サラサラと、外界の光を完全に拒絶した薄暗い部屋の中に、万年筆の先が原稿用紙の上をなぞる音が冷たく響き渡っている。
遮光カーテンを隙間なく締め切った自室のデスクで、僕はただ、小さく照らすライトの光にその身を深く浸していた。
直近において水面下で敢行した、堀北学との応戦、須藤健の勉強会への再加入――それらのために費やした、僕の元より脆弱で貧弱な肉体への過度な負荷が、ついに手痛い祟りとなって跳ね返ってきたらしい。病欠という、学校のシステムを合法的に利用した至極合理的な名目を得て、こうして自室の闇に籠もっているものの、僕の脳髄は活動を止めることを断固として拒絶していた。
「……あァ、実にもどかしいね」
脳を焼くような熱のせいで視界の端がぐにゃりと不気味に歪み、新たな文字を書き出す指先が、いつも通りの正確な調律を失っていく。紙の中で踊るように並べられた文字を見れば、網膜の奥がジクジクと痛んだ。文字の形の狂いに苛立ちを覚えながらも、それでも僕は、自室での執筆の手を止めるつもりは毛頭なかった。僕がこの手で組み立てるべき、新たなるのプロットを、この原稿用紙に一文字ずつ、確実に刻み込み続けなければならないからだ。
僕の本質は、常に物語を紡ぐことにある。高校生にして累計発行部数3,500万部を突破している現代の生ける伝説――『セーレ・ブランシュ』。その名に恥じるような不完全な作品を、僕は断じて許さない。
額からとめどなく流れ落ちる、不快な粘り気を帯びた汗を白磁のような手の甲で拭い去りながら、僕は自身の意識が完全に熱の檻へと融解していくのを感じていた。そして、その熱の源泉となった、数時間前のあの退屈極まりない授業中の出来事へと、記憶の糸がゆっくりと、しかし確実に手繰り寄せられていく。
◇
その日の午前中。教室内を満たしていたのは、教員の単調な板書のチョーク音と、五月の気怠い空気だけだった。
僕はいつも通り、窓際の特等席で完璧な「傍観者」としてのポーカーフェイスを維持していた。足の不自由な僕が、クラスの有象無象どもに体調不良という決定的な「弱み」を晒すことなど、僕の審美眼が断じて許さない。おっとりとした微笑の仮面を顔面に貼り付け、ただ静かに机に向かい続ける。
だが、肉体の限界は僕の意志を無慈悲に裏切り、唐突に訪れた。
視界が急速に暗転し、世界の解像度がガタガリと落ちていく。重力に抗えなくなった僕の身体は、隣の席に座る無色透明な少年――綾小路清隆のほうへと、あてどなく傾ぎ、そのまま突如として倒れ込んだ。
「……久那瀬?」
何事かと思い、僕の身体を咄嗟に支えようとした綾小路くんの手が、僕の制服の肩と、そこから覗く剥き出しの首筋に触れる。その瞬間、彼のいつもうつろな死んだ魚のような瞳が、微かに、しかし明確に揺れ動いた。
当然だろうね。普段なら、室内を好み、運動から遠ざかっている僕の皮膚は人一倍冷たいはずなのだ。それが、今や触れた彼の指先が火傷を負うのではないかと錯覚するほどに、明らかに異常であると一目で判るほどの恐ろしい熱を発していたのだから。
「松下、すまないが手を貸してくれ。久那瀬を寮に連れ帰る」
僕の徹底したポーカーフェイスのせいで周囲の発見が致命的に遅れたことを瞬時に察した綾小路くんは、状況を合理的かつ静かに処理し始めた。彼はクラスの女子グループに完璧に擬態しながらも、その実、極めて高い観察眼を持つ松下千秋をピンポイントで呼び止める。足の不自由な僕を運ぶため、自由の利かない白磁色の杖を持たせる同行者として、彼女はこれ以上ない最適の駒だった。
「え、ちょっと、久那瀬さん!? 大丈夫!?」
「大変、すごい熱じゃない! 保健室、いや先生を呼ばなきゃ……!」
突如として机に突っ伏した僕の異変に、櫛田さんや平田くんが色めき立ち、教室内は一瞬にして蜂の巣をつついたような騒ぎへと変貌する。教壇の茶柱先生も鋭い視線をこちらへ向け、歩み寄ろうとした。凡俗どもの無遠慮な同情と、騒音のような心配の声が、熱に浮かされた僕の鼓膜を不快に揺さぶる。
「問題ない。保健室ではなく、このまま寮の自室へ運ぶ。茶柱先生、久那瀬の病欠の処理をお願いします。平田、櫛田、大騒ぎして周囲の注目を集めるのは久那瀬の本意じゃない。静かにしてくれ」
綾小路くんが淡々と放った、抑揚のない、しかし妙な強制力を持った一言。それが波立つ教室の空気を一瞬で凍りつかせ、これ以上の介入を拒絶する完璧な障壁となる。
状況を瞬時に察した松下さんが、僕の机の脇に立てかけられていた白磁色の杖を素早くその手に抱え、綾小路くんの影に滑り込んだ。
「先生、私からもお願いします。久那瀬さんの荷物は私が持っていくから。綾小路くん、行こう」
松下さんの硬質な、しかし機転の利いた声が、静かに教室の幕を引き千切る。僕たちは重苦しい空気の教室内を後にし、静まり返った廊下へと滑り出した。
廊下に出た瞬間、五月の生温かい風が窓から吹き込み、僕の白磁のような肌をじっとりと濡らす汗を揺らした。
だが、僕の意識はすでに、一歩を進めることすら拒絶するほどに混濁している。右足の古傷が、高熱に連動するようにジクジクと不気味な脈動を刻み、脳髄へダイレクトに激痛を送り込んできていた。
膝の力が完全に抜け、崩れ落ちそうになった僕の身体を、次の瞬間、綾小路くんは一切の躊躇なく、いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢で無造作に抱え上げた。
「――っ!?」
あまりに唐突な不条理の発生に、熱に浮かされていたはずの僕の思考が一瞬だけ白く弾ける。
僕の膝裏と背中に回された彼の両腕は、細身の制服からは想像もつかないほど太く、岩のように強固だった。重力から完全に解放され、僕の頭の位置が彼の胸元へと強制的に引き上げられる。
「……な、にをして……いるんだい、綾小路くん……」
掠れた声で抗議を試みるものの、彼はその死んだ魚のような瞳を微塵も動かさず、僕を腕に抱いたまま、何事もないかのように淡々と廊下を進み始めた。
「歩行不能と判断した。肩を貸して歩くよりも、この方が移動速度において合理的だ。松下、荷物と杖を頼む」
「え、あ、うん……了解(……何なの、この絵面。久那瀬さんがお姫様抱っこされてるのもアレだけど、綾小路くん、成人男性一人を抱えてるみたいに顔色一つ変えないじゃない……)」
すぐ後ろを歩く松下さんの、驚愕と不審が入り混じった張り詰めた視線が、僕の背中に突き刺さるのを感じる。
学園の誰もが羨む美しい肉体を持つこの僕が、クラスで最も無色透明なはずの少年の腕の中に、完全に収まっている。完璧な「傍観者」を気取る僕の審美眼にとって、これほど無様で、そして不条理な構図が他にあるだろうか。
だが、抗おうにも、僕の脆弱な肉体は彼の圧倒的なホールドから抜け出す力を残していなかった。
校舎から学生寮へと続く連絡通路は、授業中ということもあって、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。綾小路くんの正確無比な足音と、松下さんが抱える僕の白磁色の杖が微かに擦れ合う音、そして僕の不規則で浅い呼吸音だけが、白く長い廊下に虚しく反響していく。
太陽の光を浴びた渡り廊下を通り抜ける時、僕の視界は熱のせいで、世界の輪郭が万華鏡のようにぐにゃりと歪んで見えた。アスファルトから立ち上る陽炎が、まるで僕を奈落へと誘う劇場のカーテンのように揺らめいている。
その熱の檻の中で、僕は完全に身を委ねる形となった綾小路くんの体温を感じていた。
(ふふ……あはは。本当に、君という存在には驚かされるね……)
これほどの質量を持つ僕を抱えて、長い距離を早足で移動しているというのに、彼の胸板からは呼吸の乱れすら伝わってこない。心拍数すら一定を保っているその異常性に、僕は眩暈に似た法悦を覚えていた。
やがて、陽炎の揺らめく街路を抜け、僕たちはようやく学生寮の重厚なエントランスへと滑り込んだ。
ひんやりとした大理石の床の冷気が、僕の狂った感覚をわずかに呼び覚ます。
学生寮へと続く、人気のない長い街路。その前段階であるエレベーターの密室の中で、すでに静かな情報戦は始まっていた。
チーン、と静寂を切り裂くような無機質な電子音が響き、鉄の箱が密やかに上層階へと動き出す。
それは、外界からの干渉を完全に遮断された、逃げ場のないエレベーターだった。
車椅子を必要としない僕は、未だに綾小路くんの強固な両腕の中に横抱きにされたまま、ただ激しく浅い息を切らせていた。彼の胸元から伝わる制服の生地の感触と、僕の身体を一定の高さに維持し続ける圧倒的な安定感が、かえって僕の不自由な肉体の無力を強調しているようで滑稽だった。
僕の白磁色の杖を、まるで割れ物でも扱うかのように大切そうに、しかしどこか武器を奪ったかのような警戒の色を孕んで抱える松下さんは、すぐ隣で僕の顔を覗き込んでいる。その瞳は、クラスメイトの重病を案じる「心配の念」を完璧に装いつつも、その実、恐ろしいほどの速度でこの目の前の「異様な状況」の最適解を計算していた。彼女の脳内という盤面で、僕たちの本質を一枚ずつ剥ぎ取ろうとする、冷徹な値踏みの視線。それが密室の細い空気をじりじりと震わせている。
松下さんは、抱え上げられた僕の身体から漏れ出す、衣服越しでも判るほどの異常な熱量に内心で激しく戦慄していた。並の風邪や知恵熱の領域を遥かに逸脱した、まるで命そのものを燃やし尽くそうとするかのような狂気的な熱。
だが、高い観察眼を持つ彼女がそれ以上に決定的な違和感を抱いたのは、僕を一片の揺らぎもなく支え続けている綾小路くんの「呼吸」だった。
校舎からここまで、これほどの質量がある人間を抱え上げ、一度も速度を落とさずに急ぎ足で移動してきたのだ。普通の男子高校生であれば、肩を荒く上下させ、額に汗を浮かべてパニックになっていてもおかしくない。しかし、綾小路くんの胸板は驚くほど静かに一定のリズムを刻み、肩は一ミリも上下せず、息一つ乱れていなかった。
まるで「最初からこうなることをすべて知っていた」かのように、あるいは最初から僕の肉体の重量など存在しないかのように、彼はただ淡々と、精密機械のように足を動かし、ここに佇んでいる。
(……何なの、この二人……。久那瀬さんのこの尋常じゃない熱もおかしいけど、綾小路くんのこの落ち着き方は、いくら何でも不自然すぎる……。ただの『目立たない男子』がやっていい動きじゃないわよ……)
松下さんの視線が、僕ほんのり赤く火照った顔と、綾小路くんの無表情な横顔の間を、不審げに、そして確信めいた鋭さを帯びて行き来する。逃げ場のない数十秒の密室。その視線の機微、泳ぐ網膜のグラデーションを、熱に浮かされ、世界の解像度が落ちていく中でも、僕は劇作家としての執念でしっかりと自身の網膜に焼き付けていた。
やがて再び電子音が鳴り、扉が左右に開く。綾小路くんは僕を抱えたまま、静寂に包まれた長い学生寮の連絡通路へと一歩を踏み出した。ここからは僕もかろうじて足を地に付け、彼の片肩に深く体重を預ける形で、不揃いな足音を虚しく反響させながらゆっくりと進む。松下さんは一歩後ろから、僕たちの影を追うように付いてきていた。
「なぜ黙っていた」
隣から、感情の起伏が一切削ぎ落とされた、いつもの平坦な声が鼓膜へと降ってくる。その瞳は、僕の歪んだ横顔の解像度を正確に測るように冷徹だった。
「お前があのまま教室内で完全に意識を失っていれば、余計なノイズになっていた。周囲が騒ぎ立て、担任や医療機関が介入すれば、俺たちの足元まで調べられるリスクが生じる。体調管理も、お前の言う『合理的な計算』に含めるべきだろう」
淡々と淡白に問い詰められる僕だが、熱で朦朧とする意識の底から、いつもの飄々とした、おっとりとした笑みを無理やり唇へと手繰り寄せた。貼り付けた仮面が、熱のせいで微かに歪む。
「ふふ、冷たいね、綾小路くん……。劇場の特等席に座る傍観者が、舞台を前に無様な醜態を晒すわけにはいかないだろう? 僕はただ、最後までDクラスという掃き溜めの、誰もが認める美しい結末を、誰にも邪魔されずに眺める、美しい観客でありたかっただけさ。それに、この程度の熱、僕にとっては退屈な日常を彩る、ただの極上の余興だよ」
「……相変わらず、命の使い方が歪だな」
綾小路くんは僕のその見え透いた誤魔化しや、傍観者としての詭弁をそれ以上追及することはしなかった。ただ、自身の平穏を守るためにその不条理な状況を淡々と受け入れるように、僕の身体を支える左腕にわずかに力を込めた。
すぐ隣、あるいは背後を歩く松下さんは、僕たちの間で交わされる、およそ普通の高校生のものとは思えない異様な会話の応酬──合理的な計算、特等席、命の使い方の歪さ──を、一言も聞き漏らさぬよう、張り詰めた視線を泳がせていた。彼女の中で、僕たちの『背景』としての擬態が、今まさに音を立てて崩壊していくのを、僕は熱い吐息の中で愉悦と共に感じていた。
ようやく僕の部屋の前へとたどり着き、僕は重い身体に鞭を打ち、内ポケットから鍵を取り出して綾小路くんに預けた。
カチリと金属の硬質な噛み合わせの音がして、冷徹な鍵穴が回され扉が開かれる。
薄暗い室内に運び込まれた僕は、そのまま部屋の奥にある、清潔だがどことなく無機質なベッドへと横たえられた。仰向けになり、重い重力に囚われた身体を沈み込ませる。
その時、同行していた松下千秋の視線が、まるで獲物を値踏みする批評家のように、鋭く室内の隅々へと走り始めた。
彼女の目は、ただの女子高生のものではない。この高度育成高等学校が提供する画一的な学生寮のはずなのに、部屋の中に配置された調度品の洗練された統一感、色彩の配置、生活感を徹底的に排除した仕事道具の数々。一般の生徒が絶対に持ち得ない圧倒的な「異質さ」と、隠しきれない高貴な審美眼の残滓を、彼女はその高い計算能力で瞬時に見抜いていく。
(……やっぱり、久那瀬さんって人、普通じゃない。この部屋の空気、まるで人間の生活の匂いがしない……。何なの、この圧倒的な違和感は……)
松下さんは、僕という存在の底知れない異常さを肌で再確認し、内心で息を呑みながら、本能的な恐怖から身を硬くしていた。
その合間に、綾小路くんは無言のままバスルームへ向かい、よく絞った濡れたタオルを用意して戻ってきた。彼はそれを僕の熱い額の上へと、躊躇いなくそっと乗せる。ひんやりとした感覚が、沸騰寸前だった僕の脳を僅かに宥める。彼はその作業を終えると、淡々と言い放った。
「安静にしろ、久那瀬。これ以上の無理は心身の乱れを生む。お前のポーカーフェイスも、肉体が壊れては意味を成さない」
「ありがとう、優しい隣人さん……。君の手は、見た目よりもずっと器用で心地いいね……」
僕が熱の檻の中でゆっくりと目を閉じると、綾小路くんの気配がベッドから離れ、部屋の壁一面を占める巨大な本棚へと向かった。
そこには、ドストエフスキーやニーチェ、あるいは古今東西の様々な一級の古典文学や哲学書が、背表紙の色彩すらグラデーションのように計算されたかのように美しく整然と並んでいる。
しかし、彼の死んだ魚のような瞳が、ある特定の棚でピタリと動きを止めた。
そこには、他の古典名著を押し除けるかのように、不自然なほどの冊数で、「セーレ・ブランシュ」という作家の本が、まるでそこだけが不可侵の聖域であるかのように大量に、そして厳重に保管されていた。
綾小路くんはその黒いビロードと銀の装飾が成された背表紙の群れを、その冷徹な瞳の奥で、静かに、深く観察し始めていた。それが意味する行間を、彼は無意識の内に、あるいは明確な既視感を持って感じ取っているかのように。
そこへ、松下さんがそっと足音を忍ばせて近づき、綾小路くんの隣に立った。彼女もまた、その棚の異様さに視線を奪われていたのだ。
「ねえ、綾小路くん……これ、ちょっと異常じゃない?」
松下さんは声を限界まで潜め、本棚の特定の区画を指差した。
「全部同じ作家の本よ。しかもよく見て、同じ本が3冊ずつあるし……。久那瀬さんって、ただの読書好きには見えない。あなた、彼女の何を知っているの?」
綾小路くんはゆっくりと首を振る。その死んだ魚のような瞳には、松下の探りなど微塵も響いていない。
「さあな。俺にはよく分からない。ただ、久那瀬のこだわりなんだろう。収集癖なんて誰にでもある。他人の趣味を深く詮索するのは、俺の領分じゃない」
「……相変わらず、煙に巻くのが上手いんだから」
松下さんは不満げに唇を尖らせたが、その視線は依然として、本棚の持つ「圧倒的な異質さ」から離れられずにいた。
ベッドに横たわったまま、僕はシーツで顔を半分隠すようにして、申し訳なさそうに眉を下げておっとりと微笑んだ。熱のせいで声音は微かに掠れていたが、松下さんの警戒を解くために、僕はあえて「対話」を仕掛けることにした。
「ごめんね、松下さん。僕がこんな風に不自由なせいで、君に余計な手間を掛けさせてしまうよ。本当に申し訳ないな」
「うううん、気にしないで久那瀬さん。急に倒れちゃうからびっくりしたけど……。それで、何か必要なものでもあるのかな? 薬とか、冷たい飲み物とか」
「ありがとう。優しいんだね……。それなら、そこの僕のデスクの、上から二段目の引き出しの中にね、次の勉強会でみんなに配ろうと思っている『特製の問題集』が入っているんだ。それを一冊、取ってもらえるかい? 君にも先に目を通しておいてほしくて」
「了解、ちょっと待ってね」
松下さんは言われた通りに、一切の無駄がない僕の学習机へと歩み寄り、躊躇なく二段目の引き出しを引いた。
カチャ、と軽い金属の音が響き、引き出しが滑り出す。彼女は目的の問題集へ手を伸ばそうとしたが――その直前、彼女の指先がピタリと不自然に凍りついた。
彼女の視線が、問題集の脇に置かれていた、ある「別のもの」に完全に釘付けになっていた。
それは、端が微かに擦り切れた、何枚もの厚手の原稿用紙のような束だった。
ただの作文用紙ではない。そこには、びっしりと狂気的なまでの密度で、緻密な舞台設定、人間の心理の裏側をこれでもかと残酷に抉り出すセリフの応酬、そして物語全体の因果関係を完全に支配する圧倒的なプロットが、僕の独特の流麗な筆致で書き殴られていた。
それは、僕が『セーレ・ブランシュ』名義で執筆している、完全なる新作の原案原稿。高校生が趣味や思いつきで書くような稚拙な小説などでは断じてない。一目見ただけで、人間の本質を完全に理解し、それを盤上の喜劇として昇華する「傍観者」の脳髄がそのまま紙の上に具現化したような、圧倒的な芸術の結晶だった。
松下さんの背中が、一瞬にして緊張で強張るのを、僕はベッドの特等席から薄目をあけて静かに観察していた。彼女は一見、普通の女子を装っているが、その実力は高い。だからこそ、その原稿用紙に書かれた内容の「異常性」と、目の前で熱に浮かされているはずの足の不自由な少女の「怪物性」を、直感的に察知してしまったのだろう。
しかし、彼女はさすがに立ち回りが器用だった。ここで不用意に僕を問い詰めるリスクを計算したのか、松下さんは何事もなかったかのように不自然な沈黙を飲み込み、視線を原稿用紙から逸らした。そして、目的の勉強会用問題集だけをそっと手に取り、引き出しを静かに閉めた。
「はい、これだよね? 久那瀬さん」
彼女の笑顔は、先ほどよりも明らかに引き攣り、微かに声音が震えていた。
「うん、それさ。わざわざすまないね、松下さん」
僕は彼女の動揺をすべて見越し、何一つ気づいていない風を装って、相変わらず陽だまりのような微笑を貼り付けたまま言った。
「せっかく取ってもらったんだ。松下さん、良ければその問題集の中身を、今ここでパラパラと確認してみておくれよ。僕なりに自信作なんだ」
「え? ああ、うん……分かったわ」
松下さんは僕の言葉に促されるまま、手の中の問題集を開いた。先ほどの原稿用紙への動揺を隠すように、彼女は熱心にページをめくっていく。
しかし、数ページ目を通したところで、彼女の綺麗な眉が今度は別の意味でピキリと不自然に跳ね上がった。
「……ねえ、久那瀬さん。これ、ちょっとおかしくない?」
松下さんは問題集の特定のページを指差しながら、僕を問い詰めるような鋭い視線を向けてきた。今度は「普通の女子」の仮面が、驚きのあまり半分剥がれ落ちている。
「何がおかしいんだい?」
「おかしいわ⋯⋯この問題集に書かれている出題予想の範囲……茶柱先生がこの前、教室で公式に指定した中間試験の範囲と、異なっているじゃない。これじゃあ、みんながこの通りに勉強したら、全然違う場所を解くことになっちゃうわよ?」
彼女の指摘は正しかった。問題集にまとめられている範囲は、Dクラスに提示された公式の範囲よりも、数章分も先へ進んでおり、かつ出題の傾向も全く異なっていた。普通の生徒なら「久那瀬のミス」で片付けるだろうが、彼女は僕の「裏の頭脳」の片鱗を先ほど引き出しの中で垣間見たばかりだ。これが単純なミスであるはずがないと、本能的に見抜いていた。
松下さんは一歩、僕のベッドへと近づき、真剣な面持ちで声を潜めた。
「ねえ、これ、どういうことなの? あなた、わざと間違った範囲をクラスに配って、みんなを嵌めようとしてるの? それとも――」
「ふふ、そんなに怖い顔をしないでよ、松下さん。僕が愛しいクラスメイトたちを無意味に陥れるわけがないじゃないか」
僕は彼女の追及を、おっとりとした笑い声で受け流した。そして、枕にゆっくりと頭を預け、感情の抜け落ちた硝子玉のような瞳で、彼女を静かに見つめ返した。
「それはね、ある『親切な先輩』が、僕にだけ特別に教えてくれた情報に基づいて作ったものなのさ。茶柱先生が告げた範囲は、近々、学校側の都合で『変更』されることになる。これはその変更後の、本物の試験範囲だよ」
「変更……? そんなの、一介の生徒が知り得ることじゃないわ。その親切な先輩って、一体誰なのよ?」
松下さんが息を呑み、核心に迫る。 僕は彼女のその品定めを愉しみながら、最高に不気味なトーンで、その名前を口にした。
「生徒会長。――堀北学先輩だよ。彼がね、僕の特等席の利に免じて、少しだけ融通してくれたのさ」
「――ッ!?」
生徒会長・堀北学。この学校における絶対的な「法」であり、雲の上の存在。その男が、裏でDクラスの、それもこの久那瀬阿憐と繋がっており、試験情報を事前に漏洩させている――。
先ほど目撃した『天才』の原稿、そしてこの『政治的』な不条理。その事実の持つあまりの重さに、松下千秋の脳内は完全にキャパシティをオーバーした。彼女の顔から、一気に血の気が引いていく。
「私……ちょっと、用事を思い出したから、帰るわね!」
彼女はそれ以上、僕の部屋という名の「深淵」に留まる恐怖に耐えきれなくなったのだろう。問題集を机の上に叩きつけるように置くと、弾かれたように踵を返し、脱兎の如き勢いで部屋を飛び出していった。バタン! と重々しいドアの閉まる音が、室内に虚しく響き渡る。
静寂が、再び室内に戻ってきた。
松下さんが去った後の冷えた空気の中、僕は唇から形骸化した微笑みを完全に剥ぎ落とした。感情のすべてが消滅した無表情のまま、部屋の片隅へと視線を向ける。
「……実につきあいにくい、勘のいいお嬢さんだね」
僕の声は、先ほどまでの優雅さを完全に失い、今にも消えてしまいそう程弱りきっていた。
その僕の言葉に応じるように、部屋の壁際に、最初から完璧な「背景」として気配を消して佇んでいた少年が、ゆっくりと身体を動かした。
無色透明の少年――綾小路清隆だ。 彼は衣服の擦れる音すらさせずに僕のベッドの傍らへと歩み寄り、松下さんが置いていった問題集を淡々と手に取った。
「松下千秋か。一見、軽薄な女子グループに身を置いているが、その実、学力も身体能力もクラスのトップクラスの数値を隠し持っている。お前のあの引き出しの『原稿』を見た時の動揺、そして堀北学の名を聞いた時の撤退判断……。やはり、あの女はただの凡俗ではないな、久那瀬」
綾小路くんの声には、何の感情の起伏もない。だが、その死んだ魚のような瞳の奥では、松下という新たな駒の価値が、冷徹な数式によって弾き出されているのが分かった。
「ふふ、そうだね。彼女は僕たちの正体に、最も早く肉薄してくるかもしれない。だけど、怯えて逃げ出すようでは、まだまだ品性が足りないよ」
僕は小脇の白磁色の杖を指先でトントンと叩き、冷酷な嘲笑を漏らした。
「堀北学の名前を出してあげたのは、僕からのささやかな『警告』さ。これ以上、僕らの『背景』を覗き込もうとするなら、次は生徒会という名の不条理を使って、彼女のその器用な立ち回りごとすり潰してあげる、というね。これで彼女も、当分は僕たちの『背景』を大人しく観察する側に回るはずだ」
「合理的だな。俺としても、クラスの内部から俺の過去や実力を探ろうとするノイズが増えるのは避けたかった。お前がそうして『最凶の盾』として表で威圧し、松下の警戒心をすべて自分に引きつけてくれるのは、俺の『静寂』にとって極めて好都合だ」
綾小路くんは問題集を机に戻すと、真っ直ぐに僕の目を射抜いた。彼のその一分の揺らぎもない利己主義、他者の感情をただのシステムとして歓迎する冷徹さ。それこそが、僕の心を狂おしいほどに満たしていく。
「ええ、喜んで。君のためなら、僕はいくらでも冷酷な人形になってあげるさ、綾小路くん。松下さんがどれだけ僕を疑おうが、龍園くんが僕の影を追おうが、僕という絶対的な防波堤が、君のカンヴァスを完璧に守ってあげる」
夕暮れの不気味な赤光が、窓から差し込み、部屋に残された僕と綾小路くんの影を、長く、歪に引き伸ばしていく。
逃げ出した仔羊の足音はもう聞こえない。この密室の楽屋裏で、僕たちの歪な共犯関係は、来るべき期末試験という名の次の舞台に向けて、さらに深く、冷酷に噛み合っていくのだった。
◇
そして、時間は現在――放課後へと戻る。
綾小路くんが寮の管理人へ連絡を入れ、最低限の手配を済ませて去っていった後、僕は再び自室のデスクへと戻っていた。
遮光カーテンの向こう側では、すでに他の生徒たちの授業が終わり、放課後の賑やかさが寮の敷地内にも流れ込んでいる頃だろう。
僕の脳髄を焼く熱は、いまだに40度を優に超えたまま下がろうとはしない。それでも、僕はサラサラと不規則な筆記音を闇の中に響かせ、原稿用紙に『セーレ・ブランシュ』としての新作の続きを刻み込み続けていた。指先は熱で痺れ、革手袋の内側が汗で微かに蒸れる。だが、この執筆の痛みこそが、僕が生きているという何よりの証明だった。
その時、部屋のインターホンが静かに、遠慮がちに鳴り響いた。
「……おや、誰だろうね。僕の安息を邪魔する不躾な客は」
僕は小さくため息をつき、万年筆をそっと置き、白磁色の杖を頼りにゆっくりと立ち上がり、「傍観者」の仮面を被り、ドアへと向かった。
鍵を開け、扉を細く開く。そこに立っていたのは、僕の予想を心地よく裏切る、銀糸のような美しい髪を持った少女だった。
「――阿憐さん、体調は大丈夫ですか……?」
Cクラスの椎名ひより――いや、僕たちの秘密の図書館ではただの「ひより」が、両手で小さなケヤキモールの紙袋を大切そうに抱えながら、本当に心配そうな、潤んだ瞳で僕を見上げていた。
「やあ、ひより。どうして僕が病欠していると知ったんだい?」
「綾小路くんから、Dクラスの阿憐が体調不良で休んでいると聞きまして……。その、お節介だとは思ったのですが、お見舞いに、喉に優しいゼリーや冷たいお飲み物を持ってきました。お部屋に入っても、よろしいでしょうか……?」
表向きの「クラスの壁」を建前として口にしながらも、彼女の可憐な垂れ目の奥には、僕の正体を知る最高の読者だけが持つ、甘やかな独占欲と法悦の光が揺らめいている。僕は貼り付けたおっとりとした微笑みの仮面を、彼女の前にだけは少し緩めて、部屋へと招き入れた。
「ありがとう、ひより。君のような美しい妖精が来てくれるなら、この熱も悪くないね。さあ、中へお入りよ」
部屋に入ったひよりは、僕をベッドへと座らせると、甲斐甲斐しく紙袋からゼリーを取り出してナイトテーブルへと並べた。そして、彼女の視線が、かつて二人で作り上げた壁一面の『秘密の図書館』――僕の本棚へと向かう。
中段に並ぶ、僕の手製本である『セーレ・ブランシュ』のビロードの背表紙。ひよりはその一冊に愛おしそうに指先で触れ、カミツレの髪飾りをチリチリと揺らしながら、僕を振り返った。
「本当に……いつ見ても、阿憐さんのお部屋の本棚は、私にとっての聖域です。ですが、今日はその偉大な脳髄が熱に浮かされていると聞いて、気が気ではありませんでした」
彼女はベッドの傍らにそっと腰掛け、僕の額にそっと冷たい手をあてがった。彼女の指先から伝わる心地よい冷気と、カミツレの微かな香りが、熱い脳髄に染み渡っていく。
「これほど美しい物語を紡ぐ神様なのですから、もっとご自身の身体を労ってください。……それとも、この高熱も、新しい物語を練り上げるための代償なのですか?」
「ふふ、買い被りすぎだよ、ひより。僕の貧弱な肉体が、少しばかりへこたれてしまっただけさ。……でもね、今の僕はただの傍観者だ。この学校というステージで、彼等がどう足掻き、どんな美しい結末を手繰り寄せるのかを、傷つかない特等席からただ眺めているだけの、退屈な観客に過ぎないんだよ」
僕の唇からふと漏れた、乾いた諦念の言葉。
どれほど他人の不幸に胸を痛めようとも、かつて運命に抗って正義を救ったあの瞬間、何一つ救えないどころか、彼を猟犬に変え、己の片足を失うという最悪の『結末』を招いてしまった。
故に僕はもう、誰も救えないし、誰も救わない。
しかし、ひよりは僕のその寂しげな諦念を、すべてを見透かすような深い慈愛の瞳で見つめ返した。
「いいえ、阿憐さん。あなたはご自身を『冷酷な観客』だと仰いますが……私には分かります。先生の書く物語の根底には、いつだって、極限の過酷な運命の中で足掻く人間への、これ以上ないほど眩しい『祈り』が込められています。……あなたが今も、他人の不幸に苦心しながらもそれを『傍観』という氷の檻で閉じ込めているのは、かつて誰かの救世主であろうとした、その純粋すぎる
「――っ」
ひよりの鋭すぎる指摘に、僕は息を呑んだ。
彼女はただの読者ではない。最新作を書き上げた僕の脳髄を完全に理解し、信頼しているからこそ、僕の「傍観者」としての仮面の裏にある、救世主になり損ねた未練ともどかしさのグラデーションすら、正確にすくい上げてみせるのだ。
「……本当に、実につきあいにくい読者だね、君は。作者の隠したい傷口まで、そんなに綺麗に読み解いてしまうなんて」
僕は熱のせいだけではない赤みを頬に浮かべ、苦笑交じりに視線を外した。ひよりは花の咲くような、本当に嬉しそうな笑みを浮かべて僕の手をそっと握りしめる。
「ふふ、阿憐さんの最高の読者ですから。……どうか、その残り火を絶やさないでください。あなたが紡ぐ次の残酷な喜劇の幕引きまで、私は一番近くで、あなたの言葉を聴き続けますから」
密やかで特別な甘さを帯びた約束を残し、ひよりは僕の体調を気遣って、それ以上長居することなく静かに部屋を後にした。
◇
しかし、彼女の残していった温もりが消え去る前に、再びインターホンが鳴り響いた。今度の打鐘は、重く、焦燥に駆られた、聞き慣れたリズムだった――。
鍵を開け、扉を引く。そこに立っていたのは、Aクラスの制服を乱暴に着崩した、僕の古い馴染み――橋本正義だった。
彼の片手には、冷えたスポーツドリンクのボトルが握られている。表向きは軽薄でチャラついた今時の高校生を装っている彼だが、その目の奥に濁るドロリとした焦燥と、僕を見る飢餓感に満ちた熱量までは隠せていない。
「……よお、お嬢様。随分と酷い顔をしてるな」
「やあ、ジュスティ。Aクラスの君が、わざわざDクラスの病人の部屋にまで何の用だい?」
僕がカラリとした愛想の良い笑顔で迎えようとした、その瞬間だった。
正義は僕の言葉を遮るように室内に踏み込むと、バタン、と背後のドアを強引に閉め、そのまま僕の白磁色の杖を、数時間前に綾小路くんに触れられたというそのデリケートな境界を、値探るように真っ直ぐに見下ろしてきた。彼の瞳には、普段の軽薄な仮面など一ミリも残されていない。そこにあるのは、剥き出しの『番犬』の牙だった。
「用があるから来てんだよ。……お前、今日の午前中、教室で倒れて綾小路の野郎にここまで担ぎ込まれたらしいな。」
「ふふ、耳が早いね。ただの知恵熱さ。僕の貧弱な肉体が、少しばかりへこたれてしまっただけだよ。二人が親切に運んでくれてね、本当に助かった」
「助かった、だと……?」
橋本くんの声が、地を這うような低い怒りに染まる。彼は一歩、僕のベッドの際まで詰め寄ると、その大きな身体で僕を圧殺するかのように影を落とした。彼を繋ぎ止めるための『鎖』が、激しく軋む音が聞こえるようだった。
「ふざけるなよ、お嬢様。お前のその『傍観者』としてのスタンス……最近、明らかに歪になってきてるんじゃねえのか? 誰にでも笑顔で、平等でお人好しな仮面を貼り付けて、Dクラスの有象無象の防波堤になって……挙句の果てには、あの死んだ魚の目をした綾小路...あいつにまで、その不自由な身体を触らせて、部屋の中にまで入れさせた。……まるで昔のお前みたいじゃねぇかよ。」
彼の問い詰めは、痛烈だった。
入学式のクラス振り分けの掲示板の前で離されて以来、彼は「主を異教徒の群れに奪われた罪人」としての焦燥に狂わされている。何が何でも僕をAクラスへ引き上げようと、一人で泥水をすすり、猟犬として手を汚し続けている正義。彼にとって、僕が僕自身の安全圏を脅かし、他者にその身を委ねることは、到底容認できない裏切りであり、恐怖なのだ。
「俺が何のために、あの退屈なAクラスで坂柳の手駒を演じてると思ってる。お前をあんな掃き溜めから救い出すためだ。お前は何もせず、傷つかず、ただ安全な特等席でふんぞり返ってりゃいいんだよ。二度とその優しさを、俺以外の他人に向けんじゃねえ……っ!」
激しい怒りと、それ以上に深い「失うことへの恐怖」に震える正義の言葉。
彼が僕のために必死になって足掻き、歪んだ執着を踊らせるその姿は、僕の脳髄を蕩けるような極上の愉悦で満たしていく。彼を最も僕好みの「歪んだ苦悩」へと叩き落としているのは、僕という存在そのものなのだ。
――だが、それと同時に。
彼の壊れ様を真っ直ぐに直視するたび、僕の胸の奥底に燻る、もう一つの「久那瀬阿憐」の残滓が、冷たい楔となって僕の心を突き刺した。
僕がかつて、「運命のかせ糸」を無理やり引きちぎって彼を助けてしまったせいで。文武両道で、才色兼備で、ただ純粋にお人好しだった僕が、彼の代わりにイジメの泥をかぶり、この右足を失ってしまったせいで。
この目の前にいる少年は、僕の幸福を願い続けていたはずの純粋な少年は、二度と僕が傷つくことを許さぬよう、僕に「傍観者」の仮面を被せ続け、自らは他者を噛み砕く愛憎の獣へと成り下がってしまった。
僕が彼を出しゃばって救ったせいで、彼の運命を、こんなにも無惨にねじ曲げてしまった。露悪的な歓喜の裏側で、僕の元来のお人好しの魂が、自虐的な負い目となってズキズキと疼く。
「……正義」
僕の唇から、形骸化したおっとりとした微笑みが、微かに剥がれ落ちた。
熱に浮かされた網膜の奥で、僕は少しだけ憂いを帯びた表情を浮かべ、ベッドの上で小さく肩をすぼめた。貼り付けた仮面の裏側から、かつての、正義が知る「本当の久那瀬阿憐」の、お人好しで、傷つきやすい瞳が、一瞬だけ覗き込む。
「……ごめんね、正義。君を、そんなに不安にさせてしまうなんて、僕は本当に悪いお嬢様だ」
「――っ」
僕が掠れた声で小さく謝罪を口にした瞬間、正義の息が、目に見えて止まった。
彼の強張っていた肩が微かに震え、僕を睨みつけていた瞳に、強烈な動揺と、耐え難いほどの「罪悪感」が舞い戻る。僕のその憂いを含んだ顔は、彼にとって最も触れてはならない、自分のせいで奪ってしまった「過去の僕の輝き」を思い出させる劇薬だったのだ。
「お前、その顔は……っ。……ずるいだろ、そんな風に謝られたら、俺は何も言えなくなる……」
橋本くんは顔を歪め、吐き捨てるように言うと、持っていたスポーツドリンクのボトルをナイトテーブルへと手荒に置いた。これ以上僕を責め立てれば、自分の罪の重さに圧し潰されてしまうと気付いたかのように、彼は一歩、ベッドから距離を取る。
「……わかればいいんだよ。お前は『傍観者』なんだろ。なら、最後までその化けの皮を被り通せ。余計なノイズに構うな。お前を害する外敵は、俺が全部、この手ですり潰してやるからさ」
彼はそう自分に言い聞せるように、自らに課した『番犬の鎖』を強く握り直すような視線を僕に送ると、それ以上僕の領域を侵すことなく、踵を返して部屋を出て行った。バタン、と重々しいドアの閉まる音が、室内に寂しく響き渡る。
◇
正義が去った後の部屋には、彼が持ち込んだスポーツドリンクの冷気が微かに残っている。
僕はベッドから傷む右足を庇うように這い出し、ゆっくりと白磁色の杖を壁に立てかけると、洗面台の鏡に向かった。
パチリ、と無機質な蛍光灯が点き、鏡の中に一人の美少女を映し出す。
スノーホワイトの髪に、おっとりとした陽だまりのような微笑。学園の誰もが愛し、男女問わず好感を持つ『お人好しで可愛い久那瀬さん』の仮面が、そこにはあった。
だが――鏡の中の瞳から『情』を意識的に消し去った瞬間、室内の空気が一瞬にして凍りついたような、恐ろしい「静寂」が立ち込めた。
微笑の形をした唇は歪みなく固定されているというのに、その硝子玉のような瞳の奥には、温もりも、慈悲も、人間らしい感情の一片すら残されていない。
運命に定められた悲劇を、ただ特等席で眺めることしかできない、徹底した傍観者の顔。
どれほど他人の不幸に胸を痛めようとも、かつて運命に抗って正義を救ったあの瞬間、何一つ救えないどころか、彼を猟犬に変え、己の片足を失うという最悪の『結末』を招いてしまった。その致命的な失敗が、僕の心を乾いた諦念で満たしている。
僕はもう、誰も救わない。僕には、誰も救えない。
ただ安全圏に身を置き、人間たちが自らの意志で踊り、狂い、その果てに掴み取る極上のドラマを、一歩引いて見届けるだけの「観客」でいること。それこそが、僕の選んだ最も美しい生存戦略なのだから。
しかし。
そんな冷徹な諦念の海の底で――僕の胸の奥底には、未だにチリチリと燻り続ける、往年の【「救世主」としての残り火】が確かに存在していた。
かつて、文武両道で、才色兼備で、ただひたすらに純粋なお人好しだった頃の僕。
運命のかせ糸が見えながらも、体が動かない悲劇に直面しながらも、それでも「正義を助けたい」とすべてを投げ打って糸を破った、あの時の熱量。
その残り火が、僕の脳髄を焼く高熱と混ざり合い、未練となってチクリと心を刺す。もし僕が今もあの『救世主』のままでいられたなら、正義をこんな歪んだ獣に仕立て上げることも、この不自由な足に苦しむこともなかったのかもしれない、と。他人の不幸に苦心しながらも、それを「傍観」という氷の檻で閉じ込めるしかない自分が、ひどくもどかしくて、愛おしい。
「……本当に、実につきあいにくい未練だね、僕は」
掠れた声が、タイルの壁に反響して冷たく消える。
だが、今の僕が確信しているのは、あの時、彼の運命をねじ曲げてしまったという絶対的な『負債』こそが、僕をこの退屈な世界に繋ぎ止める唯一の錨(いかり)だということだけだ。
僕のために手を汚し、狂信し、苦悩する橋本正義。彼は僕の負い目すらも巻き込んで、これ以上ないほど美しい、歪んだ苦難の物語を踊ってくれている。救世主になり損ねた僕の未練を慰めるように、彼は最高のエンターテインメントとして僕の脳髄を満たしてくれるのだ。
そして、もう一人。
昼間、この部屋の白き書架の秘密を、その死んだ魚のような瞳の奥で静かに観察していった、あの底知れぬ怪物――綾小路清隆。
「ふふ……あははっ……!」
鏡の中の僕が、誰にも見せない冷酷な笑みを浮かべ、喉を鳴らして笑った。
どんな物語の枠組みにも収まらない、あの蓋をされた奈落の虚無。彼を思い出すだけで、ゾクゾクとするような歓喜が肌を粟立たせる。僕と同じように、物語の枠外から世界を冷徹に見つめるあの少年との、歪な共生。彼が平穏を望んで足掻けば足掻くほど、周囲は巻き込まれ、至高の物語が紡がれる。
松下千秋の肉薄。椎名ひよりの純真な共鳴。橋本正義の血を吐くような狂信。そして、綾小路清隆という最高にして最大の不確定要素。
「さあ……劇場の続きを描こうか、綾小路くん、正義、ひより」
僕は再びデスクへと戻ると、万年筆を手に取った。
この学校という歪な盤面の上に、僕たちの物語を彩る役者たちはすべて揃い、僕の望む通りの極上のスパイスが揃いつつある。
救世主を諦めた傍観者は、熱に浮かされる筆先を再び狂気的に走らせながら、彼ら全員を僕たちの劇場の手のひらの上で躍らせるための、次なる残酷で美しいプロットを、白き書架の秘密と共に、深く、深く闇の中に刻み込んでいくのだった。
話数の更新時間について。
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このままでいいよ。(12:00更新)
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変えて欲しい。(18:00更新)
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変えて欲しい。(20:00更新)
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変えて欲しい。(8:00更新)