中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
放課後、重苦しい雰囲気が渦巻く校内を歩き、私としずくさんは帰路につくため昇降口へと向かいました。
新学期の初日だというのに、このスクールに漂う空気は、相も変わらずどこまでも冷たく、肌を刺すような不気味な緊張感が漂っていますね。
昇降口に立ち、自分の今日からの下駄箱の前に立って、木製の扉をそっと開けると、私の靴のすぐ横に、一通の白い封筒が無造作に置かれていました。
デジャヴを感じさせる光景ですね。
去年、初めて沢泉さんからパティスリーへ呼び出された時と、まったく同じシチュエーションです。
封筒からそっと手紙を取り出して、開いてみると、そこにはただ一言だけこう記されていました。
『優木せつ菜、桜坂しずく。パティスリーチュチュに来て』
内容からしてやはり、沢泉さんからの手紙だということはわかりました。
ですがその字は…、お世辞にも、あの時の手紙に比べて、美しい字とは言えないものでした。
余程急いで書き上げたのか、あるいは激しい焦りや混乱の中で鉛筆を走らせたのだということが痛いほど見て取れます。
もちろん彼女に頼まれて、誰かが代筆したという可能性もないとは言えませんがね。
ですが、いずれにせよ――。
「せつ菜ちゃん、それって…もしかして…!?」
隣で自分の靴を出したしずくさんも、覗き込むように手紙の文字を確認すると、不安そうに眉をひそめて私を見つめてきました。
「……行く以外の選択肢は、私たちにはありませんね」
私たちは頷き合い、重苦しい空気を纏うスクールの正門をあとにしました。
夕暮れに染まり始めた街並みを抜け、見慣れた洋菓子店「パティスリーチュチュ」の前に到着します。
扉を押し開けると、澄んだドアベルの音色が静まり返った店内に響き渡りました。
「あっ、いらっしゃい、ふたりとも」
カウンターの奥から顔を出したのは、くれあさんでした。
あの日、公園で突然倒れて救急車で病院へ搬送されたくれあさんでしたが、今日の彼女の表情には幾分か穏やかさが戻っており、私たちが店内に入ると、少し申し訳なさそうに優しく微笑んでくれました。
「くれあさん、体調はもう、大丈夫なんですか?」
私が尋ねると、くれあさんは両肩に乗った愛らしいマホイップたちの頭を優しく愛おしそうに撫でながら応えました。
「うん、ご心配をおかけしました。 お医者さんも、無理をしない程度なら、お仕事再開していいって言ってくれたから」
それを聞いて、しずくさんも胸をなでおろしました。
「よかったぁ……本当に心配したんですよ」
「ちゃんと来てくれたわね。優木さん、桜坂さん」
店内奥のテーブル席から、凛とした冷たい声が聞こえました。
振り向くと、沢泉さんが、すでに紅茶のカップを片手に腰掛け、私たちが来るのをずっと待っていたのです。
「紅茶を淹れて来るから、二人とも座って待ってて」
「はい、ありがとうございます、くれあさん」
くれあさんに一礼を返し、私としずくさんは、沢泉さんのテーブル席へ足を進め、その向かい側の椅子に腰掛けました。
「……始業式で、あんな大々的な宣戦布告をされた直後に、一体何の御用ですか? 今朝も菱川さんという副会長まで引き連れて、私たちを牽制しに来たばかりでしょ?」
私の問いかけに対し、沢泉さんは手元のカップをソーサーへ静かに置くと、揺るぎない澄んだ瞳で、私たちを見つめ返してきました。
「まあまあまあ、そんなに警戒しないでちょうだい。ちゃんと順を追って説明するから。優木さん、桜坂さん。……まずは、あなたたちにお礼を言わなければならないわね。……あの日、病院の廊下で指摘してくれたことについてよ」
「「……えっ?」」
思わず拍子抜けしたような声が、私としずくさんの口から同時に漏れ出ました。
あれほど頑なに私たちの意見を突っぱねていた彼女の口から、まさか素直なお礼の言葉が飛び出すとは、一体どういう風の吹き回しでしょうか?
「あなたたちの言う通りだったわ。……倉田の冷酷さと執念深さを、私は心のどこかで甘く見すぎていた。もしあなたたちの警告を聞かずに、六花のハッキングだけに頼った浅はかな計画を実行していたら、私とペギタンは、特別公開戦で、倉田の仕掛けたトラップに確実にやられるところだったわ。優木さんの懸念していた通りのトラップが、やっぱりこのバンドには仕込まれていたのよ」
沢泉さんは、自嘲気味に小さな息を吐き出すと、右手首にしっかりと巻かれた『シンクロバンド』の金属表面をそっと撫でました。
――なぜ、もうそれを装着しているんですか?
「……っ! 沢泉先輩! じゃあ、私たちが言ったこと、わかってくれたんですね!?」
私の疑問を口にする前に、しずくさんはパッと表情を明るく輝かせ、テーブルに身を乗り出しました。
「えぇ、あなたたちの鋭い推測と指摘があったからこそ、私たちは自分たちの計画に潜んでいた致命的な欠陥に気づくことができたわ。……だから、復讐の方法を根本から変えることにしたの」
「復讐の方法を変えた? 一体どういう意味ですか?」
沢泉さんの瞳に宿っていたのは、いつもの氷のように研ぎ澄まされた冷徹な光でした。
ですがその奥には、あの日までの焦燥感とはまた違う、激しい葛藤と、隠しきれてない焦りの色が滲み出ているようにも感じます。
「単に倉田の悪事を内部から暴くだけでは生ぬるいわ。彼が作り上げたこのシステムそのものを根底から無力化し、完全に破壊する…。そのための『鍵』を手に入れる手段を、私はすでに手に入れたわ」
彼女の言葉が持つ圧倒的な重みに、私は思わず息を呑みました。
沢泉さんは復讐を諦めたわけではなく、私たちの警告を真摯に受け止めつつ、より確実で容赦のない作戦へとシフトしていたのです。
沢泉さんは、鞄から一枚の写真を取り出し、テーブルの上にそっと滑らせて私たちに見せてきました。
そこに写っていたのは、ラルトスを大切そうに抱きかかえた、綺麗なピンクの髪色の少女でした。
「この方は……?」
「彼女は、天王寺璃奈。天王寺カンパニーの一人娘で、今月から中学2年生になる身でありながら、ニジガサキ大学の先端技術研究施設に出入りを許されている天才少女よ」
「天王寺カンパニー?……確か、最新鋭のポケモントレーナー用デバイスの開発を手掛ける企業さんですよね?」
たまにニュースで耳にする大企業です。
私の疑問に、沢泉さんは紅茶を一口含み、その少女についての背景を静かに語り始めました。
「天王寺カンパニーは、確かにそうした物の開発を進める企業だけれど、裏で倉田に弱みを握られ、無理やり協力させられてる企業よ」
「倉田校長に弱みを…?」
私は思わず息を呑み、テーブルの上に出された写真へと再び視線を落としました。
あんな大企業が、あの男の言いなりになっているだなんて信じがたい話ですが、彼女の真剣な表情を見る限り、冗談やハッタリの類ではないことが痛いほど伝わってきます。
「実は私たちは最初、天王寺カンパニーも自らの意思で、倉田と一緒に『強制限界突破システム』や『シンクロバンド』の開発を、裏で支援してる悪徳企業だと踏んでいたけど、実態は違ったわ」
沢泉さんは微かに苦い笑みを浮かべました。その声には、巨大な権力によって歪められた真実に対する静かな怒りが含まれていました。
「どのように?」
私は身を乗り出し、彼女の次の言葉を待ちました。隣でしずくさんもまた、緊張した面持ちで沢泉さんを見つめています。
「天王寺カンパニーは、倉田に大切な人物を人質に取られて、従わざるを得ない状況に追い込まれていたのよ」
沢泉さんの口から語られる予想外の事実に、私としずくさんは思わず目を見張りました。
「人質ですか? それは誰です……?」
「宮下愛さんという人よ。ニジガサキ大学でポケモン工学を専攻してる大学4年生。彼女こそが、この『シンクロバンド』の本来の開発者なの」
「本来の開発者?」
大学4年の方が、シンクロバンドの生みの親だという事実に、私は言葉を失いました。
しずくさんもまた、驚きで目を見開いたまま固くなっています。
「……彼女が作ろうとしていたのは、こんな…強制限界突破のための恐ろしいデバイスなんかじゃなかった。人とポケモンが、言葉や種族の壁を越えて心から通い合い、笑顔になれるための『対話デバイス』だったの」
「対話デバイス……?」
しずくさんが息を飲み、胸の前で手を強く握り締めました。
「えぇ。天王寺カンパニーは、宮下さんのその素晴らしい理念に共鳴して全面的な支援を決めた。だけど……そこに倉田が目を付けたのよ。スクールの権力と資金で強引に割り込み、宮下さんの純粋な『感情同調理論』を勝手に書き換えて、トレーナーとポケモンを極限まで苛む戦闘デバイスへと強制改変してしまった……」
沢泉さんの声に、フツフツとした激しい怒りの感情が滲み出します。
「宮下さんがそれに強く反発すると、倉田は本性を現したわ。彼女を大学の研究施設内に軟禁し、さらには『これまでの研究を違法な人体実験として告発する』と脅迫して、天王寺カンパニーごと社会的に抹殺すると迫ったの。カンパニーも、そして一人娘の璃奈さんも……大好きな宮下さんの命と安全を守るために、倉田の言う通りに協力するしかなかったそうよ」
どんどん今まで私が気になっていたパズルのピースが綺麗に埋まっていきます。
どこまで卑劣で、残酷な男ですね…。
自分の野望と保身のために、若き天才の夢と志を踏みにじり、大企業の弱みを握って悪魔の兵器を作らせる――。
どこまで行けば、あの男の醜悪な欲望は満たされるのでしょうか。
しかし、疑問が埋まっても、また新たな疑問も、湧いて出て来るものですね。
「……沢泉さん、先ほど仰っていた『根底から無力化する鍵』とは、一体何ですか?」
私が姿勢を正して問いかけると、沢泉さんは写真の少女――天王寺璃奈さんの姿を慈しむように見つめ、静かに言葉を続けました。
「宮下さんは、ただ脅迫に屈したわけじゃなかったわ。彼女は倉田に連れて行かれる直前、システムの最深部に、自分にしか解除できない極密コードと、過剰負荷を無効化にして本来の『対話機能』を起動させる裏コマンドを忍ばせていたの。……その名も、『プロトコル・アリス』よ」
「『プロトコル・アリス』……?」
私は思わずその名前を繰り返し呟きました。
どこか童話の主人公のような響きを持つそのコード名には、宮下さんのポケモンに対する深い愛情と、最後の抵抗の意志が込められているように感じられます。
「えぇ。それを実行すれば、倉田の罠ごとシステムを機能を停止させて、本来のシンクロバンドの機能が起動する。そのマスターキーと解除コードは、ニジガサキ大学の先端技術研究施設にある、宮下さんのメイン端末の中にだけ保管されているのよ」
一番気になるところがあります……。
彼女がそこまで知っているということは、間違いなく直接的な接触があったはずです。
私は身構えるようにして、鋭い疑問を投げかけました。
「……沢泉さん、あなた、一体どこでその情報を手に入れたんですか?」
私の問いかけに沢泉さんは動じることなく、璃奈さんの写真を持ってヒラヒラさせました。
「春休みの間に、六花を通じて、この天王寺璃奈さん本人と直接接触したのよ。彼女は、倉田の脅迫に苦しみ、友人の宮下さんを救い出したがっていた。……そこで私たちは、彼女と手を組んで、早速今夜、ニジガサキ大学の研究施設へ潜入して、宮下さんを助ける計画を立てたわ」
「潜入計画……!? 今夜にですか…!?」
しずくさんが驚きで声を漏らします。
「そう。今日の昼休み、倉田からも直接聞き出すこともできたから、彼女の嘘じゃないことはわかってるわ。だからさっき倉田に、『次世代デバイスの開発場を視察したい』と申し出たら、疑われることなく、視察許可証にサインと捺印をさせることに成功した。 倉田の手下が厳重に監視している研究室へ、正当な理由で堂々と乗り込むための通行証をゲットできた」
そこまで語り終えた沢泉さんは、一呼吸置き、鋭い眼差しで私をまっすぐに見据えました。
「そして……、ここからが本題よ、優木せつ菜」
「本題ですか?」
沢泉さんはテーブルの上に身を乗り出すようにして、信じがたい条件を口にしました。
「例の私とあなたのバトル。夏休み前の特別公開戦……! そこで――
あなたに、わざと負けてほしいの」
静まり返った店内に、その言葉は冷たく、そして重く響き渡りました。
――わざと負けてほしい。
私の耳を疑うようなその要求に、隣にいたしずくさんは息を呑み、思わず椅子から腰を浮かせました。
「ちょっと待ってください! それって、どういうことですか!? 沢泉先輩!」
しずくさんの声には、抗議と戸惑いが激しく混ざり合っていました。私もまた、彼女の真意を図りかねて、じっとその瞳を見つめ返しました。
「そのままの意味よ。夏の特別公開戦は、スクール全体、そして外部のメディアや関係者が見守る最大の舞台。そこで私が、あなたに完全に勝利する。……そうすれば、倉田は私という存在を完全に信頼し、私に対する警戒心を完全になくす。その隙を突いて、私は奴の足元をすくい取り、スクールの体制を内側から完全に崩壊させるための決定的な一撃を叩き込むわ」
それは、あまりにもいつも以上に自分勝手な要求でした。
自分の目的を達成するためだけに、私に敗北者としての汚名を被れというのです。私たちがどれだけの覚悟を持って、このスクールの不正と戦おうとしているのかを、彼女は一体どう捉えているのでしょうか。
それに、わざわざ私に頼まなくとも、実力で私に勝てばいいだけの話です。
怒りと呆れが入り混じる私をよそに、沢泉さんは自分の主張こそが絶対であると信じ込んでいるかのように、冷徹なトーンでさらに言葉を重ねました。
「何よ? その目は…。 あなたたち、あの時、私に言ってくれたわよね? 『私たちを頼ってください!』って…。なら今こそ、その言葉を実行する時じゃない? 私たちのシナリオを完遂させるために、あなたにはそこで、私の踏み台になってもらいたいの!」
恩着せがましく、そして他人の尊厳を平気で踏みにじるようなその物言いに、私の胸のなかでフツフツと冷たい怒りが沸き上がりました。
「……お断りします」
私はテーブルに手を突き、はっきりと拒絶の言葉を叩きつけました。
「せつ菜ちゃん…」
「はっ……? 本気で言っているの?」
「はい。確かに『頼っていい』と申し出ました。しかし私たちは、あなた個人の復讐の道具になるために戦っているのではありません。 何度も言ってますが、スクールの理不尽な教育や、ポケモンたちを傷つけるシステムそのものを正すために、私たちは戦ってるんです。それを証明するための公開戦で、最初から負けることを前提に戦うなんて、そんなの、私を信じて戦ってくれるイワンコとピチューに対しても、そして、私たちの信念に対しても、あまりに不誠実ですよ!」
私の毅然とした返答に、沢泉さんの眉間が険しく歪みました。
「不誠実、ね……! 相変わらず、綺麗事ばかり並べ立てて……!」
彼女の表情から、先ほどまでの余裕がみるみるうちに剥ぎ取られ、机を強く叩き、私を睨みつけました。
「そんな甘い正義感に酔ってる暇がどこにあるっていうの!? 私たちがどれだけの覚悟で、どれだけの危険を冒してこの計画を進めていると思っているの!? あなたたちのやっていることなんて、一時の感情に任せただけよ! そんなものじゃ、倉田の底知れぬ悪意と権力の前には、一瞬で踏みつぶされて終わりなのよ!!」
その表情は、今まで私たちが見たこともないような、本当の焦りと、隠しきれない苛立ちに満ちていました。
完璧に計算し尽くされたいたはずの、冷徹な生徒会長の仮面が、私たちの拒絶によって音を立てて亀裂を生じている――それが嫌というほど伝わってきます。
彼女も本当は最初から、心の底では恐れていたんですよ。
自分の描いたシナリオ通りに事が運ばなければ、すべてが破滅するという恐怖に、ずっと怯えているからこそ、私たちを強引に自分の手駒に組み込もうと必死になっている。
だからこそ、私はここで引くわけにはいきません。
彼女の狂気的な復讐劇に巻き込まれ、私たちの正義まで歪められるわけにはいかないのです。
「……私たちは、あなたを信じようとしました。だからこそ、病院の廊下でも、今日のここでも、あなたの話を聞いたんです。だけど何度言えばわかるんですか? あなたのやり方は間違っているんですよ」
私のその言葉を聞いた瞬間、沢泉さんは息を呑み、そして自嘲するような冷笑を浮かべました。
「結局……『頼ってください』なんて口だけじゃないの……!なら、せいぜい、自分たちのちっぽけな正義感だけで、どこまで抗えるか見ものね」
彼女は吐き捨てるようにそう言うと、カップを飲み干し乱暴にソーサーに置き、鋭く息を吐きました。
「――実は私たち、今月末に誠一さん……私の父を通じて、ポケモンジム委員会へ正式な告発と捜査要請を行おうとしてます!」
これ以上彼女のペースに飲まれないため、私は隠し札の一つをあえてこの場で切り札として突きつけました。
私の口から飛び出した「ポケモンジム委員会への告発」という言葉に、沢泉さんの動きがピタリと止まりました。
彼女の瞳が大きく見開かれ、驚愕の色が浮かび上がります。
「……ジム委員会へ、正式な告発、だって……?」
「はい。しずくさんがこれまで受けて来たスクールによる虐待の証拠も、感覚同期型・通電フィールドの被害記録も、すべて時系列順にまとめて、父の書斎に保管してあります。今月末、私たちが直接持って行き、あの男の不正を公的な機関の手で完全に終わらせます」
私の言葉を聞いた沢泉さんは、信じられないものを見るような目で私を見つめた後、乾いた、そしてどこか哀れみを含んだ笑い声を漏らしました。
「……フッ……。ジム委員会、ね……? そんなものに頼って、大人が動いてくれると本気で思っているの?」
「え……? 先輩…?」
「どこまでも甘いわ、優木さん。……あなたが思っている以上に、倉田という男は行政や上層部にも深く太いパイプを築いているのよ。中途半端な告発なんて、奴の耳に入る前に握りつぶされるか、あるいは逆に、あなたたち親御さんごと社会的に息の根を止められるのがオチよ。そんな子供だましの正義が通用する相手じゃないわ、あいつは……!」
彼女の言葉には、ただの批判ではなく、倉田という絶対的な権力者に対する拭い去れない絶望と恐怖が根底にありました。
だからこそ彼女は、公的な手段を信用せず、自らの手で闇に染まることでしか復讐を果たせないと思い込んでいたのです。
「たとえ、どれほど険しい道だとしても、私たちは逃げません。不正を見過ごしたまま、あなたのように誰かを踏み台にして手に入れた勝利になんて、何の意味もないからですよ!」
私のまっすぐな眼差しを真正面から受け止めた沢泉さんは、それ以上言葉を返すことができませんでした。
ただ、唇をぎゅっと噛み締め、悔しさと焦燥に満ちた瞳で私を睨みつけるのが精一杯だったようです。
「……返事は、今すぐ決めなくて別に構わないわ。最悪、当日までに答えを聞かせてくれればいい。でも、これだけは覚えていなさい」
沢泉さんは静かに立ち上がり、テーブルの上の写真を鞄にしまうと、持ち手を強く握りしめました。
「運命の歯車はもう動き出しているということをね。今夜私たちは予定通り宮下さんを救いに行く。 私たちはもう足を止めない。 こちらの手はあなたに全部共有したわ。……よく考えなさい、優木せつ菜。本当の『正義』を果たすために、何が必要なのかをね」
そう言い残すと、沢泉さんは振り返ることもなくカウンターへと向かいました。
「くれあ、帰るわね。あの二人の紅茶代もここに置いておくわ」
くれあさんにそう声をかけ、沢泉さんは重い足取りのまま、店を出て行きました。
「えっ? ちゆちゃん?」
私たちの紅茶をまさに運ぼうとしていたくれあさんは、突然のことに目を丸くし、戸惑いながら、店を出て行った沢泉さんを見送り、それから心配そうに私たちのテーブルへと小走りで近づいてきました。
「二人とも、なんだかすごくピリピリしてたけど、大丈夫……?」
「くれあさん、すみません、私、ちょっと……!」
私は椅子から立ち上がり、くれあさんに軽く会釈し、沢泉さんを追いかけるように店を出ました。
「せつ菜ちゃん!?」
しずくさんもすぐに私の後を追いかけるようにして、店から出て行きました。