嘘イベスト「エマージェンシー! ~カウントダウンは止まらない~」 作:さはぎん
窓の外は、すっかり夕闇に沈んだキヴォトスの美しい夜景が広がっている。
そろそろ夕飯の時間だろうか、それとも家族や友人と楽しく談笑している頃だろうか。
しかしシャーレのオフィスにある私のデスクの上には、今日も今日とて終わりの見えない書類の山がうず高く築かれていた。
先生としてこの地に赴任して以来、私の日常は常に文字通りの激務の中にあった。
キヴォトス全域の全権を担っていた連邦生徒会長が失踪して以来、この世界の統治機能は著しく低下している。
その結果として、各学園の自治区から持ち込まれるありとあらゆる陳情やトラブルの解決要請が、すべてこのシャーレに集中していた。
破壊されたインフラの改修見積もり、特殊備品の申請書、小規模な爆発事故に関する始末書、店舗の修繕費用請求書、線路の修繕費用請求書、始末書、請求書。
内容は多岐にわたる。それらの一枚一枚に丁寧に目を通し、適切な決裁を施していくのは、想像を絶するほどの重労働だった。
私は少しだけ疲労を覚えた目を優しくこすり、手にした万年筆を一度デスクの上のペン置きに静かに戻した。椅子の背もたれに深く体を預けると、一日中座りっぱなしだった背中が小さな悲鳴を上げる。
“さて、この山のような束を片付けたら、少しだけ長めの休憩にしようかな”
誰もいない静かなオフィスに、私の独り言がぽつりと響く。
すっかり冷めきってしまったコーヒーのカップを眺めながら、私は小さく息を吐き出す。
これほど忙しく、私生活を犠牲にするような毎日であっても、不思議と心に嫌気や後悔が宿ることはなかった。
書類の向こう側にいる生徒たちの平穏な日常と、輝くような笑顔を守るためだと思えば、この程度の苦労は何てことはない。
むしろ、彼女たちの力になれているという確かな実感が、私の何よりの原動力になっていたのだ。
───コンコンコン
静寂に包まれていたオフィスに、ノックの音が響きわたる。
来客を告げるその音は、どこか切迫したような、あるいは極めて事務的な冷徹さを帯びている。
“こんな時間に誰だろう?”
“どうぞ、開いているよ。”
私の返事を待って開かれたドアの先に立っていたのは、初めてキヴォトスに来た日にシャーレまで案内してくれた生徒、七神リンだった。
彼女はいつもと変わらない冷静沈着な表情のまま、まっすぐに私のデスクへと歩み寄ってくる。その手には、普段の業務で使われる電子端末ではなく、何故か紙の厚いファイルが抱えられていた。
リン「お忙しいところ失礼します、先生。少し、お時間をいただけますか?」
“リンちゃん!”
“もちろんだよ、何か用?”
「リンちゃんではありません。」とため息交じりにこぼしながら、その厚みのある資料を私の机の上に静かに置いた。
よく見るリングバインダーの表紙に書かれていたのは連邦生徒会のシンボルと、見慣れない意匠のロゴマーク。そしてその下に記されていたのは……
リン「実は、先生に特別な現地視察と監査をお願いしたい組織があるのです。」
“キヴォトス・スペース・パートナーシップ?”
私が資料の表紙に刻まれた文字を指先でなぞりながら呟くと、リンは眼鏡のブリッジを親指で軽く押し上げた。
リン「無理もありません。先生はまだこちらに来て日が浅いですし。それに彼女たちはキヴォトスの中心部から離れた、南方の辺境にある宇宙センターを拠点に活動していますから。」
リンは淡々と、しかし極めて淀みのない明晰な口調で、その謎に包まれた組織の概要について説明を始めた。
リン「キヴォトス・スペース・パートナーシップ、──長いので一般にはKSPと呼びますが。この組織はキヴォトスの宇宙開発を目的に活動している、連邦生徒会の下部組織という位置づけではありますが、その実態は少し特殊です。」
リン「トリニティ、ゲヘナ、ミレニアムの三大校だけでなく、その他の中小学園からも有志生徒が集まって構成されている合同組織……それが実態です。」
“学園を超えて集まった生徒で運営している団体……”
“キヴォトスでは珍しい運営形態なのかな。”
リン「ええ、活動内容もあって特定の学園がすべての権利を有するには、いささか問題がありすぎますので。」
リン「これまでは主に、低軌道への人工衛星の投入運用や、そのメンテナンス、無人ロケットの研究開発などを行ってきました。」
“宇宙開発……!”
“すごく夢がある話だね!”
リン「キヴォトスを観測する衛星、GPS、気象衛星。独占されては困るものの、なくてはならない重要インフラです。」
リン「そのため連邦生徒会としても成果を認め、活動に口は出してきませんでした。」
リン「ですが、彼女らが現在進めている新しいプロジェクトに問題がありまして……」
彼女の声が一段と低く、そして冷ややかなものへと変わる。
その鋭い相貌が私の目をまっすぐに見つめ、無言の圧力をかけるようにして言葉を紡ぎ出す。
リン「現在、彼らは『初めての低軌道への有人投入ミッション』という極めて危険な計画を、最終段階まで進めています。」
リン「これまでの無人のロケットではなく、実際に生徒を搭乗させて宇宙へ打ち上げようとしているのです。」
“有人宇宙飛行!?ますます夢があるね!”
“でも生徒を打ち上げるなんてリスクが大きそうだけど……”
リン「大きすぎるのです!打ち上げに失敗して爆発するだけならともかく、有人ということはその爆発に巻き込まれる生徒が少なくとも1人はいるのです。そうなった場合、連邦生徒会だけでなく、かかわっている各学園を巻き込んだ深刻な責任問題へと発展しかねません。」
リンは一度言葉を切り、さらに冷徹に言葉を重ねる。
リン「主要学園は一応、政治的な牽制のために予算を出して生徒を派遣していますが、現場が何をしているのかはよく知らない……いえ、知るつもりもないのかもしれません。」
リン「しかしその運営形態から、連邦生徒会の独断による活動停止や解体はできないこともあり、手綱を握れているとは言えない状況です。」
リン「そこで、先生には現地に赴き、新プロジェクトついての聴取と、もし彼女たちが危険なことを強行しているのであれば、それを止めていただきたいのです。」
“わかったよ、リンちゃん。”
“KSPに行って、何をしているのか聞いてみるよ。”
私が頷いて依頼を受諾すると、彼女はわずかに表情の硬さをやわらげ、しかしすぐにいつもの少し硬い顔つきに戻った。
リン「ありがとうございます。期待しています、先生。」
リン「客観的で正確な報告書を楽しみに待っています。」
再び一人になったオフィスの中で、私はデスクに残された分厚いファイルを引き寄せ、パラパラとページをめくり始めた。
そこには専門的な数式、複雑な軌道計算のグラフ、そして巨大なロケットの設計図が緻密に記されていた。
主要学園からの関心も薄く、大人の政治的な事情や、周囲の冷ややかな無関心に晒されながらも、彼女たちは活動を続けてきた。
泥臭く、しかし純粋に高い空を目指してきた生徒たちの、これまでの懸命な歩みが、その紙面には確かに刻まれていた。
資料の最後に添付されていた、メンバーたちの集合写真に私の目が留まる。
見慣れない無骨な作業服に身を包みながらも、誰もが誇らしげに胸を張り、カメラに向かって満面の笑みを浮かべている。
トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム。
本来ならば相容れないはずの異なる学園の生徒たちが、肩を並べて一つの大きな夢を共有している姿がそこにあった。
彼女たちの瞳は、誰も見たことのない本物の宇宙、青く丸いキヴォトスの姿をその目で捉えるという、熱い情熱に満ち溢れているように見えた。
“有人飛行、か……。”
“あの高くて暗い空の向こうに、いったいどんな未来の夢を見ているのかな?”
私は深く一息つくと、視察のための最低限の荷物をまとめるために、ゆっくりと席を立った。
キヴォトスの広い空の先、まだ誰も到達したことのない未知の世界を目指す、不屈の情熱を持った生徒たちに会うために。
私の心には、連邦生徒会から託された密命という重苦しい圧迫感よりも、新しい生徒たちとの出会いへの確かな期待に胸を躍らせた。
オフィスから出たリンは連邦生徒会に戻りながら考えをめぐらす。
先生に伝えたことに偽りはない。
政治的なしがらみ、新プロジェクトの概要、考えられるリスク、何一つ偽りなく。
ただ、伝えていないことがあるだけ……
リン「(これまでの実績のある活動ならともかく、連邦生徒会長が不在となって各地で暴動が起きている今、不祥事の火種となりそうな新プロジェクトなんて認めるわけにはいかない。)」
リン「(先生には申し訳ありませんが、プロジェクトの中止はもう決定したことです。先生の報告はその中止に第三者からのお墨付きを得たという免罪符として使わせていただきますよ。)」