校の厳格な指導方針にたびたび反発する、扱いづらいことこの上ない生徒だった。

 

優秀な兵器でありながら、引き金を引く人間の言うことを聞かない――教師からすれば、これほど胃の痛くなる存在はいない。

 

そして昨日は、あろうことかスクールの誇る最新の「感覚同期型・通電フィールド」を物理的に破壊し、その後の授業を完全に放棄して無断外出までしやがった。

 

警察沙汰にされてもおかしくない暴挙だ。

 

今朝の職員室は、登校してきた瞬間に彼女をどう処分するべきか、退学か、あるいは無期限の謹慎かで、スピアーの巣をつついたような大騒ぎになっていた。

 

 

当然、担任である俺の管理責任を問う声も大きく、朝から最悪の気分だった。

 

 

だが、今朝一番、直々に校長から俺は呼び出された。

 

 

緊張でガタガタと膝を震わせながら、校長室の扉を開けた俺は、室内の光景に僅かな違和感を覚えた。

 

そこにいたのは、倉田校長だけじゃなかった。

 

来年度の生徒会長をすることがすでに内定している5年生の特待生、沢泉ちゆがそこに佇んでいたのだ。

 

彼女は、5年生の中で常にトップクラスの優秀な成績を収めており、実家は、このニジガサキシティに古くからある格式高い老舗旅館の娘だ。

 

育ちの良さと、それ以上に冷徹なまでの生真面目さを兼ね備えた、まさにこのスクールの体現者のような生徒だった。

 

彼女の膝の上には、パートナーであるポッチャマが、飼い主に似て凛とした、一切の隙のない表情で静かに座り込んでいた。

 

 

「おはようございます。朝から突然呼び出してすまないね、浜野先生」

 

 

倉田校長は、高級な革張りのソファーで、優雅にコーヒーカップを傾けながら、眼鏡の奥の細い目をさらに細めて言った。

 

 

「いえいえ、とんでもありません! 校長直々のお呼び出しとあれば、いつでもどこへでも参ります! ……それより、なぜ5年の沢泉もここにいるんですか?」

 

 

俺が不思議に思って視線を向けると、沢泉は小さく一礼し、倉田校長は薄い唇を不気味に吊り上げて笑った。

 

 

「彼女も私が呼んだのだよ。次期生徒会長として、スクールの秩序を担う立場になるからね。……さて、キミを呼び出したのはほかでもない、キミのクラスの優木せつ菜さんについてだ」

 

 

その名前が校長の口から出た瞬間、俺の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。

 

やはり自分の監督責任を厳しく問われ、吊し上げられるのではないかと、背中に冷たい汗がどっと流れるのを感じた。

 

ここで減給や、せっかく手に入れた4年D組の担任からの降格にされては堪らない。

 

すべてはあの小生意気な優木のせいだ。

 

俺は慌てて腰を低くし、倉田に擦り寄るような、精一杯の媚びを含んだ声を絞り出した。

 

 

「あっ! あぁ~! 校長、昨日はウチのクラスの生徒が、とんでもない不祥事を起こしまして、本当に申し訳ありませんでした! 完全に私の指導不足です! 機材の全額弁償を保護者に請求するのはもちろんのこと、今日、あの小娘が登校してきた瞬間に、私の手で徹底的に厳しく指導し、二度とあんな舐めた真似ができないよう反省文と、最低でも数ヶ月の謹慎処分を下すつもりです! 異議はありません!」

 

 

俺の必死の弁明を、倉田校長は片手を軽く挙げて制した。

 

その表情には、激昂どころか、まるで非常に興味深いチェスの難解な盤面を特等席で眺めているかのような、底知れない、薄気味悪い余裕が張り付いていた。

 

 

「いやいや、浜野先生。優木さんには、私から昨日、不問とすることで話が落ち着いたよ。彼女にペナルティを与える必要はない」

 

「えっ? 不問ですか!?」

 

 

耳を疑った。

 

あれだけの機材を壊し、教師の制止を振り切って、授業をサボった生徒をお咎めなしにするというのか?

 

 

「しかし校長、それでは他の生徒に示しがつきません! 規律を破った者が罰せられないなどとあっては、スクールの秩序が……。 それこそ、生徒たちの間で示しがつかなくなります!」

 

「浜野先生」

 

 

倉田校長はカチャリと静かな音を立てて、コーヒーカップを磁器のソーサーへと戻した。

 

 

「優木さんは、確かに我が校のルールから見れば、困った生徒ですがね、このスクールは『強さこそ正義』を掲げている。そして、彼女のバトルにおける強さ、そしてその意志の強さは、紛れもなく本物だ。 ならば、彼女は我がスクールの根本たる正義のルールとしては、ある意味、非常に正しいんですよ。 強者がルールを書き換える。 それこそが私の望む世界の形だ。 それを小さな校則という枠で縛るのは、科学的にも教育的にも損失でしかない」

 

 

校長がそこまで言うなら、これ以上反論はできない。

 

しかし、あの校長が、そんな簡単に優木を許すわけがない。

 

裏で一体何を企んでいる?

 

優木を使って、何か別の実験でも始めるつもりなのだろうか?

 

俺の凡庸な頭では、この人の思考の深くを測り知ることはできなかった。

 

すると、それまでポッチャマの頭を静かに撫でながら黙って話を聞いていた沢泉が手を上げた。

 

 

「すみません、素朴な疑問なんですが、その4年の優木せつ菜さんは、どのような問題を起こしたんですか?」

 

 

沢泉が真っ直ぐに校長を見つめて聞いてきた。

 

彼女は、『優木が昨日、何かやらかした』ということしか伝えられておらず、その詳細な内容までは知らされていなかったのか?

 

 

「なに。彼女自身の信じる正義にのっとって、スクールの備品を少々破損しただけですよ」

 

 

校長は楽しげに肩をすくめてみせた。

 

 

「へぇ~。一体、何を壊されたんですか?」

 

 

沢泉の問いに、倉田校長は待ってましたと言わんばかりに、眼鏡の奥の瞳を怪しく明滅させた。

 

 

「第3フィールドの『感覚同期型・通電フィールド』の全システムですよ。彼女のイワンコとピチューを使って、木っ端微塵にね」

 

「えっ!? あれを、壊したんですか? ……それはそれは」

 

 

沢泉の端正な眉が、初めてピクリと大きく動いた。

 

膝の上のポッチャマも、主人の感情の揺れを察知したのか、「ポチャ……」と短く、警戒を孕んだ声を漏らす。

 

あの通電フィールドの威力を、特大クラスの特待生である沢泉はもちろん知っているはずだ。

 

トレーナーとポケモンの感覚を同期させ、凄まじい負荷をかけるあの強固なシステムを、たかが4年生のガキが、手持ちのポケモンだけで物理的に粉砕した。

 

その事実の異常性に、次期生徒会長の頭脳が瞬時に追いついたのだろう。

 

 

「あの装置を物理的に壊すなんて、それだけ有能なトレーナーなんですね? ……ですが、一体何が、彼女をそこまでの暴挙に駆り立てたのでしょうか?」

 

 

その静かな問いに対し、倉田校長は「ククク……」と喉の奥で押し殺したような、しかし心の底から愉しげな笑い声を漏らした。

 

そして、手元のコーヒーカップに視線を落としたまま、まるで極上の喜劇のあらすじを解説するかのように説明を始めた。

 

 

「親友ちゃんを、悲劇から助けたいという、実に健気な正義のヒーローさ」

 

「正義のヒーロー?」

 

 

沢泉ちゆの端正な声のトーンが、わずかに不信感を帯びて低くなる。

 

 

「そうだよ、沢泉さん。 彼女と同じクラスの桜坂しずくさんって子が、キミと同じ学年の先輩たちから、第3バトルフィールドにて、実技試験を受けている最中に、彼女は遭遇した。 我が校の厳格な規律通り、敗者への当然の洗礼としてシステムが作動した。 そこへ優木さんが乱入してね、桜坂さんを庇って、装置を物理的に叩き割ったんだ。 実に涙ぐましい、美しい友情じゃないか!」

 

 

それを聞いた沢泉は、一切の感情を排した冷徹な瞳のまま、淡々と言い放った。

 

 

「なるほど。お友達のピンチを救うために、スクールのルールを破った、と。……ですが校長先生、それは美談でも何でもありません。 公的な秩序よりも個人の感情を優先させた、ただの独善的な規律への反逆ですよ」

 

「ふむ、キミならそう言ってくれると思ったよ、沢泉さん」

 

 

倉田校長は満足そうに口元を歪め、指先で眼鏡の位置を直した。

 

 

「優木さんはね、『弱者を虐げるルールなど間違っている』と、この私に正面から堂々と意見してきた。 彼女の言う桜坂さんというのは、実技の成績が常に4年生の中で最下位の、いわば我が校のシステムにおいて最も不要な、切り捨てられるべき生徒だ。 優木さんはその最下位の生徒の盾になり、スクールそのものを敵に回してでも、自分の綺麗事な正義を証明すると宣言したのだよ。  浜野先生、キミのクラスの優木さんは、本当に私たちを退屈させない、特別な生徒だね?」

 

 

急に話を振られた俺は、背筋をぴしゃりと伸ばし、慌てて調子を合わせた。

 

 

「は、はぁ…。まったく、本当に教師の身にもなってほしいものです! あんな独善的で我が儘な生徒の尻拭いをさせられるこちらの身が…。学年トップだからと、調子に乗っているんですよ」

 

「おっと、それはそうと、浜野先生。 キミをわざわざ朝一番に呼び出したのはね、これを渡そうと思ったからなんだよ」

 

 

校長はそう言うと、デスクの重い引き出しを厳かに開き、中から鈍い銀色に光る首輪型のデバイス――『強制限界突破システム』を取り出し、コツンとデスクの上に置いた。

 

 

「それは……!?」

 

 

その物体を目にした瞬間、沢泉も眉間がピクリと不快そうに跳ね上がったようにみえた。

 

そして何より、俺自身の心臓が激しく脈打った。

 

いや何で…?

 

何でこの俺に、これを渡してくるんだ!?

 

 

「浜野先生。あなたにはこれで、彼女の『教育』をお願いします」

 

 

校長は事も無げに言った。俺は混乱する頭を必死に動かし、掠れた声を絞り出す。

 

 

「こ、校長……? 優木への処分は、不問にするんじゃなかったんでしたっけ…?」

 

「おや? 勘違いしないでほしいな、浜野先生。 私は、謹慎や反省文といった『形式的なペナルティ』は不問にすると言っただけでね…。 スクールを揺るがした生徒への『お仕置き』はナシだなんて、一言も言っていないよ?」

 

 

まるで今日の小テストの作成でも依頼するかのように、極めて事務的な、温度のない声で続けた。

 

 

「――朝の会のあと、第1フィールドでお願いしますね」

 

 

まさか……?

 

まさか、俺のポケモンにこれを付けろと言うのか……!?

 

俺が、何年も苦楽を共にしてきた大切な相棒である、あのバンギラスに……!?

 

 

このデバイスが何であるかは、教師である俺も当然知っている。

 

ポケモンの神経に強制的に電気の刺激を送り込み、限界を超えたパワーを引き出す代わりに、凄まじい肉体的苦痛と、最悪の場合は命を削るような致命的な負荷をかける禁断の装置だ。

 

 

 

いやいや…、確かに俺は、今のスクールの教育方針には全面的に賛同している。

 

勝てば正義、負ければ悪だ。

 

力がすべてを証明する合理的な世界だ。

 

だが、それは生徒や、生徒の持つ未熟なポケモンたちが競い合い、淘汰されていく残酷な過程を、上から見下ろしているからこそ言えることだ。

 

俺の手持ちの相棒が、その実験の当事者にされるとなれば、話は完全に別だろ?

 

 

何で俺なんだ!? なぜ俺のバンギラスが、そんな目に遭わなければならない!?

 

 

 

 

まあ、落ち着け。冷静になるんだ、俺。

 

 

 

 

俺は曲がりなりにも7年間、このスクールで教師をやっているプロのトレーナーだ。

 

相手は10歳のガキ、それも手持ちは、イワンコとピチューなんていう、未進化の脆弱な2匹しか持っていない優木せつ菜だ。

 

普通に戦えば、デバイスなんて使わなくたって、レベル差だけで、赤子の手をひねるように簡単に勝てるはずだ。

 

 

「校長! あの……私は、自分の実力だけで、彼女を十分に指導してみせますよ! 心配いりません! いくら優秀な優木と言えど、私とのレベル差を考えれば、簡単に勝たせてもらいます。 で、ですから、この装置は……今回は必要ないかと……」

 

「浜野先生~~」

 

 

まるで大人の言うことを聞かない、駄々をこねる幼い生徒をあやすかのような、酷く甘ったるく、それでいて骨まで凍りつくような底冷えする声で俺の名前を呼んだ。

 

 

「い、いりません! いりません! デバイスなしで確実にやれますから!!」

 

 

分かっている……。

 

校長は言葉にせずとも、その瞳で、俺に安易に言ってるんだ。

 

 

『生徒が仕出かした機材の破損は、担任であるお前のミスだ。その落とし前を、お前自身の身体とポケモンで弁償しろ』と…。

 

 

ここで断れば、俺の教師としてのキャリアだけでなく、この街での社会的立場すら完全に抹殺される!

 

嫌だ! それだけは、死んでも嫌だ!

 

 

 

「お願いしますね、浜野先生」

 

 

一切の反論を許さない冷徹な笑みを浮かべ、首輪を俺のほうへと押し出した。

 

 

「は、はい……! 仰せの通りに……っ!」

 

 

なぜだ? なぜ断れない?

 

身体が恐怖で硬直して動かない。

 

まるで、アーボに極至近距離で睨みつけられたケロマツのような状態だった。

 

俺は震える手で、デスクの上の首輪を掴み、カバンへと押し込むしかなかった。

 

 

「そして、沢泉さん」

 

 

校長は、俺から興味を失ったように、沢泉へと視線を移した。

 

 

「はい?」

 

「あなたは、これからの優木さんの動向の監視をお願いできますか?」

 

「監視ですか?  一応、その役割を私に与える理由を聞いてもよろしいですか?」

 

「簡単なことだよ。 次期生徒会長としての、スパイのようなものと思ってくれればいい。 彼女が次にいつ、どのような形で、我が校の規律を破るか、あるいはどのような『正義』を掲げて動くのか。 それを一番近くで観察し、私に逐一報告してほしいのだ」

 

 

彼女の膝の上のポッチャマが、なぜか鋭い目付きで校長を睨みつけるが、沢泉はすぐにそれを手で制し、答えた。

 

 

「……承知いたしました。校長先生」

 

 

俺はカバンの中の重い首輪の感触に怯えながら、迫り来る朝の会に備え、校長室を後にするしかなかった。

 

 

 

~~~

 

 

校長室の重厚な防音扉が閉まった瞬間、背中にまとわりついていた極低温の圧迫感からは解放された。

 

だが、代わりにカバンの中に納まったあの冷たい銀色の金属塊が、鉛のような重量感となって俺の右腕を引きずり下ろす。

 

校長室を出た俺と沢泉は、ただ並んで灰色の廊下を歩いていた。

 

床に響くのは、俺の不規則で焦燥を含んだ靴音と、沢泉の一歩の狂いもない、メトロノームのように正確な足音だけだ。

 

 

それにしても、だ。納得がいかない。

 

なぜ俺なんだ?

 

 

俺のバンギラスは、このスクールに赴任する前から、実戦の修羅場を幾度も潜り抜けてきた生粋の戦友だ。

 

この学校のぬるま湯のような環境で育ったガキどもの未進化ポケモンとは、根本的な戦闘経験の桁が違う。

 

わざわざあんなデバイスを付けなくたって、優木せつ菜のイワンコやピチューなど、一撃で砂煙の中に埋めてやれる。それほどまでに俺のバンギラスは優秀なんだ。

 

なのに、なぜ校長は俺にあの首輪を渡した?

 

 

まるで俺の実力だけでは、あの10歳の小娘に不覚を取るとでも言いたげではないか。

 

それとも、やっぱり昨日の器物破損の連帯責任として、俺への有形無形の精神的制裁?

 

考えれば考えるほど、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。

 

 

「何をそんなに怯えてるんですか? 浜野先生」

 

 

前を見据えたまま、一歩の乱れもない完璧な所作で歩を進める沢泉が、感情の起伏を一切感じさせない、鈴の鳴るような、しかしひどく冷徹な声を薄暗い廊下に落とした。

 

彼女の細い腕の中に収まっているポッチャマも、主人の冷淡な声音に合わせるように、怪訝そうな、あるいはひどく蔑むような目でじっと俺の顔を見上げてくる。

 

「っ……!」

 

あまりにも的確に図星を突かれ、俺の心臓が不快な音を立てて跳ね上がった。首筋のあたりから、粘り気のある嫌な汗が急激に吹き出してくる。

 

 

「お、怯えてるわけがないだろ! 沢泉、教師に対して口を慎みなさい。私はこれでも去年の君たちの担任であり、このスクールで7年もの間、数々の優秀な4年生を導いてきたプロのポケモントレーナーの教師だぞ!」

 

 

俺は必死に声を裏返らせながら、カバンを壊れ物を掴むように強く握りしめた。

 

 

「この装置はな、実に素晴らしいデバイスなんだ! 我が校の英知が詰まった最高の発明品なのだよ! ポケモンの眠れる野生の、原始的な闘争本能を科学の力で強制的に引き出し、バトルの勝率を極限まで高める。 勝てば正義、負ければ悪。 その絶対的な規律である我がニジガサキシティポケモントレーナーズスクールにおいて、これほど合理的で、美しく、完璧な教育資材が他にあるかね!? 校長は、私と我が相棒であるバンギラスの絶対的な実力を信頼しているからこそ、その実戦データの収集という重要な任務を任せてくださったんだ!! 恐怖などあるはずがない。むしろ、教師としてこれ以上の名誉はないと思っているよ!」

 

「……そうですか」

 

 

沢泉は歩調を一切変えない。その凛とした美しい横顔は微動だにせず、俺の必死の弁明や自己保身の言葉など、最初から一文字たりとも興味がないとでも言いたげだった。

 

 

クソが……! あの優木せつ菜だけでなく、この沢泉ちゆまでもが、生徒の分際で、この俺を、教師である大人を見下そうとしているっていうのか!?

 

 

特待生だか、来年の生徒会長の椅子を100%約束されているからだか知らねぇが、11歳のガキが大人を見下す目を向けやがって。

 

 

どいつもこいつも、このスクールのエリート意識に染まりきって、上の人間を敬うという、人間として最低限の礼儀すら忘れていやがる!

 

 

実力があれば何を言っても許されるという校長の思想を、最も最悪な形で吸収したのが、この沢泉の世代だ。

 

 

校長のルールを履き違えてる愚か者たちだ! 教師の言うことは絶対だ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、今でも鮮明に覚えてますよ」

 

 

 

沢泉の足音が唐突に途絶えた。

 

 

 

「何をだ? 去年のことと言えば、君が実技評価で常に最高位のA判定を取り続け、模範的な生徒だったことなら、元担任の私もよく覚えているが……」

 

 

沢泉はゆっくりと俺の方へその細い首を巡らせた。そして、俺の目を真っ直ぐに見据えた。

 

瞳の奥には、すべてを凍りつかせる絶対零度の憎悪にも似た、昏い光が激しく揺らめいていた。腕の中のポッチャマも、嘴を固く結び、俺を睨みつけている。

 

 

 

 

「あなたは去年、私の親友のポケモンに――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“それ”、無理やり付けましたよね?」

 

「っ――!?!?」

 

 

去年の冬、まだ『強制限界突破システム』の規格が今よりずっと粗悪で、出力調整もまともにできなかった頃、ある「一般生徒には完全に隠蔽された特別演習」の凄惨な光景が、鮮烈なフラッシュバックとなって視界を真っ黒に染め上げた。

 

 

そうだ。忘れるわけがない。

 

 

 

あの出来損ないのコリンクのことは。

 

 

 

 

あの時、座学の成績は優秀で、バトルの勝率も、そこそこ伸びてはいるものの、あと一歩のところで、特待生の基準値に届かない、一人の目立たない女子生徒がいた。

 

彼女は、もう一匹の手持ちであるイーブイを使っている時は、非常に緻密で優れた戦術を展開していた。

 

問題は、その「あと一歩」の敗因となっていた、もう一匹のパートナーポケモンのコリンクの存在だった。

 

 

コリンクは、まるで桜坂しずくのヨーテリーのように、戦闘訓練を嫌がり、少しの傷で怯えて鳴き出すような、甘やかされてばかりの使い物にならない個体だった。スクールにおいては、ただの足を引っ張るお荷物。

 

だが、それは沢泉の幼馴染であり、最も大切な親友だった。

 

仲良しこよしの生ぬるい関係で育てられ、甘えていたことがそもそもの原因の一つだろう。

 

 

当時、担任としての評価と校長からのノルマに追われていた俺は、その生徒に対し、「スクールで生き残り、勝つための義務」と称して、このデバイスを、泣き叫ぶ彼女の目の前で、力ずくでコリンクの細い首に装着させてバトルフィールドへと送り出したのだ。

 

 

結果は――もはや、言葉にして説明するまでもない。

 

 

出力の暴走した電流がコリンクの小さな肉体を駆け巡り、フィールドには肉の焦げる嫌な臭いと、悲痛な絶叫が響き渡った。

 

そして、元から戦う意志の薄い弱い個体は、そんな機械を付けたところで宝の持ち腐れ。

 

激痛に狂うだけで弱いままだ。

 

 

そのコリンクのトレーナーの彼女は、今――。

 

 

この生意気な生徒会長候補様……沢泉と一緒に、もう一匹の相棒であったイーブイを進化させ、今や『グレイシア』一匹の力だけで、5年生の学年2位にまで上り詰めていた。

 

 

 

 

 

「ならば、その首輪を付けたポケモンが、バトルの後にどうなるか、あなた自身が一番よく知っていますね? 浜野先生」

 

 

沢泉はそれだけ言うと、もう俺に一瞥もくれず、完璧な姿勢のまま、そそくさと自分の教室がある上層階への階段を上っていきやがった。

 

 

「1時間目、楽しみにしてます。校長先生から彼女の監視を直々に依頼されましたので、私も特等席で、じっくりと見させてもらいますから」

 

 

冷たい言葉の余韻だけを残して、少女の影が消える。

 

 

 

「バカにしやがって……! どいつもこいつもガキのくせに……!!」

 

 

廊下の壁を強く蹴りつけながら、俺は湧き上がる恐怖を怒りで塗りつぶそうと必死だった。

 

だが、カバンの中の銀色の首輪は、まるで次は俺のバンギラスが、その業火に焼かれる番だと告げるかのようにいた。

 

 

1時間目、第1フィールド。

 

優木せつ菜への教育の時間が、もう目の前に迫っていた。

 

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