中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
「……ペギタン、うずしお!」
「ポチャッ!!」
沢泉さんの凜とした声が、第1バトルフィールドに響き渡りました。
彼女の腕の中にいたポッチャマ――『ペギタン』と呼ばれたその相棒が、審判台の縁を力強く蹴り、弾かれたような速さで前方へと飛び出しました。
空中で綺麗に一回転したポッチャマは、その小さな嘴を大きく開くと、その可愛らしい外見からは到底想像もつかないほどの、大量の渦潮を激しく吹き出したのです。
「ポチャポチャ~~~~…………ポチャッ!!!」
放たれた激流は、フィールドのコンクリートの床を凄まじい水圧で削り取り、完全に理性を失い、血を流しながら防壁に頭をぶつけ続けていたバンギラスの巨体を、下から巻き上げるようにして完全に包み込んだのです。
轟々という地鳴りのような風切り音を立てて激しく回転する水の檻が、暴走する巨獣の圧倒的な突進力を物理的にガッチリと拘束します。
「グガ!!、グオ!?」
激しい渦の中で、バンギラスの真紅に染まった瞳が、一瞬だけ驚きと戸惑いに揺れました。
それだけではありません。うずしおは、ただバンギラスの狂乱を物理的に止めるためだけのものではありませんでした。大量の濁流が、バンギラスの全身をバチバチと火花を散らしていた首輪が、大量の水を浴びたことにより、急速に弱まっていきます。
首輪が放っていた異常な熱と過剰な出力を、水が劇的に冷却し、バンギラスの神経系へのダイレクトな電撃が一時的に遮断されたようでした。
「ガ……」
耐え難い激痛が和らいだのか、バンギラスの力が抜け、その膝がズゥン……と重苦しい音を立ててコンクリートの床につきました。
まだ瞳の奥には赤く光っていますが、先ほどまでの自傷行為に走り、周囲を無差別に破壊しようとしていた狂乱状態からは、明らかに脱していました。
「な、何が起きたんだ……? 一体……」
指揮台の上で完全に腰を抜かし、尻もちをついていた浜野先生が、呆然と呟きました。
自分のポケモンが命を救われたことへの安堵よりも、目の前で起きたことが理解できていない姿です。
一方の私は、審判台から軽やかな身のこなしで降りてきた、沢泉さんをじっと見つめました。
彼女は、役目を終えて着地したペギタンを愛おしそうに、腕の中に抱き上げ、膝をつくバンギラスを静かに見つめ、氷のような冷めた目で浜野先生を睨みました。
なんだか怖いです…。
「……デバイスの出力を一時的に低下させました。 浜野先生、今なら、ボールのシステムが正常に作動するはずです。 早くしないと、次は本当にこの子の心臓が止まりますよ」
「あ、あぁ……! あぁ、そうだ! 戻れ、バンギラス! 戻れっ、戻ってくれ!!」
浜野先生が震える手で前方へヘビーボールを差し出しました。
今度は妨害もなく、ボールから正常に放たれた赤い光線が、傷だらけになったバンギラスの巨体を優しく包み込みました。
そしてバンギラスにつけた首輪は、そのままバンギラスがボールに戻ると、地面に転がり、完全に止まりました。
フィールドに残されたのは、荒々しく削り取られたコンクリートの破片、あちこちに飛び散った大きな水溜まり、そして、未だに信じられないものを見たというふうに唖然としたまま固まっている、観客席のクラスメイトたちの静寂だけでした。
私のイワンコとピチューも、ようやく全身の毛を逆立てていた緊張から解放されたのか、小さく息を吐きながら私の足元へと駆け寄ってきました。
「2人とも、無事でよかったです。怖い思いをさせてしまいましたね。私を信じて頑張ってくれて、本当にありがとうございました」
2匹の小さな頭を撫でながら、私は視線を再び沢泉さんへと戻しました。
彼女の今の一撃は、まぎれもない救済でした。
もしあのまま、バンギラスが暴走を続けていれば、フィールドを囲む防壁が完全に崩壊して観客席の生徒たちに甚大な被害が出ていただけでなく、あのバンギラスの命そのものが、倉田校長の作ったあの悪魔の機械によって、完全に壊されてしまっていたはずです。
スクールの非道な規律を冷酷に説き、私を追い詰める側にいるはずの彼女が、なぜ、このような手段で、浜野先生のポケモンを救ったのでしょうか?
沢泉さんは、腕の中のポッチャマの濡れた体を、持参した白いハンカチでそっと拭きながら、私の視線に気づくと、ゆっくりとこちらを振り向きました。
私は、たとえ立場が違えど、あの暴走を止めてくれた彼女の迅速な判断に対して、感謝の意味を込めて、深く頭を下げました。
ですが――。
彼女が言葉を発するよりも先に、フィールド全体を取り囲むように設置された巨大なスピーカーから、ざざーっ、ざざざーっ、と鼓膜を不快に震わせる耳障りなノイズが鳴り響きました。
『――そこまで、です』
スピーカーから響いてきたのは、このフィールドに満ちる生々しい熱量や命の尊厳を、すべて信じられないほどの低体温で切り捨てるような、あの倉田校長の、ねっとりとした冷酷な声でした。
「っ!」
私は反射的に身体を強張らせて身構え、スピーカーを睨みつけました。私の足元で、イワンコもまた「ウゥ……」と喉を鳴らして低く唸り声を上げます。
『浜野先生、お疲れ様でした』
「校長…! さっきのは…!」
『それにしても、実に見苦しいバトルでしたね~。 支給された最新の教育用デバイスの出力をコントロールすることすらできず、生徒一人満足に教育できず、挙句の果てに、自滅しかけるとは』
「いえいえ! あれはちょっとした事故でして!」
『我がスクールの教員としてのキミの評価は、残念ながら、最低値と言わざるを得ませんね。
――浜野先生、キミは明日から、もうこのスクールに来なくて、結構です』
「え……?」
指揮台の上で、ヘビーボールを握りしめていた浜野先生の顔が、その言葉を聞いた瞬間、一滴の血液も残っていないかのように真っ白に染まりました。
何が起きたのか分からず、ざわざわと戸惑っていた観客席のクラスメイトたちは、あまりにも突然の担任の解雇通告に、驚きを隠せない様子で、顔を見合わせています。
無理もありません。私も驚きですから。
部下であるはずの教員を、こんな簡単に切り捨てるんですか…?
「な、なぜですか……!?校長! 私は…、校長の仰る通りに! デバイスを装着し、規律を教えようと…!」
「付けていなかったのを、私が指摘したんですがね」
「沢泉! お前は黙ってろ! ですから、壊れたのは、あの機械の出力のせいで、私のせいでは……!」
『なぜって、理由は今言ったはずですよ、浜野先生』
スピーカーの向こうの倉田校長は、まるで汚れたゴミの処分を決めるかのように、一切の感情を交えずに、ただ冷酷にその判決を言い渡しました。
『――では失礼。実戦テストにおける有意義なデータをありがとうございました、浜野先生』
極小の、冷徹極まりない電子音と共に、スピーカーから響いていた倉田校長の声は、まるで最初から存在しなかったかのように一方的に途絶えました。
あとに残されたスピーカーからは、ただ虚しい静電気のノイズだけが、ザーザー、ザーザーと低く不快に響いているだけでした。
「お、お待ちください! 校長! 校長先生!! 私は、私はあなたの仰る通りに……っ! 指示に従ってデバイスを嵌めて、規律を教えるために戦ったんです! 応答してください、校長――ッ!!」
指揮台の上で、浜野先生はスピーカーに向かって、まるで縋り付くように狂ったように叫びました。
しかし、再び応じることはありません。ただ虚無のノイズが彼の声をかき消すだけ。
「――なんだよ……!
ざけんじゃねぇぞ、クソジジイ!!!」
っ!?
あまりの豹変ぶりに、私は思わず息を呑みました。
すり鉢状の観客席を埋め尽くしていた生徒たちからも、悲鳴に近い、地を這うような大きなどよめきとざわめきが四方八方から沸き起こります。
教壇の上で、いつも端正なスーツを神経質なまでに着込み、規律を声高に叫んで、私たち生徒を怯えさせていた浜野先生の厳格な姿は、そこにはもう微塵もありませんでした。
ただ額の髪を激しく振り乱し、血走った目を剥き出しにして、顔を涙と汗と脂でドロドロに汚した、地位を奪われ、すべてを失った惨めな一人の大人が、そこに哀れに突っ立っていました。
彼は手にしたヘビーボールを、爪が手のひらの皮膚に食い込み、拳が白く血の気を失うほどに強く握りしめ、天を仰いで狂ったように叫びました。
「俺は貴様と違って、1年多くこのスクールにいたんだぞ!!!」
その剥き出しの、隠されるはずだった本音の言葉の意味を理解した瞬間、私の背中にゾッとするような冷たい戦慄が走りました。
この男は――浜野という教師は、倉田校長がこのニジガサキシティのポケモントレーナーズスクールに最高責任者として外部から赴任してくるよりも前から、この場所に、教員として在籍していたのですか。
つまり、校長が外部から持ち込んだあの悪魔のような『強制限界突破システム』の思想に、無理やり従わされたのではなく、誰よりも早く、そして自ら進んで、己の保身と出世、そして、弱者を合法的に叩ける快楽のために染まりにいった、最悪の教員だったのですね…。
思ったとおりです。
「あのジジイが来る前は、このスクールはただの退屈な場所だった! 生徒の顔色を窺ってご機嫌を取り、適当に基礎の基礎を教えるだけの、ぬるま湯のような場所な! だが、あいつが『力こそ正義、勝者がすべてを支配する』という最高の、最も効率的なルールをこのスクールに持ち込んでくれたんだ! だから俺は信じた! 忠実に従った! 価値のない落ちこぼれどもを容赦なく叩き潰し、あの人の言う通りにデバイスの実戦データを文句も言わずに集めてやった! なのに、なのにこんな使い捨てかよ!? 失敗作の機械が暴走した責任を、なんで俺が!! この俺一人だけが責任取らなきゃいけないんだ!! おかしいだろ!!!!」
浜野先生の口から次々と吐き出されるのは、歪んだ忠誠心の裏返しである、浅ましく醜い逆恨みと自己保身の言葉ばかりでした。
そこには、先ほどまで自分のせいで脳を焼かれ、死にかけたバンギラスへの謝罪や心配など、ひとかけらも存在していませんでした。
彼は足元に転がっていた黒いカバンを力任せに蹴り飛ばすと、ベコッと鈍い音が響き、中から書類が散らばります。それでも収まらない狂気的な怒りに突き動かされ、血走った、正気を失った目を、今度は審判台から静かに地上へと降りてきた沢泉さんへと向けました。
「お前だ…! お前だな、沢泉! お前が校長に余計な告げ口の報告をしたんだろ!? いつもそうだ! お前ら上位の特待生は、校長のお気に入りだからって、裏で俺たち教員をゴミのように見下しやがって!!」
狂乱する浜野先生は、完全に理性を失った大股の足取りで、沢泉さんへと掴みかからんばかりの凶暴な勢いで詰め寄ろうとします。
体格のいい男が、怒りと絶望に我を忘れて迫るその光景は、普通の女子小学生であれば恐怖で足がすくみ、悲鳴を上げて逃げ出すはずの異常な状況でした。
しかし――。
「近づかないでください。不愉快です」
沢泉さんの発した声は、驚くほど平坦で、そして周囲の熱をすべて一瞬で奪い去るほどに鋭く、冷たいものでした。
彼女は一歩も後ろに引くことなく、腕の中のポッチャマをしっかりと抱き直すと、浜野先生の醜く歪んだ顔を正面から堂々と見据えました。
その涼しげな瞳に宿る光は、哀れみすら通り越した完全な、拒絶と軽蔑でした。
「私が校長先生にわざわざ報告するまでもなく、このフィールドに設置されたすべてのカメラ映像のデータは、リアルタイムで、直接校長室のモニターへ常時転送されているのお忘れてですか? ご自分の実力不足とポケモンの管理不足、その無能さを他人のせいにしないでいただきたいです。 ただただ見苦しいですよ」
「なんだと……っ! このガキが、生意気なことを……っ!! 元担任に対して、その態度はなんだ!」
「それに――」
沢泉さんは、徹底的に突き放すようなトーンで続けました。
「『力こそ正義、敗者には何も残らない』。……あなたが狂信し、私たち生徒に日々強要していたこのスクールの絶対的な規律のはずです。 ならば、優木せつ菜さんのイワンコとピチューの攻撃を防げず、デバイスの制御に失敗し、自滅して戦闘不能になったあなたは、このスクールにおける明確な『弱者』であり、『敗北者』です。 規律に従い、絶対的な強者である校長先生から、無価値として処分されるのは、当然の帰結ではありませんか? 第一、私にそんな人事の権限などありませんよ? 勘違いしないでください」
「チッ……っ、く……っ!」
まさに、これまで浜野先生が、しずくさんをはじめとする傷ついた生徒たちを精神的に痛めつけ、クラス内で追い詰めるために、都合よく免罪符として使ってきた「スクールのルール」そのものでした。
自分が他人に振るっていた暴力の刃が、そのまま100倍の重さになって自分に突き刺さる。
その完璧なまでの因果応報の事実に、浜野先生は完全に言葉を失うしかないようです。
もういいです、こんな茶番。
「哀れすぎますね、あなたは」
「あっ!?」
私はもう、これ以上この茶番を見ていられませんでした。
あまりにも醜く、あまりにも救いようのない大人の言い訳。
そして何より、この男の言葉の中に、ポケモンへの愛が1ミリもないことに、胸の奥の炎が限界を超えて爆発しそうです。
私は真っ直ぐに歩みを進め、沢泉さんと浜野先生の間に割って入るようにして、毅然と立ちました。
私の突然の介入に驚き、目を見開く浜野先生を私は見つめ返します。
「あなたも、ある意味では、倉田校長の被害者なのでしょう。
システムに踊らされ、心を麻痺させられた哀れな人です。
……ポケモントレーナーというのは、確かに理不尽で、統一も何もありませんね。
ポケモンをただの実験台や、己の地位を上げるための道具のように扱う校長のような冷酷な人間もいれば、しずくさんのように、傷ついたポケモンにどこまでも愛情深く寄り添える、温かいトレーナーもいます。
カントー地方の四天王である渉さんのように、ポケモンとともに誇り高く、どこまでも高い空を目指す人もいます。
それ以外にだって、この世界にはちゃんと、自分の相棒に命がけの誇りを持っている素晴らしいトレーナーが数多く存在します」
「はっ? 急に、何だ…? お前のような世間知らずのガキに、俺の何が分かるっていうんだ!?」
「あなたは自身の家族であり、長年の相棒であるはずのバンギラスを、この数分間、地獄のような激痛を味合わせるために犠牲にしましたね?
それで守りたかったものは何ですか?
自分のちっぽけなプライドですか?
スクールの中だけの絶対王者の地位ですか?
それが、あの痛みに必死に耐えて、あなたのためにボロボロになっていたバンギラスも望んでいたことですか?」
沢泉さんも、クラスメイトたちも、私が何言ってるのか、これっぽっちも分かっていない様子です。
「何が言いたい…!? 俺は教師として、この過酷なスクールで生き残るために指示に従っただけだ……っ! 俺は…! お前ら恵まれたガキどもと違って、この20年! ポケモントレーナーとして必死に歩んできたんだ!! その歴史を否定するなぁ!!」
哀れすぎますね。
可哀想です。
バンギラスが。
「くだらない歴史ですね? 何がポケモントレーナーですか?」
「あ?」
「相棒の信頼を裏切り、ただの道具として、使い潰すような人間が…………
ポケモントレーナーを名乗るんじゃないっ!!!!!!!!!!」
翌日、浜野先生は、本当にこのスクールから姿を消しました。
彼の私物が事務員によって機械的に段ボールへと片付けられた職員室の、ぽっかりと空いた彼のデスクがその後どうなったのか、そして、彼が自らの手で地獄に突き落とし、心も身体も深く傷つけてしまった長年連れ添ったあのバンギラスとこれから一体どこへ行き、どう生きていくのか。
それを知り、案ずる者は、この敷地の中に誰もいませんでした。
用済みとなった部品を廃棄した、ただそれだけのこと。
それがこのスクールの日常なのです。