中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
74章「氷の副会長」
春休みが終わり、ニジガサキシティ ポケモントレーナーズスクールには、再び冷徹で慌ただしい新しい季節――4月の新学期が訪れました。
満開を過ぎた桜の花弁が春風に舞う中、通学路を行き交う生徒たちの表情には、進級の喜びや高揚感など微塵もありません。
あるのは、新学期から導入されるという「新たなシステム」への不気味な期待と、何かが決定的におかしくなっていく校内の空気に怯えるような、重苦しく刺々しい緊張感だけでした。
「……ついに、始まりましたね。しずくさん」
「うん、せつ菜ちゃん」
新年度の初日、私としずくさんも朝の通学路を歩いていました。
しずくさんの横顔をそっと見ると、彼女の表情は、かつてのような怯えや気弱さは微塵もありませんでした。
あの日、誠一さんや七海さんの前で、これまで受けてきた理不尽な仕打ちのすべてを公的機関に打ち明けると誓ったあの時から、しずくさんの瞳に宿る光は、芯の通った強い決意の色に満ちあふれていたのです。
誠一さんの書斎の引き出しには、あの夜、私たち全員でペンを走らせて書き上げた決定的な告発文書がしっかりと収められています。
スクールによる「教育」という名の虐待、不当な評価、そしてあの忌々しい「感覚同期型・通電フィールド」で受けた苦痛の記録。それらはすべて時系列順に精査し、一切の弁明を許さない証拠としてまとめ上げました。
ポケモンの福祉と正義を守る公的捜査機関――「ポケモンジム委員会」への正式な告発と捜査要請の準備は、すでにジムリーダーである誠一さんを通じて動き出していました。
そのおかげで、今月末に告発しに行くということだけは決まりました。
倉田校長の不正と、このスクール全体の腐敗を根底から断ち切るための第一歩が、今、まさに踏み出されようとしているのです。
そんなスクールの正門をくぐると、新学期特有の喧騒と同時に、どこか肌を刺すような冷たい緊張感が敷地内に満ちているのが感じられました。
昇降口の前では、貼り出された新クラスの発表名簿を囲む生徒たちの群れから、安堵や戸惑いの混ざった声が聞こえてきます。
私としずくさんも、やっと順番が来たので、今日からの教室を確認するべく名簿へと近づきました。
「あ、せつ菜ちゃん! 私たち、今年も同じクラスだよ!」
名簿を指差すしずくさんの明るい声。
5年A組の欄には、「桜坂しずく」、そして「優木せつ菜」の文字が並んで刻まれていました。
「よかったです……! 本当に……!」
私は胸を撫で下ろしました。
もしもクラスが離れてしまっていたら、スクールで彼女をすぐに守ることが難しくなってしまうところでしたからね。5年間、こうして隣で共に戦えるというのは大きな救いですね。
私たちが顔を見合わせ、安堵の笑みを交わし合った――まさにその時。
こちらに誰かが近づく音が聞こえました。
視線をそちらに向けると、歩いて来たのは、今日から最高学年となり、名実ともに生徒会長としてスクールの頂点に立つ沢泉さんでした。
その胸元には金色に輝く、生徒会長の証のバッジ。
そして、沢泉さんのすぐ隣には、見慣れない一人の生徒が、バインダーを大切そうに抱えて並んで歩いていました。
綺麗な青色のロングヘアーを三つ編みのハーフアップに結った少女。
凛とした佇まいと、隙のない制服の着こなしが印象的な彼女は、沢泉さんと歩調を合わせながら、冷徹な眼差しで周りを見渡していました。
「……おはよう、優木さん、桜坂さん」
「おはようございます、沢泉さん」
「おはようございます、沢泉先輩」
私としずくさんは背筋を正し、足を進めて、二人の前に立ち止まりました。
沢泉さんの横に立つ青髪の少女は、透き通るような青い瞳で私たちを観察するように見つめると、丁寧でありながらどこか壁を感じさせる、気高さに満ちた仕草で微かに頭を下げました。
「……初めまして。今年度より生徒会副会長を務めさせていただきます、6年A組の菱川六花です」
気品と凄みが同居した、無駄のない優雅な挨拶。
菱川と名乗った彼女は、言葉の端々に隠しきれない強い気質と、圧倒的な知性を漂わせていました。
一目見ただけで分かる、ただ者ではない存在感…。
そして何より――彼女が口にした「菱川」という苗字。
私の頭の中で、春休みに沢泉さんが病院の廊下で私達に語っていたあの言葉を思い出しました。
『私の頼れる親友に頼んであるのよ。 彼女、機械やプログラムの扱いには、昔から異常なほど長けていてね。 彼女にとっては造作もないことだわ。 ちなみに彼女の母親は、とうじの主治医を務めてくれている、菱川先生でもあるの』
ニジガサキ大学総合病院の小児科医であり、沢泉さんの弟・とうじくんの複雑な病状を親身になって診ている担当医の娘。
この人が…沢泉さんの言っていた、パートナーにコリンクを持ち、プログラム解析能力を持つという、頼れる親友であり、新生徒会の副会長ですか……!
『……去年、私の親友のコリンクも、同じように首輪をつけられて重傷を負ったの。 でもその親友は、くれあの過去も知っていたから異変に気づいて、すぐにその首輪を外して、なんとかコリンクの命だけは事なきを得たんだけどね』
私と隣のしずくさんは思わず息を飲みました。
前生徒会長である伊集院先輩を身代わりとして排除した沢泉さんが、最高学年となった新学期の初日に、満を持して己の右腕として、やっと表舞台に出て来た少女。
菱川先輩は胸元のバインダーを軽く抱え直すと、私としずくさんに向かって、氷のように冷たい笑みを浮かべました。
「話はちゆ……いいえ、沢泉会長から伺っているわ。 5年生の優木せつ菜さんと、桜坂しずくさんね? 前年度は色々とスクール内で目立った動きをしてたようだけど、今年度からは、我が生徒会が倉田校長の指導のもと、スクールの秩序と最新のデバイスによる効率的な教育体制を徹底して管理していくわ。余計な混乱を起こさず、生徒会の方針には素直に従っていただきたいものね」
丁寧な口調でありながら、そこに込められているのは明白な拒絶と冷酷な警告でした。
私たちがどれほど正論を唱えようとも、彼女たちの領域への介入は一切許さないという、確固たる鉄の意思。
私は引き下がるわけにはいかず、菱川さんの瞳をまっすぐに見据えて言葉を返しました。
「……菱川さん。私たちは、スクールの秩序を無闇に乱したいわけではありません。ですが、ポケモンたちの命や精神を危険に晒すようなシステムを、『正義』や『教育』の名のもとに容認することだけは、絶対にできません!」
私の毅然とした言葉を聞いた菱川さんは、薄い唇を微かに歪め、クスリと優雅に鼻で笑ってみせました。
「正義、ね……。人それぞれが抱く『正義』の形は、置かれた立場によって、いくらでも変化するものよ。……だけど、無知で視野の狭い正義感ほど、時に他人の綿密な計画をぶち壊し、取り返しのつかない悲劇を引き起こすものはないのよ? そのことだけは、よく覚えておきなさい」
「っ……!」
一歩も引かない菱川さん。
その言葉の裏には、彼女自身が沢泉さんの復讐劇に深く関わり、綿密なシナリオを組み上げているという絶対的な自負が滲み出ていました。
その横で、沢泉さんは始終無言のまま腕を組み、冷ややかな瞳で私たちを見下ろしていました。
しかし、あの病院の廊下で言い争った時のような焦りや動揺は、不思議なほど影を潜めており、どこか不気味なほど落ち着いた佇まいを見せていました。
「行きましょう、ちゆ。新学期の全校集会の準備があるわ」
「えぇ」
菱川さんの促しに、沢泉さんは小さく頷き、私としずくさんの脇をすり抜けて歩き出しました。
二人から漂う冷徹な圧迫感と、隠しきれない不穏な空気。
彼女たちの背中を見送りながら、私は胸の奥で高鳴る嫌な予感と焦燥感を押し殺し、握りしめた拳にぐっと力を込めました。
「せつ菜ちゃん。沢泉先輩の隣の人……すごく冷たい雰囲気の人だったね……」
しずくさんが不安そうに呟きます。
「はい……。ですが、私たちがやるべきことは変わりません」
沢泉さん、あなたは一体、裏で何を企んでいるのですか……?
病院でのあの議論のあと、彼女がどのような準備を進めてるのか、この時の私としずくさんは知る由もありませんでした。
ですが、どんな思惑が交錯しようとも、新学期――本当の戦いが、今ここで幕を開きます。