"la vraie parole"   作:イナナのナナ

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お気に入りと評価貰えてる.......うれちぃ、うれちぃ。


第三幕 「秘密の書斎、あるいは深淵の境界線」

 

 

1年Dクラスでのあの奇妙な自己紹介劇と、査定の気配に満ちた入学式から数日が経った。

 

退屈な授業が終わりを迎え、抑圧された学生の本能が解放される放課後。クラスの凡俗どもが、支給された10万ポイントという甘い毒に酔い痴れ、ケタケタと品性のない笑い声をあげて買い出しやカラオケに繰り出していく中、僕は自席でゆっくりと身支度を整えていた。

 

小脇に抱えた特注の白磁色の杖——その冷たい感触を手のひらで確かめ、僕は視線をすぐ隣の席へと滑らせる。

そこには、相変わらず教室の壁紙にでもなったかのように、完璧な無気力を装って佇んでいる少年——綾小路清隆がいた。今日も今日とて、その死んだ魚のような瞳の奥に、コンクリートで蓋をされた奈落の深淵を隠し持っている。

 

僕は車椅子の聖女をエスコートする道化のように、極めておっとりとした、陽だまりのような微笑みを彼に向けた。

 

「綾小路くん。もし良ければ、これから僕と一緒に『図書館』へ行かないかい?」

「……図書館?」

 

綾小路は、感情の起伏が削ぎ落とした平坦な声でオウム返しにした。窓の外に向けていた視線が、ゆっくりと僕の白磁色の杖へと移動する。

 

「ああ。この学校の図書館は蔵書が実に素晴らしくてね。少し長編のアイデアを練るのに行き詰まってしまって……良き『本の虫』の気配がする君を、ぜひ誘いたいと思ってね。……ダメかな?」

 

あえて小首を傾げ、無防備で人畜無害な「久那瀬阿憐」の仮面を差し出す。

綾小路は一瞬だけ、僕の表情の裏を測るように瞳の奥の何かを微動だにさせたが、すぐに諦めたように小さく息を吐いた。

 

「……いや。特に断る理由もない。俺も、少し静かな場所に行きたいと思っていたところだ」

 

「ふふ、嬉しいよ。それじゃあ、行こうか」

 

コツ、コツ、と白磁色の杖でリズミカルに床を叩きながら、僕は彼と並んで廊下へ出た。歩行速度は、僕の「少し不自由な足」に合わせて極めて緩やかだ。綾小路はその遅さに文句を言うでもなく、ただ一歩後ろを影のように正確に付いてくる。その足取りには、無駄な重心のブレが一切ない。本当に面白い少年だ。

 

 

特別棟にある図書館は、静謐な静けさとインクの香りに満ちていた。

高い天井まで届く本棚の迷宮。その最奥にある、西日の差し込む読書スペースのテーブル席に、目指す「彼女」と「彼」の姿があった。

そこだけが、まるで舞台照明を浴びた特等席(シアター)のように、昏い夕闇の赤に染め上げられている。

 

「あ、久那瀬さん……!」

 

僕の姿を認めた瞬間、ふわりと顔を輝かせたのは、1年Cクラスの椎名ひよりだった。胸に大切そうに分厚い海外古典を抱え、その特徴的な垂れ目をさらに下げて、嬉しそうに微笑んでいる。

 

「ご機嫌よう、椎名さん。今日も素晴らしい本と出会えているようだね」

 

「はい。この学校の図書館は、絶版になった古い奇譚の翻訳本まで揃っていて、まるで宝箱のようです」

 

そう言って、椎名さんは手元にあるドストエフスキーの文庫本を愛おしそうに見つめた。その様子を、テーブルの向かい側から、退屈そうに頬杖をついていたAクラスの橋本正義が薄い笑みを浮かべながら眺めている。

 

「宝箱ねぇ……。俺に言わせりゃ、文字がぎっしり詰まったただの睡眠薬の箱だけどな」

 

正義はそう言って苦笑すると、僕の後ろに佇む見慣れない少年に目を留めた。その瞬間、彼の猟犬のような鋭い視線が、値踏みするように綾小路くんを上から下まで観察する。

 

「ってお嬢様、そいつは? 初めて見る顔だけど、まさか他クラスの偵察か?」

「ふふ、違うよジュスティ。彼は僕のクラスメイトの綾小路清隆くんだ。読書の気配がしたから、僕が無理を言って連れてきたのさ」

 

僕が紹介すると、綾小路くんは表情を変えないまま、正面の二人に対して静かに頭を下げた。

 

「Dクラスの綾小路だ。……邪魔なら席を外すが」

「いいえ、そんな! ぜひご一緒させてください。私はCクラスの椎名ひよりと言います。綾小路くん、よろしくお願いしますね」

 

椎名さんが嬉しそうに微笑む一方で、正義はまだ警戒を解いていない。わざとらしく軽薄な笑みを顔に貼り付けると、椅子に深く背をもたれかけた。

 

「へえ、Dクラスの綾小路くんね。俺はAクラスの橋本正義。まあ、お嬢様とはちょっとした『古い馴染み』でね。にしても、Dクラスじゃ今、10万ポイントで大騒ぎだろ? よくこんな退屈な場所に足を運ぶ気になったな」

 

あからさまな探り。だが、話を振られた綾小路くんは、視線を橋本の目へとゆっくり動かした。初対面のAクラスからの圧に怯える様子は微塵もない。

 

「……いや。俺は静かな場所自体は嫌いじゃない。ただ、ドストエフスキーに関しては、進んで読もうとすると相応の体力がいるのは確かだがな。登場人物の名前がやたらと長くて複雑だし、内容も泥臭い」

 

「……ほう?」

正義がピクリと眉を跳ね上げる。単に「本なんて読まない」という凡俗の言い訳ではなく、実際にそのページを捲ったことのある人間特有の、淡々とした手触りがその言葉にあったからだ。

 

「へえ、君、お嬢様らの話が分かる口か。Dクラスにしちゃ随分と落ち着いてるじゃねえの」

 

「ただの暇つぶしで、昔少し目を通したことがあるだけだ。それより橋本、お前は本を読まないと言いながら、なぜここにいるんだ? Aクラスの人間が、Cクラスの椎名さんとこうして過ごしている方が、俺には不思議に見えるが」

 

「……ッ」

 

今度は正義の指先が小さく跳ねた。完璧に気配を殺していた目立たない少年から、初対面でいきなり「他クラスの女子との不自然な接触」という痛いところをストレートに突かれたのだ。

 

正義の瞳の奥底で、ドロリとした濃密な焦燥が渦管く。

彼は掲示板の前で僕とクラスが離されたあの瞬間から、僕という主を異教徒の群れに奪われた罪人のような顔をずっとしている。自分が一番近くで僕を守る、そのために泥水をすすることすら厭わないと自らに課した『鎖』。

それが今、目の前に現れた「得体の知れないDクラスの少年」の存在によって、激しく軋んでいるのだ。

 

(嘘つけ。その面、その声……お前が『普通』なわけねえだろうが。初対面の俺を前にして、なんでそんなに心拍数が安定してやがる……!)

 

正義の内心の悲鳴のような不協和音が、僕の脳髄を心地よく刺激する。たまらないね。彼は環境を言い訳にせず、僕の隣を占める綾小路くんに対して、初対面にして強烈な猜疑心を抱いている。これ以上ないほど美しい、完璧な「猟犬」の仕上がりだ。

 

「ふふ、普通、か」

 

僕は小首を傾げ、おっとりとした声音で会話に割り込んだ。立て掛けた杖の側部、優雅なオペラグラスの冷たい金属肌にそっと指先を触れさせる。

 

「綾小路くん。先ほど君はドストエフスキーを挙げたけれど、彼の描く『普通』とは、常に崩壊と紙一重の砂上の楼閣だ。周囲の凡俗な有象無象にレベルを合わせ、波風を立てずに立ち回ろうとすればするほど、内なる深淵は深く、昏く肥大化していく。……まるで、僕たちのクラスの松下さんのようにね」

 

僕が何気なくクラスメイトの女子の名を出すと、綾小路くんの瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、値探るように小さく動いた。

 

「松下? ……ああ、入学初日に、お前と一緒に教室に入ってきた茶髪の女子か」

 

「うん、その通りだよ。彼女は完璧に『普通の女の子』のオーラを纏っている。けれど、そのマニキュアを塗った綺麗な指先の力加減、視線の配り方、そのすべてに、高すぎる基礎スペックが隠しきれずに滲み出ているんだ。実力を隠し、要領よく立ち回ることを目的とした、極めて傲慢で狡猾な歪み。……ねえ、綾小路くん。君の言う『普通』も、彼女と同じような『きまり文句』なのかい?」

 

あえて無防備な、お人好しの笑みを浮かべて問いかける。

僕の「久那瀬阿憐」という仮面の下にある、すべてを見透かす傍観者の瞳を、彼にだけ少しだけ開いて見せるように。

すると、綾小路くんは窓の外へと視線を戻し、ぽつりと言った。

 

「さあな。俺には彼女の考えていることまでは分からない。ただ……本当に実力を隠している人間がいたとして、それをわざわざ暴こうとするのも、また一つの強烈な『エゴ』なんじゃないか?」

 

「おや……?」

鋭い。実に鋭い切り返しを返してくる。初対面の僕たちに対して、これほど的確に核心を突く言葉を紡ぐとはね。

僕の脳髄が、ピリピリとした歓喜の電気信号で満たされていくのが分かった。隣の松下さんの可愛いおままごとのような擬態とは次元が違う。この少年の擬態の深度は、コンクリートのさらに下、地の底のマグマにまで達している。

 

「あの、お三人とも……」

張り詰めた空気の中、椎名さんが静かに、けれど嬉そうに声を割り込ませた。

 

「お話を聞いていて思ったのですが、この学校そのものが、一つの巨大な『ミステリー小説』のようですね。全員が何かを隠し、何かを演じている。……これなら、私たちがこうしてクラスの壁を越えて集まるのにも、何か特別な『名前』があってもいい気がします」

 

「名前、かい?」

僕が問いかけると、椎名さんは悪戯っぽく微笑み、机の上の本をぽん、と叩いた。

 

「はい。クラスは違っても、私たちは本を通じて繋がれる。……『読書同盟』、というのはいかがでしょうか? ここにいる四人で、お互いがお勧めの本を持ち寄って、静かに語り合うための集まりです」

 

「おいおい、ちょっと待てよ文学少女」

正義が呆れたように頭を掻きながら割り込む。

 

「俺は本なんて読まねえぞ? なんで今日初めて会ったばかりのDクラスの男も含めて、そんな同盟にカウントされてんだよ」

 

「あら、橋本くん。先ほど私の持ってきた本を大人しく読んでいたではありませんか。それに、久那瀬さんの傍にいたいのでしょう? なら、文句を言わずに本を開くことです」

 

「……チッ、手厳しいねぇ」

 

椎名さんの静かながらも芯のあるツッコミに、正義は降参したように両手を挙げた。その瞳の奥では、僕と綾小路くんをこのまま二人きりにさせないための絶好の「大義名分」ができたことに、微かな安堵がよぎっている。彼が僕の『番犬』としてここに居座る理由は、これで確定したわけだ。

 

「僕は大賛成だよ、椎名さん。実に美しい提案だ。……綾小路くん、君はどうだい? 僕たちの『読書同盟』に入ってくれるかい?」

 

僕が満面の笑顔を向けると、綾小路くんはしばらく、僕たちの顔を順に見つめ、それから小さく肩をすくめた。

 

「俺でいいなら構わない。さっきも言ったが、放課後に過ごす静かな居場所があるのは悪くないからな」

 

「ふふ、これで決まりだね。A、C、Dクラスの奇妙な四人による『読書同盟』の結成だ。学校側が僕たちを査定するこの歪んだ劇場の裏で、僕たちだけの秘密の書斎ができたわけだ。……ねえ、本当に滑稽で、愛おしい劇場だと思わないかい?」

 

 

僕が杖を優しく握り直し、ふと外の景色を確認する。

図書館の西日は完全に沈み、世界の境界線を曖昧にするような、深い夜の帳が窓外から押し寄せてきた。

椎名さんは、僕の言葉の裏にある機微を、極上の物語として咀嚼するように静かに微笑んでいる。

 

正義は、僕のその悪趣味な本性を外敵から隠匿するように、初対面の綾小路くんへの警戒の視線を崩さない。

実質的に、綾小路清隆は——相変わらず死んだ魚のような目のまま、僕の白磁色の杖のオペラグラスを、ただじっと、静かに見つめ返していた。

 

「……そろそろ、門限の時間だな」

綾小路くんが平坦な声で立ち上がる。

 

「そうだね。ぼちぼち寮に戻るとしようか。椎名さん、ジュスティ、またここで美しい物語の続きを語り合おう」

 

「あ、久那瀬さん。せっかく「読書同盟」という集まりを作ったんです。皆さん連絡先を交換しませんか?」

 

椎名さんが瞳を輝かせながら、自身の端末を取り出した。その提案は、この閉鎖的な図書室に流れる重苦しい空気を一瞬で払拭するような、あまりに純粋な一撃だった。

 

「……連絡先、か。それは良いね。これからはクラスの垣根を超えて、面白い『物語』の感想を語り合えるわけだ」

 

僕が先陣を切って端末を操作し、QRコードを表示させると、椎名さんは嬉そうにそれを読み取った。

次いで、綾小路くんが淡々とした手つきで端末を差し出し、正義が「おいおい、本当にやるのかよ」と軽口を叩きながらも、結局は自分の端末を僕の横へと突き出した。

 

電子音が数度響き、四人の繋がりがネットワーク上に構築される。

画面に並ぶ名前に、僕は小さく微笑んだ。椎名さんの『椎名』、正義の『橋本』、そして綾小路くんの……あまりにも特徴のない、ありきたりな表示名。

 

「よし、これで完了だね。……じゃあ、帰ろうか」

 

僕が端末を鞄にしまうと、正義がわざとらしく大きな溜め息をついて肩をすくめた。

 

「勘弁してくれよ……。おう、お嬢様、またな。……綾小路くん、だっけか。お嬢様に変な虫がつかないように、隣の席でしっかり『番犬』しといてくれよ?」

 

彼が最後に放った、明確な棘を孕んだ言葉。

綾小路くんはそれに真っ正面から向き直し、感情を削ぎ落とした声で、静かに釘を刺すように言った。

 

「言われなくても、俺は隣の席の住人として平穏を保つだけだ。お前の言う『変な虫』が何を指すのかは知らないが、それが盤面を荒らす存在なら、俺にとって邪魔なだけだからな」

 

正義はその言葉の奥にある「拒絶の重み」を敏感に察知し、初対面の少年にしてはあまりに隙のないその態度に、微かに目を細めて小さく舌を巻いた。

 

 

図書館の重い扉を背後に閉めると、校舎の廊下はすでに完全な残照に包まれていた。

 

オレンジ色と、押し寄せる夜の群青が混ざり合う曖昧な時間。逢魔が時、と人は言うけれど、僕にとっては演目が切り替わる劇場の「暗転」のようで、実に心地がいい。

 

コツ……コツ……と、僕の歩調に合わせて白磁色の杖が木霊する。

その一歩後ろを、綾小路くんはやはり正確な影のように付いてきていた。

先ほどまでの、椎名さんや正義を交えた喧騒が嘘のように静まり返った帰り道。

 

並んで歩く僕たちの間に、しばらく言葉はなかった。

ただ、彼の足取りが、僕の「少し不自由な右足」の運びに、寸分の狂いもなく完全に同調していることだけが、奇妙なノイズとして僕の脳髄を刺激し続けていた。

 

(……ほう?)

僕は歩みを止めず、前を向いたまま、おっとりとした声で沈黙を破った。

 

「綾小路くん、さっきの橋本くんの無礼を許しておくれ。彼は少し、僕に対して過保護が過ぎる役割(ロール)を背負っていてね。僕の周りに新しい人間が現れると、すぐに噛みつこうとする悪い癖があるんだ」

 

「いや。気にしていない。他クラスにあれだけお前を気にかけている人間がいるのは、純粋に羨ましいとすら思う。……だが、久那瀬。お前の方こそ、わざわざ彼を煽るような真似をするんだな。橋本のあの焦燥を、お前は楽しんでいるように見えた」

 

「ふふ、羨ましい、か。君の口からその単語が出ると、なんだかとても奇妙な喜劇を聞いている気分になるよ」

僕はふっと首を傾げ、小脇の杖のオペラグラスをそっと指先でなぞった。

 

「君は、橋本くんのあの『猟犬』のような鋭い視線に晒されながら、心拍数一つ乱さず、それどころか初対面の彼を真っ正面から言い負かした。普通の高校生なら、もっと露骨に不快感を示すか、あるいは怯えるものさ。……まるで、感情の起伏そのものを、どこか遠い場所に置き忘れてきてしまったかのように、君は静かすぎる」

 

僕の言葉は、彼の「擬態」の核心へと、冷徹なナイフを突き立てるようなものだった。

普通の人間なら、ここで言い訳をするか、あるいは不機嫌に口を閉ざす。

けれど、綾小路くんは、やはり死んだ魚のような瞳をまっすぐ前方に向けたまま、淡々と言葉を返してきた。

 

「感情がないわけじゃない。ただ、表現するのが昔から少し苦手なだけだ。……それに、久那瀬。お前の方こそ、ずいぶんと周囲を『観察』しているんだな。松下のことと言い、橋本のことと言い……お前はクラスメイトや、今日初めて話した他クラスの人間を、まるで舞台の上を回る人形のように見ている」

 

彼の平坦な声が、僕の鼓膜の奥で、カチリ、と小さな音を立てた。

その瞬間、僕の脳内に、言い知れぬゾクゾクとした歓喜の鳥肌が立つ。

 

(……あぁ。やはり、そうだ。君は、見えているんだね。僕がこの『お人好しの久那瀬阿憐』という完璧な仮面の裏で、彼らをどう観賞しているかを)

 

僕のモノローグが、歓喜の悲鳴をあげる。

隣の松下さんが自分のスペックを隠すために計算高く立ち回る「利己的な歪み」だとするなら、この綾小路清隆という少年は、それとは全く違う。

彼が纏う「普通」は、保身のためではない。ただそこにあるのが当たり前だからそうしている、というような……圧倒的な『虚無』。

 

「人形、か。人聞きが悪いねぇ」

 

僕は満面の、陽だまりのような笑みを彼に向けた。

 

「僕はただの傍観者、一人の哀れな創作者に過ぎないよ。自分で盤面を引っ掻き回すような野蛮な真似はしないさ。それは美しくない。人は誰しも、己の欲望や過去に縛られて、勝手に舞台の上で踊り狂い、勝手に美しい悲劇の演目を紡いでいくものさ。僕はそれを、特等席から少しだけ観賞させてもらっているだけ」

 

僕は一度言葉を切り、沈みゆく夕日の残滓を静かに見つめた。

 

「……誤解しないでほしいのだけど、僕はただ、露悪的で救いのない物語が好きなわけじゃないんだ。むしろ、その逆さ。人が苦難に喘ぎ、絶望の淵でのたうち回り、己のすべてを削り落としながらも……それでもなお、それを乗り越えた先にある『エンディング』にこそ、真の価値があると思っている。けれどね、綾小路くん」

 

僕は再び、彼に視線を戻す。その瞳には、昏く、しかし純粋な熱が灯っていた。

 

「その美しい結末に至るまでの『苦悩と苦難』。それこそが、物語を最も白熱させる極上のスパイスんだ。彼らがどう足掻き、どう傷つき、どう変貌していくのか……その過程すべてが、僕にとってはたまらなく愛おしい。……けれど、綾小路くん。君だけは、どんな物語の枠組みにも収まらない。君のその深淵の底には、一体どんな『怪物』が眠っているのかい?」

 

あえて距離を詰め、囁くように問いかける。

長い影が廊下に二つ、不自然に伸びていた。

機械のように無機質で底の見えぬ深淵のような彼には、夕日の逆光によって暗く落とされた僕をどのようにして解釈するのか。

綾小路くんは足を止め、僕の白磁色の杖を、そして僕の目を、感情の削ぎ落とされた瞳で見つめ返した。

 

 

(……久那瀬阿憐、か)

歩みを止めた久那瀬の背中を見つめながら、綾小路は脳内で、この「足の不自由な少女」のデータを静かに整理し、再構築していた。

クラスの誰もが、彼女を「お人好しで無害な文芸少女」だと思い込んでいる。平田は彼女を保護すべき弱者として扱い、櫛田は全方位の愛想を振りまき、池や山内は彼女の持つ『特例の創作者』という肩書きに呑気に感心している。実力を隠しているはずの松下でさえ、久那瀬の底の浅い部分——「少し変わった、要領のいい女の子」程度にしか彼女を測れていない。

 

だが、綾小路から見た彼女への評価は、それらの凡俗な推測とは一線を画していた。

(……この学校において、これほど『贅沢な目』を持った人間は珍しいな)

久那瀬阿憐という存在の本質は、プレイヤーでもなく、混沌を喜ぶだけの安易なトリックスターでもない。徹底した「観客」であり、かつ「人間の可能性の信奉者」だ。

 

彼女は自分が傷つかない特等席に身を置きながら、周囲の人間を観察している。だがその本質は、単に他者の破滅を嘲笑う露悪趣味ではない。彼女が本当に求めているのは、過酷な状況下でののたうち回るような『苦悩と苦難』をすべて通過した先にだけ現れる、本物の「結末(ハッピーエンド)」だ。苦難を乗り越えて変化する人間の強さを、彼女は誰よりも熱望している。

 

自ら動いて盤面を引っ掻き回すような下品なことはせず、ただシステムや環境がもたらす試練を他者がどう超えていくのかを見守る。それは、非常に洗練された、一種の純粋なエゴだと言える。

 

(他者をただの使い捨ての駒として見るのではなく、その足掻く過程に愛着を持ち、乗り越えた先の価値を認められる視座。このDクラスという『欠陥品』の籠において、彼女のその冷徹さと一抹の優雅さは、ある種の異彩を放っている)

 

そして何より、あの『白磁色の杖』だ。

歩行を補助するためと称されたその杖の側部には、優雅なオペラグラスが組み込まれている。あれは周囲を「観察し、結末を見届ける」という彼女の歪んだ、しかし一本芯の通ったスタンスを物質化した、彼女自身を象徴する美しいアイコンだ。おそらく内部には仕込みの機能か、あるいはそれ自体が何らかの『取引』によって持ち込みを許可された特例の品。

 

自ら動かない傍観者であり、人間の『成長』という物語の到達点を好む彼女。そのスタンスは、俺がこの学校で求めている「平穏」を維持する上で、極めて相性が良い。

 

(俺の『普通に過ごしたい』という要望に対しても、彼女はそれを一つの面白い物語(喜劇)の過程として歓迎している。彼女がその特等席から俺を見届ける『防波堤』になってくれるというのなら、俺にとってはこれ以上ないほどの最適解だ。彼女の視線を惹きつけておくだけで、初対面だったAクラスの橋本や、今後の他クラスの雑音から身を隠すことができる)

 

演出家ではなく最高の「観客」を気取る彼女のスタンスを、俺は高く評価していた。彼女のような独自の美学を持つ人間が隣にいることは、決して悪いことではない。

 

 

「怪物なんて大そうなものはいない。さっきも言った通り、俺はただの『事なかれ主義』だ」

綾小路くんは、至近距離にある僕の目を、感情の削ぎ落とした瞳で見つめ返した。

 

「……ただ、一つだけ言うなら、久那瀬。お前がどんな劇場を楽しもうと勝手だが、あまり舞台に近づきすぎると、演者に足を引っ張られて、お前自身が奈落に落ちることになるぞ」

 

「……おや」

 

「お前のその杖……。歩くための道具にしては、少しばかり『精巧』に作られすぎている。大事なお守りなら、壊されないように気をつけることだ。さっき結成したあの『同盟』の居心地を悪くしたくもないからな。それに、お前のような面白い観客がいなくなると退屈になりそうだ」

 

彼の口から出た微かな「評価」の言葉に、僕の胸が高鳴る。

それだけを平然と言い残すと、綾小路くんは再び同じ歩調で歩き出した。

 

(……ははっ、あはははは! 素晴らしい! 本当に、なんて素晴らしい少年なんだ!)

 

僕の内面は、狂おしいほどのスタンディングオベーションを送っていた。

彼は僕の言葉を完璧に理解した上で、僕の『白磁色の杖(オペラグラス)』という本性を認め、なおかつ僕のスタンスを「面白い」と肯定して見せたのだ。僕を拒絶するでもなく、排除するでもなく、ただ「舞台から離れていろ」と、冷徹な観客同士の協定を、あの『読書同盟』という枠組みの中に組み込むかのように。

 

「普通」の高校生になりたいと願う、深淵の少年。

その彼が僕に放った冷徹な警告。その余韻が心地よく脳髄を痺れさせる中、僕はコツ、と一度だけ、白磁色の杖をアスファルトに強く突き立てて歩みを止めた。

 

「——ねえ、綾小路くん」

 

僕は杖に体重を預けながら、彼との距離を詰め、その耳元へと滑り込むように顔を寄せた。

 

「君の言う『普通』が、もしも本当に、ただ平穏で何事もない時間を指すのだとしたら……僕が君に、それを享受できる『時間と場所(サンクチュアリ)』を、提供してあげよう」

 

僕の甘やかな毒を含んだ言葉に、綾小路くんの瞳がわずかに揺れる。しかし、その耳元で椎名さんの足音が軽やかに近づいてきた。

彼女は先ほど分かれたはずなのに、何かを思い出したような表情で、僕たちの方へ戻ってきたのだ。

 

「あ、久那瀬さん、綾小路くん! まだ帰っていなかったんですね。よかった」

 

椎名さんは、胸に抱えた本を大事そうに押さえ、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「さっきの『読書同盟』の話ですが、なんだか凄くワクワクしてしまって……。私、帰る道すがら考えていたんです。せっかくなら、私たちの最初の『課題図書』を決めませんか?」

 

彼女は僕と綾小路くんの間に、まるで光を運んできたかのように無邪気に入り込んだ。その純粋な熱量は、僕と綾小路の間に流れていた冷徹な協定の空気を、一瞬で和やかなものへと塗り替えていく。

 

「課題図書、か」

 

綾小路くんが珍しく感心したように口にする。

椎名さんは「ええ!」と頷き、僕の顔を見上げて目を輝かせた。

 

「久那瀬さん、あなたならきっと、この閉ざされた学校で起きる出来事を、私たちが知らない『物語の視点』から解釈してくれると思うんです。だから……この同盟の最初の本は、あなたが選んでくれませんか?」

 

「僕に、選べと?」

「はい。あなたが『一番、この学校のこれからに近い』と感じる物語を。それをみんなで読み解くのが、私たちの同盟の第一歩です」

 

椎名さんの無垢な提案は、僕にとって最高の舞台装置だった。

彼女は僕の「傍観者としての価値」を信じ、僕という劇作家に、この学校という舞台の「台本」を委ねようとしているのだ。

それは、綾小路くんにとっても、僕の意図を測るための絶好の試金石になるはずだ。

僕はふっと笑い、白磁色の杖をアスファルトに突き立てた。

 

「……面白いね。それなら、ドストエフスキーの『罪と罰』にしようか。誰が罪を犯し、誰がそれを裁くのか。そして、その果てに何が残るのか。……綾小路くん、君も、僕の選んだこの物語なら、読まない理由はないだろう?」

 

僕の問いかけに、椎名さんは「素敵!」と声を弾ませる。

綾小路くんは、僕の笑みと、期待に満ちた椎名さんの瞳を交互に見つめ、諦めたように小さく息を吐いた。

 

「……ああ。そこまで言うなら、付き合うことにしよう」

彼のその容認の言葉を聞いて、椎名さんは満面の笑みを浮かべた。彼女は僕たちが交わしていた「影の取引」の存在には気づいていない。あるいは、気づかないふりをして、僕たちをこの「読書同盟」という名の日常に繋ぎ止めようとしているのか。

 

「よかった。じゃあ、また明日、図書室で会いましょうね。……お二人とも、おやすみなさい!」

 

椎名さんは満足そうに手を振り、夜の帳の中へと駆けていった。

彼女が去った後、再び僕と綾小路くんの二人の沈黙が戻ってくる。

しかし、先ほどまでの冷徹な緊張感とは違い、そこには「共通の課題」という名の、歪な繋がりが生まれていた。

 

「……椎名さんという少女は、お前が思っている以上に、この学校の波紋を広げる存在かもしれないな」

 

綾小路くんが、彼女の去った方向を見つめながら呟く。

 

「そうだね。彼女は、物語をただ見るだけじゃなくて、自らそのページを捲って進もうとしている。僕にとっては、観賞しがいのある……実に愛おしい『読者』さ」

 

僕は満足げに笑うと、再び完璧な「お調子者の久那瀬阿憐」の仮面を被り直し、コツ、コツ、と軽快な音を響かせて歩き出した。

(椎名さん。君が彼を、僕という観客席へ引きずり込んでくれるのなら……この物語は、予想以上に熱い結末を迎えられそうだね)

 

夕闇が終わりを告げ、冷たい群青の夜が広がる中、僕たちの小さな同盟は、これ以上ないほど静かに、そして確かな利害を孕みながら、次なるページへと動き始めていた。

 

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