ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
堀北とのキスを終えた後、なんだか悶々としたまま、俺は自室に戻り仕事を再開した。
書斎ではなく、ベッドルームのデスクでノートパソコンを広げる。
調査中の会社の動向を見る。
大きい会社だ。
その分、決定が遅い。
コスト削減も進まない。
一、二か月の遅れが致命傷になる。
そんなことを考えていると、アメリカ用の携帯が鳴った。
短く会話を終え、証券会社のアプリを立ち上げる。
とあるIT企業の株を売却した。
所有株式の一部。
利益は二十七億円ほど。
数字としては悪くない。
だが、重要なのは利益ではない。
その企業は、もう潮時だった。
五百名以上の従業員を抱える会社。
経営陣は後に引けなくなり、粉飾決算に手を出した。
税も払えないだろう。
──俺は指先一つで、五百名の人間を路頭に迷わせる。
そして何事もなかったかのように、安くなった会社を購入する。
これは悪か。
それとも救済か。
昔の俺なら考えなかった。
だが今は、少しだけ考える。
それでも手は止めなかった。
◇
朝食の席。
リビングには、一之瀬、網倉、堀北、櫛田、佐藤、恵が揃っていた。
皆、和気あいあいと朝食の準備を進めている。
俺も何か手伝おうかと聞いたが、いらないと言われた。
少しだけ傷ついた。
シャワーから戻ると、俺の分の朝食がトレーに置かれていた。
堀北が作ったらしい。
目は合わなかった。
俺は櫛田と軽井沢の間に座る。
「櫛田、Sテクノロジーの株はすべて売却した」
「……ええええええ!?」
「そう驚くことでもない。まもなくあの会社は倒産する。従業員五百名を路頭に迷わせることなど出来ないからな。会社は俺が購入する」
「お、お、お、おっけぃ」
「あとは軽井沢に仕事を手伝ってもらう。お前の抱えている仕事を教えてくれ」
「私、出来るかな……」
恵が不安そうに呟く。
「出来る」
「なんで分かるの?」
「お前は人の弱さを見るのが上手い」
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
恵は少し照れたように視線を逸らした。
「仕事の話なのに、無駄話に聞こえるわね」
堀北が呟く。
「前途多難だわ……」
網倉だけが、どこか別の場所を見ながら言った。
◇
朝食後。
一之瀬と網倉が声をかけてきた。
「綾小路くん、昨日は泊めてくれてありがとう」
「気にしなくていい」
網倉は笑う。
「ここ、居心地いいね。また帆波ちゃん通して遊びに来るかも」
「いつでも来てくれていい」
隣に座っている一之瀬は、少しもじもじしていた。
網倉と会話を続ける俺を、どこか恨めしそうに見ている。
「一之瀬」
「えっ?」
「カラオケのアルバイトは網倉と一緒なのか?」
「う、うん。高校の時はクラスを引っ張らないとって思ってたけど、社会に出てから少し不安でね。麻子ちゃんが一緒だったから助かったの」
「そうか」
一之瀬は少しだけ笑う。
「それにしても、綾小路くんがキャンパスに来るとは思わなかったな」
「軽井沢に会うためだったからな」
「……うん」
一瞬だけ、一之瀬の笑顔が揺れた。
「話は変わるが、近いうちにパプアニューギニアへ行こうと思っている。英語の出来る一之瀬がいてくれるとありがたい」
「パプアニューギニア?」
「そうだ」
「うん。いいよ」
即答だった。
網倉が目を見開く。
「帆波ちゃん、軽すぎない?」
「え?」
「海外だよ? パプアニューギニアだよ?」
「でも、綾小路くんが誘ってくれたから」
その言葉は、あまりにも自然だった。
◇
二日後。
羽田へ向かう車の中。
運転しているのは櫛田だった。
「なんで私が……っていうか朝早すぎ……」
「そんなに早くない。いつも俺はこの時間には起きている」
「基準がおかしいんだって」
「櫛田さん、ありがとね!」
一之瀬が後部座席から笑う。
「いや、一之瀬さんはいいんだけどさ……綾小路くん、そもそもなんでパプアニューギニアなの?」
「治安の悪い国を見ておきたい。それと、先日買収した電力会社の視察だ」
「さらっとインフラ会社買収したって言うな」
「あと、一之瀬が行くのは渡辺が交換留学生としてあっちにいるからだ」
「そうか、そういえばそうだったかも……」
後部座席で一之瀬が呟く。
「一之瀬さん、本当に気を付けてね」
「えっと……何にかな?」
「コイツ。入社して一週間でいろんな会社に連れていって、丸ごとぶん投げてくるから」
「人聞きの悪いことを言うな」
「事実でしょ!」
「イライラするな、飴でも食べるか?」
「食べる!」
櫛田は半ギレになりながら飴を受け取った。
運転中にも関わらず、俺が差し出した手をギュっと握ってくる櫛田。
疑問に思っていると、質問をされる。
「ねぇ綾小路くん、誰かにプレゼントってしたことある?」
「必要な物を渡したことはある」
「それ、プレゼントじゃないからね」
綾小路は理解できない。
「必要だから渡す。それ以外に意味があるのか?」
櫛田が呆れる。
「あるよ。むしろ、そっちが本体」
プレゼント…?
その本当の意味を、俺はまだ知らなかった。
◇
羽田空港。
「一之瀬の荷物はそれだけか?」
「うん。三泊四日だから」
一之瀬は小さなキャリーケースとハンドバッグだけだった。
派手な服装ではない。
Tシャツにジップパーカー。
スニーカー。
治安を考慮してくれたのだろう。
「これを渡しておく」
俺は会社用の携帯を渡した。
「会社端末だ。設定は済んでいる」
「うん、ありがとう」
「極秘事項が含まれているから顔認証にしてある。スケジュールも送っておいた。俺とはほとんど一緒に行動するが、三日目の午後だけは別行動だ」
「こ、これが無茶ぶりの始まり?」
「基本的には車移動だ。国際免許はビザと同時に発行しているから到着したら渡す。ビジネスマナーは動画で学んだだろうから問題ない。基本的に先行してアテンドしてくれ」
「無茶ぶりが……まだ?」
「今から行く国は治安の悪い国家ランキングでも上位だ。一之瀬ほどの女子が夜歩いていたら危険だと俺は確信している。だから離れるな」
「無茶ぶりからの……デレ?」
「あとは現地の電力会社の経営についてはお前に任せる」
「無茶ぶりからのデレからの、やっぱり無茶ぶりだね!」
一之瀬の激しい突っ込みを聞きながら、俺たちはラウンジへ向かった。
一之瀬の新たな一面に、少しだけ、森下藍という女子生徒の事を思い浮かべた。
◇
飛行機が日本を離れた頃。
一人の少女が、俺からのメッセージを受け取った。
本文は短い。
たった一行。
だが彼女はそれを見て、小さく笑った。
「……相変わらずですね」
机の上には、登記簿謄本。
会社印。
清算人としての書類。
そして、一つの社名変更届。
彼女が行うことは、ただ会社名を変えるだけ。
それだけだった。
だが。
その一手で、東京の景色が変わる。
◇
四月二週目、金曜日。
午前九時。
千葉港では国際サミットが開催されていた。
日本の総理大臣。
アメリカ大統領。
各国首脳。
マスメディア。
警備。
官僚。
港は、国家というものを象徴するように厳重だった。
その一時間後。
十隻の巨大な自動車運搬船が、千葉港へ入港した。
積まれていたのは、五万台の自動運転車両。
輸入元はアメリカ。
輸入先は日本。
書類上の名目は、農業用中型トラクター。
誰も笑わなかった。
誰も止められなかった。
各国首脳の目の前で、五万台の車両が日本に納車された。
◇
正午。
総務省の一室。
山内春樹は、スマホゲームの画面を見ながら欠伸をしていた。
高度育成高等学校を退学した後、別の高校を卒業し、今はシステム関係の仕事に就いている。
創造性がない。
応用が利かない。
ミスが多い。
そう言われながらも、法人名変更システムの簡単な管理を任されていた。
普段なら上長がチェックする。
だがその日は、たまたま上長が有休だった。
たまたま。
仲の良い行政書士から電話が来た。
『山内くん、さっき送った社名変更、急ぎで通せる?』
「任せといてくださいよ」
たまたま。
彼は上長のパスワードを知っていた。
たまたま。
ソーシャルゲームのイベント開始時間が迫っていた。
たまたま。
彼はダブルチェックを飛ばした。
そして。
一つの会社名が変わった。
Sテクノロジー。
その名は消え、新しい名前が登録される。
ニコラ・ジャパン。
山内は気づかない。
自分の軽いクリックが、国家の物流と予算と産業構造を動かしたことに。
◇
午後五時三十分。
五万台の車両が一斉に動き始めた。
運転手はいない。
ハンドルを握る人間もいない。
それらは静かに、千葉港から東京都内へ散っていく。
そのうち十台は、各国首脳の移動車として使われた。
マスメディアは沸いた。
SNSは爆発した。
次世代都市交通。
日米共同プロジェクト。
日本復活の象徴。
そんな言葉が、勝手に独り歩きしていく。
誰も知らない。
その中心にいる男が、今まさに日本を離れていることを。
◇
午後八時。
俺たちはパプアニューギニアへ到着した。
十二時間のフライト。
ビジネスクラスとはいえ、腰は少し痛い。
「長かったね……」
一之瀬帆波が隣で小さく息を吐く。
「全然眠れなかった」
「俺もだ」
「ねぇ、知ってる?」
「何をだ」
「日本、今すごいことになってるよ」
「すごいこと?」
「ニュースサイト、数分ごとに更新されてた」
「そうか」
俺は淡々と答える。
一之瀬はその横顔を見る。
まるで、最初から全部知っていたみたいな顔だったからだろう。
空港の外は、日本とは違う空気だった。
湿った熱。
赤い口元の男たち。
薄暗い駐車場。
遠くで鳴るクラクション。
一之瀬は少し身を固くしたが、すぐにJICA職員へ笑顔で挨拶をしていた。
その時、俺の携帯が震えた。
表示された名前を見て、少しだけ間を置く。
「一之瀬、少し外す」
「うん」
電話に出る。
『綾小路くん、お久しぶりです』
「よく分かったな、坂柳」
『社名変更の直前に、あんな名前を送ってくる人なんて一人しかいません』
「仕事は早かったな」
『誰でも出来る簡単なお仕事でしたよ』
「五万台の車両が手に入ったと聞いた」
『ええ。Sテクノロジーではなく、ニコラ・ジャパンですけれど』
坂柳は楽しそうに笑う。
『それにしても、国を動かすなんて。相変わらずですね』
「俺は何もしていない」
『ふふ。そういうことにしておきましょう』
電話を切る。
一之瀬が車の前で待っていた。
「大丈夫?」
「ああ」
「坂柳さん?」
「なぜ分かった」
「なんとなく」
一之瀬は笑った。
だが目だけは、少しだけ揺れていた。
「行こう」
「うん」
二人は車に乗り込む。
外では、見知らぬ国の夜が広がっている。
東京では五万台の車両が動き始めていた。
政府は理由を探していた。
企業は恐れ始めていた。
交通業界は、まだ自分たちの終わりに気づいていない。
かつて俺は、人を動かしていた。
教室の中で。
試験の中で。
誰にも見えない場所で。
だが今、動かしているのは人だけではない。
会社。
市場。
行政。
国家。
そして、やがて世界そのもの。
学校では点数があった。
だが社会では、点数表は配られない。
誰が勝っているのか。
誰が負けているのか。
何を失えば退学なのか。
誰も教えてはくれない。
だから俺は、自分で盤面を作る。
一之瀬帆波が、静かに呟いた。
「綾小路くんって、本当にどこまで行くの?」
俺は答えなかった。
答えを持っていなかったからだ。
ただ一つだけ、分かっていることがある。
これはまだ、最初の一手にすぎない。