中川菜々から優木せつ菜へ 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
いよいよ、この奇妙な居心地と、新しい命の誕生を祝う喧騒が入り混じった病院を去る日がやってきました。
七海さんの腕の中に収まり、揺られながら、私は彼女がお世話になった医師や看護師の方々に深々と頭を下げ、「お世話になりました」と丁寧に挨拶を交わしている様子を、ぼんやりと眺めていました。
前世の中川菜々としての私は、あの日、救急車に運び込まれたきり、ついに退院という形で外の光を浴びることは叶わなかった。
そう思うと、胸の奥を小さな針で突かれたような痛みが走ります。
けれど、今の私、優木せつ菜として抱えられている私は、驚くほど健康で、その肌には瑞々しい命の輝きが宿っていました。
病院の自動ドアを抜けると、外の空気は予想以上に澄んでいて、けれどどこか私の知っている都会の空気とは異なる、生命力に満ちた匂いがしました。
「さあ! 優木家の新しいメンバーと一緒に、我が家へレッツゴーだ!」
誠一さんは、まるでこれから大冒険にでも出かけるかのような意気揚々とした声を上げ、病院の前に止めていた車のドアを威勢よく開けました。
「おぉ〜!」
七海さんも、私の小さな手を振りながら楽しそうに呼応します。
私は、誠一さんの運転で動き出した車の中から、流れる景色を食い入るように見つめました。
これが、私がこれから生きていく「新しい世界」の真実を確かめる、初めての機会になるからです。
車窓を流れる街並みは、一見すれば私の知っている現代社会のそれと似通っています。アスファルトの道路、信号機、立ち並ぶビルや住宅。けれど、そこにいる生き物たちが、あまりにも異常でした。
「……っ!」
私は思わず息を呑みました。
歩道を歩く女子学生の足元を、小さな紫と白の体をした、丸い耳を持つネズミのような生き物がチョロチョロと追いかけています。
建設現場のそばを通れば、停車したトラックの荷台から、灰色の強靭な肌を持ち、腰にはチャンピオンベルトのような不思議な模様をつけた、まるでプロレスラーのような怪物が、人間でも持ち上げるのが困難そうな重い鉄骨を軽々と運び出していました。
さらには、横断歩道で信号待ちをするサラリーマンの肩越しに、雲のような、あるいはわたあめのようなふわふわとした何かが、意思を持っているかのようにぷかぷかと浮遊しているのが見えます。
やはり、夢でも幻覚でもない。私は本当に、異世界に転生してしまったのですね……。
信じがたい光景を目の当たりにするたび、中川菜々としての理性が「そんなはずはない」と否定しようとします。けれど、網膜に映るその生き物たちの躍動は、疑いようのない現実として私の意識を塗り替えていきました。
ここは東京お台場でも、私が愛した日本でもない。未知の法則と、未知の隣人たちが共存する、全く別の歴史を歩んだ世界。
絶望に近い混乱と、抗いようのない運命への諦め。そんな複雑な感情を胸に抱いたまま、車は閑静な住宅街へと入り、一軒の家の前で止まりました。
「着いたわよ、せつ菜。ここがあなたの、私たちの新しいお家よ」
七海さんが優しく囁き、車を降りました。
「ワンワン! ワンワンワンッ!」
元気いっぱいの犬の鳴き声が家の中から響いてきました。
そういえば、誠一さんが言っていましたね。家に「イワンコ」という犬を飼っていると。
正直に言えば、退院してこの未知の家に向かう道中、私はそのイワンコという存在に会えるのを、密かに心から楽しみにしていました。
前世では、ペットを飼うことは叶わぬ夢でした。学校の帰り道、散歩中の犬を見かけるたびに、「いつか自分も、あんな温かなパートナーと暮らせたら」と、歩夢さんにこぼしていたものです。
この不安だらけの異世界という環境の中で、唯一の癒やしになってくれるのではないか。言葉の通じない動物であれば、私の正体が女子高生であることなど気にせず、ただ寄り添ってくれるのではないか。そんな淡い期待を、赤ん坊の小さな胸に抱いていたのです。
玄関の扉が開いた瞬間でした。
「イワンコ! ただいま! ほら、せつ菜が来たわよ〜」
七海さんが私を抱きかかえたまま、出迎えた「それ」に話しかけました。
そこにいたのは、確かに私の知っている犬に近いフォルムを持った生き物でした。
全体的にグレーに近い落ち着いた茶色の毛並みをしていて、くりくりとした大きな瞳は知性と活気に満ちています。
けれど、決定的に違ったのはその首元です。まるでネックレスのように、ゴツゴツとした小さな「岩」のような突起がぐるりと一周、毛並みの中に埋め込まれるように付いていました。
やはり、普通の犬ではありませんね。首に岩……?
どういう生態をしていれば、そんな身体的特徴が現れるのでしょうか?
「ワンワン!」
イワンコは、ちぎれんばかりに尻尾を振り、全身で喜びを表現しながら私を歓迎してくれていました。
か、可愛いですね……!
七海さんが私をゆっくりと床に降ろし、座らせてくれました。視線が低くなり、イワンコの顔がすぐ目の前に来ます。
「クゥン……ワンワン!」
彼は私の匂いを確認するように鼻をヒクヒクさせると、嬉しそうに私の周りを一回転しました。その仕草の一つ一つが愛くるしく、私の警戒心を溶かしていきます。
(は、初めまして、イワンコさん。……中川菜々といいます)
通じるわけがないと分かっていても、私は心の中で、最上級の礼儀を持って自己紹介をしました。
ですが、どうしても、まだ自分のことを「せつ菜」と名乗る気になれないでいました。
けれど、イワンコは私のそんな複雑な心情を、何か不思議な感覚で察してくれたのでしょうか。
彼はそっと私に歩み寄り、私の頬を温かくて湿った舌で「ペロッ」と一度、優しく舐めてくれました。
「ふふっ……あう……」
くすぐったい感覚に、思わず声が漏れます。
ザラリとした舌の感触。それは、私がずっと憧れていた、生き物の確かな温もりでした。
「おっ! イワンコ、もうせっちゃんと友達になれたか〜! さすが俺の相棒だな!」
誠一さんが、自分のことのように鼻を高くして笑います。
「イワンコ、これからせつ菜のこと、しっかり守ってあげてね。お願いね」
「ワンワン♪」
七海さんの言葉に、イワンコは誇らしげに胸を張り、力強く返事をしました。
犬に守られる私、という構図に、プライドが少しだけチクチクと痛みましたが、それ以上に、この家で私を受け入れてくれた最初の友人が彼であることに、言いようのない安堵感を覚えました。
(イワンコさん……。これから、よろしくお願いしますね)
私は小さな手を伸ばし、彼の柔らかい毛並みに触れました。
騒がしい両親と、見たこともない生き物たちが溢れるこの異世界。
けれど、隣で尻尾を振るこの小さな騎士がいれば、ほんの少しだけ、前を向いて生きていけるような、そんな気がしました。
次回、3歳。