中川菜々から優木せつ菜 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
店の外へ飛び出し、石畳の歩道に足を踏み出し、数歩先を歩く沢泉さんの背中へと一気に詰め寄ります。
冷え始めた夜の気配が、私たちの足元から忍び寄るように広がっていく中で、私の胸の鼓動だけがやけに大きく響いていました。
「沢泉さん! 待ってください!」
「沢泉先輩!」
私たちの声に気づいたのか、沢泉さんは不機嫌そうに眉をひそめ、ゆっくりと振り返りました。
「……っ? なによ……?」
私は一歩前に踏み出し、まっすぐに彼女の瞳を見据えました。
このまま彼女を一人で背負わせたまま行かせるわけにはいかないという予感が、私の背中を強く押していました。
「何をそんなに怯えているんですか?」
その瞬間、沢泉さんの表情が完全に凍りつきました。
彼女の肩が小さくびくりと跳ね、見開かれた瞳が激しく揺れ動きます。
まるで、一番触れてほしくない、自分でも隠し通そうとしていた心の深い傷口を突然突かれたかのような反応でした。
「はっ……?」
「えっ? せつ菜ちゃん、どういうこと?」
しずくさんもよく分かっていなさそうに、私の袖をそっと掴みながら、不安そうに沢泉さんの顔を見上げています。
さっきので沢泉さんの表情は、これまで纏っていた冷徹な生徒会長としての余裕の笑み、緻密な計画を語っていた仮面は、もうどこにもありませんでした。
今、そこに立っているのは、完全無欠な生徒会長などではなく、巨大な運命の重圧に押し潰されそうになりながらも必死に踏み留まろうとしている、ただ一人の少女の素顔そのものでした。
震える肩が、彼女の限界を物語っています。
「あなた、さっきから必死すぎますよ。さっきの下駄箱に入っていた手紙の文字を見ても思いましたが、あの時の整った美しい文字とは似ても似つかない、どこか投げやりで乱れたものでした。そして先ほどの八百長指示も……明らかに、あなたらしくありません。不自然です」
私は声音を柔らかくしつつも、決して引かない強い眼差しで彼女を見つめ続けました。
彼女を追い詰めるためではなく、彼女の仮面の下にある真実を引き出すために。
「どこが不自然だというの………?」
「自分の計画が完璧だと信じ込んでいるのなら、なぜ、そんなに手が震えているんですか?」
私のその一言に、沢泉さんの身体がピクッと硬直しました。
彼女の右手は、しっかりと握りしめられた鞄の持ち手を掴んだまま、微かに、けれど確かに痙攣するように震えていました。
完璧に整えられていたはずの爪先までが、緊張と恐怖で強張っているのが遠目にも分かります。
「それは……っ」
喉を絞り出すような、か細い声が返ってきます。
「もしかして、私の確信していたとおり、倉田校長が、あなたの裏切りに気づいてしまって、何か言われたんじゃないですか?」
「っ――!?」
沢泉さんの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていきました。まるで全身の水分が凍りついたかのように、彼女の動きがピタリと止まります。
その反応は、言葉の必要すら感じさせないほどに、私の推測が完全に真実であったということですね。
「昼休みに、許可証を貰いに行かれたんですよね? そこで何かあったんじゃないですか!?」
「………てるの………!!」
「はいぃ?」
「バレてるの………! くれあがここにいること…、あいつにバレてるかもなの……!」
沢泉さんの瞳に、恐怖と悔しさが入り混じった涙の膜がうっすらと浮かび上がっていました。
今まで決して崩さなかったその気高い瞳から、耐えきれなくなった感情が溢れ出そうとしています。
「あいつは……あの男は、最初からすべてお見通しだったのよ……っ!」
震える唇から漏れ出たその声は、私たちがこれまで一度も聞いたことのない、か細く、怯えた少女そのものの響きを持っていました。
風が冷たく吹き抜けるアスファルトの上で、彼女の身体は小さく震えています。
「昼休み、私が校長室で許可証を貰いに行って部屋を出ようとした時……あいつは突然、くれあの名前を出してきたわ……! 『前任のセイランアカデミーの元生徒で、私の作った強制限界突破システムを最初に使った記念すべき最初の生徒だ』って……!覚えてたのよ……………!」
「そんな……!?」
隣で聞いていたしずくさんが、思わず両手で口を抑え、息を呑みました。その瞳に広がっていくのは、想像を絶する恐怖の色でした。
私もまた、背筋が凍りつくような悪寒を覚えました。
あの倉田という男は、ただ権力を振りかざすだけの小物ではありません。
生徒たちの動向、過去、そして弱みさえもチェスの駒のように把握し、すべてを掌の上で転がしている。
やはり私が最初から思っていたとおり、沢泉さんがどんなに完璧な計画を立て、どんなに従順な生徒会長を演じてみせようとも、その行動のすべては、見透かされていたんです。
「くれあがこの街に逃げてきて、パティスリーを開いてひっそり暮らしていることも……全部、知っていたのよ。、最初から私たちの家族の動きを把握してたのよ…! 私たちの行動なんて、すべて手のひらの上の茶番劇でしかなかったんだわ……!
とうじの病院を紹介されたときから……!
いいえ……、もっと前から全部仕組まれてたの…! すべてあいつの仕組んだ筋書き通りに私は動いてたの……!」
沢泉さんは膝から崩れ落ちそうになりながらも、自身の腕に巻かれたシンクロバンドを睨みつけ、悔しそうに拳を固く握りしめました。その金属の冷たさが、今の彼女の絶望を象徴しているかのようでした。
「あの男は、最初から追いかけてきてたのよ、くれあのことを…! それで就任先のスクールに、私がいたからそれも利用してきた…! 私に生徒会長の座と、とうじの治療の設備をあげて、今回シンクロバンドを私に…! あなたとバトルで……………!」
爪が手のひらに食い込み、血が滲みそうなほどの強い力でした。彼女が今、どれほど自分を責め、どれほど悔しい思いをしているのか、その痛々しいほどの握りこぶしから痛いほど伝わってきます。
「今夜の内に宮下さんを救い出して、このシンクロバンドのシステムを完全に破壊しないと! 早くしないと! またくれあが…あの時のように傷つけられたり、今度はマホイップたちが狙われて…、マホイップたちもシュシュタンと同じ結末になったら……私は……私は……っ!」
言葉の途中で、沢泉さんの声が詰まりました。かつて彼女が守れなかった大切な存在の記憶が、今の恐怖と結びつき、彼女の精神を内側から引き裂こうとしている。
「沢泉さん……」
私が近づき、そっと彼女の肩に手を伸ばそうとしたその時でした。
「……っ、触らないで!」
沢泉さんは私の手を鋭く振り払うと、顔を歪めながら大きな悪態を吐き捨てました。
「私に協力しないくせに、今さらそんな優しい顔で見ないで!」
「落ち着いてください! 沢泉さん! 怒鳴らないで聞いてください! 倉田校長がそこまであなたの動きを見越しているのだとしたら、今夜の潜入計画自体も、すでに彼の用意した、致命的な罠が張られている可能性が極めて高いということです! なにしろ、あなたが今夜そこに行くことは、すでに許可証を貰いに行ったんですから、倉田校長は把握してます!」
普段の冷静沈着な彼女なら、そんな致命的なミスや見落としは絶対にしなかったはずです。
焦りが、彼女の優れた判断力を完全に狂わせていたのでしょう。
自らの足で、敵の罠のど真ん中へ飛び込もうとしていることに、彼女自身も気づけなくなっていたのです。
「そんなところに無防備で突っ込めば、返り討ちに遭うだけでなく、宮下さんもくれあさんも救えなくなってしまいます!」
私の必死の説得に、沢泉さんは肩を荒く上下させながら、憎しみに満ちた瞳で私を睨み返しました。
その目には涙が浮かんだままでしたが、必死にそれを振り払おうとする意地のようなものが燃えていました。
「じゃあ、どうしろって言うの!? 何もせずに指をくわえて、あいつの思い通りに踏み潰されてろって言うわけ!?」
「いいえ。
……私たちも一緒に行って、協力すると言ってるんです!」
私のその言葉に、沢泉さんはもちろん、隣で固唾を飲んで見守っていたしずくさんも、驚きに目を見張りました。
夜風の中、しずくさんの髪がふわりと揺れ、彼女もまた強い決意を秘めた目で沢泉さんを見据えます。
「そ、そうです!!」
「……はっ? 何を言っているの?あんたたち…! ……………さっき私の提案を散々拒絶しておいて……!」
「私が断ったのは、あなたの踏み台になること、そして最初から負けることを前提とした八百長のバトルに対するものです。……くれあさんや、その宮下さんを救い出すこと、そして倉田校長の歪んだシステムを打ち砕くこと――その目的のために力を合わせることまで、拒絶したわけではありませんよ!」
夕暮れの街灯が点灯し始め、冷たいアスファルトの上に私たちの影を長く引き延ばしていきます。その光の中で、私は一歩も引かずに彼女と向き合いました。
私はまっすぐに前を見据え、自分の胸の内に宿る熱い決意を言葉に乗せました。
「私たちは、あなたにすべてを背負わせるつもりはありません。……行きましょう、宮下さんのところへ。あなたと一緒に、同行します!!」
しずくさんも私の横にピタリと寄り添い、力強くこくこくと頷いてみせました。
その小さな身体から発せられる意志の強さは、今の沢泉さんを支えるに十分なほどの温もりを持っていました。
「せつ菜ちゃんの言う通りです! 沢泉先輩、私たちも力を貸します!」
沢泉さんはしばらくの間、言葉を失ったようにその場に立ち尽くしていましたが、彼女の瞳から、やがて棘のある冷たさがスッと消え去り、代わりに言葉にできない複雑な感情が広がっていくのが見て取れました。
「はぁ……、あなたたち、本当に、お人好しで……救い難い馬鹿ね……」
掠れた声でそう呟いた彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちました。街灯の光を浴びて、その涙はきらりと光り、彼女の頑なだった心を溶かす最初の雫のようでした。
それは、虚勢の仮面を剥ぎ取られた少女が流した、初めての素直な涙でした。
冷たい空気のなかで、私たちはそれぞれの痛みを抱えながらも、同じ目的のために一つに結ばれようとしていました。
今夜、すべての闇が巣食う大学の研究施設へと、私たちは足を踏み出します。