中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
幸いにも今回は、軽めのいつもの発作とのことでした。
搬送先のニジガサキ大学総合病院は、くれあさんのかかりつけの病院だったらしく、到着後、彼女の主治医の先生が、すぐに適切な対応をしてくださったので、事なきを得ました。
お医者さんの説明では、今日は念のため大事を取ってこのまま入院し、状態がこのまま落ち着けば、明日には退院できるとのことでした。
白いカーテンが、春のそよ風で優しく揺れる静かな病室。
点滴のチューブにつながれたベッドの上で、くれあさんは少しずつ元の顔色に戻りました。
「ごめんね、2人とも…。心配かけて…」
くれあさんは申し訳なさそうに長いまつ毛を伏せ、困ったような笑みを浮かべました。
「そんな、謝らないでください、くれあさん! ご無事で本当によかったです…!」
私はベッドのそばへ寄り、胸に手を当てながら安堵の深い息を漏らしました。
隣に立っていたしずくさんも、涙ぐませながら深く、何度も頷きます。
「本当に…本当によかったです…! 私たち、目の前でくれあさんが倒れて、どうしようかと……」
ベッドの脇では、しずくさんの肩から降りた2匹のマホイップたちが、心配そうにくれあさんの手に、小さな身体をすり寄せていました。
くれあさんは愛おしそうに、その甘い香りのする頭を優しく撫でてあげます。
「マホイップたちも、驚かせてごめんね」
くれあさんはふっと力無く微笑みました。ですが、その美しい瞳の奥には、いくら穏やかな言葉を紡いでも消し去ることのできない、深い哀愁と不吉な影が重く落ちていました。
ふと、病室の静けさの中に、規則的な心電図の電子音だけが静かに響きます。
彼女が公園で倒れた時、うわ言のように途切れ途切れに呟いていた言葉――。
『シュシュタン……ごめんね……』
あの時のパティスリーでの発作の時も、彼女は何度も何度も亡きパートナーに謝っていました。
何年経とうとも、どれほど日常を取り戻そうとも、一度心に負った大きな傷と、愛するパートナーを理不尽に奪われた惨劇の記憶は消えることはありません。強制限界突破システムの実験により、かけがえのない存在を失ってしまったあの日の後悔と痛みが、今もなお彼女の心身を侵食し続けているのです。
……だからこそ、沢泉さんは従姉のために。
自分のすべてを捨ててまで、あの復讐をしようとしてるんですから。
「……せつ菜ちゃん?」
私の暗い表情に気づいたのか、しずくさんが心配そうに私を見つめました。
「あっ、いえ! なんでもありません! くれあさん、今日はどうかゆっくり休んでくださいね。お買い物袋とマホイップたちは、お店のスタッフの方か、ご家族にお渡ししておきますから!」
「ありがとう」
「マホホ…」
「マホ…」
「行こう、マホイップ」
しずくさんが2匹に優しく声をかけると、マホイップたちは名残惜しそうにくれあさんを見つめ返してから、再びしずくさんの両肩へとちょん、と乗りました。
私たちは、くれあさんに一礼し、そっと病室のドアを閉めました。
静まり返った病院の長い廊下を歩きながら、私としずくさんはどちらからともなく足取りを緩めました。
「……くれあさんの発作、やっぱりスクールでの出来事が原因だよね……?」
「はい……。あんなに穏やかでお優しい方が、どうしてこんな理不尽な苦しみを背負い続けなければならないのでしょうか……?」
やり場のない憤りと悔しさに唇を噛み締めていた、その時――。
病院のエントランスに続く廊下の角から、一人の少女が現れました。
「っ!? あなたたち……!?」
沢泉さんでした。
弟くんのお見舞いに訪れていたのでしょうか?
私たちが、くれあさんのマホイップや、お買い物袋を抱えている姿を見て、彼女は瞳を大きく見開きました。
「沢泉さん…。 実は公園で、くれあさんが倒れて――!」
「っ!?」
私が事情を説明し終えるかどうかのうちに、沢泉さんは一瞬で顔色を変え、私たちを押しのけるようにして、くれあさんのかかりつけの診療科がある病棟へ向かって夢中で駆け出していきました。
「沢泉さん!?」
「待ってください!」
私としずくさんも、慌てて彼女の後を追いかけました。
「くれあ!」
荒い息を吐きながら、案内された病室のドアを激しく押し開けた沢泉さん。
ベッドの上で身体を起こしたくれあさんは、突然飛び込んできた彼女の姿に驚きつつも、すぐに柔らかい笑みを浮かべました。
「ちゆちゃん…? どうしたの? 今日とうじくんの見舞いの日だっけ?」
「どうしたのじゃないわよ! 公園で倒れたって、今、優木さんから聞いて……!」
取り乱した様子でベッドへ駆け寄る沢泉さんの顔は、スクールで見せるあの冷酷で隙のない生徒会長の面影はなく、ただ大好きな従姉の身を案じる、等身大の優しい少女の素顔がありました。
くれあさんはそっと彼女の手を包み込むように握り締めました。
「大丈夫よ。先生も、明日には帰れるって言ってくれたわ。……せつ菜ちゃんとしずくちゃんが、すぐに救急車を呼んで付き添ってくれたおかげよ」
「優木さんと…、桜坂さんが…?」
沢泉さんは信じられないといった様子でゆっくりと振り向き、病室の入口に佇む私たちを見つめました。
「そう……。 あなたたち…」
この間から私たちに向けられていた鋭いトゲは影を潜め、混乱と戸惑いが交錯する瞳で、彼女は掠れた声を絞り出しました。
「くれあを助けてくれたのは……、ありがとう……!」
予期せぬ言葉でした。
いつだって毅然として、私たちを突き放すような言葉ばかりを投げかけていた彼女の口から漏れた、あまりにも素直な感謝の言葉。
「お礼なんて結構です、沢泉さん。当たり前のことをしただけですから」
私が静かにそう応えると、沢泉さんはハッと我に返ったように唇を噛み締め、気まずそうに視線を落としました。
その後、私たちはこれ以上長居するのを避けようと、病室のドアを閉め、廊下へ出ました。
「くれあさんが無事で、本当に良かったですよ」
私が安堵を込めて呟くと、沢泉さんは小さく視線を落とし、白く細い指で握りしめた拳をふるふると震わせてました。
「……あの子の体は、もう何が引き金になって発作が起きるか分からないの…。あのアカデミーで奪われた健康も、平穏も、全部、倉田のせいよ…! だから私は……!」
その言葉の端々に、再び冷たい復讐の火種が燃え上がりそうになるのを、私は見逃しませんでした。
「先輩…。 くれあさんが一番望んでいるのは、きっと先輩が笑って過ごせることだと思います。 復讐のためにご自分を傷つけるなんて、そんなの、くれあさんも、弟くんも悲しみますよ…」
沢泉さんは、しずくさんの言葉に何も返事をしませんでした。
ただ、私が持っていたお買い物袋を無言でひったくり、しずくさんの肩に乗っているマホイップたちに「おいで」と低く声をかけ、自分の肩へと呼び寄せました。
マホイップたちは安心したように「マホ……」と柔らかく鳴きながら、沢泉さんの肩へとちょこんと移動していきます。
彼女は冷ややかな横顔を一切崩さないまま、袋の持ち手を強く握り締め直しました。
「あの……沢泉さん、もしよければ、私たちも弟くんに会ってみていいですか?」
「……っ。あなたたちを弟に会わせる理由なんて、どこにもないはずだけど?」
沢泉さんは信じられないものを見るような目で私を見つめ返し、再び警戒心を剥き出しにしました。
「沢泉さんたちが、どれほどの覚悟で戦おうとしているのか。そして、沢泉さんが守ろうとしている弟くんがどんな子なのか、知りたいんです。一方的に否定するのではなく、ちゃんと向き合いたいから……」
私の眼差しに毒気を抜かれたのか、沢泉さんは煩わしそうに小さく息を吐き捨てました。
「……好きにしなさい。ただし、変なことを言って、とうじを不安にさせたら、タダじゃおかないから」
そう言い残すと、沢泉さんは踵を返し、病院の奥へと歩き出しました。
私としずくさんは深く頷き合い、彼女の背中を追って足を進めました。
病棟の廊下を進み、エレベーターで上の階へと向かいます。
行き先はやはり小児科病棟でした。
壁には療養中の子供たちのために描かれた可愛らしいポケモンのイラストや、折り紙で作られた春の飾りが温かく展示されていました。
沢泉さんが足を止めたのは、日当たりの良い角部屋の前でした。「沢泉とうじ」と書かれた木製のプレートが掲げられています。
「とうじ、入るわよ」
沢泉さんが静かにドアをノックして押し開けると、窓際のベッドの上で、絵本を開いていた一人の少年が、パッと表情を輝かせました。
「お姉ちゃん! ……あっ、くれあお姉ちゃんのマホイップだ!」
そこにいたのは、沢泉さんによく似た愛らしい少年でした。
点滴のチューブが小さな腕に繋がれてはいるものの、声はハキハキとしており、私たちが想像していたよりもずっと元気そうな様子に、私としずくさんは胸を撫で下ろしました。
「とうじ、今日の体調はどう? 熱は上がっていない?」
「うん、今日もすごく調子いいよ! 亮子先生も『数値が安定してる』って褒めてくれたんだ!」
嬉しそうに語るとうじくんの表情を見ていると、彼がどれほどこの姉を慕い、頼りにしているかが痛いほど伝わってきます。
「んっ? お姉ちゃん、その人たちは?」
とうじくんの視線が、沢泉さんの後ろに立つ私としずくさんへと向けられました。
「私の通ってるスクールの後輩の、優木さんと桜坂さんよ。くれあがちょっと体調を崩して、運ばれた時に、付き添ってくれたみたいなの」
「えっ!? くれあお姉ちゃんが!? 大丈夫なの!?」
とうじくんが心配のあまりガタッと身を乗り出そうとしたため、沢泉さんは慌てて彼の肩を優しく押さえつけました。
「大丈夫よ、いつもの軽い発作だから。今は下の病室でぐっすり眠っているわ。明日には退院できるって」
「そっか~、よかったぁ……」
小さく安堵の息をつくとうじくんに、私は一歩前へ出ました。
「初めまして、とうじくん。私は優木せつ菜と申します。くれあさんは本当にすぐ元気になりますから、安心してください」
「私は、桜坂しずくっていうの。よろしくね、とうじくん」
「うん! せつ菜お姉ちゃん、しずくお姉ちゃん。くれあお姉ちゃんを助けてくれて、ありがとう!」
一切の曇りがない、屈託のない笑顔で感謝を述べる少年。
この幼い命と、守るべき眩い笑顔を繋ぎ止めるために、沢泉さんは、倉田校長という巨大で冷酷な悪の脅迫に耐え、孤独に復讐の牙を研ぎ続けてきたのだと改めて感じ、その壮絶な覚悟の原点が今、私たちの目の前にありました。
倉田校長が、この無力な少年の医療と命を盾にして沢泉さんを縛り付け、いいように利用しているという卑劣な事実。
とうじくんの無邪気な笑顔を見つめながら、私としずくさんの胸には、倉田校長への煮え切らない激しい怒りと、何としてでもこの姉弟と、くれあさんを何としてでも救い出さねばならないという強い使命感が、より一層深く、熱く刻み込まれていくのでした。
それから私たちは、とうじくんの病室で、小一時間ほど穏やかな時間を過ごしました。
最初は見知らぬ私たちに少し遠慮がちだったとうじくんも、しずくさんがモンスターボールからヨーテリーをくり出すと、その大きな目を見い開いて歓声を上げました。
「わぁ~…! ヨーテリーだ! 可愛い! 触ってもいい?」
「うん、いいよ。ヨーテリーはとっても優しくて賢い子だからね。そっと頭を撫でてあげてみて」
しずくさんが優しく促すと、とうじくんはおずおずと小さな手を伸ばし、ヨーテリーのフサフサとした温かい毛並みを撫でました。
ヨーテリーも気持ちよさそうに目を細め、「キャン!」と甘えるような短い声を上げて、とうじくんの小さな手の平に鼻先をすり寄せています。
病院の白いベッドの上で無邪気に目を輝かせ、自身の病気のことなどすっかり忘れたように笑うとうじくんの姿。
それを、沢泉さんは少し離れたところから、どこか遠い目で見つめていました。
その瞳には、とうじくんに対する深い愛おしさと、自分自身がこれから踏み込もうとしている修羅の道への果てしない苦悩が、複雑に交錯しているようでした。