中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
「せつ菜ちゃん……」
「わかってます。しずくさん」
私たちは固く手を握り合い、冷たく張り詰めた空気の漂う廊下を踏みしめて、生徒会室の扉の前へ立ちました。
直前まで伊集院先輩の怒号が響いていたはずのその場所は、今は恐ろしいほどの静寂しています。
「失礼します…!」
ドアノブを強く掴み、勢いよく開け放った扉の先。
朝の光が差し込む部屋で、沢泉さんは、執務机の椅子に腰掛け、悠々自適に足を組んで座っていました。
整えられた髪、乱れのない制服、そして胸元に輝く生徒会のバッジが、朝日を反射して不吉なまでに煌めいています。
「そろそろ来る頃かと思ってたわ。……おはよう、優木さん、桜坂さん」
彼女の表情には、焦りも、動揺も、罪悪感すら見当たりません。
平然とした声に、私の血が逆流するような感覚を覚えました。
「ご自分が何をしたのか、本当にわかってるんですか!?」
私は胸の底から湧き上がる抑えきれない怒りを拳に込め、デスクへと一直線に詰め寄りました。激しい足音が室内に響き渡ります。
「昨日、何十匹ものポケモンたちが、呼吸困難と激痛による高熱で、救急搬送されたんですよ!? 現場のジョーイさんや、お医者さんたちの懸命な処置のおかげで、命は取り留めたから良かったものの、一歩間違えれば、あの子たちは命を落としていたかもしれません! 生徒たちだって、どれほど傷つき、パートナーの名を呼んで泣き叫んでいたことか…! 何でこんな残酷なことができるんですか!?」
私の叫びを、沢泉さんは退屈そうに受け流し、ゆっくりと逆の足へと組み替えました。
スカートの布地が擦れる微かな音が、あまりにも冷たく響きます。
「言ったでしょう? デバイスを使うかどうかの最終決定は、生徒一人一人が自由に決めることができる。 人間性と欲望次第だって。 私はただ、彼らに選択肢を与えただけよ」
「くれあさんと同じ悲劇を、無関係なポケモンたちが繰り返すところだったんですよ!!」
沢泉さんはふと、どこか可憐で、そして痛々しいほど冷ややかな笑みを口元に深めると、胸の前で両手をパチンと軽く叩いてみせました。
「ネタバラシ♪」
「っ……!?」
あまりにも軽薄で、あまりにも場違いなその動作に、私もしずくさんも息を呑みました。
「まず、私の弟を人質にしてる倉田から、正式にデバイスの管理・運用権限を譲り受けるため、選挙運動の段階で『デバイスを全校生徒へ行き渡らせる』という公約を私は出した。 そして、当選確実の出来レースを逆手に取り、全校生徒から、正々堂々選ばれた生徒会長として、この立場を勝ち取ってみせた。……ここまでは、あなたたちも知っているわよね?」
「……ええ」
「そしてね……、私たちは、こう考えたのよ」
「……私たち?」
沢泉さんの口から出たその言葉に、胸の奥で冷たい不吉な予感が走りました。
私の疑問を無視し、彼女は優雅に指を一本立てて、言葉を続けます。
「伊集院は、言うまでもなく倉田の完全なポチエナよ。 保身と上昇志向しかないあの男子は、新会長である私の出した公約を、自分の任期内の『最後の手柄』として、横取りしてくるんじゃないかって」
――っ!?
「案の定、あいつは、すぐに食いついてきたわ。 私が予定通り、倉田からデバイスの管理委託権限を譲り受けると、彼は引き継ぎ期間にかこつけて、早々に作業を開始したがったの。 自分の手でシステムを拡大させることが、卒業後のキャリアにつながると信じ切ってね♪」
沢泉さんの説明を聞いていたしずくさんが、青ざめた顔で両手で口元を覆いました。
「そんな…! じゃ最初から、今の生徒会長さんを、身代わりにして、今回の責任を、擦り付けたってことですか…!?」
「ご名答♪ さすが桜坂しずく!」
初日から、生徒会室前の廊下に並んでいたあの狂気じみた長蛇の列。
伊集院先輩が、どこか得意げな顔で申請書を受け取り、一枚一枚に朱色の受領印を押していたあの光景。
そのすべては、この静かな部屋で、冷酷に微笑む少女が描き上げたシナリオの上で、踊らされていた哀れな役に過ぎなかったのですね。
「なぜ伊集院先輩を、そこまで徹底的に追い詰めて利用したんですか? あなたの目的は、倉田校長の悪事を暴くこと。 相手は倉田校長だけだったのでは?」
私の問いかけに、沢泉さんの瞳の奥で、それまでの冷ややかな氷の表情が一変しました。
ギラリと、恐ろしいほどの憎悪の炎が揺らめいたのです。
「相手は倉田だけ…? 何を甘いことを言っているの? 優木せつ菜」
沢泉さんは、ゆっくりと立ち上がると、両手をデスクにつき、私を覗き込むように顔を近づけてきました。
「去年、私の親友のコリンクに、強制限界突破システムを装着させたのは、あいつと、当時私と親友の担任だった浜野先生なのよ」
「……!?」
絶句する私たちを見つめながら、沢泉さんは嘲笑うように細い息を吐き出しました。
「あいつらは最初から同罪なの。 倉田の言いなりで、立場のない生徒やそのパートナーを実験台にして捨て駒にしてきた病原菌。 だから排除したのよ。 私自身の手を汚さずにね。……でも、これで私の邪魔者は消えたわ」
冷酷な勝利宣言のようにそう言い放つ沢泉さんを見つめながら、私の頭の中では、彼女の言動に対する違和感が渦巻いていました。
やはり誠一さんが、懸念してたとおりでしたね。
「言いましたね? 沢泉さん…。 さっき、私『たち』と……」
「言ったけど? それが?」
ここ数日間の違和感が、一つの太い線となって脳裏に繋がっていきます。
「ここ最近、ずっと疑問だったんですよ。 5年生であるあなたがどれほど、そのような優秀な頭脳を持ってるとはいえ、ここまで隙のない罠を、一人で組み立てることなどできるのか」
「……」
「私は最初、伊集院先輩が、沢泉さんの復讐心を利用して煽って、事が済んだら見捨てるのではないか思っていました。 ですが、実際は違った」
横に立っていたしずくさんも一歩前へ踏み出し、震える声を振り絞ります。腕の中にいるヨーテリーも、部屋を満たす異様な圧迫感に怯えるように、低く小さな唸り声を漏らしていました。
「伊集院先輩は、ただのモブでしかなかったのですね…?」
「ならば、沢泉さんに知恵を授け、裏で糸を引いている人物が、ほかにいるということですね? 一体誰なんですか!?」
私の悲痛な問いかけに対して、沢泉さんは、まるで秘密の宝箱を隠す少女のように、悪戯が成功した幼い子供のような笑みを浮かべました。
「…………今は、秘密♡」
可憐に小首を傾げると、彼女は人差し指を唇に当て、クスッと愛らしくウインクしてみせました。
その態度のあまりの軽やかさが、かえって彼女の背後にある闇の底知れなさを不気味に際立たせています。
「答えるわけがないでしょう? 劇のクライマックスを迎える前に、ネタバレをしてしまうなんて、そんな野暮なことするわけないじゃない。 来月からは、いよいよ第2章が始まるんだから、乞うご期待! といったところかしら♪」
「冗談言ってる場合じゃありませんよ!!」
胸の中で弾けた激しい焦燥感から、私は思わず怒号を張り上げ、デスクを強く叩きました。
「沢泉さん、目を覚ましてください! あなたはご自分の意志で、完璧な復讐を進めているつもりかもしれませんが、その人は、あなたの復讐心を利用して、あなたを最も危険な崖っぷちに立たせているのかもしれません! あなたを言葉巧みに騙し、最終的にすべての罪を、先ほどのあなたのように擦り付けて、使い捨ての駒として利用している可能性だってあるんですよ!?」
一刻も早く、彼女をこの破滅へと続く狂気から引き戻さなければならない。
倉田校長という巨大な悪を倒すためとはいえ、こんな歪んだ方法で、自分自身を悪魔に染め上げ、誰かもわからない黒幕の手の上で踊らされているのだとしたら、そんなものは救いでも復讐でもありません。
ですが、私の血を吐くような必死の訴えに対しても、沢泉さんの笑みが消えることはありませんでした。
「……あるわけないでしょ?」
「えっ…?」
しずくさんの弱々しい声が漏れます。
「そんな可能性、あるわけないじゃない」
「ですから! そうやって! 大人に騙されて――!」
私がさらに言葉を重ねようとしたその時。
沢泉さんは、まるで私を愚かな存在だと哀れみ、慈しむかのような、どこまでも冷酷で美しい笑みを浮かべました。
「だって――
『共犯』なんだから」
「共犯……?」
しずくさんの震える声が、静まり返った生徒会室に虚しくこだましました。
「そう。 私とその人は、利害が完全に一致しているの。 倉田という悪を、そしてこのスクールを叩き潰し、根底から腐りきったこの狂気のシステムを完全に終わらせる。 そのために手を組んだ、絶対の絆で結ばれた共犯者。
私が騙されているわけでも、私が利用しているわけでもないわ。
私たちが、私たちの意志で、このシナリオを完成させたのよ」
利害の一致…。
倉田校長を心の底から憎み、叩き潰したいと願う人物。
そして、沢泉ちゆという強い復讐心を持った少女と、対等に渡り合い、この複雑な罠を構築できる頭脳と立場を持った存在……。
まさか……!?
絶対に考えたくない、最悪のシナリオが、私の頭の中で、急速に形作られていきました…!
「……っ!? 沢泉さん……! まさか、その人って……!」
私がその「名前」を口にしようとした瞬間――。
「おっとっと。喋りすぎたわね!」
沢泉さんは人差し指を唇の前でバツ印のように交差させ、悪戯っぽくクスリと笑いました。
「もう分かっちゃった?
……ふふっ、でも、仮に分かったところで、あなたたちは、私と手を組む気なんて、最初からさらさらないんでしょう?」
「当たり前です」
彼女の瞳からすべての甘さが消え去りました。
そこに宿るのは、絶対的な拒絶と、退くことのない確固たる意思。
「だったら…………
私たちの邪魔はしないでちょうだい!!!」
その叫びは、静まり返った生徒会室の壁に激しく反射し、私としずくさんの胸を突き破るかのように重く響き渡りました。
「…………行こ…、せつ菜ちゃん……」
しずくさんが私の袖を弱々しく引っ張りました。
彼女の瞳には涙が溜まっていましたが、これ以上ここにいても、言葉は届かないのだと、悟ったような顔をしていました。
「沢泉さん」
私は最後に、彼女に真っ直ぐな視線を向けました。
「私は、必ずあなたを止めてみせます。 倉田校長の悪事を許すつもりはありませんが、あなたがこれ以上ポケモンたちや誰かを傷つけることも、絶対に認めませんよ…!」
沢泉さんは聞き飽きた様子で、ただフッと鼻で嘲笑うような吐息を漏らしただけでした。
私としずくさんは背を向け、生徒会室の扉を開けて、廊下へと出ました。
私としずくさんは、肩を落とし、静まり返った校舎の中を言葉もなく歩き出しました。
ヨーテリーが、私たちの悔しさと悲しみを察するように、ぴたりとしずくさんに体を寄せてくれていました。
沢泉さんの背後にいる『共犯者』……。
私の予想通りの人物なのだとしたら、取り返しのつかない事態が起こる前に、何としても、どんな手を使ってでも、止めなければなりません…!!
もう私も、綺麗事だけで戦えなくなってしまいますね。
次回、やっと、4年生編終わります。