ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
──眠い。
綾小路清隆の表情はいつもと変わらない。
だが、よく見れば目の下に薄く影がある。
昨夜、少し飲みすぎた。
いや。
酒だけではない。
一之瀬帆波の涙。
唇の感触。
抱き締めた時の震え。
それらが、眠りを浅くしていた。
朝六時に起き、いつも通りのルーティンを終える。
だが頭の片隅に、昨夜の彼女が残っている。
理屈では処理できない。
だから、厄介だった。
◇
午前九時。
ホテル一階のロビー。
待ち人は、思ったより早く現れた。
「清隆、お待たせ!」
一之瀬帆波。
昨日とは違い、きちんと仕事用の服に着替えている。
紺色のパンツスーツ。
白いシャツ。
控えめな小物。
華やかさを抑えているはずなのに、目を引く。
「体調は大丈夫なのか?」
「うん。逆にスッキリしたかも」
彼女は少しだけ照れたように笑う。
「昨日はありがとう」
「ああ」
それだけ返す。
言葉にすると、余計なものまで零れそうだった。
「それにね」
一之瀬はバッグからノートPCを取り出した。
「今日は私の晴れ舞台だから」
「気合いが入っているな」
「うん。清隆に、ちゃんと見てもらいたい」
その言葉が、少し胸に残る。
見てもらいたい。
誰かが自分にそう言うことを、昔の俺は重いと感じただろう。
だが今は違う。
期待されることが、不快ではない。
◇
スマホを開くと、軽井沢から写真が届いていた。
坂柳と神室が写っている。
坂柳。
来たのか。
思ったより早い。
そう考えていると、横から小さなシャッター音がした。
「……何に使うんだ?」
「内緒だよ」
一之瀬は悪戯っぽく笑い、スマホを伏せた。
その表情を見て、昨夜の泣き顔が一瞬重なる。
駄目だな。
どうにも意識してしまう。
俺は気を逸らすように会社チャットを開いた。
櫛田と軽井沢から、大量の報告が届いている。
俺が返さなくても、二人は進めていた。
軽井沢へ返信する。
[昨日は楽しんだみたいだな。メッセージは全て目を通している。俺が個別に返信しないものは、恵が判断して進めてくれ]
すぐ既読がつく。
次に、アパレル会社買収の件へ返信。
[M&A後は合併を行う。櫛田が買収した芸能事務所へ、月曜日に二人で訪問するように]
続いて櫛田。
[月曜日十六時、芸能事務所の社長とアポイントを入れた。軽井沢と向かってくれ]
即返信。
[り。それにしても、何話せばいいの?]
[行けば分かる。対面商談用のルールを投稿する]
俺は報連相グループを開いた。
【社外商談時の服装ルール】
・紺色のパンツスーツ。白シャツ。小物は黒で統一。
・会社用ノートPCまたはタブレットを必ず持参。
・ブランド物は可。ただしロゴが目立つものは禁止。
・商談中は相手の仕事を把握することに徹する。
・その場で最終判断を出さない。
※上記支出は限度額なし。
投稿直後、一之瀬のスマホが震える。
「あ、これ私も見れるんだ」
「ああ。参考写真も入れる」
「参考?」
「立ってくれるか」
「はーい」
一之瀬が素直に立つ。
俺は写真を撮り、顔にモザイクを入れて投稿した。
[参考]
すぐに、軽井沢と櫛田のリアクションがつく。
一之瀬も慌てて真似するように、いいねを押した。
「わ、私だ……」
「今後、社外へ出る社員はこれを基準にする」
「おぉ……責任重大だ」
「この写真くらいスタイルの良い女子は、そう入らないだろうが」
「ん?」
「何でもない」
「聞こえたよ?」
「なら繰り返す必要はないな」
「言ってよ。ねぇ、お願い、清隆くん」
「今度な」
「ずるい」
一之瀬が頬を膨らませる。
その反応が、思ったより可愛く見えた。
◇
十時。
JICA職員と日本大使館職員が到着した。
俺たちはレンタカーに乗り、買収した電力会社PPLへ向かった。
現地の社長との面談。
設備説明。
会食。
工場視察。
全て予定通り進んだ。
俺は、あえて若いオーナーらしく振る舞った。
知らないことは知らないと言う。
分からないことは質問する。
相手の説明を繰り返し、確認する。
一之瀬は隣で笑顔を絶やさなかった。
挨拶。
相槌。
場を柔らかくする会話。
彼女の得意分野だった。
相手方から見れば、俺たちは扱いやすい若者に見えただろう。
それでいい。
警戒されるより、侮られる方が動きやすい。
◇
夕方。
JICA職員たちと別れた後、俺たちは渡辺のいる大学へ向かった。
車内で、一之瀬がほっと息を吐く。
「緊張したぁ……」
「十分だった」
「本当?」
「ああ。相手はお前にかなり好印象を持っていた」
「ならよかった」
一之瀬は安心したように笑う。
「あとね、清隆の英語、ちゃんと聞けた」
「幻滅したか?」
「逆。かっこよかった」
「そうか」
「うん」
素直すぎる評価に、返答に困る。
こういう時、どう受け取るのが正解なのか、まだ分からない。
◇
しばらく走ると、古びた建物群が見えてきた。
大学というより、地方の役所か古い病院のようだった。
「……ここ?」
「ここだ。パプアニューギニア大学の分校」
「思ってた大学と違うね」
「日本の感覚とは違うだろうな」
一之瀬が渡辺へメッセージを送る。
すぐに返信が来た。
数分後、一人の日本人が走ってくる。
「一之瀬! 綾小路!」
「渡辺、久しぶりだな」
「久しぶり!」
渡辺は少し日焼けしていた。
高校時代より痩せ、表情も少し逞しくなっている。
「急に連絡来てびびった。っていうか綾小路、お前戻ってきてたのか?」
「ああ。最近日本に戻った」
「何してるんだよ今」
「医者だ」
「い、医者?」
一之瀬がすぐに横から入る。
「清隆くん、私のお母さんが入院してる病院で働いてるんだよ。今回は会社の海外研修みたいな感じ!」
「いや情報量多いな……」
渡辺は頭をかいた。
「まあいいや。二人とも仕事で来てるのは服見りゃ分かるし」
「ああ。隠すことでもない」
「それより、せっかく来たなら寮に来いよ。今の時間、食堂でみんな飲んでる」
「大学の寮か」
「そう。留学生もいるし、現地の奴らもいる。面白いぞ」
一之瀬が目を輝かせた。
「行きたい!」
「決まりだな」
俺たちは渡辺について歩き始めた。
◇
敷地内は薄暗かった。
街灯は少ない。
建物の壁はひび割れ、遠くから音楽と笑い声が聞こえる。
日本なら不安を覚える環境だ。
だが、ここでは日常なのだろう。
渡辺は慣れた足取りで進んでいく。
「こっちだ」
食堂の入口が見えた。
中には、多くの学生がいた。
酒。
音楽。
煙。
笑い声。
そして。
奥のテーブルに、日本人らしき男が一人座っていた。
渡辺が振り返る。
「あ、そうだ。綾小路」
「なんだ」
「紹介したい人がいる」
その男が、ゆっくりこちらを向いた。
痩せた顔。
鋭い目。
日本人。
だが学生には見えない。
俺を見た瞬間、男の口元がわずかに動いた。
「……ホワイトルーム」
その単語だけが、喧騒の中で妙にはっきり聞こえた。
一之瀬の笑顔が止まる。
俺は無意識に、彼女の前へ一歩出た。