ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~   作:〇彪

3 / 5
第3話 権力

 翌日。

 

 堀北は、結局泊まっていった。

 

「大学の講義はないわ」

 

 そう言っていたが、それだけが理由ではないだろう。

 

 朝から櫛田と並んで資料を広げ、俺の会社の仕事にまで口を出している。

 

「櫛田さん、この資料、数字がずれているわ」

 

「分かってるって。今直してるから」

 

「分かっているなら、先に直しておくべきじゃないかしら」

 

「ねぇ綾小路くん、この人ほんとに手伝いなの?」

 

「戦力にはなっている」

 

「性格が戦力外なんだけど」

 

「聞こえているわよ」

 

 二人のやり取りを聞きながら、俺はコーヒーを口にする。

 

 妙な光景だった。

 

 高度育成高等学校は終わった。

 卒業した。

 もう、あの教室には戻らない。

 

 それなのに。

 

 櫛田がいて、堀北がいて、俺はその声を聞きながら朝を迎えている。

 

 悪くない。

 

 そう思った自分に、少しだけ驚いた。

 

 ◇

 

 医療法人の資料を確認していた時、一つの名字で指が止まった。

 

 一之瀬。

 

 俺は出かけることにした。

 

 ◇

 

 病院は、小平市にあった。

 

 古い建物。

 消毒液の匂い。

 静かな廊下。

 

 俺が買収した医療法人の一つ。

 

 利益は出ていない。

 設備も新しくない。

 

 だがここには、俺が会わなければならない人間がいた。

 

 大部屋の窓際。

 

 一之瀬帆波は、静かに椅子へ座っていた。

 

 母親はベッドで眠っている。

 

 一之瀬は本を開いていたが、文字を追ってはいなかった。

 

 その横顔は、高校時代より少し痩せて見えた。

 

「お母さん……」

 

 小さな声。

 

 誰にも聞かせるつもりのない声だった。

 

「死なないで」

 

 その一言で、足が止まった。

 

 高校時代、一之瀬はいつも笑っていた。

 明るくて、優しくて、誰かのために動ける人間だった。

 

 だが今、彼女はただの娘だった。

 

 母親を失うことを恐れる、一人の娘だった。

 

 俺はその声を、忘れないように胸へ刻んだ。

 

 ◇

 

 回診の時間。

 

 俺は白衣を着て、一之瀬の母親の元へ向かった。

 

「一之瀬さん、調子はいかがですか?」

 

「はい。いつもお世話になっております」

 

 ベッドの女性が弱く微笑む。

 

「ストレス性胃炎ですね」

 

「はい……」

 

「原因に心当たりは?」

 

 母親は少しだけ黙った。

 

 それから、隣の娘を見る。

 

「娘たちに、迷惑をかけたくなくて」

 

「お母さん……」

 

 一之瀬の声が震える。

 

「働きすぎたのかもしれません」

 

「娘さんのために?」

 

「はい」

 

「立派なお母さんですね」

 

 そう言うと、一之瀬の肩が小さく揺れた。

 

 その時、彼女が顔を上げる。

 

 目が合った。

 

 時間が止まる。

 

「……あやの……こうじ、くん?」

 

「久しぶりだな、一之瀬」

 

 その瞬間。

 

 一之瀬帆波の表情が、見たことのないものへ変わった。

 

 驚き。

 困惑。

 安堵。

 そして、泣きそうなほどの喜び。

 

「なんで……」

 

「仕事だ」

 

「仕事って……」

 

「この病院の理事長になった」

 

「……え?」

 

 母親も目を丸くする。

 

「あの、帆波。先生とお知り合いなの?」

 

「う、うん……高校の、同級生」

 

「仲良くさせていただきました」

 

 俺は事務局長へ視線を送る。

 

 分厚い封筒。

 

「確認したところ、治療費の過徴収がございました。こちら返金分です」

 

 母娘が固まる。

 

「過徴収……?」

 

「はい。手続き上の不備です」

 

 一之瀬は俺を見ていた。

 

 責めるように。

 疑うように。

 それでいて、救われた人間の目で。

 

「綾小路くん……」

 

「回診中だ」

 

 それだけ言って、俺は立ち上がる。

 

「後で話そう」

 

 一之瀬は小さく頷いた。

 

 だがその目は、俺から離れなかった。

 

 ◇

 

 病院を出ると、一之瀬帆波が入口で待っていた。

 

「待っていたのか」

 

「うん」

 

「一時間以上経っている」

 

「そんなに待ってないよ」

 

 嘘だ。

 

 だが追及しなかった。

 

「嫌われていると思っていた」

 

「え?」

 

「卒業前後、色々あったからな」

 

 一之瀬は首を横に振る。

 

「嫌いになるわけないよ」

 

「そうか」

 

「この一年」

 

 彼女はまっすぐ俺を見る。

 

「一度も忘れたことなかった」

 

 風が止まったように感じた。

 

「これからどこに行くの?」

 

「もう一人、会う予定がある」

 

「誰?」

 

「まだ言わない」

 

「むー」

 

 一之瀬は少しだけ頬を膨らませる。

 

「仕事だぞ」

 

「分かってるよ」

 

「ついてくるつもりか」

 

「うん」

 

「なぜだ」

 

 一之瀬は迷わず答えた。

 

「私が一緒にいたいから」

 

 その言葉は明るかった。

 

 優しかった。

 

 だが、どこか逃げ道を塞ぐようでもあった。

 

 ◇

 

 車を停めた場所は、一之瀬の通う大学だった。

 

「あれ? ここ、私の大学だ」

 

「そうなのか」

 

「うん。有名だから名前は知ってると思うけど」

 

「場所までは知らなかった」

 

 一之瀬はすぐに察したようだった。

 

「ここにいるってことは……そういうことだよね」

 

「ああ」

 

「そっか」

 

 彼女は笑った。

 

「じゃあ、私は少し散歩してくるね」

 

「いいのか?」

 

「うん。邪魔したくないから」

 

 邪魔。

 

 その言葉だけが、妙に残った。

 

 ◇

 

 講義棟から学生たちが出てくる。

 

 目的の人物は、一年生に混じって必修科目を受けていた。

 

 軽井沢恵。

 

 高校時代、一度付き合っていた相手。

 

 そして、俺が自分の都合で手放した相手。

 

「あの人、誰?」

 

「芸能人?」

 

「かっこよくない?」

 

 人垣が出来る。

 

 どう対処すべきか迷いながら、一つずつ質問に答えていた。

 

 その時。

 

「──ちょっと! どいて!」

 

 聞き覚えのある声。

 

 人垣の奥から、軽井沢恵が現れた。

 

 彼女は俺を見るなり、その場で止まった。

 

「……あ」

 

 声になっていない。

 

「久しぶりだな、軽井沢」

 

「……綾小路、くん」

 

 昔は、名前で呼ばれていた。

 

 だが今は違う。

 

 距離のある呼び方。

 

 それが妙に胸へ残った。

 

「お前に会いに来た」

 

「……なんで」

 

「話したかった」

 

「今さら?」

 

「ああ」

 

 軽井沢は笑おうとした。

 

 だが、うまく笑えていない。

 

「ほんと、勝手だよね」

 

「そうだな」

 

「卒業したら消えて」

 

「ああ」

 

「連絡もなくて」

 

「ああ」

 

「一年経って、急に現れて」

 

「ああ」

 

 軽井沢は俯いた。

 

 それから、小さく呟く。

 

「……会いたかった」

 

 その一言で、周囲の音が遠くなった。

 

 ◇

 

 車内。

 

 軽井沢が助手席。

 一之瀬は後部座席。

 

 妙な空気だった。

 

「なにこの車……奮発したの?」

 

「必要だった」

 

「その答え、綾小路くんっぽいね」

 

 一之瀬が後ろから笑う。

 

「一之瀬さん、詳しそうだね」

 

「午前中に色々聞いたから」

 

「ふーん」

 

 軽井沢の声が尖る。

 

 信号で止まる。

 

 俺は軽井沢を見る。

 

 少し大人びた横顔。

 それでも、高校時代と同じ目。

 

「相変わらず可愛いな」

 

「っ──!?」

 

 軽井沢の顔が一瞬で赤くなる。

 

「な、何いきなり言ってんの!?」

 

「事実だ」

 

「そういうのやめて!」

 

「嫌か?」

 

「嫌じゃ……ないけど!」

 

 後部座席から、一之瀬の声がした。

 

「綾小路くん、私は?」

 

「運転中に後部座席を見るのは危ない」

 

「じゃあ降りたら見てね」

 

「そういう問題じゃないから!」

 

 軽井沢の突っ込みで、車内の空気が少しだけ緩んだ。

 

 だが。

 

 誰も気づかない場所で、関係はすでに動き始めていた。

 




明日から19時投稿です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。