ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~   作:〇彪

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幕間3 非通知

 非通知。

 

 画面に表示された文字を見て、俺は一瞬だけ指を止めた。

 

 時刻は深夜を少し過ぎた頃。

 

 家の中は静かだった。

 

 リビングには、つい数時間前まで誰かがいた気配が残っている。

 

 飲みかけのコーヒー。

 

 片付けられた資料。

 

 誰かが座っていたソファの沈み。

 

 だが、今は誰もいない。

 

 櫛田も、軽井沢も、堀北も、それぞれの部屋へ戻っている。

 

 一之瀬は自室で海外法人の資料を見ているはずだ。

 

 天沢は、俺の知らないどこかで何かをしている。

 

 俺は書斎にいた。

 

 PCの画面には、いくつかの未読メール。

 

 ニコラからの報告。

 

 坂柳から転送された資料。

 

 櫛田チームのまとめ。

 

 堀北が確認した契約書の修正案。

 

 それらを処理している途中だった。

 

 着信音は一度だけ鳴った。

 

 すぐに画面を見る。

 

 非通知。

 

 番号が表示されない。

 

 営業電話。

 

 嫌がらせ。

 

 あるいは、こちらの番号を知っている誰か。

 

 この番号を知る人間は限られている。

 

 出ないという選択肢もあった。

 

 しかし、指は自然と通話ボタンへ向かっていた。

 

「誰だ」

 

 短く問う。

 

 数秒、返答はなかった。

 

 聞こえるのは、微かな呼吸音だけ。

 

 雑音は少ない。

 

 屋外ではない。

 

 車の中でもない。

 

 どこか静かな室内。

 

 そう判断した。

 

『……清隆』

 

 女の声だった。

 

 若い。

 

 か細い。

 

 どこか、喉の奥で言葉を止めながら発しているような声。

 

 聞き覚えがあるようで、ない。

 

 いや。

 

 記憶の奥に沈めたはずの声だった。

 

 白い壁。

 

 白い廊下。

 

 規則正しい足音。

 

 泣き声のない泣き顔。

 

 そんな、忘れたはずの映像が頭の奥で揺れる。

 

「お前は誰だ」

 

 俺は問い返した。

 

 相手はすぐには答えない。

 

 かわりに、ひどく小さな声で言った。

 

『ホワイトルームは、終わっていない』

 

 その言葉で、空気が変わった。

 

 指先がわずかに止まる。

 

 ホワイトルーム。

 

 俺の父が作った場所。

 

 俺がいた場所。

 

 そして、俺が外へ出た後も、影のように付きまとっていたもの。

 

「どういう意味だ」

 

『まだ、見てる』

 

「誰がだ」

 

 沈黙。

 

 相手は答えない。

 

 いや、答えられないのかもしれない。

 

 呼吸音だけが、わずかに乱れる。

 

「月城か」

 

 返事はない。

 

 

「篤臣か」

 

 やはり、返事はない。

 

「八神か。あるいは、別の関係者か」

 

『……違う』

 初めて、否定が返ってきた。

 

 その声は、少し震えていた。

 

「なら、お前は誰だ」

 

『白い部屋は、形を変えるだけ』

 

 質問には答えない。

 

 ただ、用意していた言葉を、なんとか絞り出しているようだった。

 

『終わったと思わないで』

 

「お前は、どこでそれを知った」

 

『清隆を、欲しがる人がいる』

 

「誰だ」

 

『たくさん』

 

 断片的な言葉。

 

 それだけでは情報にならない。

 

 だが、感情は伝わってくる。

 

 恐怖。

 

 迷い。

 

 そして、なぜか俺への警告。

 

「俺を脅しているのか」

 

『違う』

 

 即答だった。

 

『逃げて』

 

 弱い声。

 

 だが、その一言だけははっきりしていた。

 

「逃げる必要があると思うのか」

 

『……うん』

 

「理由は?」

 

『清隆は、また使われる』

 

 俺は黙った。

 

 使われる。

 

 その表現は、妙に引っかかった。

 

 父に。

 

 国家に。

 

 ホワイトルームに。

 

 企業に。

 

 誰かの欲望に。

 

 俺はこれまで、人を使う側だと思っていた。

 

 少なくとも、そう振る舞ってきた。

 

 だが、相手は俺を使われる側だと言った。

 

『白い部屋は、なくなっても、白い部屋の考え方は残る』

 

 それは、少しだけ理解できた。

 

 施設がなくなっても、思想は残る。

 

 教育方法。

 

 選別方法。

 

 人間を成果物として見る目。

 

 それらは、建物よりもずっとしぶとい。

 

「お前は、何を知っている」

 

『……少しだけ』

 

「誰に聞いた」

 

 また沈黙。

 

 だが、今度の沈黙は違う。

 

 答えようとして、答えられない沈黙だった。

 

『ごめん』

 

「謝る必要はない。情報を言え」

 

『言えない』

 

「なぜだ」

 

『怖い』

 

 その声で、また何かが揺れた。

 

 怖い。

 

 ホワイトルームの人間が、そんな言葉を素直に言うことは少ない。

 

 恐怖は処理されるべきものだった。

 

 制御されるべきものだった。

 

 隠されるべきものだった。

 

 それを、この女は言った。

 

「お前は、ホワイトルームの関係者か」

 

『……』

 

「答えろ」

 

 

『清隆』

 

 名前を呼ばれる。

 

 その呼び方が、妙に懐かしかった。

 

 綾小路。

 

 先輩。

 

 清隆くん。

 

 先生。

 

 いろいろな呼ばれ方をしてきた。

 

 だが、この声の「清隆」は、それらとは違う。

 

 もっと古い。

 

 もっと白い。

 

 もっと冷たい。

 

 そして、もっと弱い。

 

『生きてて』

 

「……」

 

『それだけ』

 

 通話が切れる。

 

 ツーツーという電子音が耳に残った。

 

 俺はしばらく、携帯を耳に当てたままだった。

 

 画面を見る。

 

 非通知。

 

 通話時間は一分にも満たない。

 

 録音はしていない。

 

 着信履歴にも番号は残らない。

 

 情報としては乏しい。

 

 だが、無視するには、あまりにも引っかかる。

 

 ホワイトルームは終わっていない。

 

 まだ、見てる。

 

 白い部屋は、形を変えるだけ。

 

 清隆を欲しがる人がいる。

 

 逃げて。

 

 生きてて。

 

 誰の声だったのか。

 

 俺はすぐには思い出せなかった。

 

 いや。

 

 思い出したくなかったのかもしれない。

 

 白い部屋の記憶は、俺にとって必要な情報でしかなかった。

 

 そこにいた人間の顔も、声も、名前も。

 

 必要なもの以外は、どこかに置いてきた。

 

 だが、そのどこかから、細い糸が伸びてきた。

 

 俺は机の上に携帯を置く。

 

 PCの画面へ視線を戻す。

 

 未読メール。

 

 契約書。

 

 投資資料。

 

 会社の報告。

 

 現実のタスク。

 

 それらは変わらず、そこにある。

 

 世界は、たった一本の非通知電話で止まるわけではない。

 

 だから俺は、作業を再開した。

 

 しかし。

 

 画面の文字が、少しだけ遠く見えた。

 

 ホワイトルームは、終わっていない。

 

 その言葉だけが、白い壁のように、頭の奥に残り続けていた。

 

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