中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
月曜日。
週末の静けさが嘘のように、スクールを取り巻く空気は相変わらず重く淀んでいました。
見上げる空は厚く垂れ込めた鈍色の冬雲に覆われ、吹き抜ける乾いた寒風が、校門をくぐる生徒たちの足元を容赦なく撫でていきます。
誰もが厚手のコートやマフラーに顔を埋め、坂道を上っていきます。
昇降口の冷たいタイルの前で、私は登校してくるはずのしずくさんをじっと待っていました。
行き交う生徒たちの冷ややかな視線や、時折投げかけられる探るような視線を背中で受け流しながら、息を白く吐き出して時計を見上げます。
雑踏の向こうから、少し緊張した面持ちで、それでも一歩一歩確かめるように歩いてくるしずくさんの姿が見えたとき、胸の奥で凍りついていたものがふっと解け、小さな安堵が広がりました。
その細い腕の中には、かつて傷ついた身体を休め、元気を取り戻したヨーテリーが大切そうに抱かれていました。
「しずくさん、おはようございます」
「あ……せつ菜ちゃん、おはよう」
しずくさんは私の姿を認めると、張り詰めていた表情をふっと緩め、いつもの柔らかく澄んだ笑顔を見せてくれました。
腕の中のヨーテリーも、私を視界に捉えると「キャン!」と短く澄んだ声で鳴き、小さな尻尾を一生懸命に左右に振って応えてくれます。
そのつぶらな瞳には、本来の生命の輝きが戻っていました。
「ヨーテリー、もう身体は大丈夫ですか?」
「キャン!」
「うん。ジョーイさんも、もう無理なバトルをさせなければ問題ないって言ってくれたの。傷跡も綺麗に消えて、ご飯もいっぱい食べられるようになったよ」
しずくさんは愛おしそうにヨーテリーの小さな頭を撫でました。
けれど、その声の端々には、どうしても拭い去ることのできない不安の影が薄く滲んでいます。
このスクールに足を踏み入れ、制服を着て教室へと向かう以上、「無理なバトルを避ける」ことなど、構造上許されていないと知っているからに他なりませんでした。
一度敷かれた実力主義という名のレールの上では、立ち止まることも、痛みに耐えかねて目を逸らすことも許されないのですから。
2人で並んで昇降口を通り抜け、長い廊下を歩いて4年生の教室へと続く階段を上ります。
冷え切った廊下の突き当たり、私たちのクラスの引き戸に手をかけ、ゆっくりと横に引いた瞬間――。
それまでざわついていた教室内の喧騒が、ぴたりと止まりました。
数十人の視線が一斉に、入口に立つしずくさんとヨーテリーへと突き刺さります。
「なんだよ、来たのかよ」
前方の席に座るクラスメイトが、わざとらしく大きな舌打ちを響かせながら、吐き捨てるように言いました。
「そのまま逃げて、退学届でも出してりゃよかったのにさ~。どうせ次の実技でも、またみっともなく負けて、クラスの総合評価の足を引っ張るだけなんだからさ」
「本当よね。あんな無様な姿を晒しておいて、よく平気な顔して教室に入れるわ」
窓際に集まっていた女子生徒たちが、嘲笑を含んだ冷たい視線を交わし合う。
心ない刃のような言葉が次々と投げつけられるたび、しずくさんの小さな肩がびくりと微かに震えます。
腕の中のヨーテリーも、教室中に充満する悪意の毒気を敏感に察知したのか、耳を後ろに倒して低く喉を鳴らし、しずくさんの胸元へぎゅっと顔を埋めて震えていました。
こんな理不尽極まりない言葉を、これ以上彼女とパートナーに浴びせさせるわけにはいきません。
しかし、私が怒りに任せて口を開きかけたその瞬間、私の制服の袖を、小さく温かい手がそっと控えめに引きました。
「……せつ菜ちゃん、大丈夫だよ」
振り返ると、しずくさんが無理に作ったぎこちない笑顔を浮かべながら、小さく首を横に振っていました。
「また、頑張るから」
「しずくさん……」
「私、もう逃げないって決めたんだ。 どんなに弱くても、どんなにみんなに笑われても、ヨーテリーと一緒に、ちゃんとここに居続けるって」
震える声を必死に抑え込みながら紡がれたその言葉には、周囲が嘲笑うような無力な弱者の影など微塵もありませんでした。
誰よりも深く傷つき、恐怖に怯えながらも、それでも自らの足で立ち続けようとする、本物の気高さと誇りがそこには確かに存在していました。
私は溢れそうになる感情を飲み込み、力強く頷き返しました。
2人で教室の通路を通り、窓際の自分の席へと向かい、鞄を机の横のフックにかけました。
席に着いた後も、周囲からのひそひそとした囁き声や、嘲るような笑い声は止むことがありませんでした。しかし、しずくさんはもう俯くことはありませんでした。
「今日は、放課後にパティスリーチュチュへ行くんですよね? 楽しみだね。 お母さんに聞いたら、あそこのエクレアとショコラがすごく美味しいんだって」
「そうですか。 ふふっ、楽しみですね」
昨日の日曜日、私はしずくさんのご自宅へお邪魔し、ヨーテリーの快気祝いという名目で彼女を誘いました。
これから何が起こるかも分からない場所に、無用な不安を抱かせたまま連れて行くわけにはいかなかったため、沢泉さんから呼び出しの手紙を受け取ったこと、そして誠一さんから聞いた彼女の過酷な家庭環境のことは、伏せたままにしてありました。
隣の席で、しずくさんはヨーテリーの背中を優しく撫でてから、教科書とノートを開きました。
……このスクールは、本当に狂っています。
力を持たない者を徹底的に叩きのめし、恐怖で支配し、生徒同士を互いに監視させ、いがみ合わせるこの冷酷なシステム。
誠一さんから教えられた、沢泉さんが背負わされている、幼い弟の手術と命を人質に取られた残酷な真実。
そして、今まさに目の前で心ない悪意に晒されながらも、必死に前を向こうとしているしずくさんの姿。
すべてが、倉田校長という巨大な悪意が張り巡らせた見えない蜘蛛の巣の中で、ひとつの歪んだ糸として繋がっていました。
――キーンコーンカーンコーン
朝のホームルームの開始を告げる無機質なチャイムが廊下に鳴り響き、新担任の規則正しく冷たい革靴の足音が、重々しく教室へと近づいてきます。
不穏な嵐の予感を孕んだ月曜日の授業が、静かに、そして重苦しく幕を開けました。
午前中の長い座学、そして午後の張り詰めた実技演習の時間を耐え抜きながら、私の意識はずっと、白い手紙へと向けられていました。
『来週月曜日の放課後、桜坂しずくさんも連れて、こちらのパティスリーチュチュまで来てください』
放課後の鐘が鳴り響いたとき、私たちは街の洋菓子店へと向かい、5年生の頂点に君臨する沢泉さんと対峙することになります。
彼女が私たちに何を語り、どのような冷徹な真実を突きつけてくるのか。
そして、この息の詰まる檻から抜け出すための道が、果たしてその先に見出せるのか。
私は窓の外に広がる重い灰色の空を見つめながら、運命の放課後が訪れる瞬間を、静かに待ち続けていました。
次回、ちょっと可愛い色違いポケモン登場!