港は風が強かった。
潮の匂いに、鉄と油の臭気が混じる。
荷揚げの怒号、縄の軋む音、酔客の笑い声。
船腹を叩く波の音が、それらをかき混ぜる。
イーストポートは、常にざわめいている。
人も、金も、情報も――すべてが流れ込み、そして流れ去っていく場所だ。
ルイジェルドとシャンドルは別行動し、情報収集を行っている。
ジークフリートも情報収集を行うために、冒険者ギルドに向かっていた。
その途中で、ある男とすれ違う。
背の高い男。
肩幅が広く、足取りに無駄がない。
重心がぶれない歩き方。
剣を振るう者のそれだ。
亜麻色の髪。
翠の瞳。
――一瞬、錯覚する。
あの少年が、年月を重ねれば。
もし、無事に大人になったなら。
胸が、ざわつく。
懐かしさと、わずかな痛み。
思わず、声が零れた。
「……ルーデウス?」
男が振り向く。
違う。
だが、目元に、確かな面影があった。
似ている。
あの聡明で、少し気取った少年が、成長すればきっとこんな顔になる。
男は怪訝そうに眉を上げ、それから苦笑した。
「俺の息子の名前だな、それ」
風が吹き抜ける。
ジークフリートは、ほんのわずかに目を見開いた。
■
立ち話もなんだ、ということで、近くの酒場へ入った。
昼間だというのに、店内は薄暗い。
酒と汗と古い木材の匂いが充満している。
男――パウロ・グレイラットは、豪快に笑いながらエールをあおった。
「なるほど、ルーデウスの恩人か。いやぁ、まさかこんなところで会えるとはな」
ジークフリートは静かに言う。
「ルーデウスの父だったのか。どうりで似ているわけだ」
「ははっ、似てるか?でもあいつ、俺より賢いぞ?」
どこか誇らしげな声音だった。
話を聞けば、パウロは転移事件で離れ離れになった家族――妻と、もう一人の息子を探しているという。
ベガリット大陸へ向かう準備をしている最中だと。
「ルーデウスは昔からすごくてなぁ! 五歳でもう水聖級魔術師だぞ!?あいつは天才だ!」
酔いが回り始めたのか、声が大きい。
「アルブレヒトだって負けてない!三歳で俺を倒したんだからな!」
うちの子は天才だ、と胸を張る。
初対面のはずなのに、不思議と嫌味がない。
本気で嬉しそうなのだ。
誇りと愛情が、隠そうともせず溢れている。
こういう人間を守るために、騎士は剣を取るのだ。
ジークフリートは、静かにそう思った。
だが、ふとパウロの笑みが揺らぐ。
「……まあ、アルはまだ見つけられてないんだけどな」
グラスの中身を見つめる目が、ほんのわずかに曇る。
「俺は、アルを守らなきゃいけなかったのに、守れなかった」
酒場の喧騒が遠のいた気がした。
「でもな。守れなかったからって、父親やめられるか?」
自嘲気味に笑う。
「できねぇよなあ」
そして、顔を上げた。
その瞳には酔いはない。
「だから、アルブレヒトは俺が必ず見つける」
強い眼差し。それは父親の目だった。
ジークフリートは、ゆっくりと息を吐いた。
「…………見つかると、いいな」
「っと、すまん。変な空気にしちまったな」
「いや。家族を想う気持ちはわかる」
その言葉は、自然に出た。
「ありがとな。俺ばっかり話して悪いな。今度はあんたの話を聞かせてくれよ」
「私の、話……?」
言われて、考える。
自分の話とは何か。
だが、答えは一つしかなかった。
「私は、立派な騎士になりたい」
パウロの動きが止まる。
「今も騎士だが、もっと高みを目指したい。誰にも負けない。誰も取りこぼさない。人々を守り抜く騎士になりたい」
真っ直ぐな言葉だった。
パウロはしばらく黙り、それから笑った。
「少し、堅苦しかったか」
「いや……懐かしくてな」
遠くを見る目。
「昔、アルも同じことを言ってた」
「そうか。奇遇だな」
「ああ……」
不思議な沈黙が落ちた。
まるで、何かが重なり合ったような。
パウロは再び口を開く。
「ゼニス……妻がな。ベガリット大陸の迷宮都市ラパンにいるって情報が入った」
拳を握る。
「ノルンとアイシャって娘が二人いる。だが、ベガリットに子どもを連れていくわけにはいかねえ」
だから、ジンジャーという騎士に頼んでルーデウスの元へ送るのだと。
そして。
「ジーク。あんたにも頼みたい」
真っ直ぐな目。
「初対面でする頼みじゃないのは分かってる。でもな……不思議だが、あんたなら信用できる」
全身鎧で顔も見せない騎士に対して、奇妙な重すぎる信頼。だがパウロは不思議とジークフリートに信を置いていた。
ジークフリートは、少しだけ目を伏せた。
信用。
その言葉は重い。
だが――
「わかった。任せてくれ」
即答だった。
「いいのか?めちゃくちゃな頼みだぞ」
「構わない。子どもを守るのは騎士の役目だ」
そして、ほんのわずかに口元を緩める。
「それに、ルーデウスにも久しぶりに会いたい」
パウロは大きく息を吐いた。
「そうか。ありがとう。娘たちをよろしく頼む」
鎧越しに叩かれた肩が、妙に温かい。
「あいつら、強がってるけどな。まだ子どもだ。無理はさせないでくれ」
「ああ。必ず守り抜く」
その約束は、騎士としての誓い。
そして、まだ見ぬ少年――アルブレヒトのための、静かな誓いでもあった。
■
「というわけで、私はシャリーアに行くことになりました」
「おお…いきなりですね」
宿屋の一室。窓の外では夕暮れが差し込み、薄橙の光が床を染めている。
簡素な卓を囲み、ジークフリート、シャンドル、ルイジェルドの三人は顔を合わせていた。
「ルーデウスの妹たちを護衛するのか。…よし、俺も同行しよう」
ルイジェルドは迷いなく言い切る。その声には一切の逡巡がない。
「スペルド族の情報は得られなかったし、特に目的がある旅でもないですからね。同行するのもいいでしょう」
「師匠はどうしますか?」
「もちろん私もついていきますよ。まだ修行は終わってませんからね!」
「はい。頼りにしています」
短くも真っ直ぐな言葉。
シャンドルがふっと微笑む。
「元気を取り戻したみたいで、よかったです」
「え?」
「ジークくん、最近元気なかったですから。君は守るべき人がいると瞳の輝きが違いますね」
スリット越しに覗く、赤に青が混じるその瞳。
戦場では鋭く研ぎ澄まされるそれが、今はどこか穏やかだった。
「…そうですか?」
「ええ」
嬉しそうに笑うシャンドル。
「まったく、君は真面目過ぎますね」
「君は強くなっています。心も、体も。そのことを自覚しなさい」
その言葉は、軽いようでいて、確かな重みを持っていた。
■
護衛の旅に出る前に、ノルンとアイシャと顔合わせをすることになったジークフリート。
部屋の中は、妙に静かだった。
外の喧騒が嘘のように、空気が張り詰めている。
視線の先には、まだ幼い姉妹。
「はじめまして。私はカタリナ騎士ジークフリート。君たちのお父さんに頼まれて、シャリーアまで君たちを護衛することになった」
二人の前で膝をつき、目線を合わせる。
鎧越しでも威圧的にならないように。恐怖を与えないように。
「よろしくお願いします!」
「……」
明るく頭を下げるアイシャ。
対照的に、ノルンは口を閉ざしたまま、じっとこちらを見ている。
探るような視線。
値踏みするような、強い眼差し。
「ノルン姉も挨拶しなよ!失礼でしょ!」
「いい」
短い拒絶。
ジークフリートはわずかに息を吐き、静かに言った。
「君が不安に思う気持ちはわかる。私を信頼できない気持ちも。だがそれでも私を信じてほしい。この命を懸けて君たちを守り抜く」
「…命、とか。大袈裟じゃないですか」
「本当のことだ」
「…もういいです」
踵を返して去っていくノルン。ジークフリートはどこか寂しそうにその姿を見つめる。
「うちの姉がごめんなさい。昔からああで…」
「構わない。突然現れた俺のことを信頼できないのは当たり前だ。…君もそうだろう、あまり無理はしなくていい」
「いえ、全然大丈夫です!私、人を見る目には自信あるので!ジークさんは信頼できる人です!」
「…そう、か?」
「はい!」
満面の笑みを浮かべるアイシャ。
本心か、それとも気遣いか。
あるいはその両方か。
(……賢い子だ)
ジークフリートは、そう結論づけた。
「お、顔合わせは終わったか?…ノルンは?」
軽い調子で、扉が開く。
パウロだった。
「行ってしまった。怒らせてしまったようだ」
「あー…まあ仕方ないな。あんまり気にしないでくれ。初対面の人にはあんな感じなんだ」
肩をすくめる。
「それよりジーク、ずいぶん穏やかな顔になってるじゃねえか。お前、うちの奴らといるときの顔、悪くねぇぞ」
不意に投げられた言葉に、ジークフリートの動きが止まる。
「顔など見せていない」
だがパウロは笑う。
「兜越しでも分かるもんだ」
軽い調子。だが、その目はしっかりとジークフリート見ていた。
わずかに沈黙する。
(……顔、か)
自分では、分からない。
だが――
守るべき存在を前にしたとき、何かが変わっているのかもしれない。
「そう、か…」
短く、そう呟いた。
■
旅立ちの当日。
朝の空気は冷たく、まだ街は完全には目を覚ましていなかった。
それでも、門の前には人がいる。
隊商。旅人。見送りの者たち。
それぞれが、それぞれの理由で、この場所に立っている。
ジークフリートはすでに支度を終え、門の脇に立っていた。
鎧の隙間から流れ込む朝の風が、わずかに冷たい。
「お待たせしました!」
元気な声。
アイシャが小走りでやってくる。
その後ろを、荷物を持ったジンジャーと、ノルンが少し距離を空けて歩いていた。
「遅れてすみません!荷物の確認に手間取っちゃって!」
「問題ない。まだ出発前だ」
「そっちは…」
「はじめまして、ジークフリート殿。私はシーローン王国第三王子、ザノバ様の親衛隊騎士、ジンジャー・ヨークと申します」
「そうか。もともと護衛を頼まれていたのは貴公だ。割り込むようだが、よろしく頼む」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
ジンジャーとの挨拶を済ませると、ジークフリートは視線をノルンとアイシャに向ける。
荷物は最小限。
だが、無理をしている様子はない。
(……よく準備されている)
「それ、君がやったのか」
「え?あ、はい!効率よく進めるように調整してみました!」
少し得意げなアイシャ。
その横で、ノルンは何も言わない。
ただ、ジークフリートを一瞥して――視線を逸らす。
「ジーク」
低い声。
振り向くと、ルイジェルドとシャンドルが立っていた。
「準備は整っている」
「いつでも出られますよー」
いつもの調子。
だが、その立ち位置は自然とジークフリートの両脇を固めている。
「よう、見送りに来たぞ」
最後に、パウロとリーリャが現れた。
パウロは少しこけた顔。
だが、その目はしっかりと覚めている。
リーリャはぺこり、と頭を下げる。
「ジークフリート様、ノルン様とアイシャをよろしくお願いします」
「ああ。任せてくれ」
パウロはノルンとアイシャを見る。
「いいか、お前たち」
父親の声だった。
「無茶はするな。言うことはちゃんと聞け」
「はい!」
元気よく返事をするアイシャ。
ノルンは対照的に、暗い顔をして口を開いた。
「……お父さん、どうしても行かないとダメ?」
「ノルン…ずっと言ってきただろ?ベガリットにお前たちを連れて行くわけにはいかないんだ。危険すぎる。それに、ルディなら安心してお前たちを預けられる」
「…………わかった」
「よし!いい子だ」
パウロは少し雑にノルンの頭を撫でる。しかしノルンはその手を振り払おうとはせず、少し嬉しそうに目を細め受け入れていた。
そしてパウロは、ジークフリートに向き直る。
「娘たちを、頼む」
短い言葉。
だが、その中に全てが込められている。
ジークフリートは、静かに頷いた。
「ああ。必ず守り抜く」
それは騎士としての誓いだった。
パウロは一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「……頼もしいな」
軽く、肩を叩く。
それが別れの合図だった。
「じゃあな。元気でやれよ」
「……行こう」
ジークフリートが言う。
一歩、踏み出す。
その一歩に合わせるように、シャンドルが動き、ルイジェルドとジンジャーが続く。
アイシャもすぐに並び――
ノルンが、わずかに遅れて歩き出した。
街の門をくぐる。
外の世界へ。
風が変わる。
匂いが変わる。
音が変わる。
これまでの修行の旅とは違う、守る旅が始まる。
ふと。
後ろから、小さな声がした。
「……ねえ」
ノルンだった。
ジークフリートは足を止めず、わずかに視線だけを向ける。
「本当に……守れるんですか」
試すような声。
不安を隠しきれない声。
ジークフリートは、ただ一言だけ答えた。
「守る」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
ノルンは、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ。
その距離を――縮めた。
■
旅路は、予想以上に早く進んだ。
話に違わず、アイシャは優秀だった。
いや、優秀という言葉では足りない。
隊商の護衛を引き受け、その見返りに荷車に同乗させてもらう。
それを繰り返しながら、最短に近い経路を選び続ける。
時には一度進んだ道を引き返し、別の隊商に乗り換えることさえあった。
一見すれば遠回り。だが結果的には、最も早く距離を稼げる選択だった。
(……理解が追いつかないな)
旅の経験はある。
だが、ここまで緻密な日数計算は、自分には不可能だ。
子供に余り無理はさせたくないので、休んでいるように言うのだが「あたしにできるのはこれくらいですから!」と言って夜通し計算を続けている。なるべく休ませるようにはしているが、頼らざるを得ないところもあるので如何ともし難い。
ノルンは年相応といったところで、慣れない旅路で体調を崩すことも多かったが、それでも懸命についてきていた。
ルイジェルドを特に慕っているようで、2人で話しているところをよく見る。話しているというよりかは、ノルンが話してルイジェルドがそれを相槌を打ちながら聞く、という形が近いが。
そして、ルイジェルド相手ほどではないが、自分にもある程度話してくれるようになった。
「ノルン、体調はどうだ?」
「もう大丈夫です。心配かけてすみません」
「気にすることはない。子どもの面倒をみるのは大人の役目だ」
「…子ども扱いはやめてください」
わずかに眉を寄せるノルン。
「そうか、それはすまない。だが君を守るのはパウロに頼まれた私の役目だ。君を心配しないわけにはいかない」
「…………」
ノルンがそっぽを向く。機嫌を損ねてしまったようだ。
(……難しいな)
内心で苦笑する。
「そういえば、ルーデウスとは会ったことがあるのか?」
「…あります。最悪の人でした。お父さんをいきなり殴って怪我させて…お父さんはいつも頑張ってるのに…!」
話を変えようと思ったが、さらに不機嫌にさせてしまった。ルーデウスとパウロがかなり派手な親子喧嘩をしたというのは話に聞いている。当時5歳ほどだったノルンには衝撃だったのだろう。
「そうか……詳しく経緯を知っているわけではないが、ルーデウスは理由もなく人を殴る男ではない」
「……」
「パウロさんが悪いとするわけではない。だが、お互いにどうしようもない事情があったのだろう」
「それは……わかってますけど」
声が小さくなる。
「ルーデウスを許せないのはわかる」
ゆっくりと続ける。
「だが彼も当時は幼い子どもだった。子どもはどうしても間違える。大人だって間違えるんだから、尚更だ」
「今は許せなくてもいい。だが、いつか許してやってくれないか」
「………わかりました」
不承不承といった様子だったが、頷くノルン。
「偉いぞ、ノルン」
そっと手を伸ばし、金の髪を乱さないように撫でる。
柔らかい感触。
「だから、子ども扱いはやめてください…」
ノルンはそう言いながらも、その手を振り払うことはなかった。