ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
非通知。
画面に表示された文字を見て、俺は一瞬だけ指を止めた。
時刻は深夜を少し過ぎた頃。
家の中は静かだった。
リビングには、つい数時間前まで誰かがいた気配が残っている。
飲みかけのコーヒー。
片付けられた資料。
誰かが座っていたソファの沈み。
だが、今は誰もいない。
櫛田も、軽井沢も、堀北も、それぞれの部屋へ戻っている。
一之瀬は自室で海外法人の資料を見ているはずだ。
天沢は、俺の知らないどこかで何かをしている。
俺は書斎にいた。
PCの画面には、いくつかの未読メール。
ニコラからの報告。
坂柳から転送された資料。
櫛田チームのまとめ。
堀北が確認した契約書の修正案。
それらを処理している途中だった。
着信音は一度だけ鳴った。
すぐに画面を見る。
非通知。
番号が表示されない。
営業電話。
嫌がらせ。
あるいは、こちらの番号を知っている誰か。
この番号を知る人間は限られている。
出ないという選択肢もあった。
しかし、指は自然と通話ボタンへ向かっていた。
「誰だ」
短く問う。
数秒、返答はなかった。
聞こえるのは、微かな呼吸音だけ。
雑音は少ない。
屋外ではない。
車の中でもない。
どこか静かな室内。
そう判断した。
『……清隆』
女の声だった。
若い。
か細い。
どこか、喉の奥で言葉を止めながら発しているような声。
聞き覚えがあるようで、ない。
いや。
記憶の奥に沈めたはずの声だった。
白い壁。
白い廊下。
規則正しい足音。
泣き声のない泣き顔。
そんな、忘れたはずの映像が頭の奥で揺れる。
「お前は誰だ」
俺は問い返した。
相手はすぐには答えない。
かわりに、ひどく小さな声で言った。
『ホワイトルームは、終わっていない』
その言葉で、空気が変わった。
指先がわずかに止まる。
ホワイトルーム。
俺の父が作った場所。
俺がいた場所。
そして、俺が外へ出た後も、影のように付きまとっていたもの。
「どういう意味だ」
『まだ、見てる』
「誰がだ」
沈黙。
相手は答えない。
いや、答えられないのかもしれない。
呼吸音だけが、わずかに乱れる。
「月城か」
返事はない。
「篤臣か」
やはり、返事はない。
「八神か。あるいは、別の関係者か」
『……違う』
初めて、否定が返ってきた。
その声は、少し震えていた。
「なら、お前は誰だ」
『白い部屋は、形を変えるだけ』
質問には答えない。
ただ、用意していた言葉を、なんとか絞り出しているようだった。
『終わったと思わないで』
「お前は、どこでそれを知った」
『清隆を、欲しがる人がいる』
「誰だ」
『たくさん』
断片的な言葉。
それだけでは情報にならない。
だが、感情は伝わってくる。
恐怖。
迷い。
そして、なぜか俺への警告。
「俺を脅しているのか」
『違う』
即答だった。
『逃げて』
弱い声。
だが、その一言だけははっきりしていた。
「逃げる必要があると思うのか」
『……うん』
「理由は?」
『清隆は、また使われる』
俺は黙った。
使われる。
その表現は、妙に引っかかった。
父に。
国家に。
ホワイトルームに。
企業に。
誰かの欲望に。
俺はこれまで、人を使う側だと思っていた。
少なくとも、そう振る舞ってきた。
だが、相手は俺を使われる側だと言った。
『白い部屋は、なくなっても、白い部屋の考え方は残る』
それは、少しだけ理解できた。
施設がなくなっても、思想は残る。
教育方法。
選別方法。
人間を成果物として見る目。
それらは、建物よりもずっとしぶとい。
「お前は、何を知っている」
『……少しだけ』
「誰に聞いた」
また沈黙。
だが、今度の沈黙は違う。
答えようとして、答えられない沈黙だった。
『ごめん』
「謝る必要はない。情報を言え」
『言えない』
「なぜだ」
『怖い』
その声で、また何かが揺れた。
怖い。
ホワイトルームの人間が、そんな言葉を素直に言うことは少ない。
恐怖は処理されるべきものだった。
制御されるべきものだった。
隠されるべきものだった。
それを、この女は言った。
「お前は、ホワイトルームの関係者か」
『……』
「答えろ」
『清隆』
名前を呼ばれる。
その呼び方が、妙に懐かしかった。
綾小路。
先輩。
清隆くん。
先生。
いろいろな呼ばれ方をしてきた。
だが、この声の「清隆」は、それらとは違う。
もっと古い。
もっと白い。
もっと冷たい。
そして、もっと弱い。
『生きてて』
「……」
『それだけ』
通話が切れる。
ツーツーという電子音が耳に残った。
俺はしばらく、携帯を耳に当てたままだった。
画面を見る。
非通知。
通話時間は一分にも満たない。
録音はしていない。
着信履歴にも番号は残らない。
情報としては乏しい。
だが、無視するには、あまりにも引っかかる。
ホワイトルームは終わっていない。
まだ、見てる。
白い部屋は、形を変えるだけ。
清隆を欲しがる人がいる。
逃げて。
生きてて。
誰の声だったのか。
俺はすぐには思い出せなかった。
いや。
思い出したくなかったのかもしれない。
白い部屋の記憶は、俺にとって必要な情報でしかなかった。
そこにいた人間の顔も、声も、名前も。
必要なもの以外は、どこかに置いてきた。
だが、そのどこかから、細い糸が伸びてきた。
俺は机の上に携帯を置く。
PCの画面へ視線を戻す。
未読メール。
契約書。
投資資料。
会社の報告。
現実のタスク。
それらは変わらず、そこにある。
世界は、たった一本の非通知電話で止まるわけではない。
だから俺は、作業を再開した。
しかし。
画面の文字が、少しだけ遠く見えた。
ホワイトルームは、終わっていない。
その言葉だけが、白い壁のように、頭の奥に残り続けていた。