ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
翌日。
堀北は、結局泊まっていった。
「大学の講義はないわ」
そう言っていたが、それだけが理由ではないだろう。
朝から櫛田と並んで資料を広げ、俺の会社の仕事にまで口を出している。
「櫛田さん、この資料、数字がずれているわ」
「分かってるって。今直してるから」
「分かっているなら、先に直しておくべきじゃないかしら」
「ねぇ綾小路くん、この人ほんとに手伝いなの?」
「戦力にはなっている」
「性格が戦力外なんだけど」
「聞こえているわよ」
二人のやり取りを聞きながら、俺はコーヒーを口にする。
妙な光景だった。
高度育成高等学校は終わった。
卒業した。
もう、あの教室には戻らない。
それなのに。
櫛田がいて、堀北がいて、俺はその声を聞きながら朝を迎えている。
悪くない。
そう思った自分に、少しだけ驚いた。
◇
医療法人の資料を確認していた時、一つの名字で指が止まった。
一之瀬。
俺は出かけることにした。
◇
病院は、小平市にあった。
古い建物。
消毒液の匂い。
静かな廊下。
俺が買収した医療法人の一つ。
利益は出ていない。
設備も新しくない。
だがここには、俺が会わなければならない人間がいた。
大部屋の窓際。
一之瀬帆波は、静かに椅子へ座っていた。
母親はベッドで眠っている。
一之瀬は本を開いていたが、文字を追ってはいなかった。
その横顔は、高校時代より少し痩せて見えた。
「お母さん……」
小さな声。
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
「死なないで」
その一言で、足が止まった。
高校時代、一之瀬はいつも笑っていた。
明るくて、優しくて、誰かのために動ける人間だった。
だが今、彼女はただの娘だった。
母親を失うことを恐れる、一人の娘だった。
俺はその声を、忘れないように胸へ刻んだ。
◇
回診の時間。
俺は白衣を着て、一之瀬の母親の元へ向かった。
「一之瀬さん、調子はいかがですか?」
「はい。いつもお世話になっております」
ベッドの女性が弱く微笑む。
「ストレス性胃炎ですね」
「はい……」
「原因に心当たりは?」
母親は少しだけ黙った。
それから、隣の娘を見る。
「娘たちに、迷惑をかけたくなくて」
「お母さん……」
一之瀬の声が震える。
「働きすぎたのかもしれません」
「娘さんのために?」
「はい」
「立派なお母さんですね」
そう言うと、一之瀬の肩が小さく揺れた。
その時、彼女が顔を上げる。
目が合った。
時間が止まる。
「……あやの……こうじ、くん?」
「久しぶりだな、一之瀬」
その瞬間。
一之瀬帆波の表情が、見たことのないものへ変わった。
驚き。
困惑。
安堵。
そして、泣きそうなほどの喜び。
「なんで……」
「仕事だ」
「仕事って……」
「この病院の理事長になった」
「……え?」
母親も目を丸くする。
「あの、帆波。先生とお知り合いなの?」
「う、うん……高校の、同級生」
「仲良くさせていただきました」
俺は事務局長へ視線を送る。
分厚い封筒。
「確認したところ、治療費の過徴収がございました。こちら返金分です」
母娘が固まる。
「過徴収……?」
「はい。手続き上の不備です」
一之瀬は俺を見ていた。
責めるように。
疑うように。
それでいて、救われた人間の目で。
「綾小路くん……」
「回診中だ」
それだけ言って、俺は立ち上がる。
「後で話そう」
一之瀬は小さく頷いた。
だがその目は、俺から離れなかった。
◇
病院を出ると、一之瀬帆波が入口で待っていた。
「待っていたのか」
「うん」
「一時間以上経っている」
「そんなに待ってないよ」
嘘だ。
だが追及しなかった。
「嫌われていると思っていた」
「え?」
「卒業前後、色々あったからな」
一之瀬は首を横に振る。
「嫌いになるわけないよ」
「そうか」
「この一年」
彼女はまっすぐ俺を見る。
「一度も忘れたことなかった」
風が止まったように感じた。
「これからどこに行くの?」
「もう一人、会う予定がある」
「誰?」
「まだ言わない」
「むー」
一之瀬は少しだけ頬を膨らませる。
「仕事だぞ」
「分かってるよ」
「ついてくるつもりか」
「うん」
「なぜだ」
一之瀬は迷わず答えた。
「私が一緒にいたいから」
その言葉は明るかった。
優しかった。
だが、どこか逃げ道を塞ぐようでもあった。
◇
車を停めた場所は、一之瀬の通う大学だった。
「あれ? ここ、私の大学だ」
「そうなのか」
「うん。有名だから名前は知ってると思うけど」
「場所までは知らなかった」
一之瀬はすぐに察したようだった。
「ここにいるってことは……そういうことだよね」
「ああ」
「そっか」
彼女は笑った。
「じゃあ、私は少し散歩してくるね」
「いいのか?」
「うん。邪魔したくないから」
邪魔。
その言葉だけが、妙に残った。
◇
講義棟から学生たちが出てくる。
目的の人物は、一年生に混じって必修科目を受けていた。
軽井沢恵。
高校時代、一度付き合っていた相手。
そして、俺が自分の都合で手放した相手。
「あの人、誰?」
「芸能人?」
「かっこよくない?」
人垣が出来る。
どう対処すべきか迷いながら、一つずつ質問に答えていた。
その時。
「──ちょっと! どいて!」
聞き覚えのある声。
人垣の奥から、軽井沢恵が現れた。
彼女は俺を見るなり、その場で止まった。
「……あ」
声になっていない。
「久しぶりだな、軽井沢」
「……綾小路、くん」
昔は、名前で呼ばれていた。
だが今は違う。
距離のある呼び方。
それが妙に胸へ残った。
「お前に会いに来た」
「……なんで」
「話したかった」
「今さら?」
「ああ」
軽井沢は笑おうとした。
だが、うまく笑えていない。
「ほんと、勝手だよね」
「そうだな」
「卒業したら消えて」
「ああ」
「連絡もなくて」
「ああ」
「一年経って、急に現れて」
「ああ」
軽井沢は俯いた。
それから、小さく呟く。
「……会いたかった」
その一言で、周囲の音が遠くなった。
◇
車内。
軽井沢が助手席。
一之瀬は後部座席。
妙な空気だった。
「なにこの車……奮発したの?」
「必要だった」
「その答え、綾小路くんっぽいね」
一之瀬が後ろから笑う。
「一之瀬さん、詳しそうだね」
「午前中に色々聞いたから」
「ふーん」
軽井沢の声が尖る。
信号で止まる。
俺は軽井沢を見る。
少し大人びた横顔。
それでも、高校時代と同じ目。
「相変わらず可愛いな」
「っ──!?」
軽井沢の顔が一瞬で赤くなる。
「な、何いきなり言ってんの!?」
「事実だ」
「そういうのやめて!」
「嫌か?」
「嫌じゃ……ないけど!」
後部座席から、一之瀬の声がした。
「綾小路くん、私は?」
「運転中に後部座席を見るのは危ない」
「じゃあ降りたら見てね」
「そういう問題じゃないから!」
軽井沢の突っ込みで、車内の空気が少しだけ緩んだ。
だが。
誰も気づかない場所で、関係はすでに動き始めていた。
明日から19時投稿です。