ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
<パプアニューギニア三日目>
昨夜、大学の食堂で聞いた言葉が耳に残っていた。
──ホワイトルーム。
渡辺の紹介した日本人。
痩せた顔。
鋭い目。
学生には見えない佇まい。
あの男は、確かにそう言った。
だがその後、男は何も語らなかった。
ただ酒を飲み、俺を見ていた。
一之瀬が隣にいた以上、踏み込むことはしなかった。
今はまだ、その時ではない。
◇
翌日。
午前は大使館。
午後は民族の長に会いに行った。
少し身体を動かした。
交渉というより、力試しに近かった。
それでも、こちらでやり残したことは終わった。
電力会社の件は、一之瀬が上手く繋いでくれるだろう。
彼女は英語でのやり取りを楽しんでいた。
移動中も、ビジネス英語のアプリを開いている。
「清隆、これってどういう意味?」
「文脈によるな」
「じゃあ後で教えて」
「ああ」
そういう会話が自然に増えていた。
それが不思議だった。
◇
四月三週目、月曜日。
世界の小さなニュースサイトに、一つの記事が載った。
『世界の大富豪ランキング三十位に、日本人の二十歳がランクイン』
名前は、綾小路清隆。
資産七兆円。
日本一のビリオネア。
原因は、電気自動車の所有権まで資産に組み込まれたことだろう。
さすがに誤魔化しきれなかった。
面倒なことになる。
そう思ったが、今さら止められない。
◇
羽田に着いたのは夜だった。
一之瀬とは空港で別れた。
迎えに来たのは櫛田。
俺はそのまま神田のライブハウスへ向かった。
目的は一人。
佐倉愛里。
◇
ライブは終わっていた。
地下の空間には、熱気だけが残っている。
ファンとアイドルが交流する時間らしく、五人組のメンバーがそれぞれ小さな輪を作っていた。
その中に、佐倉がいた。
眼鏡はない。
白い衣装。
髪型も、表情も、高校時代とは違う。
だが、すぐに分かった。
彼女は笑っていた。
ファンに向ける、仕事の笑顔。
少し無理をしているようにも見えた。
邪魔をするつもりはなかった。
壁際の椅子に腰掛け、スマホを眺めていると、やがて小さな声が落ちてくる。
「あ、あやのこうじくん……?」
「佐倉か。よく分かったな」
「分かるよ……」
佐倉は少し怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
「どうして、ここに?」
「俺はお前のファンだからだ」
目を合わせて言う。
佐倉は固まった。
周囲にいたメンバーたちも、こちらを見る。
「……十五分。ううん、十分で出られるから」
「ああ」
「裏で、待ってて」
◇
裏口だと思っていた場所は裏口ではなかった。
しばらくして、帽子を被った佐倉が慌てて駆けてくる。
「お待たせ」
「早かったな」
「待たせたくなかったから」
首元に制汗スプレーの白い跡が残っている。
急いで来たのだろう。
「ライブに間に合わなくて悪かった」
「ううん」
「一目見られれば良かったんだ。元気そうで安心した」
「……元気そうに見えた?」
その問いに、少しだけ言葉が止まる。
「見えた。だが、本当に元気かは分からない」
佐倉は俯いた。
「ご飯、まだなの」
「そうか」
「もしよかったら……話せる?」
◇
日暮里の小さな居酒屋。
個室。
佐倉はウーロン茶を頼んだ。
俺も同じものにした。
「お酒は飲まないのか?」
「明日も仕事だから」
「アイドルは大変だな」
「うん。でも……大変って言えるほど、売れてないけど」
笑っている。
だが声は軽くない。
「ファンはいるだろ」
「少しはね」
「俺もその一人だ」
「……それ、ずるい」
「何がだ」
「そんなこと言われたら、頑張りたくなっちゃう」
佐倉は唐揚げに箸を伸ばす。
けれど、すぐには食べなかった。
「最近、ちょっと際どい仕事が増えてきて」
「際どい仕事?」
「露出が多いモデルとか。身体目当てのファンもいるし、テレビの人に部屋へ誘われたこともある」
「行ったのか」
「行かなかった」
「それでいい」
即答すると、佐倉が驚いたように顔を上げた。
「仕事に繋がったかもしれないよ?」
「それでも行かなくていい」
「……綾小路くんって、そういうこと言うんだね」
「ファンだからな」
「ファンって便利だね」
「便利に使ってくれ」
少しだけ、佐倉が笑った。
◇
「オーナーも変わったらしくて」
「事務所のか?」
「うん。だから、私もクビになるかも」
「ならない」
「どうして言い切れるの?」
「そうならないようにする人間がいるからだ」
佐倉は意味が分からないという顔をした。
当然だ。
まだ彼女は知らない。
今日、櫛田と軽井沢が芸能事務所へ行ったことも。
その会社が、俺の支配下に入ることも。
そして、佐倉愛里の使い道を、俺が既に考えていることも。
「佐倉」
「うん」
「俺はお前の頑張りを応援している。だから、お前だけはそれを否定するな」
「……っ」
「辛いなら辛いでいい。苦しいなら苦しいでいい。だが、頑張っていないとは言うな」
沈黙。
佐倉は箸を握ったまま、目を伏せる。
「そんな風に言われたの、初めてかも」
「そうか」
「うん」
彼女は小さく笑った。
高校時代より、少しだけ強い笑顔だった。
◇
連絡先を交換した。
二度目のような気がした。
だが、今度は違う。
今度は、消えない関係として。
「また連絡していい?」
「ああ」
「本当に?」
「ファン対応としては上出来だろ」
「もう……」
佐倉は笑った。
その笑顔を見て、来て良かったと思った。
◇
店を出ると、目の前に車が停まっていた。
助手席に乗る。
車はすぐに走り出す。
「遅かったね」
「推しのアイドルと会っていた」
「……ふーん」
運転席の櫛田が、前を向いたまま返す。
「おかえり」
「ああ。ただいま」
しばらく沈黙。
そして。
「ねぇ綾小路くん」
「なんだ」
「一之瀬さんと、したの?」
予想外の角度だった。
「どこからが“した”になる?」
「……挿れたら、でしょ」
「ならしていない」
「いや、その答え方がもう怪しいんだけど」
櫛田はハンドルを握る手に、少し力を込める。
「堀北も、なんかあった顔してた」
「そうか」
「軽井沢さんも、あんたのこと清隆って呼んでる」
「そうだな」
「一之瀬さんは、帰ってきてからずっとふわふわしてる」
「長旅だったからだろう」
「嘘」
櫛田は即座に否定した。
「ねぇ、私だけ置いていくつもり?」
その言葉だけ、声色が違った。
「仕事の話か?」
「違う」
「なら何だ」
「分かってるくせに」
櫛田は笑った。
いつもの外向きの笑顔ではない。
少し苛立っていて。
少し寂しそうで。
少し、怖い顔。
「私、住んでるんだけど」
「ああ」
「一番近くにいるんだけど」
「ああ」
「なのに、あんた私には全然触らないよね」
「触ってほしいのか」
「……そういう聞き方、ほんと嫌い」
そう言いながら。
櫛田は否定しなかった。
◇
マンションへ着く。
家の中は静かだった。
軽井沢と一之瀬はもう部屋にいるのだろう。
リビングの明かりだけが、淡く点いている。
「ラム酒、飲むんでしょ?」
「ああ。土産だ」
グラスを二つ出す。
氷。
南国のラム。
甘い香り。
櫛田はカウンターに肘をつき、こちらを見る。
「ねぇ」
「なんだ」
「私、今日ちょっと変かも」
「仕事で疲れているんだろ」
「違う」
櫛田はグラスを持つ。
一口飲む。
喉が動く。
「ずっと考えてた」
「何を」
「あんたが帰ってきてから、私の生活めちゃくちゃになったなって」
「すまない」
「謝らないで。嫌じゃないから」
櫛田は笑う。
今度は少しだけ、本音に近い笑みだった。
「むしろ、困ってるの」
「何に」
「嫌じゃないことに」
沈黙。
遠くで、冷蔵庫の音がする。
櫛田が立ち上がる。
距離が近くなる。
「ねぇ、綾小路くん」
「なんだ」
「私のこと、怖い?」
「怖くはない」
「嫌い?」
「嫌いではない」
「じゃあ」
櫛田は俺のシャツを掴む。
指先が震えていた。
それが意外だった。
「ちゃんと、私も見てよ」
いつもの櫛田桔梗ではなかった。
人の心を操る笑顔も。
毒を隠す声も。
全部、剥がれかけていた。
そこにいたのは。
置いていかれることを恐れる、ただの女だった。
「桔梗」
名前を呼ぶと、櫛田の肩が小さく跳ねる。
「……名前で呼ばないで」
「嫌か」
「嫌じゃないから困るの」
俺は彼女の頬へ触れた。
櫛田は目を逸らさない。
むしろ、待っていたように目を閉じる。
その瞬間。
彼女の表情が変わった。
武器としての笑顔が消えた。
綺麗な仮面が外れた。
唇が触れる。
短い。
だが、十分だった。
櫛田は息を止めていた。
離れると、彼女はゆっくり目を開ける。
「……もう一回」
声が小さい。
「本当にいいのか」
「聞かないで」
「確認は必要だ」
「いい」
即答だった。
「私が、いいって言ってる」
もう一度、唇が重なる。
今度は少し長い。
櫛田の指が、俺のシャツを強く掴む。
最初は強がっていた。
けれど、少しずつ力が抜けていく。
肩から。
指先から。
呼吸から。
櫛田桔梗が、少しずつ変わっていく。
「……綾小路くん」
「なんだ」
「私、たぶん今日、戻れない」
「戻らなくていいのか」
「戻りたくない」
その言葉は、爽やかなくらい真っ直ぐだった。
櫛田は俺の手を取り、自分の部屋の方へ歩き出す。
途中で一度だけ振り返る。
顔は赤い。
だが、目は逃げていない。
「来て」
その一言で十分だった。
そして俺は。
初めて、櫛田桔梗の部屋へ足を踏み入れた。
◇
夜は長かった。
櫛田は何度も名前を呼んだ。
途中からは、綾小路くんではなく、清隆くんと。
泣いて。
笑って。
怒って。
甘えて。
感情を全部ぶちまけるように、俺に縋った。
「置いていかないで」
「ああ」
「私を一番にして」
「ああ」
「嘘でもいいから」
「ああ」
「嘘って分かっててもいいから」
「ああ」
俺は何度も頷いた。
必要な言葉を渡す。
必要な仕草を返す。
必要な沈黙を作る。
櫛田が求める“愛されている実感”を、正確に演じた。
彼女はそれで壊れていく。
壊れながら、幸せそうだった。
俺はその様子を見ながら思う。
人間は、与えられたい言葉が分かっている時ほど、簡単に落ちる。
そして。
その事実に、俺の心はほとんど動かなかった。
◇
朝。
厚手のカーテンの向こうで、日が昇っていた。
櫛田は眠っている。
泣き疲れた子供のような顔だった。
俺はベッドの端に腰掛け、彼女の寝顔を見る。
数時間前まで、櫛田桔梗だったもの。
今は少し違う。
俺が変えた。
いや。
変わるきっかけを与えただけか。
どちらでもいい。
俺は立ち上がり、静かに部屋を出た。
◇
廊下を歩く。
リビングから音楽が聞こえた。
洗面所でタオルを洗濯機に入れ、回す。
その時、背後に気配を感じた。
「──おかえり、清隆」
振り返る。
スーツ姿の軽井沢が立っていた。
出かける前なのだろう。
髪もメイクも整っている。
ただ、その目だけが妙に静かだった。
「ただいま、恵」
「朝早いね」
「ああ」
「……眠れなかった?」
「少しな」
軽井沢は俺を見る。
何かに気づいたのか。
それとも気づかないふりをしているのか。
「今日、九時半から商談なの」
「送るか?」
「いいの?」
「ああ」
「じゃあ、同席して」
それは買収したアパレル会社の顔合わせだった。
軽井沢に任せた案件。
俺が行くのは本来、想定外だった。
「分かった。九時に出る」
「うん。コーヒー淹れて待ってる」
「濃いめで頼む」
「分かった」
軽井沢は笑った。
いつも通りの笑顔だった。
だが、俺がシャワールームへ向かおうとした時。
背後から、彼女の声が落ちた。
「ねぇ、清隆」
「なんだ」
「櫛田さん、今日は起きてこないんだね」
俺は足を止める。
振り返ると、軽井沢は笑っていた。
笑っているのに。
目だけは、まったく笑っていなかった。