中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
屋外第1バトルフィールド。そこは、このニジガサキシティ ポケモントレーナーズスクールにおいて「強さこそ正義」とされる思想の象徴であり、最も神聖視されている場所でした。しかしその実態は、強者が弱者を公式に蹂躙し、その尊厳を徹底的にすり潰すことを許された、残酷な円形闘技場に他なりませんでした。
すり鉢状に美しく整備されたコンクリート製の観客席には、4年D組のクラスメイト全員が、まるで中世の残酷な見世物を待ち望む観衆のように詰めかけ、こちらをじっと見下ろしていました。空を遮るものがない広大なフィールドのはずなのに、押し寄せる悪意の重圧のせいで、まるで息が詰まるような閉塞感に満ちています。
しかし、その重苦しく歪んだ空気の中で、私の目を強く引いたのは、フィールド中央の審判台の上に真っ直ぐに立つ、一人の人影でした。
それはスクールの教員ではなく、明らかに私たちと同じ制服を身にまとった一人の生徒でした。パッと見の背丈や佇まいからして、私たちより一つ年上――5年生の特待生でしょうか。長く美しい黒髪を後ろで一本にきっちりと束ね、その切れ上がった涼しげな瞳は、まるで外界の熱や感情の機微をすべて拒絶するかのように、絶対零度の冷徹さを湛えていました。
彼女の細い腕の中には、主と同じように凛とした、一切の隙のない表情を崩さないポッチャマが収まっており、その小さな瞳でじっとこちらの様子を見下ろしています。なぜ教員ではなく生徒が審判の場にいるのか。その疑問に対する答えを、私はまだ持っていませんでした。
対面の指揮台に立った浜野先生は、持ってきた黒いカバンを足元に乱暴に投げ出すと、私を射抜くように睨みつけながら、ニタニタと下劣な、そしてどこか焦燥の混ざった歪んだ笑みを浮かべました。
「優木、お前はハンデとして、手持ちの2匹を最初から一緒に出して戦っていいぞ。これは、生意気な生徒に対する教師としての最後の慈悲だ。ありがたく受け取るがいい!」
ずいぶんと余裕な態度ですね。
一体、この先生は何のポケモンを出してくるつもりなのでしょうか。その答えは、彼が腰のベルトから取り出した、ずっしりとした重量感を放つ「ヘビーボール」がすべてを物語っていました。
すると、私の思考を遮るように、審判台の上にいる、ポッチャマを抱いた黒髪のサイドテールをした少女が、よく通る声で、試合の開始を宣言しました。
「これより、4年D組担任・浜野先生 対 優木せつ菜さんの特別授業試合を始めます。使用ポケモンは、教師側が1体、生徒側が2体の、変則2対1のバトル。どちらかの手持ちがすべて戦闘不能になった時点で決着とします」
その直後、浜野先生が腰のヘビーボールを親指で激しく弾きながら、声を張り上げて叫びました。
「格の違いってやつを教えてやる! いけっ、バンギラス!!」
凄まじい閃光と共にフィールドに現れたのは、岩石のような強固な緑色の鎧を全身に纏った、巨大な怪獣――バンギラスでした。
「グオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
地響きを伴う圧倒的な咆哮がフィールド全体に響き渡り、観客席の生徒たちが「ひっ」と息を呑むのが分かります。地響きだけで空気が震え、並のトレーナーならこの威圧感だけで戦意を喪失するほどの、圧倒的な練度とレベルの違い。これほどの実力を持つポケモンが、このスクールの牙として立ちはだかるのです。
ですが、私の心は少しも揺らぎません。
「お願いします。……イワンコ、ピチュー!」
私が投げた2つのボールから、光と共に私の大切な相棒たちが飛び出します。
「ワンッ!」
「ピチュー!」
イワンコはバンギラスの圧倒的な巨体を前にしても、怯むことなくその小さな四肢でしっかりと大地を踏み締め、鋭い牙を剥き出しにしました。
ピチューもまた、両頬の電気袋からバチバチと激しい火花を散らしながら、闘志に満ちた目で巨大な敵を睨みつけています。
始まる――。
誰もが拳を握りしめ、バトルの火蓋が切って落とされると確信した、その瞬間でした。
「待ってください」
審判台の上にいる少女が、制止の声をかけました。その冷徹な一言で、満ちていた戦気が一瞬で削ぎ落とされます。
浜野先生が不愉快そうに顔を歪め、「チッ」と舌打ちをして審判台を見上げました。
「おい、沢泉! 何の真似だ、早く始めさせろ!」
沢泉――。その名を聞いて、私はハッとしました。
来年度の生徒会長に内定しているという、あの5年生のトップ特待生:沢泉ちゆさん。なぜ彼女がここに。
ちゆさんは、浜野先生の怒声などそよ風ほどにも感じていない様子で、腕の中のポッチャマの頭を静かになぞりながら、冷たく言い放ちました。
「先生。校長先生から託された“あれ”は、どうしましたか?」
「えっ……? あ、いや、沢泉、それは……いくらなんでも、この相手に今ここで使う必要は……。レベル差だけで十分に……」
あからさまに動揺し、声を濁らせる浜野先生。
カバンを握るその手が、微かに震えているのを私は見逃しませんでした。
「校長先生の命令は絶対のはずですよ、浜野先生。 それとも、あなたはスクールの規律を破るおつもりですか? ……もし装着を拒否されるのでしたら、その旨、私が責任を持って校長先生へ正確に報告させていただきますが?」
「チッ……! あぁ~~~、どいつもこいつも、ガキのくせに!!」
「つけるんですか? それとも、恐怖で敵前逃亡するんですか?」
何でしょう、あの感じ。
審判台に立つ沢泉さんという少女は、目の前にいる担任の浜野先生のことを……まるで人間を見ているような目では見ていませんでした。
「つけるに決まってるだろ!! 黙って見ていろ!!」
浜野先生が狂ったように叫び、カバンから「それ」を取り出しました。
っ!!
それを見た瞬間、私の脳裏に激しい衝撃が走りました。
鈍い銀色に怪しく光る、鋭利な突起のついた金属製の首輪型のデバイス。
あれは、倉田校長が自慢気に見せてきた、あの不気味な機械…。
浜野先生は、自らの手で、長年連れ添ってきたはずの相棒であるバンギラスの太い首へ、その銀色の首輪を力ずくで押し付け、ロックを固定しました。
「グ、グオォ……!?」
バンギラスの瞳に、明らかな困惑と恐怖の色が浮かびました。
信頼しているはずのトレーナーから向けられた、あまりにも冷酷な悪意の機械。
直後、デバイスの中央に仕込まれた禍々しい赤いランプが、ピカピカと不気味に明滅を始めました。
「はぁ……はぁ……こ、これで満足だろ……!? 沢泉!」
彼の額からは滝のような汗が流れ落ち、肩を激しく上下させ、何やら動揺してました。
しかし、その叫びに応じる者はなく、バトルフィールドの主役であるはずのバンギラスの様子は、誰の目から見ても明らかに、そして決定的に狂い始めていました。
「――ガ、グ、グオォ……ッ!? ガ、ア……ッ!?」
首輪の中央で、赤色のランプが激しく点滅を開始したその瞬間、バンギラスの巨体が、まるで何万ボルトもの高電圧を直接心臓に叩き込まれたかのように、ビクリと大きく跳ね上がりました。
その強固な緑色の鎧のような皮膚の隙間から、パチパチと不穏な、赤黒い微弱な電流が漏れ出し、硬いコンクリートの地面を容赦なく焦がしていきます。
何より異様だったのは、その目です。
先ほどまで、数々の戦場を潜り抜けてきた歴戦の猛者としての誇りと、トレーナーである浜野先生への長年の信頼を確かに宿していたその瞳が――いま、内部の血管がすべて弾け飛んだかのように急速に混濁し、血走ったような禍々しい真紅へと染まっている。
視線は焦点を結ばず、ただただ破壊衝動と、デバイスから神経系へ直接送り込まれているであろう凄まじい激痛に狂わされているのが、遠目からでもはっきりと分かりました。
その巨体が、苦痛を逃そうとするかのように小刻みに震えています。
「グアアアアアアオオオオオオオオオッ!!!!」
それは、先ほどのフィールドを威圧するための誇り高き咆哮とは、根本的に異なるものでした。
自身の肉体を内側から無理やり引き裂かれるような凄惨な苦悶と、それを強引に闘争本能へと変換させられた獣が上げる、悍ましい絶叫。
バンギラスの周囲の空気が、その圧倒的な負のエネルギーによって物理的に歪み、フィールド全体に大気を削るような砂嵐さえ自動的に巻き起こり始めます。
これが、倉田校長の作った『強制限界突破システム』の真の姿……!?
ポケモンの心をも暴力的に支配し、一切の感情を剥奪して、ただの使い捨ての自爆兵器へと強制改造する、人間の際限のない悪意が形になったような道具。
「なんて……なんて酷いことを……!」
激しい怒りと、胸の奥から湧き上がるおぞましさへの嫌悪感で、私はどうにかなりそうでした。
あんな物は教育でもなければ、誇り高きポケモンバトルでもありません!
互いの信頼と全力をぶつけ合う神聖な儀式に対する、最低最悪の冒涜です!!
浜野先生は、勝つためなら、保身のためなら、これほど長い時間を共にしてきた大切な家族を、こんな地獄に突き落とせるというのですか!?
しかし、私の激しい憤りをも置き去りにするように、審判台の上の沢泉さんは、その冷徹な視線を一切崩しませんでした。
バンギラスの狂乱も、その咆哮も絶望も、彼女にとってはあらかじめ予測されていたと言わんばかりに、その瞳は冷めてました。
腕の中のポッチャマをそっと抱きなおし、右手を鋭く前方へと振り下ろしました。
「――それでは、特別授業試合、バトルスタート」
えっ……!?
今、ですか……!?
あまりにも容赦のない、そしてこちらの心の準備など一切無視した唐突な号令。
まだバンギラスが首輪の激痛に悶え、フィールドの空気が異常な緊迫感と異常発熱に包まれているこの最悪のタイミングで、非情にも試合の開始が告げられたのです。
「ワンッ!?」
「ピ、ピチュ!?」
イワンコとピチューも、目の前の巨獣から放たれる圧倒的な狂気と、生き物の枠を超えたプレッシャーに気圧され、思わず一歩、二歩と身を引きました。
ですが、ここで引くわけにはいきません。
何はともあれ、先手必勝です。
この異常な戦闘空間を終わらせるためにも、私たちは全力で立ち向かわなければなりません。
バンギラスは「いわ・あく」タイプ。
ピチューの電気タイプの攻撃は効果がなく、むしろこの強靭な肉体にはかすり傷すら付けられないでしょう。
イワンコも同じ「いわ」タイプなので、タイプ相性的には可もなく不可もなく、レベル差を考慮すれば、実質的に私が圧倒的に不利な状況です。
ですが、私の足元に並び立つ二匹の瞳から、闘志の光は一切消え失せていませんでした。
彼らは私の「正義」を信じ、この理不尽な暴力に立ち向かう覚悟を決めてくれています。
「いきますよ! イワンコ、いわおとしです!!」
「ワンッ!」
イワンコが地面を力強く蹴り上げると、フィールドの破片が鋭い岩の塊となって静空に形成され、猛然とバンギラスの頭上へと降り注ぎました。
ドゴォン!!と鈍い音が響き、いわおとしの直撃がバンギラスの脳頭頂部を捉えます。
本来なら、その程度の実力差のある攻撃、バンギラスの強固な鎧にいなされ、大したダメージにはならないはずでした。
しかし、攻撃が当たったその瞬間、バンギラスの首輪から、まるで外的な衝撃に過剰反応したかのように、凄まじい密度の電流が激しく逆流し始めたのです。
ジジジジジジガガガガガガッ!!!と、フィールド全体が真っ白に染まるほどのフラッシュ。
「グギャアアアアアアッ!!!!」
バンギラスが狂ったように苦しみ出しました。
なんて冷静に実況してますが、なぜですか!?
バンギラスは「いわ」タイプを含んでいるはず。
本来なら、電気タイプの技や電流の負荷に対しては高い耐性を持っているはずです。
それがなぜ、これほどまでに苦痛を味わっているのですか!?
「あぁっ! ちょっ! ちょまま、ちょまま、ちょっと待て! おい、ちょっと待ってくれ!! 誰もこんな出力に設定しろなんて言ってないぞ!? 何だこれは!? こんな出力があるのか!?」
指揮台の浜野先生が、狂ったようにコントローラーのボタンを連打しながら叫びました。
デバイスは自動的にポケモンの防御力を無視し、直接神経系の最深部へと致死量のエネルギーを送り込み続けているようでした。
「グオオオオオオオッ!!」
苦痛からバンギラスは、その巨大な尻尾を地面へと何度も、何度も全力で叩きつけ、フィールドをこれでもかと激しく揺らし始めました。
それは技としての命令などではない、ただの狂乱の身悶え。ですが、その巨体から放たれるエネルギーは、まさしくフィールド全体を物理的に崩壊させる『じしん』そのものの破壊力を帯びていました。
音を立てて地面に巨大な地割れが走り、周囲の足場が爆発したかのように激しく跳ね上がります。
イワンコとピチューにとっては効果抜群の、逃げ場のない広範囲攻撃。
えぇ、それがもし、理性を保った状態のバンギラスが放つ、精度の高い本物の『じしん』の威力であれば、イワンコとピチューは一撃の衝撃波だけで、戦闘不能になっていたでしょう。
ですが、今のバンギラスは、首輪の電流によって攻撃の軌道も威力の方向も完全にコントロールを失っていました。
地響きそのものは凄まじいものの、技としての精度はバラバラで、破壊のエネルギーが四方八方に霧散しています。
「イワンコ、ピチュー、跳んでください!!」
私の指示に合わせ、2匹は間一髪で跳ね上がる岩の隙間、わずかな安全地帯へと決死の跳躍を見せ、直撃を奇跡的に免れました。
しかし、悲劇はそこでは終わりませんでした。
最大威力の『じしん』を無理やり放たされた反動で、バンギラスの首のデバイスが再び、さらに毒々しい紫色を帯びて激しくフラッシュしました。
さらなる高電圧の電流が、バンギラスを容赦なく焼き尽くします。
「ガアアアアアアアッ!!」
「落ち着け!!バンギラス!!」
完全にパニックに陥り、狂乱状態となった巨獣は、もはや目の前にいる私のイワンコたちを認識することすらやめてしまいました。
それどころか、トレーナーである浜野先生の声すら届いていません。
「グオオオオオオオッ!!」
バンギラスは自らの頭を、その巨体を、フィールドを頑丈に囲むはずの強化コンクリート製の防壁へと、凄まじい勢いで、まるで突進するようにドカン、ドカンと猛烈にぶつける行為に走り始めたのです。
自らの肉体を自傷行為によって破壊しなければ、この駆け巡る無限の激痛から逃れられないと言わんばかりに。
ドカァン!! バキキッ!!
凄まじい衝撃音が響くたび、防壁に蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が走り、コンクリートの破片が飛び散ります。
バンギラスの額からは血が流れ落ち、首輪の金属部分からはバチバチと火花が混ざり合って飛び散る。その光景は、もはやバトルではなく、ただの哀れな生き物の屠殺場でした。
「やめろ! 止めろ! バンギラス、戻れ! ボールに戻れ~!!」
浜野先生が、完全に恐怖に引きつった甲高い声でヘビーボールを前方に突き出しました。
しかし、首輪から周囲一帯に放出されている強力な電磁波の妨害のせいか、ポケモンを回収するための赤い光線は、バンギラスに届く前に虚しく空中へ霧散してしまいました。
「なっ……!? 戻らない……!? 何でだ、何で戻らないんだよ!! おいっ!! 壊れてるのかこれ!? 誰か、誰でもいいからバンギラスを止めてくれ~~!!」
観客席の生徒たちは、想定外の凄惨な暴走劇に、悲鳴を上げて座席の奥へと逃げ惑っています。
先ほどまで私を嘲笑していた彼らの顔には、今や自分たちにその矛先が向くかもしれないという恐怖だけが張り付いていました。
狂ったように防壁に頭突きを繰り返すバンギラスと、泣き叫ぶだけの浜野先生。
その地獄絵図を、審判台の上の沢泉さんは、ただ静かに、そして悲しいほどに冷たい瞳で見つめ続けていました。
その頃――。
校長室で、革張りの椅子に深く腰掛けた倉田校長は、画面に映し出されるバンギラスのリアルタイムの映像と、もう一つの画面にあるデータ数値を眺めながら、手元の高級なコーヒーカップを静かにデスクへと置き、彼は満足そうに呟いた。
「……出力300%。神経同期率、限界突破失敗。――ふむ、実戦データとしては上出来だ」
直後、口を三日月のように歪めました。
「だが…、キミはゲームオーバーだ、浜野先生」