大枠は自分が書いて解像度の浅い部分をGemini君に補ってもらってます。
どぞ、よしなに。
「ふぁ……ん……」
閉ざされたカーテンのわずかな隙間から射し込む陽光が、微睡みの淵から僕の意識を優しく誘い出す。
未だ本調子ではない脳にゆるりと働きかけ、今日の予定を確認しながら、自分の部屋の扉に手をかけようとして——ふと、手を止めた。
「あぁ、そうだったね。確か彼が言うには、今日が入学式だったか……」
「ともすれば……いつも通りの準備とはいかないね」
そうポツリと呟きながら、朝食を摂るべくキッチンへと向かう。
カチャリカチャリと食器が重なり合い生まれる小さな生活音も、僕一人しか住んでいないこの広々とした空間では、まるで楽器の響きのように心地よく、そして酷く冷ややかに響き渡る。
僕は、この誰もいない静寂と孤独を何よりも愛している。なぜなら孤独こそが、他者の「混濁した感情」を最も純粋に、最も客観的に鑑賞するための特等席を用意してくれるからだ。
冷蔵庫の中には殆ど物が入っておらず、朝食を作ってしまえば中身がすべて空になってしまうのではないかというほどの量だ。
薄くスライスされたベーコン数切れに、卵が二つ。瑞々しいレタスに真っ赤なトマト、それから食パンが三切れ。
普通の高校生なら買い出しの心配をする場面だろうけれど、今日に限っては問題は無い。僕はこれから、三年間は一歩も外界に出られないという、あの完璧に遮断された「檻」へと引っ越すのだから。
これから向かう新たな劇場に対して、表面上は少しばかりの憂鬱を感じてみせながらも、手際よく調理の手を動かし、出来上がった料理を盛り付けていく。
テーブルに料理を並べて、いざサクサクにトーストされた食パンに手をつけようとした、まさにその時。
静寂に満ちた空間に、誰かの来訪を告げる呼び鈴がけたたましく鳴り響いた。
こんな早朝から、折角の至福の時間に水を差す無作法な輩。やれやれと呆れて肩を竦めながらも、僕の心は楽しげに弾んでいた。予定調和。観客はいつだって、僕が望む最高のタイミングで舞台の袖から現れてくれる。
その傍ら、壁に立てかけられた白磁色の美しい杖が視界に入る。
側部に優雅なオペラグラスが組み込まれたその手杖は、外の世界で僕が創作者として紡いできた「実績」の証明であり、僕の身体の一部だ。指先でその滑らかな磁器の肌を愛おしげにひとなでしてから、玄関のドアを開ける。
ガチャリ、と鍵を開き、少し重い扉を押し開ければ、如何にも胡散臭い金髪の男が、完璧に作り込まれた飄々とした笑みを浮かべて立っていた。
「や、お嬢様。準備は……出来てないようだな?」
「流石の俺も、そんなカッコだと目を逸らしたくなるんだが……」
あぁ、そういえば着替えるのが面倒で、僕は薄手のネグリジェのままであったね。
別に君に見られて恥を感じるほどだらしの無い体はしていないからいいのだけれど。
「ふっ、おはようジュスティ。僕の姿がどうかしたのかい?」
「とりあえず中へ入りたまえ。どうせ来るであろう君の分の朝食はすでに出来ているんだ。それに君も、ずっと外で待っているほど忍耐力がある訳じゃあないだろう?」
招かれる事が初めから分かっていたかのように、自然な動作で靴を脱ぎ、中へと入ってきたのは、僕の友人にして幼馴染の『橋本正義』だ。
普段はチャラチャラとした世渡り上手を演じている彼だが、僕の姿を見る彼の瞳の奥には、いつもジットリとした重苦しい色がへばりついている。
彼の視線が、玄関の壁に立てかけられた白磁の杖、そして僕の微かに不自由な右足の先へと向けられ、一瞬だけ、その整った顔を苦痛に歪めたのを僕は見逃さなかった。
かつて、僕が彼のいじめの身代わりになったあの日から、彼は僕に「救われなければならない聖女」の幻影を見ている。僕をこの泥まみれの世界から引きずり出し、今度こそ自分が守り抜くのだという、歪んだ負い目と狂信的な執着。
——愛おしいなぁ、正義。君が僕への罪悪感で歪んでいく姿は、いつ見ても最高に美しい。
女の子でありながら僕の一人称が「僕」なのは、かつて君の後ろで泣いていた君を助けるために、自ら男前なヒーローの役を演じた時の名残。あの時から、君は僕という「呪いの鎖」を、自ら嬉々として首に巻き付けるようになった。
僕が君を助けたのは、同情なんかじゃない。君という人間が苦悩し、罪悪感に苛まれて狂っていく過程を、最も近い特等席で観賞したかったからだというのにね。
「そんじゃお言葉に甘えてお邪魔しますか。つっても次にこの家に招かれるのは最低でも三年後になるとなると寂しくなるなぁ」
「ふふ、確かにそうだね。しかし僕が突然癇癪でも起こして退学にでもなったら、もう少し早くに帰ってくることになるだろうけどね」
「おいおい、そんな怖いこと言わんでくれよお嬢様。せっかくあんたと同じ学校に進学できたってのに、あんたに退学なんてされたら俺の心臓が持たねえよ。それで?今日の朝飯は何をお作りに?」
そんな他愛のない会話を交わしながら二人で朝食を味わい、僕は粛々と出発の準備を進めていく。
「そういえばお嬢様は、高育なんて目指すタマには見えなかったんだが、一体どういう気の変わりようで?」
「ん〜?どうだろうねぇ。もしかしたら君の為かも知れないし、僕がただ面白い事に飢えていただけかも知れないねぇ」
「へぇ?嬉しいねぇ。お嬢様にそこまで思われてるなん……てっ!」
そう言いながら、すれ違いざまに僕の背中に突然強い力がのしかかる。
彼なりの軽いスキンシップのつもりだったのだろう。思わずバランスを崩して前に転びそうになるが、すかさず彼にそっと抱き留められ、事なきを得た。
抵抗する余地などいくらでもあるのに、僕はあえて、華奢な身体を無防備に彼の胸に預けてみせる。
後ろに振り返り、ジトっとした目で何をするんだと無言の抗議を送ると、彼はケラケラと笑いながら僕の手を取り、まるでダンスのステップを踏むようにして一歩下がった。
「いやいや、僕に毒された君が、高度育成高等学校の優秀な学生で遊ばないとは限らないからね」
「それにもう半分はケジメみたいなものだよ。でなければ、僕がわざわざあんな不自由なところに進学するわけ無いだろう?」
僕は嘆息しながらも、調子に乗っている彼を咎めるように、グッと繋いだ手に力を込め、彼の手を引く。
「さ、行くとするよ正義。僕達が過ごす、どうしようもなく閉鎖的で、愛おしい青春の舞台へ」
「ほーい、セーレ様。あ、そうだ。学校着いたら呼び方変えた方がいいかい?」
「君の好きにするといいよ。どうせ君は蝙蝠のように忙しく飛び回るのだろうから」
彼に重い玄関の扉を開けてもらい、ガチャリと鍵を閉める。
小脇には、あの白磁色のオペラグラス付きの杖を大切そうに抱えて。
この静かで広々とした家ともしばしの別れ。少しの感慨に浸りつつも、あまり彼を待たせるのも悪いため、僕は素早く意識を切り替えて歩き出した。
「そいや、あの特注のペンやらの仕事道具は持っていかないので?」
「あぁ、それなら既に送ってあるとも。どうやらあの閉鎖的な空間でも、創作するためという口実さえあれば、幾つかの道具の持ち込みは許可されるようだ。もっとも、外の世界での『実績』が無ければ叶わない要望のようだけれどね」
「なる程ね。それなら確かに、若くして名を馳せた『クリエイター』のお嬢様なら問題ないわな」
◇
ぶるんぶるん、とバスのエンジン音が体に伝わる。
信号が赤色から青色に変わり、ゆっくりとバスが前進を始めた。
窓の外を見つめれば、満開の桜が僕たちの入学を祝福するように、あるいは生贄を歓迎するように、狂い咲いていた。
「ほぉ……」
思わず、感嘆の声が僕の唇から漏れ出る。
僕と正義は、高度育成高等学校へと向かうバスに揺られていた。
どうやら僕たちは運が良いらしい。車内には現在、十五人ほどしか乗車しておらず、不快な喧騒とは無縁の、極めて静かで快適な空間が保たれている。もう少し遅い時間であれば、新入生どもで満員電車さながらの混雑になっていただろう。
「いやー、良かったなお嬢様。少し早めに出たお陰か、バスがあんまし混んでなくてよ」
「そうだね。君のお陰で、僕は静かなバスでこうしてゆるりと本を読む事が出来えている」
ペラリ、ペラリと、本のページを捲りながら答える。
正義は少し得意げに鼻を鳴らしながらも、僕が何を読んでいるのかが気になって仕方がない様子で、横からヌルりと顔を覗き込んできた。
「へぇ、今日は一体何を読んでいらっしゃるので?随分と分厚い本じゃないか」
「これかい?これはアルベール・カミュの『異邦人』さ。君も、『今日、ママンが死んだ』というフレーズくらいは、どこかで聞いたことは無いかい?」
「あー、なんか聞いた事があるような……無いような……。てかそれ、翻訳版じゃねぇのか。はー、フランス語の原書をそのまま読んでるわけ? おっかないおっかない、相変わらず脳みそのデキが違うねぇ」
腕を組み、記憶の底をさらっていた正義だったが、結局何も引っかからなかったのか、肩を竦めて苦笑した。
僕の手元にあるのは、フランス語で書かれたオリジナルの『L'Étranger』。
世間の常識や道徳といったルールから徹底的に滑り落ち、ただ「太陽が眩しかったから」という理由だけで人を殺め、最期まで神の救済すら拒絶した男・ムルソー。
社会の「異邦人」である彼の冷徹な視線は、僕にとって、これ以上ないほど親近感を覚えるものだった。
「君もフランス語を勉強すれば読めるようになるさ。どうだい?これを機に勉強してみるかい?」
「いやいや、俺はお嬢様とは違って、そこまでして本を読みたいってタイ——」
「もし、すみません」
正義がいつものように受け流そうとした、その時。
「あの……」と、控えめながらも透き通った声が、僕たちの会話の隙間に滑り込んできた。
不意の乱入者に、正義は驚きで言葉を止め、怪訝そうに視線を向けた。
僕もまた、本にそっと栞を挟み、顔を上げる。
そこには、こちらへの興味を隠しきれない様子で、座席から身を乗り出している少女がいた。
青みがかった淡い銀色の長髪。おっとりとした印象を与える垂れ目と、微かに下がった眉。僕に肉薄するほどに整った、可憐な顔立ち。
その赤色の制服を見る限り、彼女は僕らと同じく高度育成高等学校の生徒らしい。
「申し訳ございません。まさか、フランス語の原書でカミュを読まれている方が、このバスにいらっしゃるとは思わなくて……その、少し興奮してしまいました」
少女は申し訳なさそうに両手を胸の前で合わせながらも、その澄んだ瞳をキラキラと輝かせて僕を見つめている。
なるほど。本が、物語が、どうしようもなく好きな子なのだね。
その瞬間、僕の脳のスイッチが切り替わる。冷徹な傍観者の顔を奥へと引っ込め、表面上に貼り付けるのは、誰にでも平等で、カラリとした親しみやすい「いい子」の笑顔。
「いや、問題は無いとも!それよりも、さっきの口ぶりからして、君も読書家なのだろう?」
「はい……。同年代でカミュの『異邦人』を原書で読まれている方なんて初めて見ましたので、つい、嬉しくなってしまって」
「ふふ、嬉しいね。この本の持つ、一切の感傷を排した乾いた文体が好きなんだ。どうせ学校に着くまでまだ幾許か時間があるだろう。それならば自己紹介も交えつつ語らおうじゃないか。ジュスティも問題無いだろう?」
そうして正義の顔を覗き込めば、彼は「おいおい、俺を置いてけぼりにするなよな」とやれやれと諦めたように肩をすくめながら、こちらへと身体をごく自然に向けた。
「さて、それならまずは自己紹介をするとしようか。お初にお目にかかります、ご機嫌麗しゅう。僕の名前は
「んじゃ次は俺かな?俺は橋本正義だ。隣のお嬢様にはジュスティなんて呼ばれてるが、まぁ……苗字でも名前でも呼びやすい方で呼んでくれていいぜ?」
「ありがとうございます。最後は私ですね。私の名前は椎名ひよりと申します……。よろしくお願いします、久那瀬さん、橋本くん」
挨拶を終えると、椎名さんは少しだけ身を乗り出し、僕の手元にある本をじっと見つめた。その垂れ目の奥が、まるで宝物を見つけた子供のようにキラキラと輝いている。
「『異邦人』……有名ですが、とても難解な作品ですよね。久那瀬さんは、主人公のムルソーという人間をどう思われますか? 彼は母親の葬儀で涙を流さず、その後、理由を『太陽が眩しかったから』と言って人を殺してしまいます」
「そうだね。世間一般の道徳から見れば、彼は冷酷で、理解不能な異常者だ」
僕は白磁の杖にそっと指先を滑らせながら、声音にほんの少しだけ、本音の愉悦を混ぜて微笑んだ。
「でも、僕は彼がとても愛おしく、そして美しいと思うんだ。彼は自分に嘘をつけない。社会が求める『人間らしい不条理なルール』に合わせることを拒み、ただ徹底的に、ありのままの虚無として存在している。彼が裁判で、周囲の身勝手な『道徳』という名の脚本によって追い詰められ、死刑を受け入れていくあの過程……。人間の身勝手な不条理と、それに直面した個人の足掻きが、あの短い作品の中に最高に美しく凝縮されていると思わないかい?」
僕の少しズレた倫理観を含んだ解釈に、横で聞いていた正義が「おいおい……」と冷や汗を流しながら苦笑いで割り込んでくる。
「待ちなお嬢様、初対面の可愛い女の子相手に、そんなドロっとした趣味全開の文学論は引かれるだろ。椎名ちゃんも困って——」
「いいえ、とっても素敵です……!」
正義の言葉を遮るように、椎名さんはぽうっと頬を微かに染め、深く深く感銘を受けたように何度も頷いた。そして、胸元で小さく両手を組み、まるで物語の海へ飛び込むかのように、滑らかな、けれど熱を帯びた声で語り出した。
「阿憐さんの『物語』の切り取り方、すごく新鮮で、胸にストンと落ちました。私、お母さんの死よりも、その後の彼の『足掻き』に着目する方と出会えただけで、この学校に来て本当に良かったって思えます」
椎名さんは、僕の膝の上の本へ愛おしげな視線を落とす。
「カミュが描いたあの世界は、一見するとただの不条理な殺人劇です。でも……フランス語の原書で追うと、日本語訳以上に『言葉の温度の低さ』が際立ちますよね。ムルソーが感じる世界の質感……ぎらぎらと照りつける太陽の不快さ、波のざわめき、砂の熱さ。彼は決して冷血漢なのではなく、むしろ世界に対してあまりにも『誠実で、感受性が豊かすぎる』がゆえに、人間が作った『お決まりの感情のルール』を演じることができなかっただけだと思うんです」
ふわり、と彼女の青みがかった銀髪が揺れる。
おっとりとした垂れ目の奥に、明確な『批評家』としての鋭い光が宿っていた。
「周囲の人間は、彼の本質を見ようとせず、ただ『母親の葬儀で泣かなかった極悪人』という都合のいいレッテルを貼って、社会の不条理で絞首台へと送り込む。……阿憐さんの仰る通り、あの裁判劇こそが、この小説の最も残酷で、最も眩い見どころですよね。人間が人間を『理解できない』という恐怖だけで裁く姿は、まるで滑稽な喜劇のようでもあります。カミュ自身が『ムルソーは、私たちが持ち合わせている唯一のキリストだ』と言い残した意味が、阿憐さんのお話を聞いて、霧が晴れるように繋がった気がします……っ」
一気に語り終えると、ひよりさんは「あ……」と小さく声を漏らし、自分の熱量に気づいたのか、少し気恥ずかしそうに下がり眉をさらに下げて、はにかんだ。
「すみません、私、本の事になるとつい、周りが見えなくなってしまって……。長々と、押し付けるような真似を……」
「とんでもない。ひよりさんは、物語の本質をとても深く理解できる、最高の読者だね」
僕は心からの歓喜を以て微笑んだ。
素晴らしい。彼女はただ文字を追うだけの退屈な読書家ではない。人間の醜悪な集団心理と、不条理に押し潰される個人の美しさを、これほど正確に抽出できる感性を持っている。
「椎名さん、君の解釈も実に美しいよ。どうやら僕たちは、これから始まる学校生活の合間に、飽きもせず言葉を交わす必要がありそうだ」
「はい……! ぜひ、私でよければ、たくさんお話しさせてください」
私たちはまるで、何年も前からの旧知の友人のように、その後もバスが目的地に着くまで、いくつもの本について言葉を交わした。
椎名さんは、物語が持つ「人間の心の機微」を静かに愛し、僕はその物語の裏で「踊らされる人間の苦悩」を愛している。視点は違えど、本という共通の言語を持つ彼女との時間は、僕にとって極上のプロローグとなった。
やがて、バスの速度が落ち、窓の外に巨大な校門が見えてくる。
「あぁ、もう着いてしまったね。楽しい時間は、いつだってあっという間だ」
本を閉じ、小脇に白磁の杖を抱え直す。
椎名ひより。この出会いだけで、僕はこれから始まる『高育』という閉ざされた劇場に、何の見返りもないほどの期待を抱くのだった。