中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
「何があったんですか…?」
私の問いかけに、沢泉さんは静かに視線を落とし、ソーサーの縁をなぞる指先を止めました。
「今から5年前の2月、あそこにいる…、私の従姉の帆羽くれあは、当時卒業間近の6年生…。倉田が前にいたアカデミーの生徒だったの」
店内のお客さんたちが談笑する穏やかな声がかすかに響いていましたが、沢泉さんの口から静かに紡がれたその事実によって、私たちのテーブル周辺には誰もいないかと思えるほど、周囲の賑わいから切り離されたような重苦しい空気が、私たちの肌を刺すように包み込んでいきます。
「くれあには当時…、パートナーポケモン、ジグザグマがいたの」
カウンターの奥で、静かにグラスを拭いていたくれあさんの手が、一瞬だけぴたりと止まりましたが、すぐに何事もなかったかのように作業へと戻るのを、私は見逃しませんでした。
「ジグザグマ? では、あちらの2匹は…?」
私は思わず、彼女の両肩の上に、愛らしく乗っている2匹を指しながら問い返しました。
「あの2匹のマホイップたちは、くれあがアカデミーを卒業して、このお店を開く直前に出会った子たちよ。……彼女の本当の最初のパートナーは、別にいたの…」
沢泉さんは伏せ目がちに、静かなトーンで語り続けました。
くれあさんは当時、アカデミーで常に優秀な成績をおさめ、品格も実力も非の打ち所がない完璧な生徒であり、将来は、華やかなコンテストに出場するトップコーディネーターになることを夢見てたといいます。
そんな卒業を目前に控えたある日、アカデミー側…、当時の倉田から「優秀な生徒だけに与えられる特別な試作品がある」と、くれあさんを含む何人かのトレーナーたちに声がかけられたのです。
『ポケモンの身体に眠る秘められた可能性を限界まで引き出す、最先端の教育デバイス』
そう謳われた銀色の首輪。
アカデミーを信用し、パートナーの未来を誰よりも願っていた彼女は、その言葉を純粋に信じ込んで、自らの手でそのデバイスを、ジグザグマに装着してしまったのです。
「その結果…、どうなったと思う?」
沢泉さんはそこで深く言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を強く噛み締めました。
その時、背後から静かで引きずるような足音が近づいてきました。
「私の……、あまりにも浅はかで愚かな決断のせいで、あの子の心と身体を、二度と戻らないところまで壊してしまったの…」
顔を上げると、そこにはくれあさんが立っていました。
その表情には、先ほどまでのお姉さんらしい穏やかな笑顔は影を潜め、反対に、決して消えることのない罪悪感が色濃く刻み込まれていました。
「マホ……」
「マホマホ……」
肩に乗っていた2匹のマホイップも、主人の抱えるあまりにも深い悲しみを察したのか、身を寄せるように擦り寄っています。
くれあさんは、沢泉さんの隣の空いている椅子にそっと腰を下ろすと、視線を窓の外の遠い空へと向け、その悪夢のような5年前の出来事を語り始めました。
「ジグザグマの男の子でね…、名前は『シュシュタン』って言ったの。毛並みがすごく綺麗で、私が手作りの小さなピンクのリボンを首に付けてあげると、いつも誇らしげに私の周りを走り回る、本当に素直で可愛い子だったわ…」
……だった?
過去形にされたその言葉に、私の心臓が嫌な跳ね方をする。
そこからの話は、耳を塞ぎたくなるような、残酷な悲劇の始まりでした。
あの首輪型の強制限界突破システムを装着して挑んだ、最初の実技バトル。
相手ポケモンの攻撃を受け、首輪が起動したその瞬間、シュシュタンくんが、本来の彼の段階では、絶対に覚えるはずのない『すてみタックル』を繰り出し、相手を一撃で戦闘不能にしたのだと、くれあさんは言いました。
それを聞いた瞬間、私は驚きを隠せませんでした。
なぜなら『すてみタックル』は通常、進化形であるマッスグマが、十分な体力と骨格の強度が備えられて初めて習得できる、自分自身にも絶大な反動が返ってくる大技だからです。
しかし…
ポケモンが本来のレベルや、成長段階を飛び越えて、早く技を覚えること自体は、トレーナーとパートナーポケモンの深い絆や、極限の集中状態が生み出す奇跡として、ごく稀に、起こり得ることがあると聞いたことがあります。
現に沢泉さんのパートナーである、ポッチャマのペギタンくんだって、ポッチャマの段階では、本来覚えないはずの強力な『うずしお』を完璧に使いこなし、浜野先生の暴走したバンギラスの止めてくれました。
ですから…、当時のくれあさんが、「このデバイスのおかげで、シュシュタンの中に眠っていた才能が開花したんだ」。
そう誤認してしまったのも、決して…、無理のないことだったのかもしれません……。
だけど、この凄惨な悲劇の本質は、そんな美しい奇跡などではありませんでした。
シュシュタンくんは……。
『すてみタックル』を、放ったのではなかったのです。
首輪から体に流し込まれる耐え難い激痛と恐怖のあまり、なりふり構わず、相手に突進した『たいあたり』の威力が、狂気によって跳ね上がり、あたかも大技を繰り出したかのように、見えていただけだったのです。
その実技授業の直後、シュシュタンくんはその場に倒れ込みました。
くれあさんはすぐ抱きかかえて、駆け込んだポケモンセンターで、命がけの緊急救命処置が行われました。
そして、集中治療室から出てきた担当のジョーイさんから突きつけられた叱責によって、くれあさんは、初めて己が犯した過ちの恐ろしさを知ることになりました。
『この子は新しい技を覚えたのではありません! 身体に与えられた苦痛による混乱状態で突っ込んだだけです! 一体あなたは、この子に何をしたんですか!?』と。
ですが、悪魔の倉田の罪は、それだけに留まりませんでした。
休養を終え、無事に退院したシュシュタンくんを連れて通学したくれあさんは、すぐさま倉田に説明を求めに行きましたが、彼は平然とこう言い放ったのです。
『最初は肉体が、装置の急激な出力に追いつかず、一時的な拒絶反応を起こすのは当然だ。だが、いずれ身体が適応すれば激痛もなくなり、真の力を引き出すことができる。今は耐えるしかない。この子の将来のために、今が一番の頑張り時だ』
言葉巧みに彼女を騙し、安心させ、再びくれあさん自身の手で、その首輪を装着し続けさせたのです。
そんな悪夢のような日々が何度も繰り返され、アカデミーを卒業するわずか1週間前。
ついにシュシュタンくんは、急激に体力を失い、食欲もなくし、大好きな木の実やポフィンさえ、一切受け付けないほど衰弱してしまい、再び緊急入院することになったのです。
面会の日。
ジョーイさんに促され、ケースから出して、抱きしめようと手を伸ばしたくれあさんに対し、シュシュタンくんは、激しい恐怖に全身を大きく震わせながら、まるで悪魔から逃げるように、ケースの最も暗い隅っこで、身体を小さく丸めて怯えていたと言います。
大好きだったはずのトレーナーの手。
自分にあの激痛の首輪を繋ぎ続けた、恐ろしい人間の手。
シュシュタンくんにとって、くれあさんはもう、愛するパートナーではなく、恐怖を与える拷問者にしか映っていなかったのですね…。
くれあさんは、謝ることも、抱きしめてあげることも、優しい言葉をかけてあげることすらできず、己の罪の重さに耐え兼ね、逃げるようにポケモンセンターを飛び出しました。
そして…、翌日の朝――。
ジョーイさんから、訃報が届きました。
シュシュタンくんの幼い命は、静かに虹の橋を渡っていったのです。
「……っ」
それを聞いた私は、言葉を完全に失いました。
隣に座るしずくさんは、両手で顔を覆い、ボロボロと溢れ落ちる大粒の涙を止めることができずに肩を激しく震わせていました。
足元のイワンコも、ピチューも、ヨーテリーも、部屋に満ちるあまりにも深すぎる悲しみを感じ取り、身を寄せ合っています。
「そんな重大な事件を起こしておきながら、倉田は事件が表沙汰になる前に、自らが持つ莫大な資金力とコネをフルに活用して、すべて『生徒の個人的な不注意と、育成管理の怠慢による突発的な事故』として処理して、揉み消したのよ。 そして自分だけ、何食わぬ顔で、前のアカデミーを去って、涼しい顔でこのニジガサキシティのスクールへと転任してきて、今に至るというわけ。あの男にとって、生徒もポケモンも、自らの実績と研究データを積み上げるためのただの使い捨ての材料に過ぎないのよ」
沢泉さんの声は、怒りを通り越して氷のように冷たくなってました。
「…………シュシュタン…! ごめんね…! 本当に…、ごめんなさい……!!」
今や亡きパートナーへ向けて、きっと幾度となく、何千回も繰り返されてきたであろう、決して本人に届くことのない謝罪の言葉を零すくれあさん。
その震える背中と絞り出すような泣き声に対して、私は、かけるべき言葉を見つけることができませんでした。
この温かなカフェの甘い香りの裏側に隠されていたのは、あまりにも悲しく、決して許されることのない傷痕があったのです。
そして、何より残酷な皮肉は…。
くれあさん以外の試作品を渡された、他のトレーナーたちのポケモンは、運良く耐えて、卒業直前に行なわれたリーグ戦で、目覚ましい実績を残すという、成功例を作り出してしまったことです。
その一部の成功例があるからこそ、倉田は自分のシステムが正しいと自信をつけ、失敗したくれあさんだけを「脱落者」「甘やかし」と切り捨て、このニジガサキのスクールで更なるシステムを作り上げるための糧となっていたのです。
「あんまりです……! ポケモンを……大切なパートナーをそんな目に遭わせるなんて……! くれあさんがどれだけ傷ついたか、シュシュタンくんがどれだけ苦しかったか……そんなの、あまりにも身勝手で……校長先生、ひどすぎます……っ!」
しずくさんも膝の上で強く拳を握りしめ、ポロポロと涙を溢れさせながら、絞り出すような怒りと悲しみの声を上げました。
「……それが、あの男のやり方よ」
沢泉さんは涙を流すしずくさんを静かに見つめ、その瞳の奥に深い憎悪を秘めた声で、静かに言い放ちました。
「生徒の無知と純粋さを巧みに利用して、成果だけを吸い上げて、破綻すればすべて生徒の自己責任として残酷に切り捨てる。前任のアカデミーでも、そして今のスクールでも、あの男は何も変わっていないどころか、より洗練された最悪の形で拡大してるわ」
彼女はすっかり冷めてしまった紅茶の表面に映る自分を睨みつけるように凝視し、重く深い溜息をつきました。
「……去年、私の親友のコリンクも、同じように首輪をつけられて重傷を負ったの。 でもその親友は、くれあの過去も知っていたから異変に気づいて、すぐにその首輪を外して、なんとかコリンクの命だけは事なきを得たんだけどね」
私はその言葉を聞きながら、胸の奥で複雑に絡み合う糸を必死に解きほぐそうとしていました。
沢泉ちゆという人物。
スクールの中ではエリートとして振る舞い、校長に従順な生徒としている彼女。
けれど、彼女の根底にあるのは、スクールへの忠誠心などでは断じてなく、校長に対する激しい憎悪と、大好きな従姉の過去に対する深い贖罪の念だったのです。
ですが、それだけでは説明がつかない重大な疑問が、まだ一つだけ残っていました。
「あの…、不躾なこと…他人様の家庭の事情に、軽々と首を突っ込むべきでないことは、重々承知してるのですが、沢泉さんの弟さんは今、病院で入院されてるんですよね?」
「……っ」
私の不意を突いた問いかけに、沢泉さんの肩が微かに跳ねました。
隣で涙を拭っていたしずくさんも、私の急な踏み込んだ質問に息を飲み、驚いたように目を見開きます。
沢泉さんは一瞬だけ不快そうに綺麗な眉をひそめ、氷のように鋭く射抜くような視線を私に浴びせましたが、やがて諦めたように長く重い息を吐き出しました。
「…………どこでそれを知ったかは知らないけど、そうよ。 弟は生まれつき体が弱くて、今は入院生活をしてるわ」
やはり誠一さんの言っていた通りだったのですね。
「校長はそれを知って、利用してきたの」
沢泉さんは自らの細い腕を固く抱きしめるように組み、苦々しい表情で吐き捨てるように言いました。
「あの男は、とうじが入院している病院の理事会に太いパイプを持っている。そして、とうじの治療に必要な特殊な医療機器や新薬の優先供給権を、自らの権力で握りつぶすことができるのよ。『キミが素直に従っている限り、弟くんには最先端の治療を受けさせてやる』……そうやって、私の弱みを完全に握っているの」
「そんな……! 家族の命を盾にして脅すなんて……!?」
校長という男の底知れぬ卑劣さと醜悪さに、私の背筋にも冷たい寒気が駆け抜けます。
自らの名声と研究成果のために、生徒の幼い家族の命まで人質にして鎖で繋ぐ。それが、あの学校の頂点に立つ男の醜い正体だったのです。
「…ハァ…………ハァ……ッ……ごめ、ん……っ! シュシュ、タン……っ、私……私が……ッ……!」
すると突然、テーブルに突っ伏して押し殺すように痛々しい嗚咽を漏らしていたくれあさんの身体に、異変が訪れました。
「マホッ!?」
「マホマ!!」
マホイップたちが悲鳴のような声を上げました。
くれあさんは激しい過呼吸の発作を起こし、苦しそうに咳込み始めたのです。
「う……っ、うあぁ……っ、はぁっ、はぁっ……!」
「っ!! くれあ!?……2人とも、ちょっと待って……! 伯母さん!!」
先ほどまで冷静沈着に話していた沢泉さんが、見たこともないほど顔を蒼白にし、奥の厨房に向かって叫びました。
「くれあ!? どうしたのっ!?」
事態を察した厨房の奥から、慌てた様子でエプロン姿の女性――くれあさんのお母様が飛び出してきました。
その表情には、過去に幾度もこの恐ろしい事態を経験してきた者特有の、痛々しい焦燥と覚悟が混ざり合っていました。
「くれあ、大丈夫よ。深呼吸して……ゆっくり息を吐いて……吸うことより、吐くことを意識するのよ。……あれ、持ってる?」
くれあさんは小さく頷くと、震える手でエプロンのポケットの中から小さな吸入薬の器を取り出し、必死に口に当てて薬剤を吸い込みました。
お母様は手慣れた手つきでくれあさんの背中を優しく、一定のリズムで叩き、さすり続けました。
「はぁ……はぁ……大丈夫……。もう……大丈夫だから……」
「奥へ行きましょう。少し横になりなさい」
苦しげな呼吸が、ほんの少しずつ落ち着きを取り戻していくのを確認すると、お母様はくれあさんの身体を支え、優しく奥の居住スペースへと誘導していきました。
ペギタンくんと、マホイップ2匹もついて行きました。
沢泉さんは店内を見回し、何事かと不安そうにこちらを見ていた他のお客様に向かって、「お騒がせいたしました。もう大丈夫ですので、ごゆっくりお過ごしください」と深々と頭を下げて回りました。
過呼吸…。フラッシュバックでしょうか…。
過去の惨劇を思い出させてしまったことに対する激しい申し訳なさが、私の胸を痛く締め付けます。
「……ごめんなさいね、話の途中で…」
テーブルに戻ってきた沢泉さんは、痛ましさを隠すように努めて冷静な声を装いました。
「あの…、お姉さんは、もしかして……ご病気なんですか……?」
しずくさんが不安そうに瞳を揺らし、膝の上のヨーテリーをそっと抱きしめながら尋ねました。
「……えぇ。去年からね……。シュシュタンを失ったショックで、くれあの心と身体は限界を迎えてしまって……そこから重度の自律神経障害と免疫系の難病を併発してしまったの…」
沢泉さんは伏せ目がちに視線を落とし、掠れた声で呟きました。
「体調がいい日は、今日のように店に立って、大好きなケーキを作る仕事をしているけれど……。お医者さんからは、持ってあと……4年くらいだと宣告されているわ」
「4年……!?」
しずくさんが息を飲み、絶句しました。私もまた、突きつけられたあまりにも残酷な現実の衝撃に、言葉を完全に失いました。
あんなに温かい笑顔で、美味しいエクレアと紅茶を出してくれた、前世の私と恐らく変わらない年齢の女性。
その命が、アカデミーで受けた精神的・身体的な苦痛、5年間積み重なった過度のストレスによって蝕まれ、カウントダウンを刻んでいるというのですか……。
「……シュシュタンを失ったあの事件以来、くれあの心と体は壊れてしまったの。精神的なストレスが重なると、心臓に強い負担がかかって激しい発作を起こすようになった…。あの子を死なせてしまったという後悔が、今も彼女の命を少しずつ削り続けているのよ」
沢泉さんの瞳に、揺るぎない氷の意志が宿ります。
「倉田に奪われたのは、ジグザグマの命だけじゃない。くれあの夢も、未来も、健康な体も……すべて倉田という男に踏みにじられ奪われたの。……だから私は、絶対にあの男を許さない…!」
テーブルの上の冷え切った紅茶が、室内灯の光を反射して寂しげに揺れていました。
倉田校長という存在の真の恐怖と、彼が背負わせた傷痕の深さを、私達は嫌というほど思い知らされたのです。
「生徒会長の権限を手に入れ、あの男の悪行の証拠をすべて白日の下に晒し出し、社会的に、そして法的に二度と立ち上がれないところまで叩き潰してやるの…! とうじのためにも…! くれあのためにもね…!」
その言葉には、静かでありながらも、命を懸けた復讐の執念が恐ろしいほどの熱量で宿っていました。