"la vraie parole"   作:イナナのナナ

11 / 13
えー、評価とお気に入りに報いるべく、書きたい話を書いていると気がつけば13000~15000文字になっていました。
もうなにも言いません。うちの小説は平均1万文字でやっていこうと思います。
余談なんですけど、先日投稿した第白幕のような他キャラ視点の話って需要あったりするんですかね?ノイズじゃなかったら時折挟みたいと思ってます。


第十幕 「交錯する思惑、あるいは歪な『救世主』の足跡」

 

「ダメだ、やめる。こんなことやってられっか」

 

放課後の教室に、苛立ちを隠そうともしない粗暴な声がドス黒く響き渡った。

声を荒らげたのは須藤健。彼の手元にあるノートには、数式とも呼べない歪な文字の羅列が殴り書きされている。勉強を開始してからまだ大した時間は経過していないというのに、彼は早くも限界を迎えたように、シャープペンシルを机へと乱暴に投げ捨てた。

 

そのあまりにも情けない姿、そして己の無知から逃避しようとする身勝手な振る舞いをじっと見つめていた堀北さんは、一言も発することなく、しかしその切れ長の瞳の奥に静かに、確実に、烈火のような怒りを蓄えていた。彼女にとって、この勉強会は単なる親切心ではなく、クラスが実力至上主義の過酷なシステムを生き残るための絶対防衛線なのだ。それを理解しようともしない野生の獣に対し、彼女の理性が限界を迎えつつある。

 

「ま、待ってよ皆。もうちょっと頑張ってみようよ!解き方を理解できれば、後は応用だからテストでも生かせるはずだし。ね?ね?」

 

張り詰めた空気をこれ以上悪化させまいと、すかさず割り込んできたのは櫛田さんだった。彼女はその内に秘めたドロドロとした激情をグッと力任せに抑え込み、脳裏で渦巻くであろうストレスを一切表に出さず、いつもの「誰にでも優しい櫛田桔梗」という極上の仮面を完璧に被り直してみせる。

須藤たち赤点組がこの場で勉強を完全に放棄してしまわないよう、彼女はなるべく言葉を噛み砕き、中学生でも分かるような手順で連立方程式のやり方を丁寧に、根気よく教えてあげていた。

 

しかし、どれほど噛み砕こうとも、基礎という土台そのものが欠落している生徒たちにとって、漠然とした数字の羅列は苦痛でしかない。池くんや山内くんを含め、席に座る殆どの生徒が彼女の説明に全くついてこれていなかった。教室内を支配するのは、前進のない、ただ時間だけがすり潰されていく虚無感だ。

 

「・・・・・・え、これで答え出せるのか?なんでだ」

「う・・・・・・」

 

池くんの的外れな呟きを耳にした瞬間、櫛田さんは浮かべていた聖母のような笑みをピシリと凍りつかせてしまった。

痛感したようだ。どれほど自分が仮面を被って尽くそうとも、目の前の凡俗どもの脳髄には何一つ響いておらず、自分の説明についてこれている者が一人として居ないという冷酷な現実に。彼女の完璧な微笑みの裏側で、凡俗への激しい嫌悪と殺意がピキピキと音を立ててひび割れていくのが、僕の特等席からは実によく見えた。

 

実に見事な喜劇じゃないか。僕は白磁色の杖のトップに両手を預け、彼らの滑稽な足掻きを特等席から愉しませてもらっていたけれど、これ以上この泥仕合を長引かせるのも退屈だ。展開を少しだけ前へ進めてあげるとしよう。

 

「ふむ、君たちはどうやら基礎から学び直した方がいいようだね。申し訳ないけれど、事実として君たちはこの学校の最底辺もいい所だ。分からないことを分からないままで放置せず、自分だけで理解できるようにならなければ真の成長とは言えないとも」

 

僕がいつも通りの、春の陽だまりのようなおっとりとした微笑みを浮かべながら正論の棘を刺すと、教室内が一瞬にして静まり返った。

 

「そう、久那瀬さんの言う通りね。あなたたちを否定するつもりはないけれど、あまりに無知、無能すぎるわ」

 

僕の言葉に同調して、それまで不気味なほど無言を貫いていた堀北さんが、ついにその鋭い言葉を発した。

売り言葉に買い言葉。彼女は一切の手加減を排除した正論の鈍器を容赦なく振りかざし、冷徹な言葉の刃によって須藤くんの貧弱なプライドを容赦なく冷たく突き刺していく。

 

対する須藤くんも、ただ黙って引き下がるような男ではない。彼はバスケットボールに対する並々ならぬ激情と、己の卓越した身体能力に対する絶対的な信頼を盾にして、「俺にはコートでの実力がある、勉強なんて不要だ」と頑なに断ずる。

交わるはずのない平行線を描く両者の論生は、秒単位でさらに激化していき、教室内は爆発寸前の火山のような熱量に包まれた。

 

そして遂に、言葉の刃に耐えかねた須藤くんが痺れを切らし、ガタァンと椅子を鳴らして堀北さんの胸倉を力任せに掴み上げた。

周囲から短い悲鳴が上がる。しかし、胸倉を掴まれながらも、堀北鈴音という少女の瞳から光は消えなかった。それどころか、彼女は一線を超えた冷酷な凶器を、須藤くんの最も大切にしているプライドの核心へと深く突き刺した。

 

「私はあなたには全く興味は無いけれど、見ていればどんな人間かは大体分かるわ。バスケットでプロを目指す?そんな幼稚な夢が、簡単に叶う世界だと思っているの?、あなたのようにすぐに投げ出すような中途半端な人間は、絶対にプロにはなれない。もっとも、仮にプロになれたとしても、納得の行く年収が貰えるとは思えない。そんな現実味のない職業を志す時点で、あなたは愚か者よ」

 

「テメェ・・・・・・!」

 

須藤くんの顔が怒りで怒張し、拳が小刻みに震える。だが、堀北さんの追撃は止まらない。

 

「今すぐ勉強を、いいえ、学校を辞めて貰えないかしら?そしてバスケットのプロなんてくだらない夢は捨てて、バイトでもしながら惨めに暮らすことね」

 

「はっ・・・上等だよクソが。やめてやるよこんなん。ただ苦労するばっかりじゃねえか。わざわざ部活を休んできてやったのに、完全に時間の無駄じゃねえか」

「おかしなことを言うのね。勉強は苦労するものよ」

 

尚も冷酷に追い打ちをかける堀北さん。その容赦のなさは、見ていて実に小気味よいほどだ。隣で櫛田さんが必死に須藤くんの腕を掴んで宥めていなければ、もしかしたら須藤くんは本気で堀北さんに拳を上げていたかもしれない。彼は苛立ちを隠さないまま、乱暴な動作で鞄の中に教科書やノートを詰め込み始めた。

 

「――今日はここまでね。これ以上続けても、効率が落ちるだけだわ」

 

堀北さんの口から、冷徹で容赦のない、しかしどこか致命的な疲弊の混じった声が響き渡った。

彼女は手元に広げていた分厚い参考書と、細かな文字で埋め尽くされたノートを躊躇いなくパタンと閉じ、眉間に深い皺を刻んだ。その切れ長の瞳には、隠しきれない苛立ちと、秒刻みで迫り来る中間試験への焦燥がドロリと沈んでいる。

須藤くんに対する底知れない呆れと苛立ちを隠そうともしない堀北さんの姿を見て、他のメンバーもこれ以上この場に留まるのは我慢ならなかったのか、次々と匙を投げて教科書を片付け始める。

張り詰めた重苦しい空気の中、Dクラスの命運をかけた勉強会は、完全に形骸化し、なし崩し的に解散の時間を迎えていた。

 

「やれやれ。彼をこの檻に連れ戻さない限り、堀北さんの美しい胃に穴が空くのも、そう遠い未来の話ではなさそうだね」

 

カツン、と静まり返った教室に、硬質で規則的な音が響き渡る。

僕――久那瀬阿憐は、右足の古傷がもたらす鈍い違和感を巧みに逃がしながら、愛用の白磁色の杖を床に突き、いつもの陽だまりのような、おっとりとした微笑みを浮かべて彼女の元へと歩み寄った。その一歩一歩は、まるで舞台の幕が上がるのを愉しむ道化のようでもあった。そして僕のすぐ隣には、相変わらず感情の起伏が一切読めない、死んだ魚のような瞳をした綾小路清隆が、まるで僕の影であるかのように静かに並んでいる。

 

「他人事のように言わないで頂戴、久那瀬さん。あなただってこのDクラスの一員でしょう。須藤くんが赤点を取って足を引っ張れば、それはクラス全体の、そしてあなた自身の不利益にも繋がるはずよ。それとも、あなたにはあの莫大なプライベートポイントがあるから、クラスの浮沈などどうでもいいとでも言うのかしら?」

 

堀北さんは僕の杖を鋭く睨みつけながら、拒絶のトーンを隠しようともせずに言い放った。彼女にとって、僕という存在は未だに底の割れない不気味な異物であり、理解の範疇を超える狂人なのだ。

 

「ふふ、手厳しいね。もちろん、僕だってこのクラスの行く末には大いに興味があるさ」

 

僕は微笑みを絶やすことなく、窓の外に広がる茜色の夕焼けに細い目を向けた。

 

「だけどね、堀北さん。無理に首輪をつけて机に縛り付けたところで、野生の獣の脳髄に知識が染み込むと思うかい? 飢えた獣を正しく懐かせるには、それ相応の順序と、恐怖と、甘美な餌が必要なんだよ。焦りは思考を鈍らせる。まずは彼が『自らここに来ざるを得ない』状況を作らなくてはね」

 

僕の言葉の裏にある、ドス黒い計算と冷徹な人間観察の視線に、堀北さんは微かに身を震わせた。しかし、彼女には僕の意図が完全には理解できない。ただ、目の前の男が「お人好しの救世主」の仮面の下に、凡俗には計り知れない何かを隠し持っていることだけが、本能的に伝わっているようだった。

 

「……言うだけなら簡単だわ。彼を説得する方法があるなら、今すぐ提示しなさい」

「おや、僕に頼るのかい? 嬉しいね。でも、物事には適切な『タイミング』というものがあるのさ。今日のところは、一度解散にするのが賢明だよ。ねえ、綾小路くんもそう思うだろう?」

 

不意に話を振られた綾小路くんは、表情一つ変えずにボソリと呟いた。

「さあな。俺はただ、堀北が怒ってノートを破かないか心配だっただけだ」

「相変わらず君は面白いね」

 

僕は喉の奥で小さく笑った。Dクラスという愚者たちの集まり。その中で、僕の脳内のチェス盤は、すでに次の駒の配置を完璧に終えていた。

 

 

その日の夜、校舎は昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、冷たい静寂に包まれていた。

僕と綾小路くんは、街灯の光も届かない、薄暗い特別棟の裏手へと足を運んでいた。周囲には人影もなく、ただ夜風が木々を揺らす葉擦れの音だけが、不気味に響いている。

ここに来た理由は他でもない。先程、綾小路くんが覗いてしまった深淵――「櫛田桔梗の本性」という特大の爆弾についての相談を受けに来たからだ。

正確に言えば、飲み物を買いに行った綾小路くんが、偶然にも裏庭で溜まりに溜まったストレスを凶暴に解放させていた櫛田桔梗(特大の地雷)を真っ向から踏み抜き、珍しく頭を悩ませていた綾小路くんに僕が面白半分で同行を申し出た、という形になる。

 

「確信があったのかい、綾小路くん。彼女がこんな時間に、ここでストレスの解消をしていたなんて」

 

自動販売機で買ったホットココアに口を付けながら、僕は囁くような声で隣の少年に問いかけた。缶から伝わる温かさが、夜の冷気の中で妙に際立っている。

 

「いや、本当にただの偶然だ。櫛田の様子がいつも以上に強張っていたのは感じたが、久那瀬も俺がわざわざ見えた地雷を踏むようなやつだとは思っていないだろう。何かがあるとは思ったが、まさかここまで面倒なことになるとは」

 

綾小路くんは淡々とした調子で答えながら、視線を一点に固定していた。その視線の先、十数メートルほど離れたコンクリートの壁際に、二つの人影が対峙していた。

一人は、Dクラスの「誇り高き迷子」、堀北鈴音。そしてもう一人は、この高度育成高等学校の頂点に君臨する王であり、彼女の実の兄――生徒会長、堀北学。

 

その異様な光景に、僕が面白がって一歩踏み出そうとした瞬間。

背後から伸びてきた綾小路くんの右手が、僕の口にそっと手を当てグッと抱き寄せてくる。

まるで僕が面白い玩具を見つけたら嬉々として飛びつく子供のようじゃないか。まぁ実際、笑顔で絡みに行こうとしたから間違いではないのだけれど。彼の静かな制止を受け入れ、僕はココアの缶を握ったまま、彼の胸板に頭をそっと預け、大人しく息を潜めた。

 

「鈴音。ここまで追ってくるとはな」

 

堀北学の声は、夜の凍てつく空気よりもさらに冷たく、鋭かった。一切の感情を排したその声音は、聞く者の脊髄に直接恐怖を叩き込むような絶対的な威圧感を放っている。

 

「私は……兄さんに、兄さんの背中に追いつくために、この学校へ来ました」

 

堀北さんの声は、いつもの凛とした強気なものではなかった。そこにあるのは、絶対的な存在を前にした子供のような怯えと、認められたいという悲痛な懇願だった。

 

「追いつく、か」

「Dクラスになったと聞いたが、三年前と何も変わらないな。ただ俺の背中を見ているだけで、お前は今もまだ自分の欠点に気づいていない。この学校を選んだのは失敗だったな」

 

堀北学の眼鏡の奥の瞳が、侮蔑の色を帯びて細められる。

 

「それは、───何かの間違いです。すぐにAクラスに上がってみせます。そしたら───」

 

「無理だな。お前はAクラスにはたどり着けない。それどころか、クラスも崩壊するだろう。この学校はお前が考えているほど甘いところではない」

 

「絶対に、絶対にたどり着きます・・・・・・」

 

「無理だと言っただろう。本当に聞き分けのない妹だ」

 

不良品。実の兄から下されたその最悪の烙印に、堀北さんは息を呑み、言葉を失った。彼女の美しい顔は一瞬にして絶望に染まり、全身が小刻みに震え始める。

だが、堀北学の冷酷さはそれだけに留まらなかった。彼は一歩踏み出すと、容赦のない速さで手を伸ばし、堀北さんの細い肩を掴んだ。そのまま、背後のコンクリート壁へと彼女の身体を強く押し付ける。ドン、と鈍い衝撃音が夜の闇に響いた。

 

「な、兄さ――」

 

「どんなにお前を避けたところで、俺の妹であることに変わりはない。お前のことが周囲に知られれば、恥をかくことになるのはこの俺だ。今すぐこの学校を去れ」

 

「出来ません・・・・・・っ。私は、絶対にAクラスに上がって見せます・・・・・・!」

「愚かだな、本当に。昔のように痛い目を見ておくか?」

 

「お前には上を目指す力も資格もない。それを知れ」

 

堀北学の右手が、蛇のような正確さで堀北さんの喉元へと突き上げられる。肉体的な制裁――実の妹を恐怖によって完全に屈服させ、排除しようとする明確な暴力の気配。堀北さんは恐怖のあまり目を剥き、声も出せずに硬直していた。

 

その暴力が完成するよりも、一瞬早かった。

僕をホールドしていた綾小路くんの身体が、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなくブレた。影が滑るような、常人離れした速度の身のこなし。

ガシィィン!!!

肉体と肉体が激突する、重く鋭い打撃音が暗闇を切り裂いた。

 

「……っ!?」

 

堀北学の動きが、完全に停止していた。彼の屈強な手首を、横から割り込んだ綾小路くんの手が、寸分の狂いもなく的確に掴み取って抑え込んでいたのだ。

 

「……何者だ」

 

堀北学の鋭い視線が、一瞬にして綾小路くんへとシフトする。その瞳に驚愕の色が浮かんだのも束の間、彼は卓越した身体能力のまま、自由な左足を翻した。容赦のない、そして一切の無駄がない、顔面を正確に狙った鋭い上段蹴り。

風を切り裂くような速度の凶器に対し、綾小路くんは表情一つ変えないまま、首を微かに傾ける最小限の動きだけでそれを完璧に見切った。さらに追撃の正拳突きが繰り出されるが、綾小路くんはそれをもバックステップで滑らかに回避し、一定の距離を取る。

 

「おやおや、恐ろしいね。生徒会長ともあろうお方が、こんな人気のない夜の校舎裏で、実の妹イジメかい? 随分と高尚で、教育的なご趣味をお持ちのようだ」

 

「く、久那瀬さん!?綾小路くん!?」

 

暗闇の奥から、カツン、カツンと、わざとらしく大きな音を立てて杖を叩きながら、僕はゆっくりと姿を現した。手にはカメラ機能をオンにした学生証端末を、顔には、いつもと変わらない、春の陽だまりのような温和で穏やかな笑顔を貼り付けたままで。

 

「久那瀬, 阿憐……。Dクラスの最たる『異物』か、盗み聞きとは感心しないな」

 

堀北学の冷徹な瞳が、今度は僕の全身を上から下まで値踏みするように射抜いた。彼は綾小路くんの底知れない体術の実力を見抜くと同時に、僕という存在が持つ形なき力を見抜いているようだ。

 

「買い被りだよ、生徒会長。見ての通り、僕は右足が不自由なだけの、しがない弱者さ。暴力なんて野蛮な真似、逆立ちしたってできやしない」

 

僕は杖のトップに両手を重ね、おっとりと小首を傾げた。

 

「だけどね……いくら教育のためとはいえ、あまり身内に乱暴を働くのは感心しないな。生徒会という組織のトップ、そしてこの学校の秩序の象徴たる君のその綺麗な肩書きに、決して消えない『汚れ』がついてしまうよ? もし僕たちの口から、あるいは別の『記録(カタチ)』でそれが表沙汰になったら……どうなるだろうね?」

 

僕の言葉に含まれた、淀みのない明確な「脅迫」。僕の笑顔の奥にある、一切の躊躇なく他者を破滅させられる狂気を、堀北学は正しく、そして正確に受け取った。

彼の腕を掴んでいた綾小路くんは完全に手を離した。彼は自身の衣服の乱れを静かに整えた。その一連の動作には、先ほどまでの荒々しさは微塵も残っていない。

しかし、次の瞬間。とてつもない速度の裏拳が、前触れもなく僕の顔目掛けて飛んでくる。

人間の反射速度を超えた一撃。だが、僕は危険を咄嗟で判断し、持っていた杖と端末を咄嗟に手放し、合気の要領でその破壊的な運動エネルギーを受け流す。

しかし、流石は生徒会長だ。僕の右足のハンデという死角を確実に突くように、追撃として右足を狙った鋭い蹴りが飛んでくる。

 

(不味いね、この一撃は避けられない)

「っぶね!」

 

当たれば、今度こそ右足が戻らないと予感させる一撃は、横から電撃のように差し込まれる、珍しく焦った顔を見せる綾小路くんの足が完全に受け止めてみせた。肉体と肉体がぶつかる鈍い音が再び響き、堀北学の蹴りは完全に不発に終わる。

 

「いい動きだな。完全に死角を突いたと思っていた。それに、俺が何をしようとしたかも、よく理解している。何か習っていたのか?」

 

ようやく堀北学は攻撃を止め、値踏みするような視線でそう問い掛ける。

 

「ピアノと書道なら。小学校の時、全国音楽コンクールで優勝したこともあるぞ」

 

相変わらず惚けた釈明をする綾小路くんに倣い、僕も肩をすくめて微笑んだ。

 

「僕は文武両道、品行方正、才色兼備の箱入り娘だったからね。ある程度の護身術は身につけていたのさ」

 

「ふむ、お前たちのような人間がいるのなら・・・・・・あるいは、か」

 

何事かを深く納得したように呟いた後、堀北学は妹へと再び冷徹な視線を戻した。

 

「……これ以上、俺の前に醜態を晒すな。鈴音。お前が本当に不良品でないと言うのなら、自らの力で証明してみせろ」

 

それだけを冷酷に言い残し、堀北学は一度も振り返ることなく、夜闇の向こうへと去っていった。

その場に糸が切れた人形のようにへたり込み、激しく息を乱す堀北さんを見つめながら、僕は口元の笑みをさらに深く、歪に広げた。彼女のプライドは今、完全に粉砕されたのだ。これ以上ないほど美しい、絶望の表情だった。

 

 

翌日の放課後。案の定と言うべきか、昨夜の精神的ショックを色濃く引きずり、顔色を青白くさせた堀北さんから、僕と綾小路に対して「須藤くんを何としてでも勉強会に連れ戻して」という、悲壮感すら漂う厳命が下された。

彼女自身、昨夜の兄からの言葉で、これ以上クラスの足を引っ張る存在を放置できないと痛感したのだろう。そうして派遣された僕たちは、校舎の一角にある自販機が並ぶ休憩スペースへと足を運んでいた。

そこには、遠目からでもはっきりと分かるほど、一触即発のドロリとした空気が漂っていた。

 

「おいおい、Dクラスの赤点猿がよぉ。随分とデけえ面して歩いてんじゃねえか。なぁ、須藤?」

 

ねちっこく、挑発的な笑みを浮かべて須藤健の前に立ちはだかっているのは、Cクラスの統率者、龍園翔だった。その背後には、石崎や小宮といった、いかにも血気の多そうな取り巻きたちが、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて控えている。

 

「あぁん!? テメェ、龍園……もういっぺん言ってみろよ、コラァ!」

 

今にも掴みかからんばかりに拳を握りしめ、顔を真っ赤にして激昂する須藤。彼の持ち前の短気さは、龍園のような手慣れた煽り手にとっては、格好の餌食でしかなかった。龍園の狙いは明白だ。ここで須藤に先に手を出させ、暴力沙汰としてのペナルティをDクラスに負わせること。須藤がその最悪の罠に完全に嵌まりかけた、その瞬間だった。

 

「そこまでにしなよ、龍園くん」

 

凛とした、しかしどこか優しさを孕んだ少女の声が、張り詰めた空気を割り裂いた。

現れたのは、Bクラスのリーダー、一之瀬帆波だった。彼女は特徴的な薄いピンク色の長い髪を揺らし、その正義感と善意に満ちた瞳で、龍園を真っ直ぐに見据えていた。

 

「他クラスの生徒を執拗に挑発して争いを起こそうとするのは、学校の規則にも触れる可能性があるよ。お互いのためにならないし、ここは引きなよ、ね?」

 

「ククッ、Bクラスの聖女様のお出ましか。相変わらずお優しいこって、一之瀬。他人のクラスの揉め事にまで首を突っ込むとは、随分と余裕だなあ?」

 

龍園がつまらなそうに鼻を鳴らし、ポケットに手を突っ込んだ。一之瀬はフゥ、と小さく溜息を吐くと、今度はまだ肩を震わせて怒っている須藤の方へと向き直った。

 

「須藤くんも、熱くなっちゃダメだよ。相手のペースに巻き込まれたら負け。暴力は何も解決しないからね。みんなが協力し合えば、きっと別の良い方法が見つかるはずだよ」

 

絵に描いたような裏表の無い善意。誰もが傷つかず、誰もが救われるハッピーエンドを目指す、美しき理想主義。その場にいた石崎たちや、周囲で見ていたギャラリーの生徒たちは、彼女のその眩しすぎる正しさに、どこか毒気を抜かれたような表情をしていた。

――あまりの浅ましさと、その幼稚な綺麗事に、僕の口元から、ふっと微笑みの温度が完全に消え失せた。

 

「お互いのため、ね。一之瀬さん――君の言うその言葉は、いささか傲慢が過ぎるんじゃないかな?」

 

カツン、と床を一層強く叩き、僕は一之瀬と龍園の間に歩み出た。

 

「久那瀬さん……、 どういうこと……?」

 

一之瀬が不意の乱入者に戸惑ったように小首を傾げ、その敵意に満ちた瞳を僕へと向けた。僕は彼女のその濁りのない瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、底冷えするような、冷酷な声音で言葉を紡ぎ始めた。

 

「君は『暴力は何も解決しない』と、さも絶対的な真理のように言ったね。だけどそれはね、最初から守られた安全圏にいる強者の論理か、あるいは目の前の現実から目を背けた思考停止の産物だよ。この『実力至上主義』を謳う学校において、限られた席を奪い合う椅子取りゲームの中で、君の行うその『仲裁』は一体何を意味すると思う?」

 

「それは……争いを止めて、話し合いで解決を――」

 

「話し合い? 滑稽だね」

 

僕は一之瀬の言葉を、冷徹な一言で容赦なく遮った。

 

「君はただ、自分の目の前で醜い争いが起きるという不快感から逃れるために、自分の都合のいい綺麗事を他人に押し付けているに過ぎないんだよ。この学校のシステムは、敗者の流す血と涙、そこで退学者という犠牲の上にしか、勝者の席は用意されていないんだ。Bクラスが今、良好なポイントを維持できているのは、他クラスが勝手に自滅し、あるいは蹴落とされているからだ。君のその『無垢な善意』はね、弱者に戦う覚悟を鈍らせ、困ったら誰かが助けてくれるという致命的な『依存』を植え付ける最悪の毒だ。綺麗事のドレスで残酷な現実を覆い隠し、自分は良いことをしたと満足する……これ以上の独善的で、醜悪な偽善がどこにあると言うんだい?」

 

「偽善……っ、私は、そんなつもりじゃ……! みんなが、傷つかずに済む方法を模索するのが、どうして間違っているの……!?」

 

一之瀬の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼女は大きな瞳を微かに潤ませながら必死に反論しようとするが、僕の瞳の奥にある、一切の光を通さない「底なしの闇」と、寸分の隙もない論理に圧倒され、次第に言葉を詰まらせていった。彼女の拠り所である『絶対的な善』が、僕という異物によって根本から否定され、そのアイデンティティが激しく揺らいでいる。

 

「ククッ! ――ハハハハハ! 傑作だ、本当に面白れえじゃねえか、Dクラスの読書家貴族様はよぉ!!」

 

静まり返った空間に、龍園の狂気染みた爆笑が響き渡った。彼は腹を抱え、涙を流さんばかりに愉しげに笑っている。

 

「おい一之瀬、お前の大好きな綺麗事が、Dクラスの足の不自由なお嬢様に完膚なきまでに論破されちまったなぁ! ククッ、おい、石崎、行くぞ。これ以上ここにいても、滑稽過ぎて腹筋が壊れちまう」

 

龍園は僕をニヤリと一瞥すると、満足そうに取り巻きを連れて去っていった。

一人残された一之瀬は、拳をぎゅっと握りしめ、ショックを隠せない様子で肩を震わせていた。

 

「私は……間違っているとは、思わないよ……。誰もが傷つかない方法だって、きっと……」

 

絞り出すようにそう言い残すと、彼女は僕から逃げるように、背を向けて走り去っていった。その走り去る背中を見送りながら、僕は再び、いつものおっとりとした微笑みを顔に浮かべた。

 

 

龍園たちや一之瀬が去った後、須藤は終始無言のまま、苛立ちを隠そうともせずに荒々しい足取りで体育館のバスケットコートへと戻っていった。僕と綾小路も、その後を追うように体育館の入口近くの壁際に陣取る。

コート内では、すでに部活のミニゲームが再開されていたが、須藤のプレイは完全に精細を欠いていた。先ほどの龍園からの執拗な挑発、大激論の末に瓦解した勉強会という慣れない環境へのストレス。それらが彼の太い神経を内側からズタズタに引き裂いているのが、遠目からでも一目瞭然だった。

 

「おい、須藤! パスが雑だぞ!」

「るっせえ! 黙ってろ!」

 

味方からの正当な指摘に対しても、須藤は牙を剥くように怒声を浴びせる。彼の強引なドリブルは相手ディフェンスに簡単に見切られ、放ったシュートは無惨にもリングの淵に弾かれて大きく跳ね返った。

完全に頭に血が上り、コート上で孤立していく須藤。そのプレイは、技術はあっても、ただの暴れる獣のそれだった。

 

そんな中、須藤がファンブルし、大きく弾け飛んだバスケットボールが、激しい勢いでコートの外――僕と綾小路が立っている足元へと、転がってきた。

ゴトゴトゴト、と床を転がるボールを、僕は愛用の白磁色の杖の先で、ピタリと正確に止めた。そして、杖を左手に持ち替え、少しだけ屈んでボールを右手で拾い上げる。指先でボールのザラザラとした感触を確かめるように、器用にそれを弄んだ。

 

「おい、テメェ。ボール返せよ」

 

コート内から、怪訝そうな顔をしたバスケ部員が声をかけてくる。須藤もまた、肩で激しく息をしながら、大粒の汗を流して僕を鋭く睨みつけていた。

 

「相変わらず、頭に血が上ると周りの景色が一切見えなくなるんだね、須藤くん。これじゃあ、ただの檻の中の野蛮な猿以下だよ」

「テメェ、久那瀬……! わざわざ部活の邪魔しに来たのかよ! 煽る気なら、いくらお前でもぶっ飛ばぞ、コラァ!」

 

須藤が今にも掴みかからんばかりの勢いで数歩歩み寄ってくる。だが、僕はその威圧感に微塵も動じることなく、いつもの陽だまりのような微笑みを浮かべ、ボールを両手でしっかりと持ち直した。

僕が立っている位置は、コート内のスリーポイントラインよりも、さらに遥か後方。コートの端に迫るほどの、常識外れの超遠距離だった。

 

「まあ待ちたまえ。少し、僕と『賭け』をしないかい? バスケ部の皆さん」

 

僕はコート内の部員たちを見渡しながら、おっとりと提案した。

 

「今から僕が、この位置からシュートを放つ。もしそれが、たった一本で綺麗に決まったら……須藤くんを少しの間、僕に貸してほしい。彼を勉強会に連れ戻す許可を、君たちバスケ部にいただきたいんだ。どうだい?」

 

その荒唐無稽な提案に、一瞬の静寂の後、体育館の中に爆発的な失笑と嘲笑が沸き起こった。

 

「ハハハハ! 何言ってんだあいつ!? 正気かよ!」

「足が不自由で、歩くのだって杖を突いてる奴が、その距離からシュートだって? 入るわけねえだろ!」

「おいおい、Dクラスには面白い冗談を言う奴がいるんだな!」

 

部員たちが容赦なく笑い声を浴びせる中――しかし、須藤健ただ一人だけは、一瞬にして顔色を変え、息を呑んでいた。

 

「じゃあ、いくよ。綾小路くん、少し僕の相棒を預かっていておくれ」

「ああ」

僕は傍らに佇む綾小路に、そっと愛用の白磁色の杖を預けた。

支えを失った僕の身体が、右足の一点に体重を乗せる。その瞬間、僕の右足の奥にある、かつての自由の終わりを告げた古傷が、ズキズキと焼けるような、目の前が白くなるほどの激痛を激しく訴えかけてきた。

脳髄を直接滅多切りにされるような痛みだ。だが、僕はその肉体の悲鳴を強靭な精神力で完全に無視し、顔には一切の苦悶を出さないまま、鋭く床を踏み込んだ。

 

深く身体を沈み込ませ、ボールを胸元から頭上へと掲げる。

その瞬間、体育館の空気の密度が変わった。

僕のフォームには、一寸の無駄も、一ミリのブレも存在しなかった。かつて世界を狙えると言われた、完璧に洗練され、肉体に刻み込まれた極上のシューティングフォーム。

 

――シュッ。

 

心地よい風切り音と共に、僕の手首から放たれたバスケットボール。

それは美しい、あまりにも完璧な放物線を描きながら、体育館の天井近く、照明の光を浴びて輝き。そして――。

 

ザシュッ!!!!

 

リングの金属部分に一切触れることすらない。ネットだけを激しく内側から揺らす、完璧なノータッチシュート。

 

「「「――――っ!?」」」

 

体育館全体が、冷水を浴びせられたように、完全に静まり返った。

先ほどまで大声で嘲笑っていた部員たちは、目玉が飛び出んばかりに目を見開き、開いた口が塞がらない様子で、静かに揺れるゴールネットと、僕の姿を交互に何度も見つめていた。誰もが、目の前で起きた「神業」を脳内で処理しきれていない。

 

「約束通り、彼は少しの間、僕がもらうよ」

 

僕は綾小路から静かに杖を受け取り、再び右足の重心を逃がしながら、カツン、カツンと音を響かせた。そして、完全に呆然と立ち尽くしている須藤へと、ゆっくりと歩み寄った。

 

 

「……なぁ、久那瀬。お前、今のシュート、一体どうやって……。お前、本当に足が……」

 

体育館を後にし、茜色の夕暮れの光が斜めに差し込む、静まり返った校舎の廊下を歩きながら、須藤が恐る恐る、畏怖の混じった声で尋ねてきた。先ほどまでの、龍園に向けられていたような荒々しい野生の牙は完全に消え失せ、今の彼はまるで、圧倒的な猛獣の前に平伏する巨大な飼い犬のように大人しくなっていた。

 

「ふふ、不思議かい? 須藤くん」

 

僕は歩調を緩めることなく、前を向いたまま淡々と、しかしどこか遠くを見るような声音で言葉を紡いだ。

 

「僕のこの右足……君の目には、哀れで、無力な障害に見えるだろうね。だけどね、昔の僕ね、今の君と同じだったんだよ。一つのことに狂い、己の才能を盲信し、世界の頂点すら掴めると本気で信じて、全てを捧げていた時期があったのさ」

 

カツン、と杖の音が廊下に反響する。

 

「だけどね、たった一度の、本当に些細な過ちと、絶対的な挫折によって、僕はその全てを失った。この足の古傷は、僕がかつて凡俗と同じように、身の程知らずな夢を見ていたという、愚かさの勲章さ」

 

僕はピタリと足を止め、振り返って須藤を真っ直ぐに見据えた。

窓から差し込む夕日のドス黒い赤が、僕の顔の半分を不気味な影で覆い隠す。その瞬間、僕の顔から、これまでのどんな場面でも崩れなかった「陽だまりの微笑み」が、完全に消え失せていた。そこにあるのは、絶対的な零度の冷酷さだった。

 

「君がバスケットボールにかけるその情熱や、プロになりたいという夢を、僕は否定もしないし、笑いもしないさ。だけどね、須藤くん――この『高度育成高等学校』という異常な檻の中においてはね、相応の『実力』がなければ、その情熱をコートに燻らせることすら、最初から許されていないんだよ。君がいくらコートで吠えようが、赤点を取ってこの学校を退学になれば、君のバスケ人生は、その瞬間に社会的に死亡する。すべてが終わりなんだ」

 

「……分かってるよ。分かってるけど、俺、勉強なんて本当に意味分かんねえし、イライラしてよ……」

 

須藤くんが頭を掻きむしり、弱々しく視線を彷徨わせる。野生の獣が、初めて直面した知性の檻を前にして、必死に自己正当化の言い訳を探しているかのような、実に見苦しくも哀れな姿だった。

 

僕はそんな彼を優しく諭すように、しかしその逃げ道を完全に塞ぐように、一段と声を潜めて言葉を紡ぎ始めた。

 

「おや、本当に意味がないと思っているのかい? それは酷い錯覚だ。それにね、なにもバスケットボールを続けていく上で、勉強が全く必要ない・・・・・・なんてことはないんだよ? 例えば、英語が出来れば将来海外のプロリーグに挑戦した時、現地のメディアからのインタビューだってスマートに受けられる。物理を覚えれば、最適な放物線やボールの効率的な投げ方が、感覚ではなく確固たる数理データとして理解できるようになる」

 

カツン、と杖の先を床に軽く打ち鳴らす。その硬質な音が、廊下の静寂を鋭く切り裂いた。

 

「君が『出来なくてもいい』と傲慢に切り捨てている学問というものはね、存外、君の未来をより良い道に進める為には、なくてはならない必須なものばかりなのさ。それを『意味が分からない』という子供のような理屈で放棄するのは、自らその才能の可能性を狭めている愚行だとは思わないかい?」

 

一歩、僕は須藤くんに向かって踏み込んだ。杖の先が、トントンと冷たく床を叩く。その音が、彼の心臓の鼓動を無理やりに支配していく。

窓から差し込む夕日のドス黒い赤が、僕の顔の半分を不気味な影で覆い隠す。その瞬間、僕の顔から「陽だまりの微笑み」が完全に消え失せていた。そこにあるのは、絶対的な零度の冷酷さだった。

 

「勘違いしないでほしいな。僕の献身はあくまで最低限、苦悩と苦難に立ち向かう為の力を付けるために行われている一時の気まぐれなんだ。それをね……君自身のくだらない我が儘や、感情のコントロール不足で無駄にするというのなら……」

 

僕の喉から漏れ出たのは、底冷えするような、絶対的な凍土の声音だった。須藤くんの巨体が、その威圧感だけで目に見えて縮こまっていく。

 

「次はね、僕が君をその大好きなコートから、二度と這い上がれない奈落の底まで、この手で直接引きずり下ろしてあげるよ。……僕の言っている意味が、分かるかい?」

 

「ひっ――」

 

須藤くんの喉から、短い悲鳴のような息が漏れた。

圧倒的な強者としてのプレッシャー、そして自分に手を差し伸べる「救世主」に対する、絶対的な恐怖と盲目的な恩義。それらが彼の心を完全に掌握し、逃げ場を無くさせていた。僕という悪魔の逆鱗に触れれば、今度こそ本当に破滅する。彼の本能が、そう激しく警鐘を鳴らしていた。

 

「……わ、悪かったよ、久那瀬。俺が、俺の間違いだった……。勉強会、行くよ。ちゃんと堀北の言うことも聞く。だから……」

 

「ふふ、分かってくれればいいのさ。君は素直で、とても良い子だね」

 

僕の顔に、一瞬にしていつもの陽だまりのような、温和な笑顔が戻ってきた。その急激な温度差に、須藤くんは怯えながらも、救われたような表情をして何度も深く頭を下げた。これでいい。獣の首輪は、さらに強固に締め上げられた。

 

 

放課後の薄暗い教室。

他の生徒たちが完全に下校し、静まり返ったその空間で、堀北さんは一人、まだ片付けを終えていない机の前に座っていた。彼女の表情には、諦めと、兄からの言葉による深い傷が、今なお色濃く残っている。

そこへ、ガラガラと教室の扉が静かに開いた。

 

「……堀北。遅れて、すまねえ」

 

入ってきたのは、バツが悪そうに大きな頭を掻きながら、小さくなっている須藤健の姿だった。

 

「須藤くん……? あなた、どうして……。今日の部活は、まだ終わっていないはずでしょう?」

 

鈴音が驚きに大きく目を見張る。あれほど頑なに勉強会を拒み、部活を最優先にしていた問題児が、自らの足で、しかも殊勝な態度でこの教室に戻ってきたのだ。

 

「これからは、ちゃんと勉強会受けるからよ。俺、赤点取りたくねえし……。だから、その……勉強、教えてくれ」

 

須藤は少し頬を赤くしながら、頭を下げた。

 

「……ええ。あなたがそのつもりなら、私はいくらでも付き合うわ。席に着きなさい、須藤くん」

 

鈴音は驚きを完全に隠しきれない様子ながらも、どこか張り詰めていた糸が解けたように、安堵の溜息を漏らして参考書を再び開き直した。その横顔には、微かだが希望の光が戻っているようだった。

その様子を、教室の入り口の特等席で見届けながら、僕と綾小路は静かに自分の席へと着いた。

 

「大した手際だな、久那瀬」

 

隣の席から、周囲には絶対に聞こえないほどの、極めて小さな声で綾小路が呟いた。その瞳は、僕が須藤に植え付けた「恐怖による依存」の本質を、正確に見抜いているようだった。

 

「何のことだい? 綾小路くん。僕はただの足の不自由なお人好しだからね。お友達が困っていたから、少しキツくても根気よくお話をして、正しい道へと導いてあげただけさ」

 

僕は再び、いつもの陽だまりのような、誰もを安心させる温和な微笑みを浮かべた。愛用の白磁色の杖を机の傍らにそっと立てかけ、自分のペンを握る。

こうして、Dクラスという歪な劇場の歯車は、彼らの描いたプロット通りに、完璧な配置を保ったまま、次なる混沌の演目へと再び回り始めるのだった。

 

話数の更新時間について。

  • このままでいいよ。(12:00更新)
  • 変えて欲しい。(18:00更新)
  • 変えて欲しい。(20:00更新)
  • 変えて欲しい。(8:00更新)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。