ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~   作:〇彪

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第9話 地下アイドル

 <パプアニューギニア三日目>

 

 昨夜、大学の食堂で聞いた言葉が耳に残っていた。

 

 ──ホワイトルーム。

 

 渡辺の紹介した日本人。

 

 痩せた顔。

 鋭い目。

 学生には見えない佇まい。

 

 あの男は、確かにそう言った。

 

 だがその後、男は何も語らなかった。

 

 ただ酒を飲み、俺を見ていた。

 

 一之瀬が隣にいた以上、踏み込むことはしなかった。

 

 今はまだ、その時ではない。

 

 ◇

 

 翌日。

 

 午前は大使館。

 

 午後は民族の長に会いに行った。

 

 少し身体を動かした。

 

 交渉というより、力試しに近かった。

 

 それでも、こちらでやり残したことは終わった。

 

 電力会社の件は、一之瀬が上手く繋いでくれるだろう。

 

 彼女は英語でのやり取りを楽しんでいた。

 

 移動中も、ビジネス英語のアプリを開いている。

 

「清隆、これってどういう意味?」

 

「文脈によるな」

 

「じゃあ後で教えて」

 

「ああ」

 

 そういう会話が自然に増えていた。

 

 それが不思議だった。

 

 ◇

 

 四月三週目、月曜日。

 

 世界の小さなニュースサイトに、一つの記事が載った。

 

『世界の大富豪ランキング三十位に、日本人の二十歳がランクイン』

 

 名前は、綾小路清隆。

 

 資産七兆円。

 

 日本一のビリオネア。

 

 原因は、電気自動車の所有権まで資産に組み込まれたことだろう。

 

 さすがに誤魔化しきれなかった。

 

 面倒なことになる。

 

 そう思ったが、今さら止められない。

 

 ◇

 

 羽田に着いたのは夜だった。

 

 一之瀬とは空港で別れた。

 

 迎えに来たのは櫛田。

 

 俺はそのまま神田のライブハウスへ向かった。

 

 目的は一人。

 

 佐倉愛里。

 

 ◇

 

 ライブは終わっていた。

 

 地下の空間には、熱気だけが残っている。

 

 ファンとアイドルが交流する時間らしく、五人組のメンバーがそれぞれ小さな輪を作っていた。

 

 その中に、佐倉がいた。

 

 眼鏡はない。

 

 白い衣装。

 

 髪型も、表情も、高校時代とは違う。

 

 だが、すぐに分かった。

 

 彼女は笑っていた。

 

 ファンに向ける、仕事の笑顔。

 

 少し無理をしているようにも見えた。

 

 邪魔をするつもりはなかった。

 

 壁際の椅子に腰掛け、スマホを眺めていると、やがて小さな声が落ちてくる。

 

「あ、あやのこうじくん……?」

 

「佐倉か。よく分かったな」

 

「分かるよ……」

 

 佐倉は少し怒っているようにも、泣きそうにも見えた。

 

「どうして、ここに?」

 

「俺はお前のファンだからだ」

 

 

 目を合わせて言う。

 

 佐倉は固まった。

 

 周囲にいたメンバーたちも、こちらを見る。

 

「……十五分。ううん、十分で出られるから」

 

「ああ」

 

「裏で、待ってて」

 

 ◇

 

 裏口だと思っていた場所は裏口ではなかった。

 

 しばらくして、帽子を被った佐倉が慌てて駆けてくる。

 

「お待たせ」

 

「早かったな」

 

「待たせたくなかったから」

 

 首元に制汗スプレーの白い跡が残っている。

 

 急いで来たのだろう。

 

「ライブに間に合わなくて悪かった」

 

「ううん」

 

「一目見られれば良かったんだ。元気そうで安心した」

 

「……元気そうに見えた?」

 

 その問いに、少しだけ言葉が止まる。

 

「見えた。だが、本当に元気かは分からない」

 

 佐倉は俯いた。

 

「ご飯、まだなの」

 

「そうか」

 

「もしよかったら……話せる?」

 

 ◇

 

 日暮里の小さな居酒屋。

 

 個室。

 

 佐倉はウーロン茶を頼んだ。

 

 俺も同じものにした。

 

「お酒は飲まないのか?」

 

「明日も仕事だから」

 

「アイドルは大変だな」

 

「うん。でも……大変って言えるほど、売れてないけど」

 

 笑っている。

 

 だが声は軽くない。

 

「ファンはいるだろ」

 

「少しはね」

 

「俺もその一人だ」

 

「……それ、ずるい」

 

「何がだ」

 

「そんなこと言われたら、頑張りたくなっちゃう」

 

 佐倉は唐揚げに箸を伸ばす。

 

 けれど、すぐには食べなかった。

 

「最近、ちょっと際どい仕事が増えてきて」

 

「際どい仕事?」

 

「露出が多いモデルとか。身体目当てのファンもいるし、テレビの人に部屋へ誘われたこともある」

 

「行ったのか」

 

「行かなかった」

 

「それでいい」

 

 即答すると、佐倉が驚いたように顔を上げた。

 

「仕事に繋がったかもしれないよ?」

 

「それでも行かなくていい」

 

「……綾小路くんって、そういうこと言うんだね」

 

「ファンだからな」

 

「ファンって便利だね」

 

「便利に使ってくれ」

 

 少しだけ、佐倉が笑った。

 

 ◇

 

「オーナーも変わったらしくて」

 

「事務所のか?」

 

「うん。だから、私もクビになるかも」

 

「ならない」

 

「どうして言い切れるの?」

 

「そうならないようにする人間がいるからだ」

 

 佐倉は意味が分からないという顔をした。

 

 当然だ。

 

 まだ彼女は知らない。

 

 今日、櫛田と軽井沢が芸能事務所へ行ったことも。

 

 その会社が、俺の支配下に入ることも。

 

 そして、佐倉愛里の使い道を、俺が既に考えていることも。

 

「佐倉」

 

「うん」

 

「俺はお前の頑張りを応援している。だから、お前だけはそれを否定するな」

 

「……っ」

 

「辛いなら辛いでいい。苦しいなら苦しいでいい。だが、頑張っていないとは言うな」

 

 沈黙。

 

 佐倉は箸を握ったまま、目を伏せる。

 

「そんな風に言われたの、初めてかも」

 

「そうか」

 

「うん」

 

 彼女は小さく笑った。

 

 高校時代より、少しだけ強い笑顔だった。

 

 ◇

 

 連絡先を交換した。

 

 二度目のような気がした。

 

 だが、今度は違う。

 

 今度は、消えない関係として。

 

「また連絡していい?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「ファン対応としては上出来だろ」

 

「もう……」

 

 佐倉は笑った。

 

 その笑顔を見て、来て良かったと思った。

 

 ◇

 

 店を出ると、目の前に車が停まっていた。

 

 助手席に乗る。

 

 車はすぐに走り出す。

 

「遅かったね」

 

「推しのアイドルと会っていた」

 

「……ふーん」

 

 運転席の櫛田が、前を向いたまま返す。

 

「おかえり」

 

「ああ。ただいま」

 

 しばらく沈黙。

 

 そして。

 

「ねぇ綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「一之瀬さんと、したの?」

 

 予想外の角度だった。

 

「どこからが“した”になる?」

 

「……挿れたら、でしょ」

 

「ならしていない」

 

「いや、その答え方がもう怪しいんだけど」

 

 櫛田はハンドルを握る手に、少し力を込める。

 

「堀北も、なんかあった顔してた」

 

「そうか」

 

「軽井沢さんも、あんたのこと清隆って呼んでる」

 

「そうだな」

 

「一之瀬さんは、帰ってきてからずっとふわふわしてる」

 

「長旅だったからだろう」

 

「嘘」

 

 櫛田は即座に否定した。

 

「ねぇ、私だけ置いていくつもり?」

 

 その言葉だけ、声色が違った。

 

「仕事の話か?」

 

「違う」

 

「なら何だ」

 

「分かってるくせに」

 

 櫛田は笑った。

 

 いつもの外向きの笑顔ではない。

 

 少し苛立っていて。

 

 少し寂しそうで。

 

 少し、怖い顔。

 

「私、住んでるんだけど」

 

「ああ」

 

「一番近くにいるんだけど」

 

「ああ」

 

「なのに、あんた私には全然触らないよね」

 

「触ってほしいのか」

 

「……そういう聞き方、ほんと嫌い」

 

 そう言いながら。

 

 櫛田は否定しなかった。

 

 ◇

 

 マンションへ着く。

 

 家の中は静かだった。

 

 軽井沢と一之瀬はもう部屋にいるのだろう。

 

 リビングの明かりだけが、淡く点いている。

 

「ラム酒、飲むんでしょ?」

 

「ああ。土産だ」

 

 グラスを二つ出す。

 

 氷。

 

 南国のラム。

 

 甘い香り。

 

 櫛田はカウンターに肘をつき、こちらを見る。

 

「ねぇ」

 

「なんだ」

 

「私、今日ちょっと変かも」

 

「仕事で疲れているんだろ」

 

「違う」

 

 櫛田はグラスを持つ。

 

 一口飲む。

 

 喉が動く。

 

「ずっと考えてた」

 

「何を」

 

「あんたが帰ってきてから、私の生活めちゃくちゃになったなって」

 

「すまない」

 

「謝らないで。嫌じゃないから」

 

 櫛田は笑う。

 

 今度は少しだけ、本音に近い笑みだった。

 

「むしろ、困ってるの」

 

「何に」

 

「嫌じゃないことに」

 

 沈黙。

 

 遠くで、冷蔵庫の音がする。

 

 櫛田が立ち上がる。

 

 距離が近くなる。

 

「ねぇ、綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「私のこと、怖い?」

 

「怖くはない」

 

「嫌い?」

 

「嫌いではない」

 

「じゃあ」

 

 櫛田は俺のシャツを掴む。

 

 指先が震えていた。

 

 それが意外だった。

 

「ちゃんと、私も見てよ」

 

 いつもの櫛田桔梗ではなかった。

 

 人の心を操る笑顔も。

 

 毒を隠す声も。

 

 全部、剥がれかけていた。

 

 そこにいたのは。

 

 置いていかれることを恐れる、ただの女だった。

 

「桔梗」

 

 名前を呼ぶと、櫛田の肩が小さく跳ねる。

 

「……名前で呼ばないで」

 

「嫌か」

 

「嫌じゃないから困るの」

 

 俺は彼女の頬へ触れた。

 

 櫛田は目を逸らさない。

 

 むしろ、待っていたように目を閉じる。

 

 その瞬間。

 

 彼女の表情が変わった。

 

 武器としての笑顔が消えた。

 

 綺麗な仮面が外れた。

 

 唇が触れる。

 

 短い。

 

 だが、十分だった。

 

 櫛田は息を止めていた。

 

 離れると、彼女はゆっくり目を開ける。

 

「……もう一回」

 

 声が小さい。

 

「本当にいいのか」

 

「聞かないで」

 

「確認は必要だ」

 

「いい」

 

 即答だった。

 

「私が、いいって言ってる」

 

 もう一度、唇が重なる。

 

 今度は少し長い。

 

 櫛田の指が、俺のシャツを強く掴む。

 

 最初は強がっていた。

 

 けれど、少しずつ力が抜けていく。

 

 肩から。

 

 指先から。

 

 呼吸から。

 

 櫛田桔梗が、少しずつ変わっていく。

 

「……綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「私、たぶん今日、戻れない」

 

「戻らなくていいのか」

 

「戻りたくない」

 

 その言葉は、爽やかなくらい真っ直ぐだった。

 

 櫛田は俺の手を取り、自分の部屋の方へ歩き出す。

 

 途中で一度だけ振り返る。

 

 顔は赤い。

 

 だが、目は逃げていない。

 

「来て」

 

 その一言で十分だった。

 

 そして俺は。

 

 初めて、櫛田桔梗の部屋へ足を踏み入れた。

 

 ◇

 

 夜は長かった。

 

 櫛田は何度も名前を呼んだ。

 

 途中からは、綾小路くんではなく、清隆くんと。

 

 泣いて。

 

 笑って。

 

 怒って。

 

 甘えて。

 

 感情を全部ぶちまけるように、俺に縋った。

 

「置いていかないで」

 

「ああ」

 

「私を一番にして」

 

「ああ」

 

「嘘でもいいから」

 

「ああ」

 

「嘘って分かっててもいいから」

 

「ああ」

 

 俺は何度も頷いた。

 

 必要な言葉を渡す。

 

 必要な仕草を返す。

 

 必要な沈黙を作る。

 

 櫛田が求める“愛されている実感”を、正確に演じた。

 

 彼女はそれで壊れていく。

 

 壊れながら、幸せそうだった。

 

 俺はその様子を見ながら思う。

 

 人間は、与えられたい言葉が分かっている時ほど、簡単に落ちる。

 

 そして。

 

 その事実に、俺の心はほとんど動かなかった。

 

 ◇

 

 朝。

 

 厚手のカーテンの向こうで、日が昇っていた。

 

 櫛田は眠っている。

 

 泣き疲れた子供のような顔だった。

 

 俺はベッドの端に腰掛け、彼女の寝顔を見る。

 

 数時間前まで、櫛田桔梗だったもの。

 

 今は少し違う。

 

 俺が変えた。

 

 いや。

 

 変わるきっかけを与えただけか。

 

 どちらでもいい。

 

 俺は立ち上がり、静かに部屋を出た。

 

 ◇

 

 廊下を歩く。

 

 リビングから音楽が聞こえた。

 

 洗面所でタオルを洗濯機に入れ、回す。

 

 その時、背後に気配を感じた。

 

「──おかえり、清隆」

 

 振り返る。

 

 スーツ姿の軽井沢が立っていた。

 

 出かける前なのだろう。

 

 髪もメイクも整っている。

 

 ただ、その目だけが妙に静かだった。

 

「ただいま、恵」

 

「朝早いね」

 

「ああ」

 

「……眠れなかった?」

 

「少しな」

 

 軽井沢は俺を見る。

 

 何かに気づいたのか。

 

 それとも気づかないふりをしているのか。

 

「今日、九時半から商談なの」

 

「送るか?」

 

「いいの?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、同席して」

 

 それは買収したアパレル会社の顔合わせだった。

 

 軽井沢に任せた案件。

 

 俺が行くのは本来、想定外だった。

 

「分かった。九時に出る」

 

「うん。コーヒー淹れて待ってる」

 

「濃いめで頼む」

 

「分かった」

 

 軽井沢は笑った。

 

 いつも通りの笑顔だった。

 

 だが、俺がシャワールームへ向かおうとした時。

 

 背後から、彼女の声が落ちた。

 

「ねぇ、清隆」

 

「なんだ」

 

「櫛田さん、今日は起きてこないんだね」

 

 俺は足を止める。

 

 振り返ると、軽井沢は笑っていた。

 

 笑っているのに。

 

 目だけは、まったく笑っていなかった。

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