ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~   作:〇彪

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第8話 社内ルール

 ──眠い。

 

 綾小路清隆の表情はいつもと変わらない。

 

 だが、よく見れば目の下に薄く影がある。

 

 昨夜、少し飲みすぎた。

 

 いや。

 

 酒だけではない。

 

 一之瀬帆波の涙。

 唇の感触。

 抱き締めた時の震え。

 

 それらが、眠りを浅くしていた。

 

 朝六時に起き、いつも通りのルーティンを終える。

 

 だが頭の片隅に、昨夜の彼女が残っている。

 

 理屈では処理できない。

 

 だから、厄介だった。

 

 ◇

 

 午前九時。

 

 ホテル一階のロビー。

 

 待ち人は、思ったより早く現れた。

 

「清隆、お待たせ!」

 

 一之瀬帆波。

 

 昨日とは違い、きちんと仕事用の服に着替えている。

 

 紺色のパンツスーツ。

 白いシャツ。

 控えめな小物。

 

 華やかさを抑えているはずなのに、目を引く。

 

「体調は大丈夫なのか?」

 

「うん。逆にスッキリしたかも」

 

 彼女は少しだけ照れたように笑う。

 

「昨日はありがとう」

 

「ああ」

 

 それだけ返す。

 

 言葉にすると、余計なものまで零れそうだった。

 

「それにね」

 

 一之瀬はバッグからノートPCを取り出した。

 

「今日は私の晴れ舞台だから」

 

「気合いが入っているな」

 

「うん。清隆に、ちゃんと見てもらいたい」

 

 その言葉が、少し胸に残る。

 

 見てもらいたい。

 

 誰かが自分にそう言うことを、昔の俺は重いと感じただろう。

 

 だが今は違う。

 

 期待されることが、不快ではない。

 

 ◇

 

 スマホを開くと、軽井沢から写真が届いていた。

 

 坂柳と神室が写っている。

 

 坂柳。

 

 来たのか。

 

 思ったより早い。

 

 そう考えていると、横から小さなシャッター音がした。

 

「……何に使うんだ?」

 

「内緒だよ」

 

 一之瀬は悪戯っぽく笑い、スマホを伏せた。

 

 その表情を見て、昨夜の泣き顔が一瞬重なる。

 

 駄目だな。

 

 どうにも意識してしまう。

 

 俺は気を逸らすように会社チャットを開いた。

 

 櫛田と軽井沢から、大量の報告が届いている。

 

 俺が返さなくても、二人は進めていた。

 

 軽井沢へ返信する。

 

[昨日は楽しんだみたいだな。メッセージは全て目を通している。俺が個別に返信しないものは、恵が判断して進めてくれ]

 

 すぐ既読がつく。

 

 次に、アパレル会社買収の件へ返信。

 

[M&A後は合併を行う。櫛田が買収した芸能事務所へ、月曜日に二人で訪問するように]

 

 続いて櫛田。

 

[月曜日十六時、芸能事務所の社長とアポイントを入れた。軽井沢と向かってくれ]

 

 即返信。

 

[り。それにしても、何話せばいいの?]

 

[行けば分かる。対面商談用のルールを投稿する]

 

 俺は報連相グループを開いた。

 

【社外商談時の服装ルール】

 

・紺色のパンツスーツ。白シャツ。小物は黒で統一。

・会社用ノートPCまたはタブレットを必ず持参。

・ブランド物は可。ただしロゴが目立つものは禁止。

・商談中は相手の仕事を把握することに徹する。

・その場で最終判断を出さない。

 

※上記支出は限度額なし。

 

 投稿直後、一之瀬のスマホが震える。

 

「あ、これ私も見れるんだ」

 

「ああ。参考写真も入れる」

 

「参考?」

 

「立ってくれるか」

 

「はーい」

 

 一之瀬が素直に立つ。

 

 俺は写真を撮り、顔にモザイクを入れて投稿した。

 

[参考]

 

 すぐに、軽井沢と櫛田のリアクションがつく。

 

 一之瀬も慌てて真似するように、いいねを押した。

 

「わ、私だ……」

 

「今後、社外へ出る社員はこれを基準にする」

 

「おぉ……責任重大だ」

 

「この写真くらいスタイルの良い女子は、そう入らないだろうが」

 

「ん?」

 

「何でもない」

 

「聞こえたよ?」

 

「なら繰り返す必要はないな」

 

「言ってよ。ねぇ、お願い、清隆くん」

 

「今度な」

 

「ずるい」

 

 一之瀬が頬を膨らませる。

 

 その反応が、思ったより可愛く見えた。

 

 ◇

 

 十時。

 

 JICA職員と日本大使館職員が到着した。

 

 俺たちはレンタカーに乗り、買収した電力会社PPLへ向かった。

 

 現地の社長との面談。

 

 設備説明。

 

 会食。

 

 工場視察。

 

 全て予定通り進んだ。

 

 俺は、あえて若いオーナーらしく振る舞った。

 

 知らないことは知らないと言う。

 

 分からないことは質問する。

 

 相手の説明を繰り返し、確認する。

 

 一之瀬は隣で笑顔を絶やさなかった。

 

 挨拶。

 相槌。

 場を柔らかくする会話。

 

 彼女の得意分野だった。

 

 相手方から見れば、俺たちは扱いやすい若者に見えただろう。

 

 それでいい。

 

 警戒されるより、侮られる方が動きやすい。

 

 ◇

 

 夕方。

 

 JICA職員たちと別れた後、俺たちは渡辺のいる大学へ向かった。

 

 車内で、一之瀬がほっと息を吐く。

 

「緊張したぁ……」

 

「十分だった」

 

「本当?」

 

「ああ。相手はお前にかなり好印象を持っていた」

 

「ならよかった」

 

 一之瀬は安心したように笑う。

 

「あとね、清隆の英語、ちゃんと聞けた」

 

「幻滅したか?」

 

「逆。かっこよかった」

 

「そうか」

 

「うん」

 

 素直すぎる評価に、返答に困る。

 

 こういう時、どう受け取るのが正解なのか、まだ分からない。

 

 ◇

 

 しばらく走ると、古びた建物群が見えてきた。

 

 大学というより、地方の役所か古い病院のようだった。

 

「……ここ?」

 

「ここだ。パプアニューギニア大学の分校」

 

「思ってた大学と違うね」

 

「日本の感覚とは違うだろうな」

 

 一之瀬が渡辺へメッセージを送る。

 

 すぐに返信が来た。

 

 数分後、一人の日本人が走ってくる。

 

「一之瀬! 綾小路!」

 

「渡辺、久しぶりだな」

 

「久しぶり!」

 

 渡辺は少し日焼けしていた。

 

 高校時代より痩せ、表情も少し逞しくなっている。

 

「急に連絡来てびびった。っていうか綾小路、お前戻ってきてたのか?」

 

「ああ。最近日本に戻った」

 

「何してるんだよ今」

 

「医者だ」

 

「い、医者?」

 

 一之瀬がすぐに横から入る。

 

「清隆くん、私のお母さんが入院してる病院で働いてるんだよ。今回は会社の海外研修みたいな感じ!」

 

「いや情報量多いな……」

 

 渡辺は頭をかいた。

 

「まあいいや。二人とも仕事で来てるのは服見りゃ分かるし」

 

「ああ。隠すことでもない」

 

「それより、せっかく来たなら寮に来いよ。今の時間、食堂でみんな飲んでる」

 

「大学の寮か」

 

「そう。留学生もいるし、現地の奴らもいる。面白いぞ」

 

 一之瀬が目を輝かせた。

 

「行きたい!」

 

「決まりだな」

 

 俺たちは渡辺について歩き始めた。

 

 ◇

 

 敷地内は薄暗かった。

 

 街灯は少ない。

 

 建物の壁はひび割れ、遠くから音楽と笑い声が聞こえる。

 

 日本なら不安を覚える環境だ。

 

 だが、ここでは日常なのだろう。

 

 渡辺は慣れた足取りで進んでいく。

 

「こっちだ」

 

 食堂の入口が見えた。

 

 中には、多くの学生がいた。

 

 酒。

 音楽。

 煙。

 笑い声。

 

 そして。

 

 奥のテーブルに、日本人らしき男が一人座っていた。

 

 渡辺が振り返る。

 

「あ、そうだ。綾小路」

 

「なんだ」

 

「紹介したい人がいる」

 

 その男が、ゆっくりこちらを向いた。

 

 痩せた顔。

 鋭い目。

 

 日本人。

 

 だが学生には見えない。

 

 俺を見た瞬間、男の口元がわずかに動いた。

 

「……ホワイトルーム」

 

 その単語だけが、喧騒の中で妙にはっきり聞こえた。

 

 一之瀬の笑顔が止まる。

 

 俺は無意識に、彼女の前へ一歩出た。

 

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