中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
昨日の衝撃的なプリントの配布から明けた、土曜日の昼過ぎ。
私は自室の机に向かい、ただ黙って事態を見守ることしかできない自分の無力さとやるせなさを胸の奥に抱えながら、そっと一冊の本を開いていました。
3歳の頃からずっと大切に愛用している、分厚く、だいぶ角が擦り切れてきた『ポケモン図鑑』。
部屋の隅で、イワンコとピチューが、コロコロと転がり合いながら、楽しそうにじゃれ合って遊んでいます。
2匹の無邪気な鳴き声だけが、重苦しく沈みがちな私の心をわずかに救ってくれていました。
図鑑のページをパラパラと捲り、なんとなく目に留まったページで止めます。
そこに描かれていたのは、マホミルとマホイップのイラストと解説でした。
一口にマホイップと言っても、練られたクリームの種類や、身につけている「あめざいく」の形によって、本当にたくさんの姿や種類が存在しています。
眺めているだけで面白く、ポケモンの生態の奥深さに感心しますが、ふとパティスリーチュチュで出会った、くれあさんの姿が脳裏に浮かびました。
あの時、くれあさんの両肩に乗っていた2匹のマホイップは、本当に珍しい姿をしていましたね。
頭に飾られていたのは、図鑑に載っているようないちごやハートのあめざいくではなく、こんがりと香ばしく焼き上げられた小さなエクレア。
あんな愛らしい姿のマホイップを見るのは初めてで、とても驚いたのを覚えています。
「くれあさん……」
ぽつりと呟いた私は、吸い寄せられるように図鑑の別のページを捲りました。
ページに描かれているのは、ジグザグマとマッスグマのイラスト。
ジグザグマについての説明文には、こう記されてます。
『あちこちジグザグに歩き回る。好奇心が旺盛で、宝物を見つけるのが得意なポケモン。目に映る色んな物に興味を持つ習性がある』
シュシュタンくんもきっと、生前はそうやって、大好きなくれあさんの周りを、ジグザグと元気に走り回り、いろんなものを見つけては、嬉しそうに寄り添っていたのでしょうか。
過酷な狂気に侵される前の、温かな思い出の光景を想像し、胸の奥がキュッと締め付けられるような切なさに包まれました。
その時、部屋のドアがノックされました。
「はい?」
ドアが開くと、七海さんがひょっこりと顔を覗かせました。
「せつ菜。今からお買い物に行くんだけど、手伝ってくれないかしら? 今日は誠一さんもジムの仕事、早く切り上げて帰ってくるみたいだし、晩ご飯を早く準備しないとなの!」
「あ、はい。 もちろんいいですよ」
部屋のどんよりとした空気を振り払うように、私は図鑑をそっと閉じ、二つ返事で立ち上がりました。
* * *
「七海さん、結構買い込みましたね?」
両手いっぱいに重たい買い物袋を抱えた私は、隣を歩く七海さんを見上げて苦笑いしました。
「ふふ、特売で色々安かったんだもん♪ 大満足だわ」
ご機嫌な七海さんと歩いていると、向かいの歩道から見覚えのある2人連れが歩いてくるのが見えました。
「あら? 優木さん、せつ菜ちゃん」
「あ、桜坂さん! しずくちゃんも!」
ばったり遭遇したのは、しずくさんと、しずくさんのお母様である由美さんでした。しずくさんの腕の中には、いつものように、ちょこんとヨーテリーが収まっています。
「せつ菜ちゃん、こんにちは」
「キャン!」
「しずくさん、ヨーテリー、こんにちは!」
思いがけない出会いに顔をほころばせると、七海さんと由美さんは、すぐに主婦同士の楽しげな世間話に花を咲かせ始めました。
「せっかくお会いできたんだし、立ち話もなんですから、どこかでお茶でもしていきません?」
「あら、いいわね! ちょうど喉が渇いていたの」
弾んだ声で提案する七海さんに、私は内心で「えっ…?」と目を丸くしました。
いや…、あの…、もしもし、七海さん?
今から早く帰って、晩ご飯の準備をしないといけないのではなかったのですか?
誠一さんがジムの仕事を終えて、先に帰って来てしまいますよ?
私としずくさんは顔を見合わせ、思わず困ったような苦笑いを浮かべました。
けれど、一度盛り上がった七海さんたちの足を止めることなどできるはずもなく、私たちは大人しく後ろをついていくしかありませんでした。
ちょうど立ち止まった場所が、パティスリーチュチュのすぐ近くの通りだったということもあり、七海さんたちは、迷わずあの可愛らしい洋菓子店へと足を向けました。
お店のガラス扉に手をかけようとした、まさにその瞬間。
扉の向こうから、オルゴールの音色が聞こえてきました。
「ん……? 何でしょう……?」
「綺麗な音…」
とても穏やかで、胸に染み渡る優しい音色…。
気になった私としずくさんは、そっとお店の小窓から中を覗き込みました。
そこには、カウンター越しに小さなオルゴールを置き、その音色に、静かに耳を澄ませているくれあさんの姿がありました。
その両肩には、あのエクレアを乗せた2匹のマホイップがちょこんと乗っていて、音楽に合わせて、体を揺らしています。
ですが……、何でしょうか? あの表情は……。
オルゴールを見つめるくれあさんは、とても優しく、穏やかな笑みを浮かべていますが、その瞳の奥には、今にも消えてしまいそうな、深い寂しさと悲痛な面影が漂っていました。
私としずくさんが、その表情に胸を痛め、気にして立ち尽くしていた時、事情を何も知らない七海さんが、お構いなしに勢いよく扉を開けてしまいました。
カランコロン♪と涼やかなベルの音が、店内に響き渡ります。
その音にハッとしたくれあさんが顔を上げ、オルゴールを閉めました。
「あ……! いらっしゃいませ! あら?」
私としずくさんは、「こんにちは」とペコリと頭を下げました。
「あなたたち、先週来たちゆちゃんの後輩ちゃんよね? この間、帰るとき挨拶できなくてごめんね」
くれあさんは申し訳なさそうに、ふわりと柔らかく微笑みました。
無理もありません。
先週は突然の発作で、奥のバックヤードへ運ばれてしまい、その後、私としずくさんは、沢泉さんと対立してしまい、彼女に挨拶もできないまま、店を飛び出すように帰ってしまったのですから。
「いいえ、こちらこそ。 あの…今日は、お身体よろしいんですか?」
心配になって尋ねる私に、くれあさんは胸元に手を当て、明るく頷いてみせました。
「えぇ、今日は体も調子がいいの♪ みんなで来てくれて嬉しいわ。どうぞ、ゆっくりしていってね」
くれあさんの変わらない優しさと、温かな笑顔で、私の胸の奥に溜まっていた重苦しい感情が、ほんの少しだけ解きほぐされていくのを感じます。
テーブル席につき、七海さんと、由美さんは、名物のエクレアと紅茶を注文すると、早速再び、主婦同士の雑談の花を咲かせ始めました。
私としずくさんは、そっと席を立ち、カウンター越しに見える厨房の様子を、少し離れた位置で、こっそり見学してました。
しずくさんにしっかりと抱かれているヨーテリーは、厨房から漂ってくるカスタードとバニラの甘い匂いに反応して、鼻先をひくひくと可愛らしく動かしながら、 、嬉しそうに小さな尻尾を振っています。
「ふふっ、ヨーテリーも甘い匂いに夢中ですね」
「うん、すごく美味しそうだもんね」
清潔なステンレスの作業台の上で、くれあさんは迷いのない完璧で滑らかな手つきで作業を進めていました。
大きなボウルの中でバターと薄力粉、卵が手際よく混ぜ合わされ、滑らかな黄金色の生地へと生まれ変わっていく様子は、まさに流れるような芸術のようでした。
練り上げられた生地は、正確な手つきで天板へと絞り出され、適切な温度に保たれた大型オーブンへと吸い込まれていきます。
しばらくすると、生地がふっくらと膨らんでいくのが見えました。
焼き上がりの合図とともに、オーブンの扉が開かれると、香ばしい濃厚な香りが店内いっぱいに広がります。
取り出されたシュー生地は、膨らみが均一でどこまでも美しく、表面には香ばしい狐色の焼き色が完璧なグラデーションを描いていました。
「すごいですね。迷いが一切なくて、本当に綺麗な手さばきです」
「うん。本当に魔法みたい…!」
しずくさんも目を輝かせ、吸い込まれるように見つめています。
生地が冷めるのを待つ間に、くれあさんは素早く絞り袋を手に取りました。
手首のしなやかなスナップだけで、焼き上がった生地の底に開けられた小さな穴へと、溢れんばかりの濃厚なクリームが注ぎ込まれていきます。
自家製のバニラビーンズが贅沢に躍るカスタードと、ふんわりと泡立てられたホイップクリームを、絶妙な比率で合わせたダブルクリーム。
その無駄のない洗練された動きには、彼女がこれまで、このお店で積み重ねてきた長年の経験と、お菓子づくりへの情熱がすべて詰まっているかのようでした。
そして、何よりも私たちの心を強く打ったのは、あの2匹のマホイップたちでした。
くれあさんがクリームを詰める作業を進めるのと、完全に呼吸を合わせるようにして、マホイップたちは「マホ!」と愛らしい声を上げながら、くるりと一回転してみせます。
自分たちの体から生み出される、甘く芳醇な極上のクリームを絶妙な量で絞り出し、くれあさんの手元へと差し出していくのです。
エクレアの表面を美しくコーティングしていく艶やかなチョコレートの光沢。
そしてその上に、繊細にあしらわれていくマホイップのクリームのデコレーションを、2匹は完璧な連携で手助けしていました。
くれあさんが言葉を発するよりも早く、次に欲しいクリームの固さを察知し、自らの手で添えていくのです。
「マホ♪」
「マホマホ♪」
「うん。ありがとう、マホイップ。助かるわ」
くれあさんが穏やかに微笑みかけ、優しく2匹の頭を撫でると、マホイップたちは満足そうに、体をゆらゆらと揺らしました。
まさに言葉を超えた絆で結ばれた、素晴らしい連係プレイ。
プロの職人技と、心を通わせ合うパートナーポケモンが成せる業に、私たちはすっかり圧倒され、時間を忘れて目を奪われていました。
こうしてお店に立ち、ポケモンと一緒に訪れた人々に、幸せと笑顔を届けるためのお菓子を作り続けている。
その姿を見ていると、余命宣告を受けているとは、とても信じられないほど、彼女がこのエクレア作りを心から愛し、楽しんでいるのが伝わってきます。
命の限界という恐ろしい現実を突きつけられながらも、彼女は今、目の前にある「誰かを幸せにするための時間」を全力で生きている。
それは、病に屈するのではなく、最後まで人間としての誇りと愛情を持ち続けるという、彼女なりの強い戦い方なのかもしれません。
「本当にお上手ですね。くれあさんのお菓子は、見ているだけで幸せな気持ちになります」
私が我慢できずにそう声をかけると、くれあさんはこちらを振り返って、照れたように微笑みました。
「ふふっ、ありがとう、せつ菜ちゃん。……私ね、お菓子を作る時間が…、そして私の作ったお菓子を食べた人が『美味しい』って笑顔になってくれる瞬間が、世界で一番大好きなの。この子たちと一緒にこうして作業台に立っていると、どんなに苦しいことだって、全部忘れて、胸の中が温かい光のきらめきでいっぱいになるの」
そう語るくれあさんの瞳には、一切の迷いもない、確かな誇りと深い愛が宿っていました。
出来上がったばかりのエクレアたちを、彼女は一つ一つ丁寧に、カウンターのところにあるショーケースへ並べていきます。
ガラス越しに美しく並んだお菓子たちは、まるで小さな宝石のようにキラキラと輝いていました。
ふと、私の視線は、カウンターの片隅にポツンと置かれたままの、小さな木製のオルゴールへと向かいました。
先ほどまでくれあさんが愛おしそうに耳を澄ませていた、あの優しい音色を奏でるオルゴール。
使い込まれたケースと、ケースの周りについてる装飾をじっと見つめていると……。
「ねぇ、もっと近くで、作るところ見てみる? 今からあなたたちのお母さんたちが、注文したエクレアを作るから」
くれあさんが、ふわりと優しく微笑みながら、私たちに声をかけてくれました。
「えっ? いいんですか?」
しずくさんがパッと顔を輝かせます。
「えぇ、もちろん。そんなに遠くから遠慮して見なくても大丈夫だから。 おいで♡」
くれあさんは、快く厨房の中へと招き入れてくれましたが、私は胸の奥で、ほんの少しだけ申し訳ない気持ちになりました。
あのオルゴールを不躾に視線を注いでしまった私に対し、「あまりオルゴールには触らないでね」と、優しく窘められた気がして、自分の配慮に欠けた振る舞いを、心の中で密かに反省しました。
「失礼します」
くれあさんの温かなお言葉に甘えて、足を踏み入れたプロの厨房の中は、先ほど焼き上がった生地の香りと、マホイップたちが作り出す甘い生クリームの香りが満ちていて、鼻をくすぐる幸福感に胸がいっぱいになりました。
「もしよかったら、少し手伝ってみる? 簡単なデコレーションくらいなら、一緒にできるわよ」
くれあさんが楽しそうに提案すると、隣にいたしずくさんの瞳が、まるで宝物を見つけた子供のようにキラキラと輝き出しました。
「本当ですか!? ぜひ、やってみたいです!」
しずくさんは、こうしたクリエイティブで繊細な作業が大得意ですからね。
私にヨーテリーを預けて、嬉しそうにエプロンを借りに行きました。
「あ…、私は遠慮しておきます。 しずくさんのお手伝いを、見学させてもらうだけで十分ですから」
くれあさんは「あら、そうなの?」と不思議そうにしていましたが、私には、どうしてもお手伝いを引き受けられない理由があったのです。
だって、私は……!
脳裏に過ったのは、前世の記憶。
中川菜々として生きていた頃の思い出。
実を言うと、前世の私は、恐ろしいほどに、料理のセンスが壊滅的でした…。
その……。
自分では、レシピ通りに正しく作っているつもりなのに、なぜか火力が強すぎたり、分量を豪快に間違えたりして、気づけば勢い余って、真っ黒焦げになった謎の物体を作り出してしまうのが、日常茶飯事だったのです…。
あの時、歩夢さんが、「菜々ちゃんは、危ないから下がってて! 火も包丁も使っちゃダメ!」と本気で怒り、私を台所から遠ざけていた記憶が、今でも鮮明に蘇ってきます。
あの歩夢さんに、本気で怒られるほどの破壊力だったんですから、こんな素敵で、お洒落なお店の厨房を、私のこの手で、めちゃくちゃにするわけにはいきませんからね…。
自分の不器用さと黒歴史を思い出しながら私は、しずくさんが手際よくクリームを絞っていく様子を、大人しく少し離れた安全な場所から見守ることにしました。
生まれ変わっても、手先が不器用なところは変わらないなんて、どうしてですかね…。
しずくさんとくれあさんが、楽し気にクリームを絞ってる光景を見て、羨ましさを感じつつ、この時間だけは、あのスクールを包む殺伐とした空気や、沢泉さんとの対立といった現実を、ほんの少しだけ忘れさせてくれる、穏やかで温かな時間が流れました。
* * *
「お母さん、七海さん、お待たせしました! エクレアです!」
厨房から嬉しそうな声を響かせながら、しずくさんがエクレアを乗せたトレイを両手で抱え、七海さんたちのテーブルへ運んで行きました。
「あら、しずくが持ってきたの?」
由美さんが少し驚いたように目を丸くし、娘の姿を微笑ましく見つめました。
「ちょっとだけ手伝わせてもらったの」
しずくさんは少し照れくさそうに頬を緩めながら、誇らしげに胸を張りました。
その手際の見事さは、遠目で見守っていた私も思わず感嘆のため息をついてしまったほどです。
エクレアの上に絞られた生クリームは、まるでプロの職人が施したかのように綺麗でした。
「まあ! しずくちゃんがデコレーションをしてくれたの? すごいわねぇ、売っているお店の物みたいに綺麗だわ!」
七海さんが目を輝かせながら拍手を送ると、後ろから紅茶を乗せたトレイを持ったくれあさんが、ふわりと柔らかい笑みを浮かべて歩み寄ってきました。
「ホントしずくちゃんは、筋がよかったですよ。クリームの絞り方なんて、初めてとは思えないくらい丁寧で驚いちゃった♪」
「そんな…。 くれあさんが優しく教えてくれたおかげですよ」
謙遜しながらも、しずくさんはとても嬉しそうです。
私も、イワンコとピチューをモンスターボールから繰り出し、足元にポケモンたち用の器を置いて、みんなで一緒にいただくことにしました。
イワンコ、ピチュー、ヨーテリーは、くれあさんが用意してくれたポケモン用の甘いおやつを美味しそうに食べ、嬉しそうに尻尾を揺らしてました。
「美味しい! しっとりとした生地と、このクリームの口どけが最高ね!」
七海さんが一口食べた瞬間に頬をゆるませ、感嘆の声を上げました。
「えぇ、しずくが仕上げてくれたと思うと、余計に美味しく感じるわ」
由美さんも嬉しそうに紅茶を一口含み、愛娘の手仕事に目を細めています。
2人のお母さんたちの弾んだ声と、嬉しそうにはにかむしずくさん。
「それではごゆっくりどうぞ」
「マホ~」
「マホマホ」
くれあさんは優しくお辞儀をし、両肩に乗った2匹のマホイップも、小さな手を振ってお辞儀をしました。
私も一口、エクレアを頬張り、その極上の美味しさに頬をほころばせながらも、ふとカウンターの奥へと戻っていくくれあさんの背中を見つめました。
大切なパートナーであるシュシュタンくんを失った過去を抱えながらも、こうして人々に甘い幸せと温かな笑顔を届け続けるくれあさんの優しさが、胸の奥深くにじんわりと染み渡っていくのを感じました。