夢を見た。
嵐の音がする。
風が唸り、空が裂け、残り火が地を焼く。
その只中に、ひとつの背中があった。
風を束ね、嵐を制し、巨躯に立ち向かう影。
あれは騎士だ。
正しく、在るべき姿。
闇に呑まれた友を討つために、ためらわず剣を振るう。
――父は、ジークバルトは、騎士だった。
迷いのない背中だった。
俺も、ああ在りたい。
守る者でありたい。
使命を果たす者でありたい。
嵐がひときわ強く唸る。
いつの間にか景色が変わる。
風は冷え、嵐は遠のき、代わりに囁きが混じる。
"呪われ人"。
その言葉だけが、やけに鮮明だ。
視線。
背中に突き刺さる視線。
恐れ。嫌悪。失望。
理想が、遠くなっていく。
――お前なんかじゃ。
声は顔を持たない。
ただ、重い。
オルステッドに負けたお前が。
呪われ人の、お前が。
なれるわけがない!
嵐が止む。
代わりに、闇だけが残った。
■
目が覚める。
鎧の内側が、やけに湿っている。
呼吸が浅い。
夢の余韻が、まだ胸に残っている。
指先に力が入らない。
それでも、立ち上がる。
シャンドルの師事を受けてから、かなりの年月が経った。
旅を続けながら修行を重ね、力はついている。
だが、いくら年月を重ねてもオルステッドに勝てる未来が見えない。
その感覚が、胸を削る。
「………」
薄闇の中、剣を手に持ち、素振りを始める。
型は崩れない。
動きも鈍くはない。
だが、しっくりこない。
頭と動きが噛み合わない。
剣を振るうたび、わずかに踏み込みが浅い。
振り切ったはずの刃が、どこかで止まる。
焦ってなどいない。
そう言い切れるほど、落ち着いてはいない。
■
紛争地帯を後にしたジークフリートとシャンドルは、中央大陸を南へ下り、密林地帯を進んでいた。
乾いた戦火の匂いは遠のき、代わりに湿った土と腐葉の匂いが肺を満たす。空は狭く、木々が重く頭上を覆っていた。
足元はぬかるみ、根が絡み、歩みをわずかに鈍らせる。
「ふと思ったんですが、君の鎧は目立っていいですね。私も何か人の目を引く格好をしてみましょうか…」
シャンドルは顎に手を当て、本気で考え込む仕草をする。
「黄金の鎧とかどうですかね?」
「…はあ。まあ、いいと思います」
気のない返答。
心ここにあらず、といった様子のジークフリート。
視線は前を向いているが、見ているのは森ではない。
「ふむ…」
その様子を横目で見ながら、シャンドルはわずかに目を細め、また考える様子を見せる。
だからだろうか。枝が不自然に揺れたことに、気づかなかったのは。
風ではない。
揺れが、連なる。
「……っ!敵襲っ!」
乾いた破裂音とともに、石礫が飛来する。
「!?」
シャンドルは即座に棒を振るい、二つを弾く。
ジークフリートは一瞬遅れる。
甲高い金属音。
肩と脇腹に衝撃が走る。
「キャッ!キャッ!キャッ!」
森に、嘲笑うような魔猿の鳴き声が反響する。
姿は見えない。ただ、上だ。
枝から枝へ、影が跳ぶ。
「左右から来ます!」
再び礫。今度は角度を変え、挟み込むように。
「そう何度も……!」
中央に大きな突起のついた円形盾――ピアスシールドをソウルの業で具現化する。
鈍い光を放つ盾が展開される。
びしゃり。
重く湿った音。
鼻を衝く臭気。
投げられたのは石ではない。糞だった。
盾に着弾し、弾け、飛沫が兜にかかる。
カタリナ騎士の証が、茶色く汚れる。
次の瞬間。
「キャキャキャキャッ!」
爆発するような嘲笑。
ジークの喉が鳴る。
「……!この……!」
雷が掌に集束する。
弓を形作り、矢を番える。
狙いを定める前に、放った。
雷光が枝葉を裂き、闇へと消える。
焦げた葉が舞い落ちる。
だが、悲鳴はない。
外した。
「落ち着きなさい!」
シャンドルの声が飛ぶ。
「地の利は敵にありますが、冷静になれば勝てます!」
上空で、また枝が鳴る。
囲まれている。
「わかっています……!」
その声はわずかに荒い。
ジークフリートの視界が狭まる。
兜の内側で呼吸が荒れ、熱がこもる。
笑われた。
鎧を汚された瞬間、何かが弾けた。
侮辱されたのは、自分か。
それとも――騎士の名か。
区別がつかない。
絶え間なく四方八方から石と糞が投げ込まれる。
全て防ぐが、弾いても飛び散る糞によって2人は汚れていった。
戦っているうちに、敵の姿も見えてきた。人間の子供ほどの大きさの、暗い緑色の猿の魔物。密林ではその毛皮が迷彩となり、魔猿を見つけにくくさせていた。
「ギャーッギャッギャッギャッ!」
「…ちっ!」
時間ばかりが過ぎ、魔猿の嘲笑う声が森に反響する。
苛立ちが募るジークフリート。
(集団だった動き…どこかに親玉がいるはずだ…!)
だが、視界は悪い。
枝葉が絡み、影が揺れ、猿たちの姿は現れては消える。
一匹を狙えば、別の角度から礫が飛ぶ。
追えば、退く。
退けば、囲む。
統率のない動きではない。
すると、鳴き声が微妙に変わった。
甲高い短い声の直後、投擲が止む。
低く長い声で、猿たちが散る。
そして次の瞬間、別の方向から一斉に飛来する。
(合図か……?)
音を追う。
木々の高所。
太い枝の上。
揺れる葉の隙間。
いた。
他の魔猿より一回り大きい個体。
腕を振り、声を上げ、群れを操っている。
親玉だ。
本来なら、ここで合図を送るべきだった。
シャンドルと一緒なら、もっと確実に仕留められる。
だが。
「……潰す」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
次の瞬間、地を蹴っていた。
幹を蹴り、枝を踏み、上へ上へと駆け上がる。
視界が揺れる。足場は細い。だが構わない。
親玉の魔猿が、こちらを見る。
そして――笑った。
ぞわり、と背筋を撫でる感覚。
次の瞬間、影が弾けた。
横合いから一匹の猿が飛び出す。
手には、糞を塗りたくられた短剣。
刃が黒く濡れている。
(伏兵……!)
鎧の継ぎ目、脇の隙間。
正確に、そこを狙ってくる。
(まずい――!)
空中。
回避は間に合わない。
短剣が迫り――
甲高い金属音。
白い槍が、割り込んだ。
「落ち着け」
低く、揺るがぬ声。
止めたのは、坊主頭に鉢金をつけた戦士――ルイジェルドだった。
槍が短剣を絡め取り、捻り、弾き飛ばす。
魔猿の体が宙を舞い、幹に叩きつけられる。
――速い。
近くの枝に着地したジークフリートが、呆然としながらそう思う。
ルイジェルドは着地と同時に木を蹴る。
無駄がない。ためらいがない。
そのまま木を蹴り、親玉の魔猿に迫る。
「ギイイイッ!!」
親玉が号令を出すと、枝という枝から魔猿が飛び出す。
上下左右、死角を塞ぐ包囲。
だが。ルイジェルドの槍が唸る。
突き。薙ぎ。払う。
一閃ごとに猿が落ちる。
動く前に潰す。
動きを読んでいるのではない。
戦場そのものを把握している。
焦りが、ない。
親玉との距離が、一瞬で消える。
槍が突き立てられる。
「ギャァァ!ギャッ、ギイッ……」
苦しみの叫びを上げる魔猿。
ルイジェルドは槍をさらに突き入れ、心臓を抉る。
親玉の魔猿の鳴き声は次第に小さくなり、やがて動かなくなった。
それと同時に、魔猿たちに動揺が広がる。
「チャンスです!」
叫ぶシャンドル。
ルイジェルドはその言葉より前に魔猿たちを打ち倒していた。我に戻ったジークフリートがそれに続く。だが、その動きは荒かった。
統制を失った魔猿たちは次々に逃げ出し、すぐにジークフリートたちの周りから魔物はいなくなった。
「終わったな」
ルイジェルドは槍を振り、血を払う。
「ええ。助太刀、感謝します」
シャンドルが一礼する。
ジークフリートは数拍遅れて、地に降り立った。
呼吸が荒い。
「……ルイジェルド」
「おや、ジークくん。お知り合いですか?」
「ええ、少し…だがどうしてここに?」
「同族の仲間を探し、この密林地帯を探索していた。そんな中、魔物に襲われる人の気配を感じ、助けに入った」
淡々とした口調。
「そうか…ありがとう」
「礼には及ばん」
ジークフリートは拳を握る。
短剣が迫った瞬間を、思い出す。
もし、あの槍がなければ。
「…すみません、シャンドル師匠」
シャンドルは責めるでもなく、穏やかに口を開く。
「焦るのは悪いことではありません。君くらいの年にはよくあることです」
「ですが、君が倒れれば、守るべき者は増えるだけだ。それは理解しておきなさい」
守るべき者。
その言葉が、胸の奥で重く沈む。
守る側でいたい。
だが今は、守られた側だ。
その事実が、何より重い。
「……はい」
小さく答える。
拳は、まだ解けない。
■
その夜。
三人は焚き火を囲んでいた。
湿った薪が、ぱちりと爆ぜる。
「ルイジェルドさんがスペルド族とは驚きましたよ。話に聞いていた様子とは全然違いましたからね!」
シャンドルは朗らかに笑う。
「俺が、怖くないのか?」
炎越しに、ルイジェルドが問う。
「弟子を助けてもらったんです。恐ろしいわけないでしょう」
「……そうか」
短い応答。
それきり、言葉が切れる。
「さあさあ、もっと食べて!ジークくんも。私の作った野営食はおいしいですよ〜」
「私は、あとでいただきます」
火の明かりが兜を赤く染める。
「…おっと。そうですね」
シャンドルはそれ以上踏み込まない。
わずかに視線だけを送る。
沈黙が落ちる。
森は夜の声に満ちている。
遠くで何かが鳴き、葉が擦れる。
やがて、ルイジェルドが口を開いた。
「最初は、戦士かと思った」
「なに…?」
「お前のことだ。ジークフリート」
「赤竜の下顎で出会ったお前は強い戦士だった。不甲斐ない俺の代わりにルーデウスを助けてくれた、恩人だと思った」
「だが、今日のお前は違う。戦いの中で心を乱し、仲間を危険に晒した」
炎が揺れる。
「…まるで、子供だ」
沈黙。
焚き火の爆ぜる音がやけに大きい。
「俺は、騎士だ」
低い、押し殺した声。
「そうは見えなかったがな」
間髪入れずの返答。
ルイジェルドは、視線を逸らさない。
「お前は何から逃げている」
「逃げてなどいない。俺は守るために――」
言葉が、止まる。
続かない。
“守るために”の、その先が見つからない。
ルイジェルドは、視線を外さない。
「守る者ほど、自分が弱いと知っている。知らぬまま振るう刃ほど、危ういものはない」
「強さに縋るのは、弱さから目を逸らす者だ」
ジークフリートの喉が鳴る。
「子供であることは、罪か?」
わずかに震えた声で返すジークフリート。
「罪ではない」
即答だった。
だが、とルイジェルドが続ける。
「自分が子供であることを認めぬ者は、他人を巻き込む。前から違和感はあったが、ようやく気付いた。お前は、子供だな」
「身体は大人だ。だが中身は、子供だ」
ジークフリートは兜を触る。
外さない。
だが。
留め具を握る。
緩めない。
ただ、握る。
焚き火の光が、兜の隙間から差し込む。
荒い息が、内側で反響する。
ルイジェルドはそれを見る。
だが、何も言わない。
シャンドルも気づいている。
それでも。
誰も、脱げとは言わなかった。
■
ルイジェルドとシャンドルは、ほどなく寝息を立てはじめた。
ジークフリートだけが起きている。
兜は外さない。
鉄の留め具に触れる。
感触を確かめるように、指先でなぞる。
金属は冷たい温度を返した。
焚き火が揺れる。
赤い火の粉がひとつ、夜へと消えた。
声が、耳の奥で反響する。
――なれるわけがない。
呼吸が浅くなる。
鎧の内側で、汗が冷える。
どうして父は揺るがなかったのだろう。
あの嵐の中で。
あの戦いの中で。
わからない。
「眠れないか」
目を閉じたまま、ルイジェルドが言う。
ジークフリートは答えない。
沈黙は、責めるでもなく、慰めるでもなく、ただそこにあった。
やがて、何かが飛んできて胸に落ちる。
毛布だった。
「うーん、今日は冷えますねえ……むにゃむにゃ」
寝ぼけた声。
それきり、静かになる。
わからない。
わからないが、毛布の温もりは、焚き火よりも柔らかかった。
いつの間にか、意識が沈む。
鎧は脱がない。
だが、留め具を触る手は、眠りに落ちるまで離れなかった。