ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
第2章 ルール
学校には、ルールがあった。
点数。
試験。
退学。
クラス順位。
そして、勝敗。
誰かが決めた盤面の上で、誰かが決めた条件に従い、誰かが決めた結果を受け入れる。
高度育成高等学校とは、そういう場所だった。
けれど社会には、もっと厄介なルールがある。
金。
契約。
所有権。
就業規則。
信用。
世間体。
法律。
そして、誰も明文化しない暗黙の力関係。
学校では、退学になれば終わりだった。
社会では違う。
終わったことにすら、気づけないまま壊れていく人間がいる。
守られているつもりで、利用される人間がいる。
自由だと思いながら、選択肢を奪われている人間がいる。
ならば。
ルールを知らなければならない。
ルールを利用しなければならない。
そして、必要ならば。
ルールそのものを、こちら側へ引き寄せるしかない。
第6話 南国の熱
南国の車の中、日本ではない風を感じていた。
窓の隙間から流れ込む夜風は、東京のものとは違う。
潮の匂い。
湿った土の匂い。
どこかで焚かれている煙の匂い。
十二時間のフライトは、思ったより身体に堪えた。
ビジネスクラスとはいえ、座っている時間が長すぎる。
どんな環境でも適応できると思っていたが、単純な肉体疲労は別らしい。
早くホテルのベッドで休みたい。
そんなことを考えている俺とは対照的に、一之瀬帆波は隣で楽しそうにしていた。
到着してからまだ一時間も経っていないというのに、車を出してくれたJICA職員と英語で会話をしている。
高校時代から、人との距離を詰めるのが上手い女だった。
だが社会に出た今の一之瀬は、そこに少しだけ別のものが混ざっている。
人に好かれるだけではない。
人を安心させる。
その能力は、仕事では想像以上に強い。
「綾小路くん? どうかした?」
俺が黙っていたからか、一之瀬がこちらを覗き込んできた。
「いや、少し眠いだけだ」
「長かったもんね。私も全然眠れなかったよ」
「その割には元気そうに見える」
「初海外だからかな。なんか、ずっとドキドキしてる」
「そうか」
そういう感覚は、少し羨ましい。
俺はスマホの電源を入れた。
大量の通知が流れ込んでくる。
最初に目に入ったのは、資産管理アプリからのアラートだった。
──総資産額が設定上限を超過しました。
設定していたラインは一兆円。
イギリスの資産調査会社が発表する個人資産ランキング。
世界上位五百人の最低ラインが、今は一兆一千億円前後だったはずだ。
つまり、俺はそこに近づいている。
個人名義で紐づく不動産。
株式。
為替。
ドルに換算可能な資産。
所有法人の純資産。
それらが集計されれば、数日以内に表へ出る可能性が高い。
目立つのは好ましくない。
金は目的ではない。
道具だ。
人を守るため。
人を動かすため。
時には、人を壊すため。
それ以上でも、それ以下でもない。
「話を遮って悪い。一之瀬、あとどれくらいでホテルに着く?」
「えっと、さっき三十分くらいって言ってたから、あと二十分くらいかな」
「そうか。少し処理しておきたいことがある」
俺は一之瀬に会社用端末を開かせた。
「銀行アプリを出してくれるか」
「オッケー。ちょっと待ってね」
一之瀬は左手に個人用のスマホ、右手に会社用の端末を持ち、器用に操作し始める。
「はい、これ」
「明細番号は九七三か。これはお前の会社用口座だ。覚えておけ」
「りょうかーい」
「今から送金する」
俺は会社口座から五億ドルを送金した。
日本円にして、およそ七百億円。
一之瀬は画面をしばらく見つめていた。
左から桁数を数えている。
それから、ゆっくりこちらを見た。
「……えっと」
「悪い。俺の事情で、少し多めに送った」
「少し?」
「すぐに使う金ではない。気にするな」
「気にするよ!?」
「そうか」
「そうかじゃないよ!?」
想像通りの反応だった。
それでも、パニックになり切らないところが一之瀬らしい。
驚きながらも、すぐに状況を飲み込もうとしている。
「あと明日の朝でいい。こっちの通貨をいくつか見繕っておいてくれるか。五万円分くらいでいいだろう」
「は、はーい……」
「仕事を増やして悪いな」
「全然。びっくりはしたけど」
そう言ってから、一之瀬はぱっと顔を上げた。
「あ、そうだ。渡辺くんから返信来たよ」
「本当か?」
「うん。今日、大学でお祭りみたいなのをやってるから、来られるなら来ないかって」
「祭りか」
現地の大学。
現地の食事。
現地の学生。
興味はある。
「何時までやっているんだ?」
「ちょっと聞いてみるね」
一之瀬が渡辺とやり取りを始める。
その間に、俺は会社のチャットを開いた。
櫛田と軽井沢から、それぞれ大量のメッセージが届いている。
報告、連絡、相談。
俺が返さなくても、二人は進めていた。
悪くない。
櫛田には、空港で少し機嫌を損ねるようなことを言った気がする。
だから、彼女が買収したがっていた芸能事務所の件に、ゴーサインを出しておいた。
軽井沢からは、家の写真が送られてきていた。
佐藤と松下と一緒に酒を飲みながらピースしている軽井沢。
奥のダイニングテーブルには、げっそりした顔の櫛田が映っている。
俺は短く返信する。
[佐藤に、先輩にありがとうと伝えておいてくれ]
その直後、櫛田から返信が来た。
[知ってる]
何を知っているのかは分からない。
だが、深掘りするのはやめた。
今は南国の夜にいる。
東京のことは、東京にいる人間が処理する。
そういうルールにしなければ、会社は回らない。
◇
ホテルに到着した。
アメリカ資本の高級ホテルだった。
白を基調とした広いロビー。
吹き抜け。
甘い花の香り。
外に武装した警官が立っていることを除けば、ここだけはリゾート地そのものだ。
「綾小路くん、ごめん。免許証、見せてもらっていい?」
「車を借りていたな」
「うん。車二台」
「二台じゃまずいのか?」
「更に部屋も二部屋」
「仕事絡みで男女で来ているんだから、当然じゃないのか?」
一之瀬がこちらをじっと見た。
「そういうところだよね」
「何か間違えたか?」
「間違えてないから、逆に困るの」
よく分からない。
◇
午後九時半。
俺は三階にあるレストランの前で一之瀬を待っていた。
渡辺の大学祭は九時で終わるらしい。
今から行っても間に合わない。
今日は夕食を食べて、早めに寝る。
そう決めたはずだった。
「お待たせ!」
声がして顔を上げる。
一之瀬が立っていた。
白いワンピース。
身体の線が分かる、南国らしい薄手の生地。
髪は軽くまとめられていて、首筋が見えている。
香水の匂いがした。
甘い。
危険なくらいに。
「どうしたの?」
「いや」
少しだけ言葉に詰まった。
「一之瀬は南国が似合うな」
「え? どういう意味?」
「そのままの意味だ」
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
一之瀬は一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
レストランへ入ろうとすると、一之瀬が俺の袖を掴んだ。
「ねぇ」
「なんだ」
「腕、組んでいい?」
少し考える。
理由はない。
断る理由もない。
「ああ。いいぞ」
一之瀬の表情が一気に明るくなる。
彼女は俺の腕に自分の腕を絡めた。
近い。
柔らかい感触が伝わってくる。
だが不快ではない。
むしろ、離す理由を探せなかった。
◇
食事は、予想以上に穏やかに進んだ。
フレンチに合わせて、俺たちは白ワインを頼んだ。
明日の予定を確認する。
午前は、買収した電力会社PPL。
社長との面談。
会食。
工場視察。
夕方以降に渡辺と会う。
三日目の午前は大使館。
午後は俺だけ別件。
一之瀬は真面目に頷きながら聞いていた。
「全部、頭に入ってるよ」
「助かる」
「それよりさ」
「なんだ」
「綾小路くん、まだ英語話してるところほとんど見せてくれてないよね」
「話す必要がなかったからな」
「本当は恥ずかしいんじゃない?」
「否定はしない」
「えっ、当たったの?」
「他人の目は気になる」
一之瀬はくすっと笑う。
「清隆くんも、そういうところあるんだね」
「あるらしい」
「私は見たいよ。かっこいいところ」
「幻滅させる可能性がある」
「しないと思うけどなぁ」
彼女はワインを口にする。
頬が少し赤い。
「綾小路くんってさ、優しいことをしてるのに、自分では優しいって思ってないよね」
「そうか?」
「うん。だから、いつか自分の優しさに気づいた時、隣にいる人は幸せだと思う」
綾小路は返答しない。
一之瀬は笑う。
「その時、私が隣にいたらいいなって、少しだけ思った」
二人の間に柔らかな風が吹いた。
俺は目線を逸らせた。
「一之瀬」
いつもとは違う、真剣な声で言った。
「うん?」
「これからも、俺に協力してくれないか」
彼女は目を瞬かせた。
「大学を卒業するまでの二年間でもいい。会社の仕事を手伝ってほしい。もちろん報酬は払う」
「いいよ!」
即答だった。
「早いな」
「だって、清隆くんの仕事でしょ?」
「そうだ」
「ならやる」
迷いがない。
その返事が、思った以上に嬉しかった。
「ありがとう」
「へへへ」
一之瀬は照れたように笑う。
「でもさ」
「なんだ」
「なんで、そんなに私を助けてくれるの?」
その問いに、少しだけ沈黙した。
理由はいくつかある。
彼女が必要だから。
彼女が有能だから。
彼女が笑っていないと、不快だから。
どれも事実だ。
だが、言葉にするなら一つでいい。
「俺にとっての特別な人間が、笑っていないのは許せないからだな」
一之瀬の動きが止まった。
「……特別?」
「ああ」
「清隆くんにとって、特別な人ってどういう人?」
「俺を特別だと思っている人だ」
「なるほどね」
「それに、最初に俺がお前を特別だと思ったのは、高校一年の時だ。お前はカースト底辺の俺にも気さくに話しかけてくれた」
「カーストって、私はあまり考えたことなかったかも」
「陰キャが考えることだ。気にするな」
「ふふ。清隆くんが陰キャって言うと、なんか変」
料理が運ばれてくる。
白身魚のポアレ。
白ワイン。
南国の夜の湿った空気。
食事が終わる頃には、時計は十一時を過ぎていた。
外ではまだギターの音が鳴っている。
「ねぇ」
一之瀬が言う。
「上のバー、寄っていかない?」
「明日もあるぞ」
「少しだけ」
「少しだけならな」
そう答えると、一之瀬は子供のように笑った。
◇
バーは賑わっていた。
三階のオープンテラス。
中庭のような空間には、ナイトプールとバーカウンターがある。
楽器がいくつか置かれており、宿泊客が好きに演奏していた。
下手でも構わない。
歌えば音楽になる。
踊れば場が生まれる。
そういう空気だった。
「楽しいね! 清隆くん!」
一之瀬は俺の手を引き、バーの中心へ向かおうとする。
俺は場違いだと思い、近くのテーブルに背を預けた。
「飲み物を取ってくる」
「うん!」
バーカウンターでカクテルを二つ頼む。
その間、一之瀬は音楽に合わせて身体を揺らしていた。
ブロンドの女性に声をかけられ、楽しそうに話している。
やがて、その女性が一之瀬へマイクを渡した。
一之瀬は慌ててこちらを見る。
俺はカクテルを二つ持って戻った。
「何を歌うつもりだ?」
「えぇ? 恥ずかしいよ」
そう言いながらも、彼女の目は輝いていた。
ブロンドの女性が俺を見て、何かを一之瀬に尋ねる。
一之瀬は彼女の耳元で何かを囁いた。
直後、周囲の人間が一斉に盛り上がる。
「何を言ったんだ?」
「……新婚って言っちゃった」
「なぜだ」
「ノリで」
「そうか」
「怒らないの?」
「訂正するのも面倒だ」
一之瀬は目を丸くし、それから笑った。
その時、ピアノの音が流れ始めた。
日本の曲だった。
ジャズ調にアレンジされた、聞き覚えのある旋律。
一之瀬の表情が変わる。
「知ってるのか」
「うん。すごく」
マイクを握る手に力が入る。
俺はピアノへ向かった。
弾けるかどうかではない。
合わせればいい。
彼女が歌いやすいように。
彼女が楽しいと思えるように。
彼女の呼吸に合わせて、音を置く。
一之瀬が歌い始める。
最初は少し緊張していた。
だがすぐに、周囲の空気を掴んだ。
声が伸びる。
笑顔が増える。
観客が手拍子を始める。
ホテルの客室の窓がいくつも開いていく。
一之瀬は何度も俺を見る。
俺は彼女の声に合わせて弾いた。
彼女だけを見て。
彼女だけの速度で。
彼女だけの呼吸で。
それがどれだけ危うい行為なのか、分かっていた。
人に合わせる。
相手にとって都合のいい自分を作る。
俺は昔から、それが得意だった。
だからこそ、今の一之瀬の顔を見ていると、少しだけ怖くなる。
彼女はこの時間を、本物だと信じている。
俺は、それを壊さないように演奏している。
曲が終わる。
歓声が上がった。
一之瀬は走ってきて、勢いよく俺に抱きついた。
「最高だった!」
「そうか」
「もう、ほんとに、人生で一番楽しい!」
その言葉に、俺は一瞬返答できなかった。
人生で一番。
そんなものを、俺は誰かに与えたことがあったのだろうか。
◇
次の曲が始まった。
聞き覚えのある洋楽。
観客の一人が俺の口元へマイクを差し出す。
歌うつもりはなかった。
だが、一之瀬が期待した目でこちらを見ている。
仕方がない。
俺はマイクに向かって歌った。
周囲の空気が変わる。
一之瀬の顔が、見る見るうちに赤くなっていく。
彼女はマイクを下げて、ただ俺を見ていた。
曲が終わると同時に、一之瀬が俺の手を掴んだ。
「行こ」
「どこへだ」
「部屋」
「急だな」
「急じゃないよ」
彼女は真っ直ぐ俺を見る。
「ずっと、待ってた」
◇
エレベーターの中、一之瀬は俺の手を離さなかった。
部屋へ入ると、薄暗い間接照明が点いた。
窓の外には、南国の夜景。
遠くからは、まだ音楽が聞こえている。
一之瀬は窓際に立った。
俺はロックグラスを二つ取り出し、冷えていた酒を注ぐ。
氷の音が部屋に響いた。
カラン。
その音だけで、一之瀬の肩が少し震える。
彼女はグラスを受け取り、窓の外を見る。
しばらく無言だった。
やがて、俺は彼女の背後に立った。
おそるおそる。
それでも、腕を回す。
腰へ。
一之瀬は逃げなかった。
むしろ、俺の腕に自分の手を重ねた。
「……清隆くん」
「なんだ」
「私、ずっと忘れられなかった」
声が震えていた。
「高校を卒業して、大学に入って、バイトして、友達と遊んで。普通に笑ってた。でも、清隆くんだけはずっと残ってた」
「そうか」
「そうか、じゃないよ」
彼女は少しだけ笑う。
そして、泣いた。
静かに。
堪えきれないように。
俺は彼女の肩を抱き、こちらを向かせた。
目が合う。
涙で潤んだ瞳。
赤くなった頬。
震える唇。
三年間。
その距離を埋めるような、数十秒。
俺たちは見つめ合った。
そして、一之瀬が背伸びをする。
俺のシャツを掴む。
唇が重なった。
長いキスだった。
音楽も。
夜景も。
時間も。
一瞬、遠くなる。
一之瀬は夢中だった。
俺もそれに応える。
彼女が欲しがる優しさを。
彼女が求める熱を。
彼女が信じたい愛を。
壊さないように。
丁寧に。
唇が離れる。
一之瀬は荒く息をしながら、俺を見上げた。
「ねぇ」
「なんだ」
「もう、逃がさないからね」
困ったように笑う彼女は、泣いているのに幸せそうだった。
俺はその涙を見ながら、胸の奥に奇妙な熱を感じた。
守りたい。
そう思った。
理解できない感情だった。
だから厄介だ。
その頃。
東京都内では、五万台の電気自動車が、夜の街を埋め尽くし始めていた。