中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
やがて、面会時間の終了を告げる院内アナウンスが静かに響き渡り、私たちは腰を上げました。
「とうじくん、今日は楽しかったよ。また遊びに来るからね」
しずくさんは、ヨーテリーを赤い光とともにモンスターボールの中へ戻し、とうじくんの頭を優しく撫でました。
「うん! しずくお姉ちゃん、せつ菜お姉ちゃん、バイバイ!」
「お大事になさってくださいね」
私が微笑んでそう声をかけると、沢泉さんはゆっくりとベッドへ近づき、とうじくんの毛布を優しく掛け直し、髪を撫でてあげました。
「とうじ、また明日来るから。大人しく寝てるのよ」
「うん!お姉ちゃんも、また明日ね!」
姉の温かい手の温もりに安心したように、とうじくんは小さく頷き、満面の笑みを浮かべました。
私たちは、病室のドアを静かに閉め、小児科病棟の長い廊下へと出ました。
夕暮れ時の病院は、窓から差し込むオレンジ色の斜光が、廊下の床を染め上げ、私たちの影を長く引き延ばしています。
エレベーターへ向かう歩く道すがら、沢泉さんは前を歩いたまま、低く冷ややかな声で口を開きました。
「……満足したかしら?」
「えっ…?」
しずくさんが唐突な言葉にピタリと足を止め、沢泉さんの背中を見つめ返します。
沢泉さんは足取りを止め、ゆっくりと振り返りました。
「とうじの顔を見て、彼の事情を知って、それであなたたちは私に、『可哀想な子、私たちが救ってあげます』とでも言うつもり? 私の背負っているものの重さを、理解できた気になった?……だとしたら…今更遅いのよ……!」
その瞳には、先ほど病室で見せていた温かく優しい姉としての眼差しは微塵もなく、再び、スクールで見せる氷のように冷徹な光が宿っていました。
両肩の2匹のマホイップも、彼女の張り詰めた空気を察して、不安そうに顔を伏せています。
「……そんなつもりはありません」
私は沢泉さんの目をまっすぐに見つめ返し、毅然とした声で宣言しました。
「私たちが目にしたのは、ただの可哀想な犠牲者ではありません。 大切な弟くんの笑顔と、命を守るために、巨大な悪に立ち向かおうとしている、一人の強いお姉ちゃんの姿です」
「…………」
「……ですが、その強さと覚悟が、自分自身を破滅させるための刃になっているのなら、私たちは、それを見過ごすわけにはいかない。ただそれだけです」
「……っ」
沢泉さんの眉が微かに跳ねました。彼女の瞳の奥で、一瞬だけ揺らぎが生じたのを、私は見逃しませんでした。
「ところで…、シンクロバンドについて、一つ気になることがあります」
私は一歩前へ踏み出しました。
「あの記者会見の場で、倉田校長は、『新生徒会を中心とした選抜クラスより順次、シンクロバンドの導入を開始する』と発言してましたね?」
「えぇ…そう言ってたわね。 それがどうしたの?」
「ということは、最初の試作機であり、最も未知で危険な初期型のシンクロバンドを一番最初に装着させられるのは、新生徒会長であるあなたと、パートナーのポッチャマのペギタンくんになるんじゃないですか?」
アローラのZリングの構造を悪用し、模倣したと思われる悪魔の装置。
トレーナーとポケモンの精神を強引に同調させ、身体と心に激しい負荷を強いる狂気のシステム。
その第一号の実戦テスト用犠牲者として選ばれるのは、他ならぬ彼女自身なのです。
「でしょうね…」
沢泉さんは私からの不吉な指摘に対しても、一切の動揺を見せず、冷淡にそう言い捨てました。
「あのシンクロバンドは、かつてくれあさんのシュシュタンくんの命を奪った、あの恐怖の首輪の進化形ですよ! それをペギタンくんに、装着させるつもりなのですか?」
私の悲痛な問いかけに対しても、沢泉さんは呆れたように小さく溜息を吐き、私たちを蔑むような嘲笑の視線を向けてきました。
「私があんな分かりやすい毒に、素直に手を出すと思っているの? ……そんなの、私に配給されるバンドの機能を無効化させればいいだけの話よ。成功しているように、倉田に見せかければいいでしょう?」
「はいぃ…?」
思わず拍子抜けしたような声が私の口から漏れました。
隣のしずくさんも目を見開いて絶句しています。
沢泉さんは腕を組み、さも当然のことのように説明を続けました。
「心配しなくても、私の使うシンクロバンドには、最初から何の負荷機能も仕込ませない。 見た目と出力のダミーデータだけを、モニターに送信される、ただの飾りにするわ。私とペギタンは、演技でシンクロしてるように見せればいいだけ」
「そんなことどうやって…? 倉田校長の監視の目を誤魔化せるはずが……!」
「私の頼れる親友に頼んであるのよ。 彼女、機械やプログラムの扱いには、昔から異常なほど長けていてね。 彼女にとっては造作もないことだわ。 ちなみに彼女の母親は、とうじの主治医を務めてくれている、亮子先生でもあるの」
――とうじくんの主治医の娘。
以前、沢泉さんが口にしていた、コリンクをパートナーに持つ親友さんのことですか…。
天才的なプログラム解析能力を持つその親友の協力があれば、スクール側のサーバーに偽装データを送り込み、モニターの数値を書き換えること自体は、理論上可能かもしれません。
ですが、その自信に満ちた説明を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい悪寒が一直線に駆け抜けていきました。
「……本気で、そんな浅はかなまやかしが、倉田校長に通用すると思っているのですか?」
私の低く重い声に、沢泉さんは不快そうに眉をひそめました。
「何が言いたいの?」
「甘すぎます、沢泉さん。 倉田校長がどれほど執念深く、歪んだ野心を持った人物か、あなたが一番よくご存知のはずでしょう? 彼は何年もの間、何人もの生徒やポケモンたちを実験台にして苦しめ、実績を蓄積してきた男ですよ! そんな彼が、自分が鳴り物入りで開発した最重要デバイスの初期データの偽装に気づかないと、本当にそう思っているのですか?」
「なっ……!」
「倉田校長がなぜ 、シンクロなどという仕組みを組み込んだ意図を、どうして疑わないのですか?」
私はさらに一歩近づき、沢泉さんの冷ややかな仮面を打ち破るように言葉を重ねました。
「従来の首輪型デバイスは、ポケモンだけに一方的な物理負荷をかける代物でした。 だからこそ今回、ストレートにポケモンのバイタルに致命的な数値異常が残り、それに関しては、あなたたちの目論見通りに事が進んだのでしょう。 ですが、シンクロバンドは根本から違うと思います。 トレーナーとポケモンをシンクロさせるということは、ポケモンにかかる負担や苦痛、そして限界突破の反動負荷を、トレーナーの体にも分散・吸収させるということです! まさにあの…、第3バトルフィールド『感覚同期型・通電フィールド』のように……!」
「あのフィールド…!?」
しずくさんが息を飲み、青ざめた顔で自分の腕を抱きしめました。
「そうです。 あの時、私にフィールドを壊されたことで、倉田校長はその代用品として身につけられるバンドを作らせたのでしょう。 首輪で問題になったポケモン側の数値異常を隠蔽し、なおかつ『トレーナーとの絆で負荷を克服した』ように見せかけるための、悪質極まりないシステム……それこそがシンクロバンドの正体です! もしそのデータを外部から無理に偽装したら、倉田校長のことです。 システムを逆流し、トレーナー自身やポケモンの体へ、ダイレクトに危険な負荷がかかるトラップ構造になっている可能性だって、十分に考えられるんです!」
「くだらない妄想ね」
沢泉さんはあざ笑うように鼻で笑い、私から視線を外しました。
「倉田は、自分の成果と権力にしか興味がない男よ。自分に都合の良いデータさえモニターに映っていれば、中身を疑うことなんてしないわ。 今までもそうだった…!」
「確かに今までの倉田校長なら、そうだったでしょう。 ですが今回は、不祥事を起こした直後の新システムです…! 倉田校長だってバカではありません。 あの人は自分の地位を守るためなら、内部の裏切りや工作を真っ先に疑い、新生徒会長であるあなたの動きを、今まで以上に観察し、あなたたちの裏にいる共犯者の存在も、気づかないわけないじゃないですか!」
「……っ!」
「あなたが『完璧な作戦』だと信じ切っているその仕掛けこそが、倉田校長が最初からあなたたちを仕留めるために仕掛けた、最悪の罠かもしれないんですよ!? ダミーデータを流した瞬間、あなたとペギタンくんの心身が壊されるかもしれない! なのにどうして、そんな危険なギャンブルに、大切なペギタンくんを巻き込めるんですか!?」
「黙りなさい……!」
沢泉さんの声が低く震えました。
「私たちは…、あの狂ったスクールを叩き潰すためなら、どんなリスクだって背負うって決めたの! 誰かが手を汚さなきゃ、誰も救われないって言ってるでしょ!」
彼女の肩で、2匹のマホイップが悲痛な声をあげて震えています。
「私は…、もう後戻りなんてできないの!
ペギタンだって全部覚悟の上よ!
倉田を完全に油断させて、あの男の悪行の決定的な証拠をすべて白日の下に曝け出すには、生徒会の深い懐に入り込むしかなかったの!
危険だなんて、そんなの最初から、百も承知よ!!」
「リスクと破滅は違いますよ!!」
夕暮れの廊下に、私の声が鋭く響き渡ります。
「沢泉さん…! あなたは親友さんや、あなたに知恵を貸した共犯者の計算を過信しすぎています! 復讐に目が眩むあまり、敵の悪意の深さを見誤っているんです! 倉田校長は、私たちが思っている以上に、底なしの化け物ですよ!」
沢泉さんは強く唇を噛み締め、両拳を血が滲むほど固く握りしめました。
「沢泉先輩……!」
しずくさんが必死に声を張り上げ、沢泉さんの元へ一歩踏み出しました。
「一人で抱え込まないでください…! 私たちを頼ってください…!」
沢泉さんは冷たく、しずくさんを射抜くような鋭い視線で見つめました。
「頼ろうとしたのに、突き放して断ったのは、そっちでしょ……!!
これ以上、私たちの邪魔をするなら…、新学期、生徒会長として、あなたたちをスクールから完全に排除するわ!」
そう吐き捨てると、彼女は背を向け、エレベーターへ乗り込み、閉ボタンを激しく連打しました。
「沢泉さん!」
ドアが閉まる直前、私たちが目にした彼女の表情は、どこか血の気が引き、恐ろしいほどの孤独と絶望に彩られていました。
ドアが静かに閉まり、表示パネルの階数を示す数字が、一つ、また一つと降りていくのを、私としずくさんはただ立ち尽くして見送ることしかできませんでした。
「せつ菜ちゃん……」
しずくさんが不安そうに私の袖を引っ張りました。
「沢泉先輩…、本当に、自分たちの仕掛けた罠が完璧だと信じ切っているんだね…?」
「えぇ……。それが一番恐ろしいことです」
復讐に燃える人間は、己の計画の完璧さを信じたいがために、致命的な盲点から目を背けてしまう。
倉田校長が提示したシンクロバンドという、あまりにも都合の良い新デバイス。
そして、それを無効化できると思い込んでいる沢泉さんたちの油断。
その隙間に爪を立てようとしている倉田校長の影が、私にははっきりと見えていました。
「誠一さんや七海さんともう一度情報を共有して、あの『シンクロバンド』の構造を、徹底的に調べなければなりません。沢泉さんたちを……絶対に、地獄へ落とさせたりはしませんよ」
橙色の夕闇が落ちた病院の廊下で、私たちはそう固く決意を新たにするのでした。