ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
軽井沢との同行まで、一時間。
俺は三十分で身支度を整えた。
紺のスーツ。 白いシャツ。 黒いベルト。 黒い革靴。
鏡の前に立つ。
ただ清潔にしているだけでは足りない。
人は、見た目で判断する。
服の皺。 姿勢。 視線の置き方。 言葉の間。 相手の話を聞く角度。
アメリカで学んだことの一つだ。
優秀な営業マンは、商品を売る前に、自分を売る。
相手が話しやすい空気を作り、 相手が勝手に信用したくなる距離を取り、 相手が自分の情報を渡したくなる顔をする。
つまり。
最初に支配するべきは、会議室ではない。
第一印象だ。
◇
リビングへ出ると、軽井沢がコーヒーを用意していた。
「わ……スーツ姿の清隆、出来る人オーラすごい」
「待たせたな、行くか。恵」
俺はコーヒーを一気に飲む。
少し離れたダイニングで、一之瀬が朝食を取っていた。
「綾小路くん、おはよう!」
「ああ、おはよう」
一之瀬は少しラフな部屋着だった。
視線が合うと、彼女は柔らかく笑った。
その笑顔を見て、昨夜の櫛田の顔が一瞬だけ脳裏をよぎる。
泣いていた。 縋っていた。
そして俺は、必要な言葉を渡した。
それだけだ。
「清隆?」
「いや。行こう」
◇
アパレル会社は吉祥寺駅から近い場所にあった。
古い建物。
一階が店舗。 二階が事務所。 倉庫も併設されている。
アメリカ発祥の老舗アパレルブランド。
日本法人の全株式を買い上げた。
ブランド力はある。 固定ファンもいる。 急激な改革は必要ない。
今回の目的は、軽井沢に“会社を持つ感覚”を覚えさせること。
ただ、それだけだった。
「緊張する……」
入口前で軽井沢が小さく呟く。
「緊張していい」
「いいの?」
「ああ。相手もそれを見る」
「どういう意味?」
「若い女が緊張しながらも真剣に会社と向き合っている。そう見えれば、相手は助けたくなる」
「……清隆、そういうの計算してるんだ」
「当然だ」
「怖」
軽井沢はそう言いながらも、表情を引き締めた。
店舗に入り、店員へ声をかける。
「本日九時半にお約束しております、K・A社の軽井沢です。前代表様と広報担当者様にお取り次ぎいただけますでしょうか」
悪くない。
声は少し硬いが、十分だ。
◇
応接室。
現れたのは前代表の高齢女性と、広報担当の女性だった。
広報担当は、美しい人だった。
柔らかい髪。 整った笑顔。 派手すぎない服装。 相手に警戒心を与えない距離感。
星之宮知恵を思わせる雰囲気がある。
「本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
前代表が頭を下げる。
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
軽井沢が少しぎこちなく返す。
「こちら、広報担当のチエです。社歴十年で、役員も兼ねています」
「よろしくお願いいたします」
チエは座ったまま、綺麗に頭を下げた。
俺はそれを見ながら、軽く頷く。
話す必要はない。
今日は軽井沢の日だ。
俺は隣に座るだけでいい。
ただし、姿勢は崩さない。
視線は相手に向ける。
相手が話す時だけ、僅かに頷く。
必要な時だけ、薄く笑う。
それだけでいい。
最強の営業マンは、多くを喋らない。
相手に喋らせる。
◇
打ち合わせは穏やかに進んだ。
店舗別売上。 従業員数。 アメリカ本社とのやり取り。 部長への報告系統。
軽井沢は、時折言葉に詰まりながらも、丁寧に質問を重ねた。
「前日の全店舗売上は、毎朝私に共有してください」
「承知しました」
「それと、部長の皆さんが各店舗に指示した内容も、チエさん経由で共有してもらえると助かります」
「はい。すぐに整えます」
前代表は、満足そうに軽井沢を見ていた。
若い。 未熟。 だが、真剣。
それは年長者にとって、悪い印象にはならない。
やがて前代表が席を外し、応接室には俺と軽井沢とチエだけが残った。
「ふぅ……」
チエが少し砕けた息を吐く。
「正直、もっと怖い方が来ると思っていました」
「怖い方?」
軽井沢が首を傾げる。
「会社を買収する方って、もっとこう……数字だけ見て現場を切り捨てるイメージがあったので」
「私もまだ分からないことばかりなので、チエさんに教えてもらえると助かります」
「もちろんです。軽井沢さん、思っていたよりずっと話しやすいです」
「本当ですか? よかったぁ……」
軽井沢が少し笑う。
掴みは悪くない。
チエは軽井沢を気に入った。
そして同時に、俺にも強い興味を持っている。
目線で分かる。
会話を軽井沢へ向けながら、意識の何割かをこちらに置いている。
「ところで」
チエがこちらを見る。
「綾小路さんは、本当に二十歳なんですか?」
「今年で二十歳だ」
「信じられませんね」
「よく言われる」
「しかも、あのニュースの方ですよね?」
軽井沢が反応する。
「あのニュース?」
「世界長者番付の件です。日本で一番の資産家だとか」
「え、清隆、それ本当なの?」
「概ね事実だ」
「概ねって何!?」
軽井沢が声を上げる。
チエは楽しそうに笑う。
「イケメンで、若くて、大金持ち。しかも落ち着いている。危ないですね」
「危ない?」
「近づきたくなる、という意味です」
チエは冗談めかして言った。
だが、目は冗談ではなかった。
軽井沢の笑顔が、少しだけ引きつる。
「チエさん、結婚は……?」
「しています。でも別れます」
「えぇ!?」
即答だった。
「だって、人生は短いですから」
チエは笑う。
「いい出会いがあれば、乗り換えるのも一つの選択です」
「そ、それはちょっと……」
軽井沢が困った顔になる。
俺は時計を見る。
「軽井沢、そろそろ次の予定だ」
「あっ、そうだった」
空気を切る。
今はこれ以上、この場に留まる意味がない。
◇
「最後に」
チエが立ち上がる。
「綾小路さんの連絡先を伺っても?」
来ると思っていた。
断る理由は作れる。
だが断れば、軽井沢の仕事に影響する。
「構いません」
会社用端末を出す。
「弊社は名刺を使っていません。こちらのQRコードを読み取ってください」
「ありがとうございます」
チエはすぐに読み取った。
登録通知。
そして、最初のメッセージ。
[次はいつ空いてますか]
早い。
軽井沢は内容を見ていないはずだが、察したのだろう。
「じゃ、じゃあ部長の皆さんにご挨拶を!」
焦ったように立ち上がる。
その様子を見て、チエは小さく笑った。
◇
その後、プレス担当の女性たちが次々に現れた。
名刺。 挨拶。 質問。 興味。 好意。
空気がこちらに寄ってくる。
俺は一人一人に丁寧に返した。
声の高さを合わせる。 相手の名前を繰り返す。 服装を一つ褒める。 話している内容を短く要約して返す。
それだけで相手は勝手に喋る。
営業とは、相手に気持ちよく情報を渡させる技術だ。
軽井沢は遠くから、不安そうにこちらを見ていた。
チエもまた、そんな軽井沢を見ている。
面白い。
嫉妬。 警戒。 所有欲。
それらが同じ空間で薄く混ざっている。
NTR、という言葉があるらしい。
正確な意味は知っている。
だが、実際に構造として見ると興味深い。
人は、自分のものだと思った瞬間に、相手を失う恐怖を覚える。
それは恋愛でも、会社でも同じだ。
◇
帰りの車内。
軽井沢はしばらく黙っていた。
「どうだった?」
俺が聞くと、軽井沢は窓の外を見たまま答える。
「チエさん、すごい人だった」
「ああ」
「でも、ちょっと苦手」
「なぜだ」
「清隆を見る目が、仕事じゃなかった」
「そうか」
「そうか、じゃない」
軽井沢は頬を膨らませる。
「ねぇ、清隆」
「なんだ」
「ああいう人にも、同じ顔するの?」
「同じ顔?」
「優しい顔」
「営業用だ」
「……それが一番ムカつく」
軽井沢は小さく呟いた。
だがその声には、怒りだけではなく不安も混ざっていた。
「恵」
「なに」
「今日はよくやった」
軽井沢は一瞬黙る。
「……ほんと?」
「ああ。十分だ」
「じゃあ、もっと褒めて」
「今度な」
「出た。今度な」
それでも軽井沢は、少しだけ嬉しそうだった。
◇
その時、俺のスマホが震えた。
佐倉からだった。
昨日交換したばかりの連絡先。
画面には、短いメッセージが表示されている。
[綾小路くん、助けて]
続けて、画像が一枚。
楽屋のような部屋。
床に落ちた白い衣装。
割れた鏡。
そして、震える指で撮ったのだろう。
写真の端に、赤い文字で書かれた張り紙が映っていた。
『次はお前の番だ』
軽井沢が横から画面を覗き込む。
「……なに、これ」
俺はアクセルを踏み込んだ。
アパレル会社で作った穏やかな空気は、一瞬で消えた。
◇
──軽井沢の担当先へ同行した、その帰り道。
佐倉から届いた一枚の写真。
割れた鏡。 床に落ちた白い衣装。 赤い文字で書かれた、脅迫文。
『次はお前の番だ』
俺はその足で佐倉の元へ向かった。
幸い、佐倉本人に大きな怪我はなかった。
だが、犯人は現場に一つだけ余計なものを残していた。
防犯カメラに映った、外食チェーンの制服。
そして佐倉の証言。
「この人……波瑠加ちゃんのバイト先で、見たことあるかも」
それだけで十分だった。
佐倉を脅した人間と、長谷部を追い詰めた人間。
線は一本に繋がった。
だから俺は、一週間かけて会社を買った。
犯人を殴るためではない。
犯人が逃げ込める場所ごと、俺のものにするためだ。
◇
軽井沢の担当先へ同行してから、一週間が経った。
四月四週目、月曜日。
午前九時。
俺は、ある外食チェーンの本社前に車を停めた。
日本最大級の飲食チェーン。
買収額は四百億。
筆頭株主。 兼、監査役。
数字だけ見れば、大きな投資だ。
だが俺にとっては、ただの手段でしかない。
理由は一つ。
この会社の高田馬場店に、長谷部波瑠加がいる。
そして、そこに彼女を傷つけた人間がいる。
「……相変わらず、やることが大きいわね」
助手席の堀北が、書類を閉じながら言った。
「必要だった」
「一店舗の店長を処分するために、会社ごと買う人間は普通いないわ」
「普通のやり方では、揉み消される可能性がある」
「だから株を買って、監査役になった?」
「ああ」
堀北は呆れたように息を吐く。
だが、止めなかった。
「違法なことはさせないわよ」
「そのためにお前を呼んだ」
「便利に使われているのは分かっているけれど……今回だけは、乗るわ」
その声には、怒りが混ざっていた。
長谷部と特別親しかったわけではない。
だが、堀北はこういう理不尽を嫌う。
だから連れてきた。
◇
本社入口には、スーツ姿の男たちが並んでいた。
全員、五十代以上。
役員。 部長。 社長。
新しい筆頭株主を迎えるための列。
俺が車を降りると、一斉に頭が下がる。
「おはようございます!」
声が揃う。
俺は返事をしない。
この沈黙も、演出だ。
俺が何を考えているか分からない。
何を怒っているのか分からない。
そう思わせることが、今日の第一段階だった。
「綾小路様、ご案内いたします!」
雇われ社長が前へ出てくる。
俺は目だけで先導を促した。
社長は額に汗を浮かべながら、エレベーターへ向かう。
堀北は俺の隣を歩きながら、小さく呟いた。
「あなた、わざとやっているわね」
「何をだ」
「感じ悪く振る舞うこと」
「必要だろ」
「……否定できないのが腹立たしいわ」
◇
最上階。
社長室。
俺は案内された社長席に座った。
堀北は隣に立つ。
社長が短期計画書を差し出した。
「こちら、短期計画書でございます」
俺は受け取らない。
堀北が代わりに手に取る。
数分後、彼女は資料を閉じた。
「大きな問題はなさそうね。ただ、現場報告の粒度が粗い」
「そうか」
「週次で数値報告。店舗別の人員配置。クレーム件数。社員とアルバイトの面談記録。全部出してもらう必要があるわ」
堀北が社長を見る。
「可能ですね?」
「も、もちろんでございます!」
「それから、労務管理と個人情報管理の監査も入れます」
「は、はい!」
社長は何度も頷く。
堀北の声は冷たい。
だが、それでいい。
俺が暴力的に盤面を壊す。
堀北が法律と社内規定で形にする。
役割分担は明確だった。
「十時に高田馬場店へ行く」
俺は初めて口を開いた。
「役員を準備させろ。社長も同行しろ。それから物流責任者も呼べ」
「か、かしこまりました!」
社長は慌てて部下へ連絡を入れる。
堀北だけが、俺を見ていた。
「本命は、高田馬場店ね」
「ああ」
「最初から言いなさい」
「言えば、お前は余計な心配をする」
「もうしているわ」
◇
午前十時。
高田馬場店。
店の前に三台の車が停まる。
社長車。 役員車。 俺の乗ったセンチュリー。
路上駐車になるが、用事は長くない。
店内に入ると、普段より明らかに声が大きい挨拶が響いた。
「いらっしゃいませ!」
緊張している。
当然だ。
本社役員が全員来ている。
しかも新しい監査役もいる。
店長らしき四十代の男が、入口で直立していた。
「おはようございます! 本日はよろしくお願い申し上げます!」
「ああ」
俺は店内を見る。
客席。 厨房。 動線。 レジ。 スタッフルーム。
表向きは視察。
だが目的は一つ。
「店内を見せてもらう」
「もちろんでございます!」
店長が先導する。
後ろには社長と堀北。
役員たちは店内の配置や運営状況を見ている。
俺は人を見る。
名札。 表情。 視線。
誰が怯えているか。
誰が状況を理解していないか。
誰が、俺を避けているか。
◇
厨房へ入る前に手洗いと消毒をする。
社員たちは固まっていた。
店長の圧があるのだろう。
誰も余計なことを言わない。
俺は一人ずつ名札を見る。
その中に、事前資料にあった名前を確認した。
男は目を合わせなかった。
分かりやすい。
◇
最後にスタッフルームへ入る。
そこに、長谷部波瑠加がいた。
制服姿。
髪を後ろでまとめている。
以前より少し痩せたように見える。
だが、顔色は思ったほど悪くない。
佐倉から聞いた通り、生理は来たのだろう。
それだけは救いだった。
「おはようございます!」
彼女は深々と頭を下げる。
顔を上げた瞬間、目が合った。
「……あれ? きよぽん?」
「波瑠加。久しぶりだな」
「え、なんでここに? っていうかスーツ姿、初めて見た。カッコよ……」
店長の表情が凍る。
「同級生なんです」
長谷部が慌てて補足する。
「そうか。元気そうで安心した」
「うん。色々ありがとね」
「三宅とは話したか?」
「……うん。ちゃんと話した。怒られたけど、泣かれた」
「そうか」
「でも、仲直りしたよ」
「それなら良かった」
店長の額に汗が浮かんだ。
長谷部は一瞬だけ、店長を見た。
目が泳ぐ。
それで十分だった。
俺は振り返る。
「堀北」
「ええ」
堀北は既に書類を開いていた。
理解している。
さすがだ。
「事前資料にあった通り、この店舗で個人情報流出および業務秩序違反の可能性がある」
店長の顔色が変わる。
俺は続けた。
「対象は店長。それから厨房にいた社員、──だ」
名前を出した瞬間、店内の空気が止まった。
厨房側で、役員に押さえられた社員がこちらを見る。
逃げようとはしない。
いや、逃げられない。
「ま、待ってください。何かの誤解です」
店長が声を絞り出す。
「誤解かどうかを調べる」
俺は淡々と言った。
「会社所有情報が、個人端末や私物PCに保存されていないか確認する。監視カメラ映像、勤怠履歴、シフト変更履歴、店舗内連絡記録も確認する」
「そ、それは……」
「就業規則にある」
堀北が冷たく言った。
「先週改定済みです。業務秩序を乱す重大な疑いがある場合、会社は正当な目的を提示し、業務関連情報の確認を求めることができます」
「そんな、急に……」
「急ではありません」
堀北は店長を見る。
「あなたたちは会社員です。会社の信用を毀損する疑いがある以上、監査に協力する義務があります」
店長は言葉を失う。
社長が口を開いた。
「店長。協力しなさい」
「社長……」
「疑っていない。だが確認は必要だ」
社長の声は震えていた。
恐怖だ。
俺に対してではない。
この会社ごと見捨てられることへの恐怖。
「二人は今から本社へ移動」
堀北が指示を出す。
「個人端末には触らないでください。ロッカー内の私物は役員立ち会いで回収。自宅については、本人同意の上で調査。拒否する場合は、会社として別途処分検討に入ります」
「ひ、ひどい……」
店長が呟いた。
俺は初めて、真正面から彼を見る。
「ひどい?」
店長は息を飲む。
「動画を撮って脅すよりは、随分と穏やかだと思うが」
店長の顔から血の気が引いた。
長谷部が息を止める。
堀北は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに顔を上げる。
「綾小路くん」
「なんだ」
「その発言は、まだ断定には早いわ」
「そうだったな」
俺は店長を見る。
「今のは仮定だ。調査で明らかにしよう」
堀北が小さく息を吐く。
俺の暴走を止める役。
やはり、連れてきて正解だった。
◇
店長と社員は、本社役員に挟まれて店を出た。
残されたスタッフたちは、何が起きたのか分からず固まっている。
長谷部も同じだった。
「きよぽん……」
「仕事中だろ」
「……うん」
「いつも通り働け」
「そんなの無理だよ」
「なら、今日は早退でもいい。社長」
「は、はい!」
「長谷部波瑠加は本日、有給扱いにしろ。今後のシフトについても本人の希望を最優先。給与補償も出す」
「承知しました!」
「それから」
俺は堀北を見る。
「被害者対応は、会社として正式に行う。医療機関、弁護士、警察対応、全て本人の希望を確認して進めろ」
「分かっているわ」
堀北は長谷部へ向き直る。
「長谷部さん。詳しい話は、私が聞くわ。嫌なら話さなくてもいい。けれど、あなたが望む形に近づけるために、必要なことだけ整理させて」
長谷部の目に涙が浮かぶ。
「……堀北さん、変わったね」
「そうかしら」
「うん。なんか、優しい」
「勘違いよ」
堀北は少しだけ目を逸らした。
◇
俺は店舗を出た。
役員たちは、明らかに怯えていた。
だが、それでいい。
今日の目的は、犯人二人だけではない。
会社全体に刻み込むこと。
俺の知人に手を出せば、会社ごとひっくり返される。
その事実を。
センチュリーの後部座席に乗る。
スマホを開く。
佐倉からのメッセージを遡る。
[相談に乗ってくれないかな?]
そこへ引用返信する。
[完了]
送信。
数秒後、既読。
そして、佐倉から返信が来た。
[ありがとう]
さらに少し遅れて、もう一通。
[波瑠加ちゃん、今泣いてる]
俺は画面を見つめる。
感情は、思ったほど動かない。
ただ一つ。
約束を守った。
それだけだった。
◇
その時。
堀北から着信が入った。
『綾小路くん』
「どうした」
『端末から、動画が出たわ』
「そうか」
『それだけじゃない』
堀北の声が、いつもより低かった。
『被害者は長谷部さんだけじゃない。少なくとも、他に三人いる』
俺は窓の外を見る。
高田馬場の雑踏が、何事もなかったように流れている。
『どうするの?』
「決まっている」
俺は静かに答えた。
「この会社の膿を、全部出す」
◇
──高田馬場の件から、一か月が経った。
長谷部波瑠加の件は、表向きには“内部監査による不正発覚”として処理された。
店長は懲戒解雇。
社員も同様。
動画データは押収。
被害者は複数人。
会社側は示談と補償対応に追われることになった。
世間には出ない。
大企業とは、そういうものだ。
だが、長谷部は救われた。
三宅とも関係を修復したらしい。
佐倉から送られてくる写真には、久しぶりに笑う長谷部の姿が映っていた。
綾小路は、それを見て満足した。
それで十分だった。
◇
五月。
都内某所。
「いやマジで意味分かんねぇってお前」
橋本正義が笑いながら缶ビールを煽る。
「飲食チェーン買収とか、スケール感バグってんだろ」
「必要だった」
「その必要が怖ぇんだよ」
深夜の高架下。
コンビニ袋を片手に、二人は適当に座っていた。
高校卒業後も、橋本だけは昔と変わらない。
軽薄で。
空気が読めて。
妙に頭が回る。
「でもまぁ、お前が動く時って、大体女絡みだよな」
「違う」
「いや絶対そう」
橋本が笑う。
「一之瀬、軽井沢、櫛田、佐倉……最近は堀北までいるんだろ? お前いつの間にハーレム主人公になった?」
「なってない」
「でもお前、女に甘いぜ?」
「……そうか?」
「自覚ねぇのかよ」
橋本は呆れながら空を見る。
*
問。
人は平等か否か。
高校一年生の時に出した答えとは、異なる結論を俺は導き出そうとしている。
世界は平等になりたがる。
人や国の不平等を無くそうという意思。
人々はそんなもの偽善だ、虚像だと笑うだろう。
笑えばいい。
笑ったところで、世の中の流れは止まらない。
少なくとも、弱者に手を差し伸べるべきだという価値観は世界に根づき始めている。
そうなると、弱者に手を差し伸べない人間は恥ずかしいという風潮になる。
誰も大っぴらに、人は不平等だとは言えなくなった。
そしてインターネットを通じ、世界中の人間が等しく世界へ挑戦出来る選択肢を与えられた。
だが、選択肢を与えられても、選べない人間はいる。
助けられる側に回ることを覚えた人間。
逃げることで生き延びる人間。
施しを権利だと思う人間。
救いを求めながら、救われた後に何も返さない人間。
それらを、人は弱者と呼ぶ。
ならば。
弱者とはどこまでが人で、どこからが社会に寄生する存在なのか。
[b:彼らは本当に人だと定義できるのだろうか。]
そんな事を考えながら歩いていた時だった。
「……あ……あやのこうじ……先輩?」
路地裏。
雨に濡れたネオンの隙間。
男達に囲まれる、小柄なツインテールの少女がいた。
胸倉を掴まれている。
立ち止まる。
少女の目がこちらを捉えた。
だが、その目だけは異様に鋭い。
少女は、綾小路を見た瞬間。
なぜか。
ほんの少しだけ笑った。
「──あ」
まるで。
助かった、とでも言うように。
少女は、真っ直ぐこちらへ走ってきた。
「センパァ~イ!」
そして。
当然のように、綾小路の腕を掴む。
「助けてください」
その瞬間。
綾小路清隆の、少し騒がしい五月が始まった。