嘘イベスト「エマージェンシー! ~カウントダウンは止まらない~」 作:さはぎん
【コックピット視点】
宇宙飛行士センターで先生に「いってきます」と言って、移動車両に乗って、何度着ても慣れない、分厚くて動きにくいスーツに悪戦苦闘しながら、ぶつけたりひっかけたりしないように、慎重に……。
「(そんなの言い訳で、歩くのが遅いのはやっぱり怖いからで……)」
なんて思ってしまったから、考えないようにしていた恐怖がよみがえってきてしまった。
それでも、もう止まることはできないから。
私はコマンドポッドの入り口をくぐりました。
マヒルさんたちが準備してくれた装置に触れないように、怖くて硬くなったからだがぶつかってしまわないように、慎重にパイロットシートに座ると、支援員の皆さんが私のシートベルトを何度も引き絞ってくれました。
発射1時間前。飛行士搭乗完了。予定通り。
「ふぇぇ……。本当に座ってしまいましたぁ。もう逃げられないですぅ……」
自分の声がヘルメットの中で反響し、ひどく場違いに聞こえました。心臓の音が耳の奥で早鐘のように打ち鳴らされ、指先は汗ばんでグローブの中で滑りそうです。
マヒル『こちら、ミッションコントロール。聞こえるかい?』
「はいぃ、聞こえます……!」
とうとうここまで来てしまったと、少し遠くへ飛んでいきそうだった意識がマヒルさんからの通信で引き戻されます。
マヒル『それじゃあ、スーツの気密確認と通信テストを実施しようか。』
「了解ですぅ……」
ヘルメットとスーツの結合確認、スーツとグローブの接合確認、ヘルメットのバイザーの確認……。
地上でもやったそれを、もう一度、しっかりと。何かあったときに私を守ってくれるのはこれだけだから。
バイザーを下ろして、生命維持装置と加圧装置の確認。
飛行中の強力な重力加速度で意識を失わないようにするために。意識を失ったら何かあったときに脱出できないから。
もし宇宙で機体に穴が開いても息ができるように。息ができなくなったら──死んでしまうから。
この作業はすべて、何かあったときのため。
確認するたびに、「最悪」が頭をよぎってしまいます。
考えてはいけないのに、何度も何度も、ループ再生のように……。
「スーツの気密確認、完了です……。問題ありません。」
マヒル『気密確認完了、問題なし、了解。では、通信テストだ。チャンネルをバックアップに切り替えてくれ。』
「はいぃ、通信テストでミッションコントロールとの通信回線をバックアップに変更しますぅ……」
マヒルさんの指示で、通信を切り替えるためにスイッチに腕を伸ばします。
先ほどの嫌な想像で、少し手に力が入りにくいけれど。
みんなの夢が形になって、ここまで来てしまったのだから、私が水を差して台無しにしてしまうのが怖いから。
「通信回線をバックアップに切り替えましたぁ。こちら、コマンドポッド。ミッションコントロールぅ……聞こえますかぁ……?」
マヒル『こちら、ミッションコントロール。バックアップでの音声受信に成功。ミリ、大丈夫だ。聞こえるとも。』
マヒル『……よし、バックアップでの各機器データ送受信も問題ないな。ミリ、メイン回線に戻してくれ。』
ここに座る前からバクバクとうるさい心臓を、少しでも落ち着けようと深呼吸を繰り返す間にも、マヒルさんは確認を進めてくれています。
もう一度スイッチを押して、通信回線を切り替え。
深呼吸のおかげか、さっきよりも指先に力が入って、しっかりと押せたような気がしました。
「通信回線をメインに切り替えました……」
マヒル『メインへの通信回線切り替え、確認できた。』
マヒル『──ミリ。緊張するな……といっても無理だろうが、大丈夫だ。シミュレーターの時とやることは変わらない。乗っているものが屋内にあるか屋外にあるかの違いだけだ。キミのこれまでの努力はしっかりとその身体に刻まれているよ。』
ミリさんにはお見通しのようでした──いや、多分シートベルトを締めてくれた娘や、ほかのみんなにだって気づかれていたと思います。
そして、私が少しでも落ち着けるようにだとは思いますが、お話を続けてくれました。
マヒル『それにだ、もしキミの乗っているそれの下半分が爆発したとしても、TNT換算で約500t、キヴォトスで流通している一般的な対戦車地雷40万個分だよ。キヴォトスの日常茶飯事な光景だよ。』
「何言ってるんですかぁ!!40万個の対戦車地雷なんて、キヴォトス中からかき集めても絶対足りませんよぉ!」
……本当に私の緊張をほぐそうとしてくれているのでしょうか。
少しわからなくなりました。
マヒル『ははは、訂正しよう。いつものキヴォトスより、そこそこ派手なくらいだよ。』
絶対に「そこそこ派手」なんてものじゃないのは、マヒルさんもわかっているはずです。
それでもおどけたような、いつもと変わらないバカみたいな会話で、私の意識は少し恐怖から逸れるのでした。
マヒル『……さて、落ち着いて話を聞いてもらえそうになったところでだ。私からのとっておきのプレゼントについて説明しよう。』
プレゼント……?そんなものあっただろうかと、コマンドポッド内を見返します。
そもそも、打ち上げの時には結構な衝撃と振動があるので、たとえどんな小さなものでも飛び回らないように固定されているはずです。
どれだけ見渡しても、目に入るのはいつものシミュレーターと同じ風景。
いったいどこにあるというのでしょうか?
マヒル『ああ、すまない。プレゼントといっても、コマンドポッド内に何かを追加したりはしてないよ。』
マヒル『ミリ、緊急脱出装置の作動レバーは覚えているね?シートの右手側、赤いT字のプルハンドルだ。』
忘れるはずがありません。どうしようもなくなった時に私が生き残るための最後の切り札。爆発炎上するロケットから逃れて、みんなのところに帰る最後の砦。
マヒル『それが私からのプレゼントであり、我々地上組の「誠意」だよ。キミが耐えられなくなったらいつでも引くといい。打ち上げから周回軌道投入に向けた再加速までの間だったら、それを引いたら必ず地上まで安全に届けてくれる。』
マヒル『心配するな、計器不良を検知して、緊急脱出装置が作動するんだ。飛行中止になっても誰も文句は言わない……いや、言わせないとも。』
マヒルさんの言葉が、ヘッドセット越しに私の鼓膜を震わせます。
「飛行中止になっても誰も文句は言わない……いや、言わせないとも。」
その言葉の意味を理解した瞬間、ギュッと縮こまっていた胸の奥が、ふっと軽くなるのを感じました。
逃げていい。怖くなったら、いつでも全部放り出して、みんなの元へ帰ってきていい。
私がどれだけ怖がりで、どれだけ弱虫かを知っているからこそ、マヒルさんは……ううん、KSPのみんなは、この「逃げ道」を用意してくれたのです。
それはただの冷たい機械じゃありません。私を絶対に死なせないという、みんなの強くて温かい「誠意」の塊でした。
私はゆっくりと右手を伸ばし、赤いレバーにそっと触れてみます。
これさえ引けば、私はいつでもあの「静かな世界」への挑戦を諦めることができます。
でも……不思議です。いつでも逃げ出せる最高の切符を手渡されたら、震えていた足に、少しだけ力が湧いてきた気がしました。
みんながこれほどまでに私を大切に思い、命を守るために全力を尽くしてくれている。
だったら私も、みんなが心血を注いで作ってくれたこの『最高傑作』を、信じてみたい。
恐怖が完全に消えたわけではありません。手はまだ、少しだけ震えています。
けれど、この温かいプレゼントをお守り代わりに抱きしめていれば……。
きっと、あの蒼い空の向こう側まで、私は飛んでいける気がしました。
マヒル『まぁ……なんだ、その……。気を付けて、楽しんでくるといい。キミの帰りを待っているよ。』
マヒルさんの少し不器用で、照れくさそうな声が聞こえて、私は思わず口元をほころばせました。
ミリ「はい!いってきま――」
マヒル『こホン!つ、通信テスト完了、問題なし。──通信を終了する。』
私が最後まで返事をする前に、一方的な宣言とともにプツンと通信が切断されてしまいました。
まったく、マヒルさんは本当に素直じゃないというか、照れ屋なんだから。
そんなことを考えていると、ハッチ閉鎖の時間になっていました。
作業員の皆さんからも「いってらっしゃい」と言ってもらって、重厚な金属音が響き、外部からの光が完全に遮断されました。
ポッド内は生命維持装置から送られてくる乾燥した空気の匂いと、計器の青白い光に支配されます。まるで深海の底か、あるいはキヴォトスのどこかに埋められたカプセルの中に閉じ込められたような……。
でも大丈夫です。みんなの思いが私を守ってくれるから。
「みなさん、いってきますぅ……。」
誰にも届かないかもしれないけれど、私はみんなに「いってきます」と伝えるのでした。
とうとう打ち上げまであと1分も切りました。
燃料もすでに充填され、電源も外部からもらっていたものが、ロケットに搭載されている電池からの給電に切り替わっています。
打ち上げ時の衝撃を和らげるための大量散水も開始しています。
ここまでくるともう怖いとかどうとか考えている余裕すらありません。
通信からは機械音声のカウントダウンや、ジュネさんの研ぎ澄まされた刃物のような状況確認の声が聞こえます。
『10…9…』
世界から音が消えたような気がしました。自分の鼓動だけが、宇宙センター全体に響き渡っているかのように大きく感じられます。
『7…6…』
グローブの中で、指先を強く握りしめました。マヒルさんが徹夜で締め直したボルトの感触を、シート越しに探します。
『4…3…』
ウルナ『メインエンジン点火!』
──ドォォォォォォォ……!っと地響きのような唸りが、厚い装甲を突き抜けて私の身体を激しく揺さぶりました。機体全体が、溢れ出そうとする凄まじいエネルギーを抑えきれず震えています。
「ひぅ、はぁぁぁ……っ!!」
『1…0…』
ジュネ『リフトオフ!!』
──ドガァァァァァァァァァン!!!
爆発的な衝撃が、私の身体をシートの奥深くへと叩きつけました。視界が火花の散るような白光に染まり、叫び声すら押し潰されるほどの重圧の中、私はただ、憧れ続けた宇宙へと突き動かされていきました。
「ひ、ひぎぃぃぃ……っ!!」
無意識に叫び声を上げましたが、ヘルメットの中で反響する自分の声すら、ロケットが咆哮する轟音にかき消されてしまいます。そこら中の計器の数字が、凄まじい勢いで跳ね上がっていきます。
ジュネ『「14…」──高度1,500m。ピッチオーバー開始5度。』
管制室からのジュネさんの報告は、もはや遠い世界の出来事のようでした。背中の後ろでは、今も火薬庫が燃えています。
マヒルさんたちの、みんなの「最高傑作」を信じてはいるのですが、やはり怖いものは怖いのです。訓練で植え付けられた理性をごりごりと削り取っていきます。
ジュネ『「42…」──高度10,000m。』
突然、足元から不気味な微振動が伝わってきました。それは次第に大きくなり、まるで「コスモス」という怪物が、自身の速度に耐えかねて悲鳴を上げているような振動へと変わります。
「ふぇ、ふえぇ……!?すごく揺れます!マヒルさん!すごく揺れてますよぉ!!壊れちゃう、壊れちゃいますぅぅ!!」
思わず叫んでしまった私の声が、コントロールセンターに届いているのかもわかりません。
ジュネ『「44…」──
──ガガガガガガガガガギギギギギギッ!!!
機体全体が、狂ったように激しくガタガタと悲鳴を上げ始めます。昨夜、マヒルさんたちが寝る間も惜しんで締め上げたボルトが、風圧の暴力に晒されて悲鳴を上げています。
マヒル『
パネルが一斉に赤く染まり、警告音が狭い室内を埋め尽くしました。
無線の向こうで響いたマヒルさんの絶叫と同時に、私の目に飛び込んできたのは、コンソールの中央に据えられた、あの鮮やかな「赤色のレバー」、それはマヒルさんが「絶対にミリを無事に帰す」と誓い、ウタハ先輩たちが幾重にもバックアップを重ねて整備してくれた、最後の命綱。みんなの誠実さが形になった、私を守るための箱舟の鍵。
マヒル『ミリ、早く!!──くそっ、アボートだ!ジュネ、
先生『“ミリ、みんなを信じて引くんだ!”』
先生とマヒルさんの叫びが、恐怖で凍りついていた私の指先を動かしました。
ミリ「みんなの作った……『誠実さ』を、信じますぅぅぅ!!」
私は絶叫し、ありったけの力でそのレバーを引き抜きました。
──ガコンッ!!
背後で爆発音が響き、ロケット本体を引きちぎる衝撃と共に、私のカプセルは空へと弾き飛ばされました。
不意に、すべてが止まりました。耳を潰さんばかりだった轟音も激しい振動も、魔法のように消え去りました。
ミリ「……ぇ? あ、れ……?」
コマンドポッドは推進力を失い、ただ慣性だけで放物線を描いて昇っていきます。
私は先ほどまでから一転して、静寂に包まれた狭い室内から、丸窓の外を覗き込みました。
ミリ「きれい……な、蒼……」
そこには、レッドウィンターの屋上で望遠鏡を覗いていた時には決して見ることのできなかった景色がありました。上を見上げれば、光を吸い込むような不気味なほど深く、濃い、紺碧の闇。そして下を見下ろせば、緩やかに弧を描いたキヴォトスの白い雲と、輝く陸、そして広大な青い海。
日課の粛清も、毎日の退屈な雪かきも、すべてがちっぽけに思えてしまうほど、圧倒的で、息を呑むほど美しい、本物のソラの姿。重力から一瞬だけ解放されたカプセルの中で、私は涙を拭うのも忘れて、その美しい景色に静かに心を浸していました。
LESでの強制切り離しから45秒、打ち上げから1分32秒。最高到達高度22,684メートル。
宇宙の入り口にも届かなかった、私の──私たちの夢は、短い旅を終えてしまいました。
やがて、カプセルがゆっくりと傾き始めます。重力が再び私を呼び戻そうとする、自由落下の始まり。
それでも私の心は、あの日夢見た蒼い世界に、まだふわふわと浮いたままでした。
次で最後になります。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
最終話もよろしくお願いします。