バスが校門の前で静かに止まり、ぷしゅー、と重い排気音とともに扉が開く。
僕たち新入生は、期待と不安をその身に纏いながら、巨大な校門をくぐり、敷地内へと足を踏み入れた。
校舎の前に設置された巨大な掲示板。そこには、新入生たちのこれからの所属を示すクラス名簿が貼り出されていた。
人だかりをすり抜け、僕たちがその紙面を見上げた、その瞬間——。
椎名が「あ……」と小さく息を漏らした。
そして隣の正義は、一瞬にして身体を硬直させ、その整った顔からいつもの笑みが、嘘のように消え失せた。
掲示板に並ぶ、僕たちの名前。
【1年Aクラス:橋本正義】
【1年Cクラス:椎名ひより】
【1年Dクラス:久那瀬阿憐】
見事に、全員がバラバラのクラスへと配属されていた。
「そんな……。せっかく、本のお話ができる久那瀬さんとお友達になれましたのに……」
椎名は、せっかく見つけた『最高の読者』と離れ離れになってしまったことに、目に見えて落胆していた。その垂れ目をさらに下げ、寂しげに自分の指先を弄んでいる。本を胸に抱える腕に、微かに力が入っていた。
けれど、それ以上に張り詰めた空気を一瞬だけ放ったのは、隣の正義だった。
(……チッ、マジかよ。よりによって、お嬢様とクラスが離れる……?)
正義は掲示板に並ぶ僕の名前を、網膜に焼き付けるように凝視していた。その瞳の奥を狂おしいほどの焦燥がよぎる。
ただのクラス分け。普通なら「残念だったな」で済む話だ。けれど、正義にとっては違う。かつての負い目を返すため、何よりも自分が一番近くで僕を守るという、彼が自らに課した『鎖』。それが、初手から物理的な壁によって引き裂かれてしまったのだから。
しかし、彼は不自然なほどに素早く、いつもの飄々とした軽薄な苦笑いをその顔に貼り付けて見せた。
「あーあ、マジかよ。お嬢様、俺、アンタと同じクラスで楽させてもらう気満々だったんだけどなぁ。まさか最初から一人にされるとはねぇ、寂しくなるわ」
おどけたように肩をすくめて見せる正義。
だが、その芝居がかった言葉の裏で、彼の指先が、不自然なほど強く握りしめられているのを、僕は見逃さなかった。必死に「いつものお気楽な橋本正義」を演じ、自分の内側で暴れる焦りを隠そうとしている。
その微かな「不協和音」に気づいたのは、僕だけではなかった。
「あの……橋本くん。大丈夫、ですか……?」
椎名が、本を胸に抱えたまま、心配そうに正義の横顔を覗き込んだ。
その垂れ目の奥には、心配と、そしてこの短い付き合いの中で彼の『仮面』の裏にある切迫した何かを直感したような、鋭く、静かな眼差しが宿っていた。
「へ? あ、いやいや、大丈夫大丈夫! せっかくお嬢様や椎名さんと友達になれたのに、離れちゃって寂しいだけだって。大袈裟に驚いちゃって、すんませんねぇ」
正義は慌てて髪を掻きながら、いかにもお調子者らしく笑ってみせた。
だが、椎名は確信していたはずだ。この男が今、ただクラスが分かれたという事実以上に、何かひどく切迫した『強迫観念』のような焦りに苛まれていることを。
あぁ。
本当に、なんて、なんて素晴らしい関係性なのだろう。
僕は内心で、震えるほどの恍惚に満たされていた。
この学校が何を意図して僕たちをバラバラの檻に放り込んだのか、今の段階では誰も理解していない。けれど、だからこそ極上だ。正義は僕と違うクラスに放り込まれたせいで、僕という存在への強烈な負い目と執着を滾らせ、一人で泥水をすするような裏工作に身を投じることになる。
確実な「僕だけの猟犬」として、ね。
そして、あの穏やかな椎名は、この短い時間で彼のその「本質」を鋭敏に嗅ぎ取ってしまった。
これ以上ない、完璧な舞台。
僕を巡るすべての歯車が、僕の望む最悪で最高な形で回り始めたのだから。
しかし、僕はすぐさま、完璧な「お人好しの久那瀬阿憐」としての慈愛の仮面を被り直す。
落ち込む椎名と、内心で焦燥に震える正義の手を、それぞれ優しく、包み込むように握りしめた。
「そんなに悲しまないでおくれ、二人とも」
僕はカラリとした、陽だまりのような満面の笑みを二人に向けた。
まるで、彼らの悲しみをすべて自分が背負ってあげるかのような、おっとりとした聖女のような笑顔で。
「クラスが違ったって、僕たちの関係が消えてしまうわけじゃない。この学校には『図書館』があるだろう? 誰の邪魔も入らない、物語に満ちた静かな場所だ。そこなら、僕たちは何クラスだろうと、なんの憂いもなくいつでも会うことができるよ。椎名さん、君が読みたい本があれば、フランス語版だって僕がいくらでも読み聞かせてあげる」
「久那瀬さん……! はい、そうですね。図書館で、またお話しさせてください」
僕の優しい言葉に、椎名は救われたように表情を和らげ、嬉しそうに微笑んだ。
「お、お嬢様……。でも、俺は……」
正義は僕に握られた手をギュッと握り返し、声を微かに震わせた。他人の目を気にしてかそれ以上の言葉は紡がなかったが、その歪んだ瞳が、僕の胸をこれ以上ない恍惚で満たしていく。
「大丈夫だよ、ジュスティ。君がどこにいたって、僕たちの絆は変わらない。さあ、それぞれの舞台へ行こうじゃないか」
僕はそっと彼らの手を解き、廊下の分岐点へと歩みを進めた。
「……それじゃあ、二人とも。また後で会いましょう」
名残惜しそうに、けれど僕の言葉にどこか救われたような表情を浮かべて、椎名はCクラスの方向へと歩いて行った。
そして隣に残った正義は、僕がその手を離した後も、まだ自分の手のひらを見つめたまま、ジットリとした未練と割り切れない焦燥をその瞳に湛えて突っ立っていた。
「正義。君も早く行きなよ。入学初日から遅刻なんてしたら、きっと先生に怒られてしまうよ?」
「……お嬢様。俺は、」
「わかっているとも。大丈夫。僕はここで、僕のやるべきことをするだけさ。……ね?」
困ったように笑いかけ、彼の背中を優しくポンと押してあげる。
正義は何度も振り返りながら、まるで聖女を異教徒の群れに取り残していく罪人のような顔をして、Aクラスの教室がある方向へとトボトボと歩き去っていった。
その背中が見えなくなった瞬間。
ふ、と僕の口元から「お人好しの阿憐」の笑みが消える。
「ああ。本当に、なんて滑稽で愛おしいんだろうねぇ、ジュスティは」
僕を一人にしてしまったという罪悪感が、彼の歩みをどれほど重く、歪ませているか。彼にとっては地獄の苦しみかもしれないけれど、僕にとってはこれから三年間、いつでも味わえる極上のデザートだ。
誰もいない廊下で、僕は小脇に抱えた特注の白磁色の杖——その側部に組み込まれた、優雅なオペラグラスの冷たい金属肌をそっと指先で撫ぜ、小さく笑った。
さて。それでは、僕の「特等席(劇場)」である1年Dクラスへと向かうとしよう。
「——ねえ、そこの君」
不意に、背後から軽やかで、けれどどこか計算されたトーンの声がかけられた。
振り返れば、綺麗に整えられた茶髪のミディアムヘアの女子生徒が立っていた。
「同じ方向向かってるってことは君もDクラスだよね? 一緒に行かない?」
その瞬間、僕の脳は瞬時に「誰にでも愛されるお人好しの久那瀬阿憐」の仮面を完璧にセットする。
「うん、その通りだよ。僕は久那瀬阿憐。一緒に行かないかい?」
「わ、嬉しい! 私は松下千秋。よろしくね、久那瀬さん」
松下。
彼女はそう名乗ると、嬉しそうに僕の手を取った。その動作は極めて自然で、初対面の同級生と早く打ち解けたいという純粋な好意に満ちているように見えた——普通の人間の目には、ね。
けれど、僕の目は騙せない。
僕の「久那瀬阿憐」という名前を聞いた瞬間に、彼女の瞳の奥でほんの一瞬だけ、値探るように動いた光。
握り合わされた手の適度な力加減。僕の「久那瀬阿憐」という名前を聞いた瞬間に、彼女の瞳の奥でほんの一瞬だけ、値探るように動いた光。
おまけに、僕のこのビジュアル——人形のように整った顔立ちや、小脇に抱えた特注の白磁色の杖——に対して、彼女が「普通の女子高生」としての驚きや興味を示しつつも、その奥で極めて冷静に僕の『スペック』を測り、自分の立ち位置とのバランスを計算しているのが手に取るようにわかった。
(……ほう?)
僕は内面で、ゾクゾクとするような歓喜の声を上げた。
彼女が纏っている「普通の女の子」のオーラ。それは一見完璧に見えるけれど、僕のような傍観者から見れば、あまりにも精巧に作られすぎた『擬態(化けの皮)』だ。
彼女の指先の綺麗なマニキュア、仕草、視線の配り方、そのすべてに、育ちの良さと高い基礎スペックが隠しきれずに滲み出ている。
実力を隠し、周囲の凡庸な有象無象にレベルを合わせ、波風を立てずに「要領よく立ち回る」ことを目的とした、極めて傲慢で狡猾な歪み。
なるほどね。松下さん。君は『そういう人間』なんだね。
「久那瀬さんって、なんだかすごく雰囲気があるよね。その杖とか……もしかして足が悪いのかな?」
「ああ、これかい? そうだね。学校から創作に必要だからと特別に持ち込み許可を頂いたんだ。これがないと歩くのが少し不自由でね……。」
あえて無防備に、おっとりとした笑顔で説明する。
松下さんは「へえ、すごい! 創作者なんだ!」と女子高生らしい大げさなリアクションをしてみせたが、その脳内では『特別に持ち込みを許可させた実績=こいつはただ者じゃない』という計算が、目まぐるしく弾かれているはずだ。面白い。本当に面白い。
教室内に入ると、僕と松下はごく自然に隣り合う席を陣取り、お互いのプライベートや他愛のない世間話に花を咲かせた。
彼女が周囲の観察のために視線を泳がせる中、僕の視線は、僕の左隣の席に座る「ある少年」でピタリと止まった。
前髪を無造作に下ろし、極端に抑揚のない顔をした少年。覇気というものが一切感じられないその佇まいは、まるで教室の背景の壁と同化しているかのようだ。
僕は小首を傾げ、おっとりとした声で彼に話しかけてみた。
「隣の席の君、ご機嫌よう。僕は久那瀬阿憐。これからよろしくね」
「……ああ。俺は綾小路清隆。よろしく」
少年の声は、驚くほど平坦だった。初対面の相手に対する緊張も、新しい生活への期待も、何一つ含まれていない死んだ魚のような声。
だが、その死んだ瞳の奥底。コンクリートのさらに下、地の底に眠るマグマのような、計り知れない「深淵」が、僕の脳髄をピリピリと刺激した。
(おや……? 君、ただの凡俗のフリをしているけれど……その擬態の深度、隣の松下さんなんて可愛いおままごとに思えるほど、あまりにも深すぎやしないかい?)
「綾小路くん、この学校、なんだか不思議な空気だと思わないかい?」
「そうか? 普通の高校に見えるけどな。俺は、ただ普通に過ごせればそれでいいよ」
「ふふ、普通、ね。それは一番難しくて、一番美しいプロットさ」
僕が杖のオペラグラスにそっと指を触れながら微笑むと、綾小路は怪訝そうに僕の杖を一瞬だけ見つめ、それからまた興味を失ったように窓の外へと視線を戻した。
その時、ガラリ、と音を立てて教室の引き戸が開いた。
冷え切った冬の風を纏ったような女性——担任の茶柱佐枝が教壇に立った。
黒いスーツを身に纏い、長い黒髪を高い位置でポニーテールにまとめた知的な美人。けれどその切れ長の瞳には、教育者としての覇気も、生徒に対する期待も、何一つ宿っていなかった。
だが、僕の意識が向いたのは彼女だけではなかった。
教壇の背景、黒板の上、そして教室の四隅の天井。
そこには、一般的な高校の教室にしては、あまりにも「死角がない」配置で、複数の無機質な監視カメラが設置されていた。それも、威圧感を与える防犯用のものではなく、生徒の些細な一挙手一投足を、解像度高く記録するための一級品のレンズだ。
(ほう。面白いね。教室を『監視』しているのは、僕だけではないということかい)
「私には茶柱。このクラス、1年Dクラスの担任だ。教科は日本史を担当している」
彼女は教卓の上に無機質な黒い箱をドンと置くと、感情を一切排した平坦な声で言った。その冷ややかな視線が、僕の小脇の白磁色の杖に一瞬だけ触れ、それから何事もなかったかのように通り過ぎる。
「この学校では、卒業するまでの3年間、一切のクラス替えを行わない。つまり、問題を起こして自主退学にでもならない限り、私は3年間お前たちの担任ということだ。よろしく。」
「今から1時間後に入学式が体育館にて行われるが、その前にこの学校の特殊なルールについて書かれた資料を配らせてもらう。以前入学案内と一緒に配布してあるがな。」
「では、早速だが本題に入る。これから、この学校におけるすべての生命線となる『学生証カード』を配布する」
茶柱の合図で、前方からスマートフォン型の端末が順に回されてきた。
「画面を確認してみろ。すでに、今月分のポイントが支給されているはずだ。1ポイントは1円換算だ。毎月1日に、お前たちの実力に応じたポイントが支給される。今月は一律で10万ポイントだ。敷地内のすべての施設で利用することができ、すべての商品がこれで購入することが出来るようになっている。」
「ただし、もちろん使用したら所持しているポイントを消費することになるから注意が必要だ。学校内においてこのポイントで買えないものは無い。学校内の敷地にあるのなら、何でも購入可能だ。」
(おや……? 「買えないものは無い」、か)
その一言が僕の鼓膜を叩いた瞬間、脳髄の奥で冷ややかな警告灯がパチパチと明滅した。
学校内のすべての施設、すべての商品。それは「物」だけを指している言葉なのだろうか。それとも、この学校の規則やシステム、あるいは生徒の『進路や命運』すらも、このポイントの売買対象に含まれている、という意味なのか。
もしも、文字通り「何でも」買えるのだとしたら。
この10万ポイントという大金は、単なるお小遣いなどではなく、僕たちのあらゆる価値を数値化し、奪い合うための、極めて悪趣味な「代価」に他ならない。
僕の口元が、知的好奇心と歪んだ歓喜で微かに吊り上がりそうになるのを、僕は「お人好しの久那瀬阿憐」の仮面の下で必死に抑え込んだ。この学校のプロット、歪んでいて本当に素晴らしい。
次の瞬間、「うおっ!?」「マジかよこれ!」という、凡俗どもの狂喜乱舞の怒号が教室を揺らした。画面に表示されていたのは、【100,000】という破格の数字。
「10万円……!」
隣の松下も、表向きは嬉しそうに声を弾ませている。だが、彼女の指先が、その大金に対して微かに警戒するように強張ったのを、僕は見逃さなかった。
「みんな凄いね。10万ポイントなんて、僕には少し刺激が強すぎるかな……。とりあえず、貯金しておこうと思うよ」
僕は困ったようなお人好しの笑みを浮かべて見せた。しかし、僕の脳内はすでに冷徹な確信へと至っていた。
何の実績も残していない入学初日の『欠陥品』の集まりに、なぜ一律で10万もの大金を配る必要がある? 天井に張り巡らされたあの「カメラ」と、この「端末」。学校側が提示したこの甘い果実の裏には、インクのシミのような、巨大な『罠』が仕込まれている。
「ポイントの配布は以上だ。まだ入学式までは時間がある。それまで各自、教室内で待機していろ」
茶柱先生はそれだけを言い残し、冷淡な足取りで教室を出て行った。
◇
担任の先生が姿を消し、10万ポイントという大金を手にしたことで、教室内は再び浮ついた喧騒に包まれた。互いの出方を探り合う不躾な視線が交錯する中、真っ先に動いたのは、やはりあの「過剰な善意の狂信者」だった。
「みんな、ちょっといいかな?」
金髪の好青年が爽やかな笑顔を浮かべて立ち上がり、黒板の前に歩み出た。
「まだ入学式まで時間もあるし、このままだと誰が誰だか分からないままだ。せっかくだから、僕から順番に自己紹介をしていかないかい? これから同じクラスで過ごす仲間なんだしね」
彼の提案は極めて理にかなっており、表情には一片の曇りもない。だが、僕の目には、彼のその完璧な善意の裏にある「全員を救わなければならない」という強迫観念のような、脆いガラス細工の歪みがはっきりと映っていた。
「じゃあ、言い出しっぺの僕からいくね。名前は平田洋介。中学の時はずっとサッカーをやっていて、一応キャプテンを務めていました。この学校でもサッカー部に入るつもりです。趣味もサッカーだけど、まあ、スポーツなら全般的に好きだよ。このクラスでは、男とか女とか関係なく、みんなと仲良くしていきたいと思ってるから、よろしくね」
爽やかで完璧な、非の打ち所がない挨拶。
案の定、教室内の一部の女子たちから「かっこいい……」とため息混じりの歓声が上がる。
「洋介くん、彼女とかいるのー?」
すかさず池が下俗なニヤけ顔でそんなヤジを飛ばすと、平田は困ったように微笑んだ。
「うーん……今はいないかな。募集中だよ」
「おいおいマジかよ! じゃあ付き合うならクラスの女子全員が対象ってことか!?」
「あはは、そういう意味じゃないけど……でも、みんなと良い関係を作れたらいいなと思ってるよ」
その巧みな受け答えに、女子たちの平田への好感度は早くも天井知らずだ。
しかし、その完璧な善意の調和をなぞるように、すぐに次の影が動く。
「自己紹介かー。賛成! 賛成! 私からいっちゃっていいかな?」
次に手を挙げたのは、金髪のギャル風の少女だった。
「私は櫛田桔梗。みんなと友達になりたいな! ぜひ名前で呼んでね! あ、それと、クラスの全員と友達になるのが目標だから、どんどん話しかけてほしいな。放課後とか、みんなでご飯に行ったり、色んな思い出を作りたいです!」
全身から愛嬌を振りまいて挨拶をする彼女。クラスの男子たちが一斉に目を細め、彼女のその『完璧な天使の仮面』に酔いしれている。だが、僕の鼓膜には、彼女の声の裏で軋む、肥大化した承認欲求の悲鳴が確かに聞こえていた。
「それじゃ、次は俺がいきまーす!」
次に元気よく立ち上がったのは、いかにも高校デビューで浮かれている少年だった。
「俺は池寛治! 中学の時はけっこーモテてさ、彼女とか途切れたことなかったんだよね! 趣味はアウトドアで、キャンプとか超得意! この学校でも、可愛い彼女募集中だからよろしくな!」
調子に乗ったような彼の言葉に、女子席からは「ゲッ……」と露骨に嫌悪するような冷ややかな視線が向けられる。だが、本人は全く気づいていないようだ。
さらに続いて、池の前の席の少年がどこか卑屈そうな笑みを浮かべて立ち上がった。
「えっと、俺は山内春樹。中学の時は卓球で全国行って、その後野球部に引き抜かれて、エースとして甲子園一歩手前までいったんだよね。あと、実はストリートダンスも得意で……」
あからさまで、かつ稚拙な嘘の羅列。男子の一部からは「まじかよ!」と呑気な声が上がっていたが、女子たちの視線はさらに冷え切っていく。
平田がそんな空気を取りなすように苦笑いしていると、不意に、教室内の一角から重苦しい苛立ちが弾けた。
「だりぃ。なんでそんな無駄なことしなきゃなんねえんだ」
ドスの利いた声が響き、ガタァン!と派手な音を立てて椅子が引かれた。
立ち上がったのは、赤髪を荒々しく逆立てた須藤だ。
「俺はバスケでプロを目指してんだ。馴れ合うつもりもねえし、こんなガキのお遊びに付き合ってる暇はねえ。じゃあな」
「待ってくれ、須藤くん。まだ——」
平田の制止も無視して、須藤は引き戸をけたたましく開けて教室内から出て行ってしまった。
規律という檻を理解せず、ただ自分の衝動のままに牙を剥く野良犬。彼のような愚者が、この完璧に制御された冷酷な査定の前に晒された時、どれほど無様にのたうち回り、美しい悲鳴をあげてくれるだろうか。
教室内が気まずい沈黙に包まれる中、平田が「……それじゃあ、次はそこに君、お願いできるかな?」と、僕に優しい視線を向けた。
僕は、小脇に抱えていた白磁色の杖で静かに地面を突き、ゆっくりと立ち上がった。
人形のように整った顔立ちに、どこか掴みどころのない、おっとりとした柔らかな「久那瀬阿憐」の仮面を完璧にセットする。
「うん、分かったよ。皆様、お初にお目にかかります。ご機嫌麗しゅう」
教室内をゆるりと見渡し、穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「僕は久那瀬阿憐。趣味は、本の虫であることと、ちょっとした創作活動だね。お恥ずかしいことに、僕は少し足が悪くて……この白磁色の杖がないと、歩くのが少し不自由なんだ。だから、学校生活の中でみなさんに少し不便をかけることがあるかもしれない。その時は、優しく手を貸してくれると嬉しいな。気軽に、久那瀬って呼んでおくれ」
テンションは極力低く、しかしカラリとした親しみやすさを残す。この「足が不自由で、おっとりとした、少し風変わりで中性的な存在」という記号は、クラスの凡俗どもにとって、これ以上ないほど無害で、かつ保護欲をそそる存在として映るはずだ。
「もちろん、困ったことがあったらいつでも言ってね、久那瀬さん!」
平田が救われたような笑顔で答え、池や山内たち男子も温かい拍手を送っている。
視線を巡らせると、松下は周囲に合わせて手を振りつつも、その瞳の奥の計算機で、僕が『足が不自由であること』『特例の創作者であること』というスペックを冷徹にインプットしていた。そして窓際では、相変わらず無気力に佇んでいる綾小路が、死んだ目で僕を見つめている。
そんな歪な自己紹介劇が幕を閉じ、校内放送によって新入生全体の体育館への移動が命じられた。
◇
体育館の中は、オフィスホワイトの照明に照らされ、独特の静謐な緊張感に包まれていた。
そしてここにもやはり、不自然なほど高精度な「監視カメラ」が、天井の梁の隙間にいくつも潜んでいる。
壇上の偉い教師たちの無聊な祝辞が続く中、僕は隣の席の綾小路に怪しまれぬよう、極めて自然な動作で、チラリと周囲のクラスへと一瞥をくれた。
そして、僕の口元は、歓喜で微かに震えそうになった。
(なるほど。そういうことかい。実に見事な『隔離壁』だ)
そこには、一目でわかるほど、クラスごとに「話を聞く態度」の明確な差が浮き彫りになっていた。
まず、Aクラス。
彼らはまるで訓練された軍隊のように、微動だにせず、背筋をピンと伸ばして壇上を凝視していた。正義もそこにいた。彼はいつもの軽薄な笑みを完全に消し去り、真面目な表情で座っている。けれどその指先は、僕のいるDクラスの方向を気にするように、時折ピクリと不自然に揺れていた。
次に、Bクラス。
調和のとれた、極めて知的で穏やかな態度。一之瀬という少女を中心に、すでに一つの強固な「コミュニティ」としての温かさが出来上がっている。
次に、Cクラス。
極めて不穏だ。だらしなく背もたれに寄りかかる者たち。椎名は、その不協和音の嵐の中で一人だけ静かに本を守るように大人しく座っていたが、その周囲には、すでに一人の暴力的な支配者(龍園)の影が、黒い霧のようにのしかかり始めていた。
最後に、僕たちのいる、Dクラス。
もはや、言うまでもない。先ほどの自己紹介をサボって抜け出した須藤の席は空いたままであり、残された者たちも私語、あくび、スマホを弄ろうとして教師に注意される者、手鏡で自分を見つめる金髪の偉丈夫。規律は崩壊し、先ほど教室で見せた自堕落な放漫さがそのまま持ち込まれている。隣の綾小路は、ただ死んだ魚のような目で、壇上で話している生徒会長を見つめているだけだ。
この圧倒的な「質の差」が意味するものは、ただ一つ。
この学校は、僕たちが入学するその前の段階から、僕たちのスペックや人間性を査定し、クラスという名の『籠』に分類しているのだ。そして、この入学式の態度すら、あの冷淡な担任たちの瞳、および校内の至る所で僕たちを「観賞」しているあのカメラの瞳を通じて、粛々と「査定」されているに違いない。
それぞれの歪んだ仮面を被り、奈落の底へ向かって笑顔でスキップを踏み始める道化たち。
(素晴らしい……本当に素晴らしいよ。僕が観賞するはずのこの檻が、僕たちを査定する巨大な劇場だったなんて)
僕の心臓が、これから始まる美しい悲劇の幕開けを確信し、冷たく、そして狂おしいほどの歓喜のステップを刻み始めていた。