"la vraie parole"   作:イナナのナナ

9 / 10
評価欄の色が付いていてビックリです!
評価してくださった方々には感謝しかありませんm(_ _)m
少しご報告なのですが、仕事が忙しくなってきており、6月入ってから2週間くらいは2日に一回の更新になるやもしれません。
毎日投稿を期待されている方々には申し訳ないのですが、流石にリアルが優先されるのでそこのところご了承ください。
ただ更新はちゃんとしていこうとは思っているので気長にお待ち頂けると幸いです。


第九幕 「不条理の怪物、あるいは『傍観者』の夜会」

 

「――クラスの勉強会に、出ていただける、ということかい?」

 

放課後の無人の教室。窓から差し込む斜陽が、机の並びを長く、歪な影へと引き伸ばしている。

平田洋介が弾かれたように顔を上げ、その端正な輪郭に、驚愕と救済の入り混じった複雑な色彩を浮かべた。その隣では、堀北鈴音もまた、信じられないものを見るかのようにその切れ長の双眸をこちらに向けている。

 

5月1日。この学校の洗礼たる「ポイントゼロ」の地獄に叩き落とされ、僕がこの教壇で「100万ポイント」という個人資産を開示してから数日。クラスの生徒たちは、僕への甘えを完全にへし折られ、恐怖と畏怖の混ざった目で遠巻きに眺めていた。つい先日も、退学の危機に瀕して縋り付いてきた彼らを、僕は底冷えするような氷の声音で一蹴し、決定的な決別を突きつけたばかりだ。

 

そんな中、間近に迫った中間試験の赤点回避のため、彼らは再び、僕という「異物」に接触してきたのだ。恐怖に震えながらも、背に腹は代えられないという浅ましさ。それがたまらなく愛おしい。

 

「あぁ、構わないよ。二つ返事で引き受けようじゃないか」

 

僕は白磁色の杖にそっと両手を重ね、いつも通りの、おっとりとした陽だまりのような微笑みを浮かべる。これが僕の完璧な擬態――「お人好しの久那瀬阿憐」の仮面だ。

 

あまりの物分かりの良さに、平田は安堵するよりも先に、呼吸をわずかに硬化させた。数日前に見せた、あの血も涙もない拒絶の残滓が頭をよぎったのだろう。目の前の完璧な笑みの奥に、自分たちとは根本的に異なる、底知れない狂気を感じ取ったようだった。数秒の間、彼は言葉を探すように唇を微かに震わせ、それからようやく、絞り出すように声を返した。

 

「……ありがとう、久那瀬さん。君がいてくれれば、きっとみんなも……」

 

「いいや、それは違うな」

 

彼の言葉を、僕は穏やかな笑みのまま遮る。声音には微塵の棘も混ぜず、ただ決定的な「断絶」だけを滑り込ませて。

 

「勘違いしないでほしいな、平田くん、堀北さん。僕は、変わらずこのクラスを率いるつもりなんて毛頭ないよ。それは君たちの役割だ。ただ、僕は他人が必死に足掻く姿を特等席で眺めたいだけのお人好しだからね。ほんの少し、手を貸してあげるだけさ。」

 

堀北の鋭い視線が、僕の手元にある白磁色の杖へと向けられた。彼女の爪が、手のひらに食い込んでいくのがわかる。僕があっさりと手を貸すのは、クラスへの愛着などではなく、圧倒的な高みから自分たちを見下している証拠――「徹底的な断絶」を、彼女の傲慢な知性が本能的に察知したようだった。

 

「……あくまで、自分は安全な観客席にいるつもりなのね。私たちの必死な姿を、品定めしながら」

 

「ふふ、どう受け取るかは君の自由だよ、堀北さん」

 

堀北の鋭い声音を柔らかく受け流し、僕はただ、愛想の良い微笑みで彼らの背中を見送った。

僕が勉強会にただ腰を下ろしているだけで、周囲には「化け物に見張られている」という極限のプレッシャーが生まれる。切り捨てられる恐怖が、凡俗たちの脳を強制的に駆動させるのだ。

あぁ、なんて美しい劇場だろう。彼らが必死に踊り狂う様を、僕は最前列で見届けることにするよ。

 

 

昼食の時間。

食堂はいつも以上の熱気と、それに相反するドロドロとした怨嗟に満ちていた。購買や食堂の列では、十の位のプライベートポイントすら惜しんで頭を抱える池や山内たちが「無料の山菜定食」を悲痛な面持ちで啜っている。

 

そんな様子を横目に、僕は食堂のテラス席で、昨夜から仕込みをして作った手製弁当を優雅に広げていた。僕に対するクラスのヘイトや畏怖は日を追うごとに濃密になり、結果として僕を外界のノイズから隔離する、完璧な「防波堤」として機能していた。

 

だが、あまりに巨大な「100万ポイント」という異物は、すでにDクラスの檻を越えて、この学校の深淵に潜む者たちの嗅覚を異常なまでに刺激してしまっていた。

コツ、コツ、コツ――。

僕の白磁色の杖とは異なる、重く、規則性を持った地面を叩く音が、食堂の喧騒を切り裂いて近づいてくる。

 

「――あら。随分と不条理な「変数」であるお嬢様がいると聞きましたが。随分と慎ましやかな贅沢をされているのですね」

 

黒いベレー帽子を被り、銀髪を揺らした少女――Aクラスの坂柳有栖。

そのすぐ斜め後ろには、橋本正義が控えていた。

 

さらに、別の動線から、ポケットに両手を突っ込み、狂気的な笑みを浮かべた男がのっそりと現れる。Cクラスの龍園翔。彼の背後には、大切な文庫本を胸に抱えた椎名ひよりが、困惑したように眉を下げて佇んでいた。

 

東から、それらの動きを遮るようにして、毅然とした足取りで真っ先に僕の正面へと進み出たのは、Bクラスの一之瀬帆波だった。その後ろには、険しい表情で周囲を警戒する神崎隆二が控えている。

 

四つのクラスの思惑が、僕のお弁当を囲むようにして一堂に会した。

テラス席の温度が数度下がったかのような錯覚。周囲の生徒たちの話し声が、潮が引くように消え失せる。

坂柳の背後に立つ正義の顔は、血の気が完全に引き、見たこともないほどに強張っていた。

 

直立不動のまま、彼の視線が僕の右足の杖に縫い付けられている。その拳は白くなるほど握りしめられ、微かに震えていた。入学式の掲示板の前で僕とクラスが離れて以降、彼は僕を一番近くで守るために、坂柳の忠実な猟犬として動くという泥水をすする覚悟を決めている。しかし今、目の前にいるのは、我が主だ。彼が今、どんな地獄の底で自責に焼かれているか、想像するのは容易かった。

僕はただ、微笑みを少し深めるだけで、彼の焦燥を受け流す。

 

「ご機嫌麗しゅう、皆様方。僕の特等席へ、わざわざ何の用だい?」

 

箸を置き、ハンカチでそっと唇を拭いながら問いかける。

坂柳がクスクスと愉しげに笑った。その砂時計のような瞳が、僕の右足の杖をねっとりと値踏みする。

 

「用、ですか? 私はただ、突然チェス盤に現れた新たなる「変数」がどんなお顔をしているか、拝見しに来ただけですよ、久那瀬さん。私はですね、この学校の用意した完璧な庭園で、凡俗たちが私のような「天才」の手のひらで転がされるのを楽しみに来たのです。それなのに……あなたという、ルールそのものを揺るがす素晴らしい「変数」が存在しているのに何もしないなんて、どうしても我慢ならなくて。」

 

例外を許さない、絶対的な「管理」と「支配」の思想。坂柳の言葉には、天才特有の傲慢な余裕が滲んでいる。

その言葉を引き裂くように、一之瀬が僕の机に一歩近づき、まっすぐな、しかしどこか痛ましさを孕んだ視線を落とした。

 

「久那瀬さん。私は、あなたのやり方をどうしても肯定することはできないの。」

一之瀬の声音は、食堂のざわめきの中でもはっきりと通るほど凛としていた。彼女は坂柳や龍園の放つ威圧感に一歩も退かず、むしろその中心にある僕という歪な暴力を正面から見据えている。

 

「学校のルールを突いて大金を手に入れるのは、あなたの自由かもしれない。でも、それを使ってクラスメイトを恐怖で支配したり、他クラスとのバランスを壊すのは違うと思う。私たちはみんな、この学校で対等に、自分の実力で上を目指すべきじゃないかな。困っている人がいれば手を差し伸べ、全員で信頼を築いてAクラスを目指す。それがこの学校の、本当の『試験』のはずだよ」

 

「対等、か。なんともまぁ随分とおめでたい頭をしてるね、一之瀬さん。この学校のどこに平等なんてものがあるんだい?」

 

僕の冷ややかな返しに、一之瀬は怯むことなく、むしろその大きな瞳に強い意志の炎を宿して言葉を重ねる。

 

「平等じゃないからこそ、みんな必死に協力して足掻いてるの! あなたのクラスの平田くんや櫛田さんだって、クラスを救うために必死で頭を下げて回ってる。それなのに、同じクラスのあなたが、ただ高いところから彼らを見下して、まるで他人事みたいに楽しんでる……そんなの、私は悲しいよ。あなたがその力をもっと、クラスのために正しく使ってくれれば、誰も苦しまなくて済むはずなのに! 私はね、誰も置き去りにしない。ポイントや恐怖で人を縛るやり方に、私たちの絆が負けるはずなんてないんだから!」

 

彼女の瞳は、この不条理な学校においてはあまりにも真っ直ぐで、そして目映いほどの正義に満ちていた。隣に立つ神崎が「一之瀬、その女に正論は通じない」と小さく嗜めるが、一之瀬の眼差しは揺るがない。彼女は僕の「傍観者」としての本質を、その清廉な光で暴こうとしていた。

「おいおい、一之瀬の綺麗事は反吐が出るな」

龍園が獰猛な笑みを浮かべ、僕の机にどっかりと身を乗り出すようにして影を落とした。

 

「一之瀬、てめえのヌルい『仲良しごっこ』じゃ、この学校の底にいる怪物を引きずり出すことはできねえよ。なぁ阿憐、俺はてめえのその大金にも、綺麗に澄ましたツラにも興味はねえ。だが、俺の庭で、俺のルールに従わねえ奴が特等席気取ってんのが気に入らねえんだよ。力ってのはな、奪い取り、ねじ伏せるためにある。てめえがその大金で何を目論んでいるのか……俺が直々に、その化けの皮を剥ぎ取って、骨の髄までしゃぶり尽くしてやるよ」

――その時、張り詰めた空間を割るように、大きな足音が響いた。

 

「あの、みなさん! そこで一体何の話をされているんですか!?」

食堂の異変を察知した平田洋介が、慌てた様子でこの包囲網へと割って入ってきた。その背後には、お人好しな女子の笑みを完璧に貼り付けた櫛田桔梗も控えている。平田の額には、クラスの不穏分子である私を他クラスの脅威から守らなければならないという、強迫観念に近い汗がにじんでいた。

しかし、坂柳と龍園は、平田の存在など最初から網膜に映っていないかのように、一瞬だけ冷ややかな視線を向けた。

 

「不愉快ですね。ノイズは引っ込んでいていただけますか、平田くん。クラスを一つにまとめることすらできず、ポイントをゼロにするような無能なリーダーに、私は一ミリの興味もありません。あなた方はただ、私たちが踊る舞台の床板に過ぎないのですから」

 

「ハッ、まったくだ。てめえのような口だけの無能と話す舌は持ち合わせてねえんだよ。身の程を知れ、雑魚が」

 

坂柳の冷酷な針と、龍園の一蹴。

二人の怪物の視線が同時に向けられた瞬間、平田の身体がびくりと硬直した。

平田は、己の無力さと圧倒的な格の違いを脳髄に直接叩き込まれ、顔を青ざめさせて言葉を失った。差し伸べようとした彼の両手は、行き場をなくして虚空で震えている。その背後で、櫛田の営業スマイルがピキリと凍りつく。自分の擬態が一切通用しない怪物たちの空間を前に、彼女の奥底からドス黒い感情がせり上がっているのが見えた。

 

「ちょっと、二人とも言い過ぎじゃないかな!」

言葉を失った平田を庇うように、一之瀬が再び強い調子で声を上げた。今度は、明確な「怒り」をその表情に滲ませて。

 

「平田くんだって、クラスのために全力で頑張ってる! それを無能だなんて切り捨てるのは絶対に間違ってる。坂柳さん、強い者が弱い者を踏みつけるのがあなたのルールなら、私はそれを絶対に認めない。龍園くんも、椎名さんを自分の道具みたいに扱うような言い方はやめて。椎名さんが誰と関わるかは、椎名さん自身の自由のはずだよ。あなたたちの暴力や傲慢に、私は絶対に屈しない!」

 

龍園は一之瀬の言葉にフンと鼻を鳴らし、完全に聞き流す。一之瀬の正義感は、彼らのような本物の捕食者たちの前では、あまりにも無力な「ノイズ」として処理されてしまうのだ。

 

龍園は一之瀬を無視し、再び視線を僕へと向けた。

 

蛇が獲物を品定めするような、ねっとりとした殺気がテラス席を支配する。龍園の放つプレッシャーは、単なる暴力の脅しではなく、相手の精神を内側から破壊しようとする捕食者のそれだった。

 

しかし、僕はその凶暴な視線を正面から受け止めながら、お弁当の箸を静かに置いた。そして、手元に立てかけてあった白磁色の杖を、タツンと軽快に、しかし明確な意思を持ってコンクリートの床に鳴らした。

 

テラス席に響いたその乾いた高音が、張り詰めた空気をガラスのように鋭く割る。それと同時に、会話の主導権が磁石に吸い寄せられるように、僕の手元へと引き戻された。

 

「それにしても骨の髄まで、か。随分と野蛮で、そして魅力的な口上だね、龍園くん」

 

僕はいつも通りの、おっとりとした陽だまりのような微笑みを崩さない。その笑みの深さは、龍園の殺気を完全に無効化し、まるでそよ風でも受け流すかのように軽やかだった。

 

「だけど、こんな早々に無駄な血を流すのはお互いに美しくない。せっかくこれだけ素晴らしい舞台が整っているんだ、少し大人の話をしようじゃないか。――取引をしよう」

 

「取引ぃ……?」

 

龍園は細い目をさらに細め、低く楽しげに喉を鳴らした。僕のあまりの動じなさに、彼の中の警戒センサーが微かに振れたのを、その眉間の僅かなピクリという動きが証明していた。

 

「てめえのようなポッと出のバグが、俺に持ちかける取引だと? 面白いじゃねえか。言ってみろよ、お嬢様。てめえが俺に何を差し出せるってんだ?」

「条件は二つさ」

 

僕は人差し指をすっと立て、穏やかな声音のまま、しかし決定的な『断絶』を含んだ言葉を紡ぎ出す。

 

「一つは、これから君が仕掛けるであろうあらゆる『図り事』に対して、僕はいついかなる時も直接的には手を出さない。君がどれだけ他クラスを蹂躙しようとも、僕という「傍観者」が君の邪魔をすることは絶対にないと約束しよう。君の描く不穏で残酷な舞台を、僕はただ最前列で楽しみたいだけだからね」

 

「ハッ、不可侵条約かよ。てめえのクラスの無能どもが俺の足元に縋り付いて泣き叫ぼうが、見殺しにするってわけだ。一之瀬が聞いたら卒倒しそうな冷血っぷりじゃねえか、阿憐」

 

龍園はクスクスと肩を揺らしたが、その瞳の奥にはまだ鋭い猜疑心がギラギラと輝いていた。

 

「だが、そんな口約束だけで俺が納得すると思うか? 俺を納得させたいなら、もっと分かりやすい『誠意』って奴を見せてもらわねえとなぁ!」

 

「ええ、もちろん。君がそう言うと思って、もう一つの条件――いや、特等席の観劇料を用意してあるよ」

 

僕はポケットから静かに端末を取り出した。画面を数回、淀みのない動作でタップする。その流れるような手つきには、一ミリの躊躇いも、迷いも存在しなかった。

 

「今ここで、君に『40万ポイント』を即金で支払おう。これで僕と椎名ひよりさんの逢瀬には手を出さないで貰いたい。」

 

直後、静まり返った食堂に、あまりにも軽薄で、あまりにも場違いな電子音がピピッ、と響き渡った。

それは、この学校において一人の生徒が卒業までに対面するかどうかも怪しい、巨額の個人資産が移動した合図だった。他の生徒たちが数十、数百のポイントを惜しんで頭を抱え、無料の山菜定食の具の少なさに悲鳴を上げているこの空間で、ノータイムで振り込まれた「40万」という狂気。

 

「な……っ!?」

 

最初に声を漏らしたのは、龍園のすぐ後ろに控えていた石崎……ではなく、テラス席の異変を遠巻きに見ていた他クラスの生徒たちだった。食堂全体のざわめきが、まるで物理的に音を消されたかのようにピタリと止まる。

 

一之瀬帆波は目を見開き、自身の端末を凝視したまま凍りついていた。彼女の隣に立つ神崎隆二も、その切れ長の目を限界まで見開き、絶句している。彼らがどれほど「信頼」や「絆」を掲げようとも、この一瞬で動いた40万ポイントという絶対的な現実の前では、あらゆる正論が無力なインクの染みに変わってしまう。

 

「……っ、正気なの、久那瀬さん……!?」

 

一之瀬の声は、細く、震えていた。彼女が必死に守ろうとしている「努力」の価値が、僕の放った圧倒的な資金量によって、一瞬で無価値なものへと塗り替えられたのだ。

 

「40万ポイントって……そんな大金を、ただの交渉のために、なんの躊躇いもなく手放すなんて……。そんなの、やっぱり何かがおかしいよ。あなたにとって、ポイントや人は、ただのゲームの駒でしかないの……!?」

 

彼女の糾弾を、僕はただの戯言として聞き流す。僕の視線は、自身の端末に表示されたであろう数字を睨みつけている龍園へと固定されていた。

 

龍園は、画面に表示された『400,000』という無機質な数字をじっと見つめていた。その獰猛な顔から一瞬だけ笑みが消え、底知れない沈黙が彼を包み込む。

 

彼にとって、ポイントは武器であり、クラスをAへと押し上げるための絶対的なリソースだ。それを、目の前の女は、何のリスクも負わずに、ただ「本読みの女(椎名ひより)」の聖域を守るため、そして自分の「観客席」を維持するためだけに、ドブに捨てるように差し出してきた。

 

龍園の脳内で、急速に僕という存在の危険度が書き換えられていくのが分かった。こいつはただの金持ちの能無しではない。自分たちとは根本的にネジの嵌め方が異なる、本物の「狂人」だ、と。

やがて、龍園の口元が、皮膚を引き裂くかのように大きく吊り上がった。その瞳には、極上の獲物を見つけた猛獣のような、狂気的な歓喜がギラギラと灯っていた。

 

「クク……クハハハハ! なんだよ、随分といい女じゃねえか、阿憐……! たかが本読みの女一人のために、40万と不可侵をノータイムで差し出すかよ。てめえ、想像以上に頭のネジがぶっ飛んでやがるな!」

 

龍園は端末をポケットに手荒く押し込むと、僕の机にさらに顔を近づけ、声を潜めて囁いた。

 

「いいだろう、この取引、乗ってやるよ。てめえを犯し尽くす楽しみは、最後まで取っておいてやる。だが勘違いするなよ? 金で買える安全なんて、この学校ににゃ存在しねえんだ。てめえのその贅沢な『観客席』が、いつまで安全な高みの見物を決め込んでいられるか……特等席の椅子の脚がへし折れる瞬間を、楽しみにしてるぜ」

 

ひよりの視線が、僕の瞳の奥をじっと見つめていた。読書家としての鋭い直感が、僕の放った40万ポイントの裏にある、歪な精神構造の深淵を捉えたようだった。そこには、彼女と紡ぐ『読書同盟』というささやかな聖域を守りたいという、僕の純粋な善意が確かに存在している。

けれど同時に、彼を『猟犬』という地獄に繋ぎ止め、己を『傍観者』として至らしめているナニカが、僕に何らかの強烈な強迫観念を抱かせ、この大金をただのゴミのように捨てさせたのだと、彼女の本能が察知したのだろう。僕の善意の根底にある、自縛めいた狂気。ひよりの瞳は、純粋な感謝よりも先に、背筋を駆け上がるような戸惑いと痛ましさに揺れていた。

坂柳だけが、僕のネジのぶっ飛び方に、至高の玩具を見つけたかのように瞳を細めていた。

 

龍園は端末の数字を確認すると、満足げに背を向け――いや、その寸前で、近くで完全に硬直している平田と櫛田に向けて、獰猛な笑みを向けた。

 

「おい、平田。てめえらのクラスメイトは、自分のポイントがゼロで行き詰まってるってのによ……このお嬢様が他クラスの俺に40万も横流ししたって知ったら……一体どんな顔するだろうな? ククッ、精々身内で仲良く殺し合えよ」

 

致命的な不和の種を平然と植え付ける、人心掌握のえげつなさ。その言葉がテラス席に落とされた瞬間、平田の顔からは完全に血の気が引き、その背後にいる櫛田の営業スマイルの口元が、微かにピクリと痙攣した。言葉には出さないものの、彼女の奥底から湧き上がる強烈なヘイトと、100万ポイントという絶対的な暴力への渇望が、制服のスカートを握りしめる指先に集約されていくのを、僕は見逃さなかった。

 

龍園は去っていった。ひよりは、申し訳なさそうな視線を僕に送りながら、何度も頭を下げて彼の後ろを追っていく。

坂柳もまた、「次の特別試験を終えた時、その防波堤が残っているといいですね」と言い残し、去っていく。その背中を追う橋本正義は、すれ違いざま、僕にだけ伝わるような、痛切な焦燥を孕んだ視線をよこしてきた。

(ごめんね、ジュスティ。君にはこれからも、僕の猟犬として、その歪んだ苦悩の中で踊り続けてもらうよ。僕が君を壊してしまったという事実を、君がその身で証明し続ける限り、僕たちは決して離れられないんだから)

テラス席に残された一之瀬は、僕の端末と、すでに冷えていくお弁当を交互に見つめ、悔しそうに唇を噛んだ。

 

「……久那瀬さん。あなたがどれだけ大きな力を持っていても、そんな風にポイントや人を切り離して考えるやり方は、いつかきっと、あなた自身を壊すことになると思う。私は……そんな不条理なやり方には、絶対に負けたくない。私たちは、私たちの絆で、あなたという防波堤すらも超えてみせるから」

 

彼女はそう言い残すと、神崎を促して毅然とした足取りで去っていった。その凛とした背中を見送りながら、僕は静かに息を吐いた。

一之瀬さん、君のその「正しさ」こそが、「傍観者」である僕の心には、時に激痛となって突き刺さる。だけど、だからこそ、君がその理想の果てにどんな絶望を抱くのか、僕は最前列で見届たくてたまらないんだ。

 

 

静謐に包まれた図書室の最奥。そこは、いつもの『読書同盟』の面々が揃う領域であり――僕がこの学校で「観客」として腰を下ろすための、数少ない場所の一つだった。

だが今宵、その静けさを破るように、重く躊躇いがちな足音が近づいてくる。

現れたのは、1年Aクラスの橋本正義。今の彼の瞳には、昼間の食堂から続くドロリとした焦燥が隠しようもなく溢れ出ており、彼の胸元を一瞥してみれば平穏の証である「カミツレとラベンダーのタイピン」が見えなかった。

 

「ケッ……相変わらず文字がぎっしり詰まった、よく眠れる紙束が並んでやがるな。反吐が出そうだぜ」

 

俗っぽい毒づきを口にしながらも、その視線は僕の右足に立てかけられた白磁色の杖へと縫い付けられ、微かに震えていた。入学式の掲示板の前で僕とクラスが離れて以降、彼はAクラスにいながら、その視線だけで僕を縛り付けようとする。

正義は僕の正面の席にどっかりと腰を下ろすと、周囲を警戒しながら、低く押し殺した声音で僕を睨みつけた。

 

「……なぁ、お嬢様。てめえ、昼間のあれは一体どういうつもりだ。龍園にノータイムで40万ポイントだと? ……ふざけるなよ。いくら大金を持っていようが、あんな無茶苦茶な真似をすれば、他のクラスの奴らが黙っちゃいねえ。特に姫さんは、お前という存在を完全に『排除すべき標的』として認識したぞ」

 

正義の言葉には、僕への怒りと、それ以上に、己の無力さに対する痛切な自責が混ざり合っていた。

かつて、僕の右足を奪う原因を作ってしまったという罪悪感。彼がどれほどの地獄の底で自責に焼かれているか、その強張った拳を見れば想像するのは容易かった。

僕は白磁色の杖のトップに顎を乗せ、いつも通りの、おっとりとした陽だまりのような微笑みを浮かべる。

 

「ご心配ありがとう、ジュスティ。でもね、気にする必要なんてどこにもないさ。40万ポイントなんて、僕にとっては劇場の特等席を維持するための、ただの安い観劇料に過ぎない。君がそこまで肩を震わせる必要は、どこにもないんだよ?」

 

「そういう問題じゃねえんだよ……! お前はいつもそうだ。そうやって自分の事を全部を他人事みたいに笑って……!」

 

正義が声を荒らげそうになり、ハッと我に返って口元を片手で覆った。

僕は、その言葉に、ただ静かに微笑みを返そうとして――けれど、その息がわずかに詰まった。

 

放課後の冷え込んできた空気のせいか、それとも目の前で剥き出しにされた彼の愛憎の重さのせいか。僕の右足の奥、かつて砕かれ、二度と元には戻らない骨の随が、鈍く、抉るように疼き出す。僕は無意識のうちに、その痛みを逃がすように、もう片方の左足へ僅かに重心を移して右足を庇うような微細な動作をしてしまった。

それに伴い、完璧に貼り付けていたはずの「お人好しの仮面」の下から、隠しきれない苦い感情が、ほんの一瞬だけ唇の端の歪みとなって滲み出てしまった。

 

その瞬間、正義の瞳が大きく揺れた。

僕にそんな顔をさせるために、ここで声を荒らげたわけじゃない。彼の中に走った強烈な罪悪感が、その身体を一瞬で硬直させる。僕を傷つけたくない、僕を守りたいと願う番犬の牙が、結果として最も鋭く主人を傷つけてしまう不条理。自分の失言が主の古傷に触れたことを察した彼の指先が、今度は恐怖に怯えるように小さく震え始めた。

その、時間にしてわずか一秒にも満たない二人の奇妙な沈黙と、そこに漂った歪な空気。

 

「あ……」

 

真っ先に小さく息を呑んだのは、ひよりだった。

読書好きの鋭い観察眼が、僕と正義の間に流れた、ただの「幼馴染み」の枠には到底収まらないドロドロとした暗い絆の深淵を捉えていた。彼女は大切な文庫本をきつく胸に抱きしめ、戸惑うように僕たちを見つめている。

あるいは、その異様な空気の密度は、第三者にとってあまりにも不穏に映ったのだろう。

 

「お前がいくらここで熱くなろうが、久那瀬は納得して金を払った。他人が口を挟むことじゃない」

 

そんな息の詰まる沈黙を破るように、隣に座る綾小路清隆が、読んでいた文庫本をパタンと静かに閉じた。同情や憐れみといった感情を一切排除した、ただの事実の提示だった。

 

正義はその瞬間、ビクリと身体を強張らせ、綾小路へ鋭い視線を向けた。1年4月の初対面時点で、橋本はこの男の「あまりにも不自然な平坦さ」に本能的な警戒信号を発している。だからこそ、僕とこの男を二人きりにさせないために、大嫌いな活字の聖域に居座り続けているのだ。

綾小路の死んだ魚のような瞳が、ゆっくりと橋本へと向けられる。その声音には、今の歪な空気を微塵も引きずっていない、不気味なほどの平坦さがあった。

 

「……それに、橋本。お前がAクラスの人間でありながら、他クラスの椎名や久那瀬とここにいることこそ、お前のエゴの裏返しだろ。これ以上首を突っ込むのは、お前にとってもリスクでしかないはずだ」

「――っ!」

 

ストレートに急所を突かれ、正義の顔が引きつった。自分の偵察行為、解き明かされない本心、そして何より「Aクラスにいながら心が完全に僕にある」という危うさを、この背景のような少年にはとうの昔に見抜かれたのだ。

 

「……チッ。勝手にしやがれ。俺は、俺のやり方でお嬢様を守らせてもらうぜ。」

 

正義は激しい猜疑心を綾小路に残したまま、そして僕への割り切れない焦燥を抱えたまま、翻って図書室を去っていった。

バタン、と静かにドアが閉まり、再び最奥に静寂が戻る。

ひよりは、正義が去っていった扉の方向を見つめたまま、ぽつりと、どこか哀切を帯びた声音で言葉を漏らした。

 

「……なんだか、悲劇のプロローグを読んでいるような、そんな息苦しさを感じてしまいました。橋本さんのあの目……誰かを真っ直ぐに見つめているようで、その実は、暗い底の抜けた場所にずっと囚われているような、そんな気がして……」

 

彼女は抱きしめていた文庫本の表紙をそっとなぞる。言葉のプロフェッショナルである彼女のフィルターを通したその指摘は、僕と正義の関係の歪さを、これ以上ないほど正確に言い当てていた。

 

「ふふ、考えすぎだよ、ひよりさん。彼はただ、少し過保護が過ぎるだけさ」

 

いつもの陽だまりのような微笑みを取り戻して受け流す僕だったが、その言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、今度は隣からの視線が肌を刺した。

綾小路が、閉じた文庫本の表紙に指を置いたまま、こちらを見つめている。その目は相変わらず何も映していないように見えて、その実、僕の脳髄の裏側まで見透かそうとするかのような、静かな深度を保っていた。

彼は本から目を離さないまま、僕にだけ聞こえるような低い声で、ぽつりと探りを仕掛けてきた。

 

「久那瀬。随分と忠実な猟犬を飼っているんだな。……だが、お前があいつの鎖を握っているのか、それとも、あいつがお前の枷になっているのか。どちらなんだろうな」

 

一瞬の沈黙。

その言葉は、僕たちの過去の因縁の核心を、きわめて正確に、かつ冷徹に抉り出すものだった。僕が傍観者として振る舞うために彼を縛っているのか、それとも、彼の存在そのものが僕を蝕む呪いなのか。

僕は、その静かな探りに対して、ただ微笑みの深度を少しだけ深めてみせる。

 

「さあね、綾小路くん。僕が言えるのは、僕はただの観客で、彼は彼自身の意志でそこにいる、ということだけさ」

 

「……そうか。なら、他人が口を挟むことじゃないな」

綾小路はそれ以上追及することなく、再びパサリと文庫本を開いた。そこには一切の執着も、好奇心も見当たらない。ただ、僕という異物の「取り扱い説明書」に、また一つ重要な項目を書き加えただけのような、そんな淡白さがあった。

 

「……阿憐さん。綾小路くん……」

ひよりはまだ少し緊張の残滓を纏わせながらも、僕たちが紡いだこの関係が、大金や今の張り詰めたやり取りごときでは揺らいでいないことを確信し、ふわりと、心からの安堵の微笑みを浮かべた。

 

「改めて、ありがとうございます。……私、これからも、皆さんと一緒に本を読みたいです」

「橋本くんは・・・・・・今は少し気が立っているだけだと思いますし、気持ちが落ち着けばひょっこりお顔を出しに来てくださりますよね。」

「あぁ、もちろん。ジュスティもきっと分かってくれるさ。さあ、気持ちを切り替えて、美しい物語の続きを始めようじゃないか」

 

ひよりが嬉そうにページを開き、図書室には再び、パサリ、パサリと静かな音だけが響き始めた。

僕は、隣に座る少年の横顔を、じっと見つめる。

昼間の食堂であれだけの怪物が揃い、一之瀬があれほど正義を叫び、そして今また正義が感情を爆発させたというのに、綾小路くんだけは最初から最後まで「ただの背景」としてそこにいた。ひよりの涙を前にしても、感情ではなく、ただただ客観的な事実だけで彼女を救ってみせる冷徹さ。

 

僕の視線に気づいているはずの綾小路清隆は、何も言わず、ただ静かにページを捲った。その指先には、迷いも躊躇いも一切ない。

彼は、僕が「傍観者」として、彼の望む『普通』を守るための防波堤になることを、完全に容認し、利用し尽くそうとしている。自ら動かない最高の観客たる僕と、最高の背景を気取る深淵の少年。

彼が「普通」を演じ続ける限り、僕はその「特等席」を誰にも譲らない。

学校側が僕たちを査定するこの歪んだ劇場の裏で、僕たちの無言の聖域は、これ以上ないほど静かに、そして確かな利害を孕みながら、次なる混沌の演目へと動き始めていた。

 

 

その日の深夜、高度育成高等学校の女子寮、僕の自室。

天候の崩れを予兆するかのように、窓の外からは湿った夜風の音が低く鳴り響いていた。室内の静かな冷え込みに呼応するように、僕の右足の奥――かつて無残に砕かれ、二度と元には戻らなくなった骨の随が、昼間以上の生々しさを持ってジクジクと抉るように疼き出す。

 

僕はベッドの端に静かに腰を下ろすと、パジャマの裾をゆっくりと捲り上げ、その歪な古傷が残る右足を両手でそっと包み込んだ。手のひらから伝わるわずかな体温で、強張った筋肉と神経を宥めるように、円を描きながらマッサージを施していく。

この生々しい痛みが走るたび、嫌応なしにあの日の記憶が脳裏に鮮明に蘇る。

 

かつて、橋本正義という男を救うために、僕は自らの「運命のかせ糸」を躊躇なく引きちぎった。その代償として、僕が手にするはずだった輝かしい未来、五体満足で掴み取るはずだったあらゆる可能性は、あの瞬間、粉々に砕け散って消え去ったのだ。

普通の人間の感性ならば、そこには暗い後悔や、運命への激しい呪詛が渦巻くのかもしれない。正義があれほどまでに地獄の底で自責の炎に焼かれ続け、僕の杖を見るたびに肩を震わせているのも、それが「人間として正しい」常人の反応だからだ。

しかし、僕の胸を満たしているのは、そうした湿っぽい感情とは対極にある、冷たく透き通った諦観だった。

 

(あの瞬間、僕の優しさは彼だけのものになったんだ)

 

そう、あの日、他人を救おうなどという傲慢な善意は、僕の中で完全に死に絶えた。引き換えに手に入れたのは、傍観者として、変わることを許さない枷と、擦れ違った彼との心、そして蜘蛛の巣の様に僕を絡め取る、二度と断ち切れない「運命のかせ糸」だった。

この生々しい古傷と疼きこそが、僕が「徹底的な傍観者」であり続けるための罪であり、誰にも侵させない罰なのだ。未来を失ったからこそ、僕は今、こうして最高に不条理な劇場を最前列で眺めることしか許されない。

 

「ふふ……本当に、おめでたいな、ジュスティも。僕だってこれ程君を想っているというのに。」

暗闇の中、僕は疼く右足を愛おしげにひと撫でし、ぽつりと独り言を呟いた。

僕の優しさが終わったあの場所から、僕の極上(最悪)の観劇ライフは始まっている。誰一人として僕の聖域を侵すことはできないし、僕が他者を救うことも二度とない。

窓の外で、静かに雨が降り始めた。冷たい雫がガラスを叩く音を聞きながら、僕はひび割れた仮面を暗闇に溶かし、ただ冷ややかに、次なる舞台の開幕を心待ちにするのだった。

 

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