中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
「ごちそうさまでした」
「とっても美味しかったです」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
七海さんと由美さんが、お会計を済ませ、お店を出ようとしていましたが、私としずくさんは、イワンコたちをモンスターボールに戻してから、そっと顔を見合わせました。
お互いに言葉を交わさずとも、目線だけで同じ気持ちを抱いていることが痛いほど伝わってきます。
先週からずっと喉の奥に引っかかっていた胸騒ぎと、先ほどくれあさんがオルゴールを見つめていたあの表情……。
このまま何も知らぬふりをして、帰るわけにはいきませんでした。
「あの、七海さん。先に帰っててください。さっきの半分の荷物は、ちゃんと後で持って帰りますから」
「あら? どうして?せつ菜」
七海さんが少し不思議そうに足を止め、手に持った買い物袋を持ち直しながら、振り返りました。
「ちょっとだけ、しずくさんとお店の周りを散歩してから帰りたいんです」
「えぇ? 荷物重いのに大丈夫? それに誠一さん、もうすぐ帰ってきちゃうわよ?」
「大丈夫です! 走って追いつきますから!」
隣に立つしずくさんも、由美さんに向かって小さく頷き、まっすぐな瞳を向けました。
「お母さん、私もせつ菜ちゃんと少しだけお話ししてから帰るね。すぐ追いつくから!」
「そう? じゃ、気をつけて帰ってくるのよ。寒くなってきたんだから長居しちゃダメよ」
「は~い!」
2人が店を出ていくのを見送ってから、私としずくさんは意を決して、カウンターの奥にいるくれあさんに向き直りました。
作業の手を止め、グラスを拭いていたくれあさんが、不思議そうに首をかしげてきます。
「どうしたの? 2人とも、何か忘れ物?」
「あの…」
私は一歩、カウンターへと歩み寄りました。
「そのオルゴール、とても素敵な音色でしたね。先ほど入る前、外から少しだけ聴こえてきまして…」
「あぁ~…これ?」
私の問いかけに、くれあさんはカウンターの上の小さな木製のオルゴールに、愛おしそうな、そしてどこか哀愁の漂う視線を落としました。
「私がせつ菜ちゃん、しずくちゃんくらいの頃から、ずっと持ってる宝物なの」
くれあさんは優しくふわりと微笑みながら、レジの席に座り、小さな金属のネジをカチカチと静かに巻き、オルゴールを動かしました。
小さな歯車が噛み合い、先ほど聞こえた優しい音色が、静まり返った店内に再び響き渡ります。
「綺麗…♪」
「実はね…これ、シュシュタンの大好きな曲だったの」
くれあさんは視線を少し遠くへ向け、愛おしい思い出を語り始めました。
「シュシュタンくんの?」
私が問い返すと、くれあさんは静かに頷き、細い指先でそっとオルゴールの表面を撫でました。
「えぇ。アカデミーでどんなに辛いことがあっても、家に帰ってこれを鳴らすとね、シュシュタンは、お部屋の端っこから、私のほうへ駆け寄ってきてくれたの。そして私の膝の上に、ピョンと飛び乗って、丸くなって気持ちよさそうに寝てくれたわ」
その言葉を聴いた瞬間、先ほど図鑑で見たジグザグマのページを思い出しました。
あちこちジグザグに進み、体を揺らしながら、大好きなトレーナーの元へと嬉しそうに駆け寄っていくあの愛らしい姿。
くれあさんの脳裏は、今でも鮮明に焼き付いてるのでしょう。
過酷な実験や暴力に晒される前の、純粋で愛らしかったパートナーの姿が。
ジグザグマ特有の、短い足でタタタッと床を鳴らしながら、走り寄ってくる足音が、彼女の耳に、今もはっきりと聴こえているのかもしれません。
「なんかね…、こうしてこの音色を聞いていると、今でもシュシュタンが、私のそばにいて、私の膝の上で温もりを伝えてくれているような気がして……」
音色に耳を澄ませながら話すくれあさんの瞳に、うっすらと光る透明な涙が浮かび上がっていきました。
後悔してもしきれない。
謝っても謝りきれない。
どれほど涙を流しても、あの強制限界突破システムによって失われたシュシュタンくんの命が戻ってくることはありません。
自らの手で、かけがえのないパートナーを追い詰めてしまったという消えない罪悪感は、どれほど時が流れても、どれほど甘いお菓子で、街の人々やポケモンを笑顔にしようとも、彼女の心を蝕んでるんです。
「くれあさん……」
しずくさんが胸を痛めるように両手を重ね、涙ぐむくれあさんを見つめています。
両肩に乗った2匹のマホイップたちも、寄り添うように「マホ……」「マホマホ……」と低く身を寄せ、小さな手でくれあさんの頬を撫でようとしていました。
オルゴールのネジがゆっくりと緩み、切ないメロディが最後の余韻を残して静かに止まります。
店内に戻ってきた静寂の中で、私は握りしめた拳にぐっと力を込めました。
自分の正義のために、こんなにも苦しみ抜いてきたくれあさんの過去すらも、利用しようとしている沢泉さんの姿が、鮮明に浮かび上がってきたからです。
こんな悲劇を、二度と繰り返させてはいけない。
誰かの大切なパートナーが、二度とこんな風に引き裂かれてはいけない。
くれあさんの流す涙が、私の胸の奥にある決意の炎を、一層強く、激しく燃やし上げていくのを感じていました。
涙をぬぐったくれあさんが、ふと店内を見回し、どこか寂しげな表情でぽつりと呟きました。
「そういえば……、ちゆちゃん、あのスクールの生徒会長に、来年度からなるのよね?」
「……っ!」
その名が彼女の口から出た瞬間、私としずくさんの身体がピクッと強張りました。
あんな公約を掲げ、スクールの生徒たちとポケモンを己の正義のための踏み絵にしようとしている沢泉ちゆ。
本当の狂気に突き進もうとしている従妹の姿を、くれあさんはまだ何も知らないのかもしれません。
私たちは静まり返る店内の中、喉の奥に固まった言葉をただ苦しく飲み込むことしかできませんでした。
「もしよければ、あの子を……、ちゆちゃんを支えてあげてね?」
「……え?」
思わず声を漏らした私に、くれあさんは胸元で優しく手を組み、絞り出すように言葉を重ねていきます。
「彼女、弟のとうじくんのことも守ろうとしてるし、私の重荷まで背負わせちゃってるみたいで……。 あの子、本当はすごく優しくて、責任感が強すぎる子なの。 だから……もしあの子が、なにか危ないことしようとしてるなら、止めてあげてほしいの」
「……っ!」
言葉が胸に鋭く突き刺さり、一瞬息が詰まりそうになりました。
あまりにも真っ直ぐで、温かすぎるくれあさんの願い。
弟のとうじくんのこと、そして大切な従姉のくれあさんの絶望と、亡くなったシュシュタンくんの無念――。
沢泉さんが背負っているものの重さ、彼女が抱える復讐の原動力が、このくれあさんの存在そのものであること、そしてその想いが歪んで、あの過酷な狂気へと変貌してしまっていること……。
すべてを知っている私たちだからこそ、くれあさんのその優しい言葉が、逆に辛かったです。
沢泉さんは、自分の描く「正義」のために、スクール全体を巻き込み、解体を始めようとしています。
ですが、その根本にあるのは、大切な家族を守りたいという愛と責任感なんですよね。
「……くれあさん」
しずくさんが、ギュッと拳を握りしめながら一歩前に出ました。
その瞳には、先ほどまでの不安を乗り越えた確かな決意の光が宿っています。
「私、沢泉先輩のこと、ちゃんと見ています。……絶対、放っておいたりしませんから」
「しずくさん……」
私も深く息を吸い込み、くれあさんの瞳をまっすぐに見つめ返しました。
「はい。沢泉さんが間違った道へ進もうとするなら…、自分や誰かを傷つけるような過ちを犯しそうになったら…、私たちが全力で彼女を止めます!」
くれあさんは一瞬驚いたように目を丸くしましたが、やがてふわりと温かな微笑みを浮かべました。
「ありがとう、2人とも。ちゆちゃんに、頼もしい後輩ちゃんたちがいてくれて、よかったわ」
* * *
私たちは、くれあさんに深々とお辞儀をし、店を後にしました。
カランコロンと涼やかなベルの音を残して、冬の冷たい風が吹き抜ける街頭へ足を踏み出した瞬間、私としずくさんは顔を見合わせました。
沢泉さんが仕掛けた冷酷な公約実行と、全校生徒に配られる悪魔の申請書。
けれど、彼女を単なる敵として切り捨てるのではなく、この狂気の連鎖を止めるために立ち向かう。
「……せつ菜ちゃん」
ぽつりと、しずくさんが静かな声を漏らしました。
「沢泉先輩、本当にくれあさんたちのために戦ってるんだね…。でも……だからって……」
「えぇ…。理由がどうあれ、やり方が間違ってるんです。 誰かを守るためだからと言って、関係のないポケモンや、無知な生徒たちを危険な実験台にしていい理由には絶対になりません。 そんなものは正義じゃありません…!」
どれほど哀しい過去を背負っていようと、どれほど身を切るような愛が動機であろうと、他者の命を踏みにじる権利など誰にもないのです。
「月曜日から本格的に申請書の受付が始まります」
「うん……」
「沢泉さんがどれほど冷徹な作戦を実行しようと、あの悪魔のシステムで犠牲になるポケモンを、一匹でも多く救うために、私たちは私たちにできることをやりましょう!」
「うん! 私も、せつ菜ちゃんと一緒に戦うよ! もう逃げないって決めたから!」
しずくさんが力強く頷き、その瞳に固い決意の光を宿しました。
夕闇が迫る街並みの中、私たちはそれぞれの家へと向かって駆け出しました。
来たるべき月曜日の、選別に立ち向かうための、強い覚悟を胸に抱いて。