四月上旬。新入生たちがくぐり抜けたばかりの東京都高度育成高等学校の正門には、まだ瑞々しい桜の木々が誇らしげにその枝を広げ、春のうららかな陽光を浴びていた。しかし、その美しさは、この学校の本質を隠蔽するための精巧な舞台装置に過ぎない。
僕が籍を置くことになった一年Dクラスの教室は、文字通りの意味で「自堕落な楽園」と化していた。黒板に背を向けた教師の視線を盗み、最新型の端末でゲームの戦果を競い合う者。支給されたばかりの「十万ポイント」という大金に狂喜乱舞し、放課後にどの高級レストランへ繰り出すかを大声で品定めする者。彼らは、自らが政府公認の超エリート校に選ばれた特別な存在であると信じ込み、与えられた富を湯水のように使い、欲望のままに溺れていた。それが、学校側が用意した底知れない奈落への招待状であるとも知らずに。
だが、その狂騒の影で、僕たちの「裏工作」は、遂に完璧な形で幕を開けていた。
放課後。喧騒に包まれる校舎を離れ、本館の最上階に近い一角へと向かう。
僕がこの特別応接室に招集したのは、二人の異端児。一人は、僕の忠実な猟犬であり、環境に適応する能力が異常に高いAクラスの橋本正義。彼はすでに制服のネクタイを緩め、着崩した姿を周囲に馴染ませながら、油断のない鋭い視線を廊下の曲がり角に向けている。
もう一人は、Cクラスの知性、椎名ひより。彼女は胸元に古い文庫本を大切そうに抱え、おっとりとしたお嬢様然とした佇まいで僕の半歩後ろを歩いていた。しかし、その垂れ目の奥には、この学校の構造を鋭く見抜く明晰な知性が宿っていることを、僕はよく知っている。
そして、今回のターゲットは、この学校の構造を熟知しながらも、生徒の自滅をただ冷徹に見守る立場にある大人――Aクラス担任、真嶋智也。
「失礼するよ、真嶋先生」
重厚な木製の扉を押し開けると、室内には年季の入った革製品と微かな葉巻の残り香のような、大人の空間特有の重苦しい空気が満ちていた。部屋の中央に配置された応接セット。その黒い革張りソファに、僕たち三人は深く腰掛けた。
対面に座る真嶋先生は、いつも通りの厳格な面持ちのまま、彫刻のように深い眉間の皺を刻み、値踏みするように僕たちを見つめている。その威圧感は、並の生徒であれば気圧されて言葉を失うほどだったが、僕の創作意欲を刺激するには十分すぎるスパイスだった。
「一年生の、それも異なる三つのクラスの生徒が揃って僕を呼び出すとはな。久那瀬、執筆道具の追加申請の件なら、すでに生徒会を通じて許可を出したはずだが。これ以上の特例を求めるというなら、相応の理由が必要だぞ」
低く、地響きのように響く声音。建前という名の防壁を築く教師に対し、僕は手元にある白磁色の杖を優雅に膝の上に横たえ、上部に組み込まれた高精細なオペラグラスを指先でトントン、と小気味よいリズムで叩いた。自由な創作の許可という「権利」を誇示するように、その白磁の輝きを室内の蛍光灯の光に反射させ、レンズの奥の昏い光を真嶋先生へと向ける。
「ふふ、ご機嫌よう、真嶋先生。今回はそんな可愛い創作の相談じゃないんだ」
声音から一切の感情を排し、ただただ冷ややかに、目の前の偉大なる大人を嘲るように、僕は言葉を継いだ。
「先生。僕たちはね、この学校の『化けの皮』を剥ぎ取りに来たんだよ。――リアルタイム減点方式による、生徒の冷酷な審査システム。通称『Sシステム』の全貌について、答え合わせをさせてほしくてね」
真嶋先生の眉が、ピクリと不自然に跳ねた。
ほんの一瞬、時間にして一秒にも満たない刹那。だが、百戦錬磨の教師が見せたその明確な動揺を、僕の隣で気配を殺していた正義、そして指示を完璧に理解している椎名さんは絶対に見逃さなかった。
「……何のことだ。妄想なら、自分の小説の中だけでやるんだな。学校は生徒に最高の環境を提供している。それをどう解釈するかは個人の自由だが、ありもしないシステムを捏造して教師を揺さぶろうというのは、感心しないな」
真嶋先生は腕を組み、冷徹なガラスのような瞳で僕たちを突き放す。しかし、その強固な防壁に、椎名さんが静かに最初の一撃を打ち込んだ。彼女は手元に用意されていた温かい紅茶のカップをソーサーに置く。カサリ、と頼りなく響いた紙の音のように、静寂の中に明確な意思が響いた。
「いいえ、真嶋先生。はぐらかさないでください」
椎名さんは垂れ目の奥に明晰な知性を光らせ、まるでお気に入りの本のページをめくるかのように淀みなく言葉を紡ぐ。
「すでに生徒会長の堀北先輩からは、事実上の承認をいただいています。私たちは確信しているのです。この学校が四つのクラスに、入学初手から十万ポイントという甘い餌をわざと与え、規則の鎖を緩めてみせていることを。人間は、最初から厳しい環境に置かれれば警戒しますが、過剰な豊かさを与えられると、驚くほど簡単に思考を放棄して自堕落に溺れてしまいます。そして学校側は、その愚行を裏でリアルタイムに減点し、五月一日をもって最初の『格差』を突きつける……。まるで、よくできたディストピア小説そのものです」
ふわり、と彼女の青みがかった銀髪が揺れる。そのおっとりとした声音とは裏腹に、語られる内容はあまりにも冷酷で、的確に学校が仕掛けた「自由という名の罠」の本質を抉り出していた。
真嶋先生は深く息を吐き、さらに腕を組み直した。大人の、プロの教師としての強烈な威圧感が室内に放射され、空気の温度が一段と下がる。
「仮に……あくまですべて仮定の話だが、そのシステムが存在するとして、それがどうした。学校のルールを見抜いたお前たちが、他クラスの連中にそれを暴露して救おうとでも言うのか? Dクラスの久那瀬、お前がそんな殊勝な人間には見えんがな。利己的に立ち回る知性を持っていながら、他人のために動く理由がどこにある」
「まさか。買い被らないでほしいな、先生。僕はそんな野蛮で無粋な真似をするはずがないじゃないか」
僕は喉を鳴らしてくすくすと笑った。その笑い声は、静謐な応接室の壁に不気味に反響する。
「凡俗どもが五月一日に現実を突きつけられ、絶望し、のたうち回る姿は、僕にとって極上の
ここで、それまで完全に気配を消し、僕の影に徹していた橋本正義が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて身を乗り出した。制服を着崩したチャラチャラとした風貌の奥から、計算高い男特有のジットリとした、しかし容赦のない視線が真嶋先生を射抜く。
「そういうことだ、真嶋センセ。もし今、俺たちが一年の全クラスに『おい、今のままだと五月にポイントがゼロになるぞ』って証拠付きでバラしちまったらどうなる? Aクラスの連中はより完璧に自衛し、B、C、Dのバカどもだって、必死になって明日から遅刻や私語をやめて、ポイントを守りにかかるぜ。お望みの選別とやらは、初手から大失敗に終わるな」
真嶋先生の顔から、完全に余裕が消え失せた。彼の手元にある書類を握る指先が、微かに強張る。
四月下旬になってから暴露されても、すでに減点データの大部分は手遅れであり、学校側のシステムは機能する。しかし、この上旬という段階で情報が拡散されれば、学校側が最も重視している「最初の一個月の、素の本性の生態データ」が完全に書き換えられてしまうのだ。
「……貴様ら、学校の『査定』そのものを形骸化させる気か」
「ええ。学校側としては、四月という最初の一個月で『生徒の本性』を厳格にスクリーニングしたいはず。今ここで全員が必死に規律を守り始めれば、正確な査定データは取れなくなり、学校のシステム運営に致命的なノイズが走る。……それは、教師であるあなた方にとっても、上層部に対する大いなる『不始末』になるのではありませんか?」
椎名さんの静かな、しかし退路を完璧に断つ正論が、応接室の空気を完全に支配した。
「……なるほどな。よく調べ、よくそこまで屁理屈をこねくり回したものだ」
真嶋先生はふっと冷酷な笑みを口元に浮かべると、背筋を伸ばし、大人の防衛線を張り直した。その瞳には、生徒を「教育する対象」ではなく、「排除すべき異物」として捉える冷徹さが宿っている。
「だが、久那瀬。お前たちは一つ重大なルールを忘れている。プライベートポイントの不正な恐喝、および学校への脅迫行為は、校則により即座に退学処分に相当する。僕がお前たちのその不敬な要求をそのまま上層部に報告すれば、五月一日を迎える前にお前たちの席はこの学校から消えるが? 大人を脅すには、少しばかり知恵が足りなかったようだな」
鋭く突き刺さる退学の脅し。だが、僕の心臓は怯えるどころか、至上の歓喜に細かく脈打った。大人が見せる、追い詰められた末の虚勢。これこそが、僕の求める戯曲のスパイスだ。
「おいおい、真嶋センセ。人聞きが悪いな」
正義がテーブルの上のグラスのストローを指先で弄びながら、冷え切った目で先生を見据える。
「俺たちは『学校の査定運営に協力する対価としての正当な報酬』を交渉してんだぜ。なぁ、椎名ちゃん?」
「ええ、これは契約です」
椎名さんがおっとりとした顔のまま、淀みなく付け足す。その表情には、罪悪感も恐れも微塵もない。
「口外禁止契約の対価として、個人間でポイントを受け取ることは、生徒間のポイント譲渡が自由である以上、校則のどこにも違反していません。私たちはただ、学校の利益――正確な査定データの収集という目的を守るために、プライベートな取引を申し出ているだけです。脅迫ではなく、ビジネスの提案ですよ」
大人の防衛線を完璧に無効化する、法律の網の目をくぐるようなロジック。真嶋先生は完全に逃げ道を塞がれ、拳を固く握りしめた。革ソファがきしむ音が、彼の内心の葛藤を雄弁に物語っていた。
「……フン、大きく出たな。で、誠意の額はいくらだ。口留め料として、三人に十万ポイントずつ、僕の権限で融通してやる。これなら文句はあるまい。一年生にとっては破格のボーナスだ」
「ふふ、先生、僕たちの価値を安く見積もらないでほしいな。僕たちが提示する最低ラインは――」
僕は一拍置き、室内の静寂を十分に楽しんでから、その数字を口にした。
「一人当たり、百万円相当――百万ポイントだ」
「な……ッ! 百万だと!? 馬鹿なことを言うな!」
真嶋先生が初めて感情を爆発させ、大きな音を立てて机を叩いた。
「百万ポイントがどれほどの価値か分かっているのか! 卒業時にAクラスを勝ち取るために、生徒たちが死に物狂いで奪い合う額だ。ただの口止め料として、入学したばかりの一年生にホイホイと渡せるわけがないだろう!」
激昂する大人を前に、僕はゆっくりと立ち上がった。少し不自由な右足を白磁色の杖でしっかりと支え、コツ、コツ、と静かに床を響かせながら、真嶋先生のデスクの直前まで歩み寄る。そして、オペラグラスのレンズ越しに、彼の焦燥に満ちた瞳を完全にロックした。
「真嶋先生。すぐに答えを出せとは言わないよ。じっくりと、天秤にかけるといいさ。学校の査定システムが初手で完全に破綻し、上層部から教育放棄の烙印を押されるリスクと……僕たち三人に百万ポイントずつを支払い、予定通り『美しい地獄の五月一日』を迎える安心感を、ね。四月中旬までには、僕たちの端末に振り込んでおいておくれよ」
僕の狂気的な歓喜の笑い声が、重苦しい応接室に響き渡る。
真嶋先生は冷や汗を流しながら、僕たち三人を「ただの生意気な一年生」ではなく、システムそのものを喰い破ろうとする「怪物の雛たち」として明確に再評価していた。
「……上の連中と、掛け合ってみる。だが、百万は――」
「値切り交渉は受け付けないよ、先生。僕たちは 一切の妥協をしない創作者だからね」
僕は優雅に一礼し、杖をコツコツと響かせながら、冷たい沈黙が支配する特別応接室の扉へ向かった。
重い防音扉が閉まり、廊下に出ると、そこにはすでに深い夕闇が広がっていた。校舎の窓から差し込む斜光は赤黒く、まるでこれから始まる凄惨な劇の幕開けを告げる血の色のようだった。
ケヤキモールへ向かう、人通りの途絶えた一本道。
橋本正義は周囲の物陰に人がいないことを、野生の獣のような鋭さで確認すると、いつものチャラチャラとした笑みを完全に消し去った。その瞳の奥には、ジットリとした、計算高い男特有の焦燥が滲んでいる。彼は僕を振り返り、テーブルの下で見せたような強迫観念に似た執着を隠そうともせずに語りかけてきた。
「……なぁ、お嬢様。交渉が上手くいったのは最高だけどよ。俺たちがシステムを黙秘してやりゃ、Aクラスの優位は保たれる。だが同時に……Dクラスのバカどもは、何も知らねえままこれからの三週間、さらに絶望的な勢いで『ゼロポイント』の地獄に確実に落ちていく。お嬢様、あんたは本当に、それでいいんだな?」
正義の首の鎖が激しくきしむ音が聞こえる。幼少期、僕の身代わりになったというトラウマから、彼は何よりも僕が不利益を被ること、Dクラスという最底辺の檻で悪意に晒されることを恐れている。僕を一日でも早くAクラスという安全な高みへ引き上げるためなら、彼はどんな泥水でもすすり、他者を裏切る覚悟を持っていた。だが、そのために僕自身が四月に無一文になり、周囲の道化たちと同じ苦痛を味わうリスクを、彼は本能的に危惧しているのだ。
その歪んだ執着、その焦燥。自らの心をガリガリと磨り潰しながらも僕を守ろうとする、彼の隠された絶望のすべてが、僕の脳髄を、蕩けるような恍惚と愉悦で満たしていく。
「ふふ……ふふふ。だからこそ美しいんじゃないか、ジュスティ」
僕は立ち止まり、夜桜の蕾が膨らむ木々の下で、彼に向けて陽だまりのような微笑みを浮かべた。聲音から一切の刺を排し、彼を全肯定するように。
「バカどもが何も知らずに、これから一個月かけてじっくり奈落に落ち、絶望するからこそ、僕たちの手にする百万ポイントの価値が、最高に跳ね上がるんだよ。君は僕のために、Aクラスという安全な高みで力を蓄えておくれ。僕のことは、心配いらないさ」
「……ッ。あんたがそう言うなら、俺は何も言わねえ。完璧な蝙蝠になって、その特等席を守ってやるよ」
正義は僕に向ける視線を、恐怖を通り越した狂信の色で満たし、強張った肩を僅かに緩めた。その掌が、恐怖と安堵で微かに震えているのを、僕は見逃さない。
「ふふ、素晴らしい手際でしたね、阿憐さん。これで私たちは、舞台の『特等席』を完全に買い占めることができました。これから始まる一個月の自滅劇を、最も贅沢な場所で楽しめますね」
椎名さんが、胸元の文庫本を抱え直しながら悪戯っぽく微笑んだ。彼女の青みがかった銀髪が、春の夜風に軽やかに舞う。
「ああ、最高さ。さあ、僕たちの秘密の書斎へ戻ろう。この極上の交渉劇の結末を、隣の席の『彼』にも、少しだけ匂わせてあげないとね」
◇
翌日の放課後。
東京都高度育成高等学校の一年Dクラスの教室には、いまだ「十万ポイント」という甘美な麻薬に酔いしれる凡俗どもの残響が、埃っぽく漂っていた。
授業終了を告げるチャイムの音が鼓膜を叩くと同時に、彼らは何かに急き立てられるように席を立ち、支給されたばかりの巨富をどのように浪費すべきかという、およそ知性とは程遠い相談を大声で交わしながら、我先にと教室を去っていった。ある者は高級な家電製品のカタログを端末で広げ、またある者はケヤキモールに新しくオープンしたお洒落なカフェの限定メニューについて熱弁を振るっている。
彼らは誰も気づいていない。自分たちが今まさに、学校側が用意した底知れない奈落の縁で、目隠しをされたまま陽気なダンスを踊っていることに。五月一日という残酷な幕引きの日に、自らが犯した「自堕落」という名の罪過の総量を突きつけられ、絶望にのたうち回ることになる近未来を、その貧相な想像力では1ミリも予見できていないのだ。
だが、それこそが僕の望む舞台装置であり、最高の構成だった。
瞬く間に潮が引くように静まり返り、放課後の琥珀色の斜光が静かに差し込む教室の中で、僕は自席でゆっくりと時間をかけ、身支度を整えていた。
小脇に抱えた白磁色の杖――側部に精巧な高精細オペラグラスが組み込まれた、僕の創作活動における唯一無二の相棒――を、すぐ隣の席へと向け、コツリ、と優雅に立てかける。
そのすぐ隣の席には、相変わらず教室の壁紙にでもなったかのように、周囲の喧騒からも、学校のシステムからも完璧にドロップアウトした無気力を装って佇んでいる少年――綾小路清隆がいた。
彼はクラスメイトたちが大騒ぎして去っていく間も、ただ窓の外に広がる春のグラウンドを死んだ魚のような瞳で見つめ、一切の情動を排したまま、そこに存在していた。だが、その底知れない虚無の奈落の奥底に、常人では決して覗き込めないほどの漆黒の深淵を隠し持っていることを、僕はすでに見抜いている。
今日も今日とて、世界そのものを退屈そうに眺めている少年に向けて、僕は耳元へと滑り込むように顔を寄せ、密やかに囁いた。それは、他人に聞かせるためのものではない、僕たち二人だけの不穏な戯曲の始まりを告げる合図だ。
「――綾小路くん。五月一日の劇場のチケット……一番良い特等席を、三枚ほど余分に買い占めておいたよ。君の『平穏』という名の背景を汚さないための、最高に頑丈な防波堤さ」
僕の、いつもより一段とトーンを落とした、おっとりとした声音。
その響きには、昨日、特別応接室でAクラス担任の真嶋先生を極限まで追い詰め、一人当たり百万ポイントという巨額の口留め料を毟り取ってきたばかりの、濃厚な勝利の余韻が混じり合っていた。
綾小路くんは窓外の景色に向けていた視線を、油の切れた機械のようにゆっくりと僕へと戻した。その一切の感情が削ぎ落とされた硝子のような瞳のまま、ほんのわずか、ミリ単位の刹那だけ、瞳の奥の何かを冷徹に動かした。
(……入学早々、学校のシステムそのものを脅迫して、ポイントを毟り取ったか)
綾小路は脳内で、久那瀬阿憐という「足の不自由な少女」のデータを冷徹に更新していた。
普通の一年生であれば、学校のルールを看破した時点で、自分のクラスを救うために動くか、あるいは自身の利益のためだけに密かにポイントを溜め込む。だが、この久那瀬という少女の狂気は、そのどちらの範疇にも収まらない。
教師陣を真っ向から敵に回し、一歩間違えれば即座に退学処分となるリスクさえも、「面白い物語を紡ぐための過程」として歓喜の笑顔で受け入れる。学校の査定システムそのものを人質に取り、大人から莫大な富を巻き上げながら、他クラスの橋本や椎名といった異端児たちを『猟犬』や『同盟の友人』として完璧に手懐けているのだ。
だが、彼女がその異質な知性を「クラス間の戦争」や「Aクラスへの上昇志向」ではなく、自らの意思で「観客」の席に留まるために費やすというのなら、そして、他クラスの雑音や教師の監視から自分を隠す『防波堤』として機能してくれるというのなら、俺にとってはこれ以上ないほどの最適解だ。
(久那瀬。お前がどんな劇場を楽しもうと勝手だが……あまり調子に乗りすぎるなよ。操っているつもりのない糸にさえ足元をすくわれ、お前自身が奈落に落ちた時、その白磁の杖はお前を支えてはくれないぞ。……もっとも、お前ならそれすらも『苦難』として、嬉々として楽しんで乗り越えてみせるのかもしれないがな)
「……お前の好きにすればいい」
綾小路はやはり感情の起伏を一切感じさせない、凪いだ海のように平坦な声で告げた。だがその声の響きには、彼女が裏で進めている凄惨な暗躍に対する、明確な『容認』と『無干渉』の合意が含まれていた。
「俺はただ、この学校で誰にも注目されず、巻き込まれたくないだけだ。お前がその特等席とやらで俺の平穏を守るというのなら、俺からそれを拒む理由はない。百万ポイントの使い道にしても、お前たちの自由だ」
「ふふ、冷たいねぇ。でも、それでいい。その徹底した虚無と事勿れ主義こそが、君の何よりの美しささ。けれどね、綾小路くん。ただの観客で居続けるためには、相応の『対価』を支払ってもらわなければ、劇作家としての僕のプライドが許さないんだよ」
僕は上体を少し起こし、白磁色の杖の頭に顎を乗せ、いたずらっぽい笑みを浮かべて彼を見つめた。
「対価、だと?」
綾小路が微かに眉を動かす。僕の意図を測りかねているその表情さえも、僕にとっては至上のエンターテインメントだった。
「そうさ。僕たちの『読書同盟』……今は君と僕とジュスティ、そして椎名さんを加えた4人だけの秘密の書斎だけれど、そろそろ次の演目を決めなければならなくてね。前回のドストエフスキーの『罪と罰』は、僕の可愛い猟犬の脳細胞を磨り潰すには十分な傑作だったけれど、あれは言ってしまえば僕の趣味だったからね。」
僕はそっと、自分の端末の画面を彼に見せるように空間へ向けた。
「だからね、綾小路くん。次の『読書同盟』の課題図書を決める権利を、君に譲ろうと思って。……いえ、これは権利じゃないね、君に課せられた『義務』だよ。僕たちを満足させるような、極上の不条理、あるいは傲慢な罪に満ちた一冊を、君のその冷徹な演算回路で選んでおくれよ」
綾小路は僕の言葉を静かに咀嚼するように、数秒の沈黙を置いた。彼がどのような本を選ぶか、それ自体が彼の内面に潜む「深淵」の形を透かす鏡になる。彼はそれを理解しているはずだ。
「……俺に選ばせるのか。椎名ならともかく、橋本が泣き言を言う姿が目に浮かぶな」
「ふふ、いいじゃないか。ジュスティが君の選んだ文学の重さに圧し潰され、足掻く姿は、僕にとってこれ以上ない喜劇だからね。四月中旬――僕たちの端末に大人からの『誠意』が振り込まれる頃までに、君の推薦図書を教えておくれ。楽しみに待っているよ」
僕は満足げに喉を鳴らして笑うと、再び完璧な「お人好しで、少し足の不自由な文芸少女・久那瀬阿憐」の仮面を被り直した。
「……了解した。俺の平穏の維持費として、相応の一冊を探しておこう」
綾小路のその平坦な承諾の言葉を最後に、僕たちの密談は終わった。
僕は立てかけていた杖を手に取り、コツ、コツ、と軽快なリズムを無人の教室に響かせながら、夕闇の廊下へと歩みを進めた。
最高の「普通」という玩具を与えられた深淵の少年と、学校のルールさえも手駒に従えた観客たち。
百万ポイントという大金と、来るべき五月一日の破滅を盤面に敷き詰め、僕たちの歪な同盟は、これ以上ないほど静かに、そして確かな利害を孕みながら、次なる血塗られた演目へと動き始めていた。