ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
帰り道、恵はよく喋った。
最近ハマっているコスメ。
大学の友人。
好きなアイドル。
講義で隣になった女子の話。
付き合っていた頃と同じだった。
いや。
同じではない。
一度終わった関係だからこそ、言葉の一つ一つが少しだけ慎重だった。
「ただいまぁ〜!」
「おかえり〜!」
リビングに戻ると、思った以上に人が増えていた。
「綾小路くん、久しぶり」
「綾小路。一之瀬から誘われてな」
平田と神崎だった。
「平田、神崎。よく来たな」
「なんか凄い家だね」
「櫛田から聞いていたが、想像以上だ」
「ちょうど男手が欲しいと思っていたところだ」
そう言うと、平田が苦笑する。
「分かる気がするよ」
神崎は部屋を見回してから、俺へ視線を戻した。
「会社を経営しているらしいな。俺にも噛ませてくれ。うちはIT企業だ」
「神崎にも声をかけるつもりだった」
「本当か」
「ああ。少し待っていてくれ。まだ整理したい案件がある」
「分かった」
神崎は短く頷いた。
その目は昔より鋭い。
だが、どこか嬉しそうでもあった。
◇
書斎で仕事を片付け、リビングへ戻る。
テーブルには酎ハイの缶。
宅配ピザの箱。
ポテトチップスの袋。
大学生の集まりらしい光景だった。
その中で、堀北だけがバーカウンターにいた。
ライムの入ったグラスを持ち、こちらを見る。
「仕事は終わったのかしら」
「ああ」
「なら少しくらい付き合いなさい」
「それは酒か?」
「ジントニックよ」
「未成年だろ」
「販売した大人が問題なのよ」
「そういう理屈で飲むのか」
「たまにはいいでしょう」
堀北は立ち上がり、俺の分のグラスを作り始める。
氷。
ジン。
トニックウォーター。
ライム。
手つきは意外と綺麗だった。
「慣れているな」
「料理は趣味だもの」
「酒も料理の範囲か」
「細かいことを言うのね」
グラスを差し出される。
「はい」
「ありがとう」
一口飲む。
苦味と甘味と酸味。
悪くない。
「美味いな」
「そう」
堀北は少しだけ満足げだった。
その表情が妙に新鮮で、俺はしばらく彼女を見る。
「……何よ」
「いや」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「部屋着が似合っていると思っただけだ」
堀北の手が止まる。
ラフな服装。
普段より短い丈。
白い肌。
「……見る場所を選びなさい」
「見えているものを見ただけだ」
「最低ね」
「すまない」
「謝ればいいと思っているの?」
「違うのか」
堀北はため息を吐く。
だが、本気で怒ってはいなかった。
◇
「ところで」
「なんだ」
「私、ここに住むことにしたわ」
「……そうか」
「驚かないのね」
「櫛田が住んでいる時点で、そういう流れになるとは思っていた」
「失礼ね」
「部屋は決めたのか」
「櫛田さんの隣」
「なぜそこに」
「監視しやすいから」
「仲がいいな」
「殺すわよ」
堀北の頬は少し赤い。
酒のせいか。
それとも別の理由か。
すると突然、櫛田の声が飛んできた。
「あーーーーっ!」
全員が振り返る。
「堀北、抜け駆けしようとしてない!?」
「していないわ」
「してる顔だった!」
「どんな顔よ」
リビングが笑いに包まれる。
平田が手招きする。
「二人とも、こっちに来なよ」
俺と堀北は輪に加わった。
◇
夜が更けた。
右に一之瀬。
左に恵。
正面に佐藤と網倉。
少し離れて櫛田と堀北。
平田と神崎は、どこか保護者のような顔で見ていた。
一之瀬は梅酒を飲んでいた。
「それ、飲みやすいのか」
「うん。甘いよ」
「少し貰ってもいいか」
「いいよ」
一之瀬が缶を差し出す。
だがその直前、恵が横から手を伸ばした。
「わ、私も飲んでみたい」
「うん、どうぞ」
一之瀬は笑顔で渡す。
その笑顔が柔らかすぎて、逆に恵が少し固まった。
「……ありがと」
恵が飲み、俺に渡す。
甘い。
ほとんどジュースのようだった。
「飲みすぎるなよ」
「大丈夫だよ」
一之瀬は笑う。
「帰れなくなったら困る」
「泊まってもいいんだよね?」
「ああ」
「じゃあ困らないね」
軽い言葉。
なのに、どこか逃げ道を塞がれたような気がした。
◇
午前零時。
「そろそろ寝る」
「もう?」
恵がこちらを見る。
「明日も早い」
「清隆らしい」
「恵の部屋を決めるんだったな」
「うん」
「ついてこい」
恵は立ち上がる。
少し酔っているのか、足取りがいつもより柔らかい。
部屋をいくつか見て回り、恵は窓際の部屋を選んだ。
広いベッド。
大きなモニター。
収納。
静かな夜景。
「ここがいい」
「早いな」
「直感」
「そうか」
俺はベッドのカバーを外し、机を拭き、空調を入れた。
恵はカードキーを取りに行き、しばらくして戻ってくる。
「おまたせ」
「ああ」
「……綺麗にしてくれたんだ」
「すぐ使える方がいいだろ」
「ありがと」
扉が静かに閉まる。
部屋の中が、急に静かになった。
恵はそのまま俺へ近づいてくる。
「どうした」
返事はない。
細い腕が、俺の背中へ回る。
「ん……」
額が胸に当たる。
香水の匂い。
シャンプーの匂い。
昔と違うはずなのに、どこか懐かしい。
「清隆」
「なんだ」
「今日、ずっと変だった」
「そうか」
「だって……一之瀬さんもいて、佐藤もいて、櫛田さんもいて、堀北さんもいて」
恵は顔を上げる。
「なのに、清隆は普通の顔してる」
「普通ではなかったと思うが」
「うそ」
小さな声。
「私だけ、ずっとぐちゃぐちゃだった」
そう言って、恵は唇を尖らせる。
昔と同じ癖。
キスを求める時の顔だった。
俺は少しだけ見つめる。
それから、額へ口づけた。
「……そこ?」
「嫌だったか」
「嫌じゃないけど」
恵は不満そうに目を細める。
「昔より意地悪になった」
「そうかもしれない」
「否定してよ」
今度は頬に触れる。
恵は逃げない。
まつ毛が揺れる。
指先で髪を耳にかけると、彼女の肩が小さく震えた。
「……そんな触り方、ずるい」
「ずるいのか」
「ずるい」
恵は俺のシャツを掴む。
強く。
離したくないみたいに。
「今日だけは、もう少し甘やかして」
「佐藤と寝るんだろ」
「……分かってる」
「これ以上は止まらなくなる」
「止めなくてもいいのに」
小さく呟いた声は、聞こえないふりをするには近すぎた。
俺は恵を抱き寄せる。
今度は唇へ触れた。
短く。
だが、昔よりも深く残る口づけだった。
「ん……」
恵の指がシャツに食い込む。
少し離れると、彼女は目を開けた。
泣きそうな顔で笑っていた。
「待ってるから」
「……」
「清隆が来るまで」
「保証は出来ない」
「知ってる」
恵は頷く。
「でも待ってる」
その言葉は、甘さよりも重かった。
◇
翌朝。
まだ誰も起きていないと思っていた。
午前五時。
アメリカとの会議を終え、ダイニングでコーヒーを飲む。
そこへ堀北が現れた。
昨日と同じ部屋着。
「お仕事中かしら?」
「終わったところだ」
「なら私にもコーヒーをいれて頂戴」
「高いぞ」
「望むところよ」
コーヒーを渡す。
堀北はPCの画面を見る。
「パプアニューギニア?」
「勝手に見るな」
「見えたのよ」
「少し気になっただけだ」
「旅行?」
「まだ予定はない」
「そう」
堀北はカップに口をつける。
「私は京都に行きたいわ」
「京都ならすぐ行けるだろ」
「一人だと、少し寂しいじゃない」
その言い方が、妙に柔らかかった。
「付き合っている相手はいないのか」
「いないわ」
「須藤は?」
「友人よ」
「他には」
「……好きな人ならいる」
俺は少しだけ動きを止めた。
「初耳だな」
「言っていないもの」
「誰だ」
「知っている人よ」
「高校の人間か」
「ええ」
「学か?」
「兄さんではないわ」
堀北はカップを置く。
「知りたい?」
「ああ」
「なら、私の部屋まで来て」
◇
堀北の部屋は静かだった。
扉が閉まると、外の音が消える。
彼女はベッドへ腰掛ける。
「そこに立っていないで、こっちへ来たら?」
「いいのか」
「私が呼んだのよ」
隣へ座る。
近い。
昨日までの距離とは違う。
「ヒントだったな」
「ええ」
堀北は顔を近づける。
耳元へ唇が寄る。
吐息が触れる。
「──ないしょ」
そう言って、彼女は俺へ抱きついた。
「絶対、教えないわ」
「そうか」
「ええ」
「なら、どうしても教えてもらうしかないな」
堀北は目を閉じた。
「あなたに出来る?」
俺は唇を重ねた。
短く。
堀北の身体が小さく震える。
離れると、彼女はとろんとした目でこちらを見る。
それからまた、静かに目を閉じた。
今度は長く触れる。
コーヒーとミントの匂い。
堀北の指が、俺の袖を掴む。
弱く。
けれど必死に。
「……綾小路くん」
「なんだ」
「こういうの、ずるいわ」
「嫌か」
「嫌なら、呼ばないわ」
堀北はそう言いながら、顔を逸らす。
だが離れない。
しばらくして、俺は静かに身体を離した。
「ここまでだ」
「……どうして」
「これ以上は止まらなくなる」
堀北は黙る。
頬が赤い。
「……そう」
「悪いな」
「謝る必要はないわ」
彼女は小さく息を吐く。
「次は、止めなくていいわよ」
その声は、普段の堀北からは想像できないほど小さかった。
立ち上がる前に、俺はふと思い出す。
「ところで」
「何かしら」
「お前の好きな人は誰なんだ?」
堀北は俺を見る。
ゴミを見るような目だった。
「……本気で言っているの?」
「質問しただけだ」
「今日は出てって頂戴」
扉を閉める直前。
堀北の声が聞こえた。
「でも」
振り返る。
堀北は視線を逸らしたまま言った。
「次は、逃げないで」
その言葉だけが、朝の静かな廊下に残った。