遠く、遠く。
奴が、遠くなっていく。
初めてだった。去っていく背中を見送る、などという経験は。
遠ざかっていく馬車を見つめながら、ヘルカイトは今までに感じたことがない感情を感じていた。
あの人間が、ジークフリートが、いなくなる。
最初はただの獲物だった。
邪魔だったから、退かそうとした。しかし、奴は殺したはずなのに何度でも復活し、立ち向かってきた。
面白い、と思った。
殺しても蘇る生き物は初めて見た。
興味が湧き、側に置くことにした。
ただの気まぐれ。
自分は単体で充足している。他者など踏みつけ、薙ぎ払うだけの存在。根まで焼き尽くしてもまた生えてくる奇妙な雑草がいたから、興味が湧いただけ。
だが意外にも、それからの日々は刺激的なものだった。
共に戦うことが、これほどまでに心を躍らせるとは思ってもいなかった。
共に狩り。共に暴れる。
吹雪の夜。 騎士は、焚き火を焚いて黙って座っていた。
最初は、眠らないのは何か企んでいるのではないかと思った。背を向ければ斬りかかってくるのではないかと。眠れば喉を裂かれるのではないかと。
だとしても、負けない自信はあったが。
だが、そんなことは一度もなかった。
騎士は、妙な生き物だった。
戦いを恐れない。死を恐れない。
理解できない。
だが、嫌いではなかった。
むしろ――。
気づけば、探していた。
吹雪の中でも。赤竜の群れの中でも。
あの白銀の鎧を。
その姿が、遠くなっていく。
馬車が遠ざかっていく。
ヘルカイトは、その場で待っていた。
数日もすれば戻ると思っていた。
騎士は、時折ふらりと姿を消すことがあった。だが、必ず戻ってきた。
だから今回も同じだと思っていた。
だが、数日経っても。 数十日経っても。
あの騎士は戻らなかった。
いつものように餌の竜を狩り、寝床に戻る。一匹で。
そして、いつものように餌を"二つに裂く"。
裂いてから、ジークフリートがいないことを思い出した。
前に戻っただけ。自分は孤高だ。一匹で十分生きていける。しかし、得体の知れない感情が胸の中にあった。
怪我もしていないのに、胸がじくじくと痛む。
あの騎士はまともに食事を取ろうとせず、自分が狩った獲物の分もほとんどこちらに寄こしてきたが、いつも無理矢理食わせてきた。施しは受けない。自分で狩った獲物は自分で食すべきだ。
押し付けるような形にはなったが、迷惑そうにはしていなかった、と思う。
騎士が兜を外し、竜の肉を食らうのを見るのは面白かった。
理由は分からなかったが、とにかく面白かった。多分、戦っているのを見る以上に。
やつが獲物を食べるのを見ながら、自分も獲物を食べるのは、なぜだか楽しかった。
二つに裂かれた肉を見る。
食らう。
大して美味くは、なかった。
ヘルカイトは鼻を鳴らし、残った肉を焼き払った。
気に入らない。
何が気に入らないのか、自分でもわからなかった。
狩りは変わらない。縄張りも変わらない。赤竜たちは変わらず自分を恐れている。
なのに、満たされない。
吹雪の中で眠る。
だが、妙に浅かった。
僅かな物音で目が覚める。 無意識に周囲を見回す。
白銀の鎧は、どこにもない。
「……グルル」
苛立ちが喉を鳴る。
それからも、何度も同じことを繰り返した。
狩る。眠る。目を覚ます。探す。
いない。
どこにも。
渡された橙色の蝋石を使い、連絡を取ることも考えた。
だがありえない。誇り高き竜である自分が、人の言葉を使うなど考えられない。
ある時、若い赤竜が寝床へ近づいてきた。
縄張りを狙ったのだろう。
普段なら、追い払って終わりだった。
だが、その時のヘルカイトは違った。
叩き潰した。
骨を砕き。 炎で焼き。 原形が消えるまで。
八つ当たりだった。
自分でも、それは理解していた。
低く唸る。
その時、ふと、思い出す。
騎士が時折見ていた方角。 山脈の外。 遥か遠く。
ヘルカイトは空を見上げ、飛び立った。
初めて自ら縄張りを離れた。
そうして、"彼女"の当てもない旅は始まった。
■
会議の翌日。
騎士団は予定通り王竜の群れの抑えへ向かい、ジークフリートは単独で赤災――ヘルカイトとの接触へ向かうこととなった。
ランドルフは後詰めとして後方に待機している。
空は重く曇っていた。 山脈を吹き抜ける風は鋭く、まるで刃のように肌を裂く。
遠くでは、既に王竜と騎士団が衝突しているのだろう。咆哮と爆音が、微かに響いていた。
「何かあれば、即座に割り込みますからね」
ランドルフはいつもの気怠げな口調でそう言った。
「あなたが説得したいのは理解しましたが、こちらとしても国が滅ぶのは困りますので」
「……ああ」
ジークフリートは短く頷く。
「だが、できれば手を出さないでほしい」
「はあ…本当にあなたは勝手で頑固ですね」
「……すまない」
「もういいですよ……まあ、珍しいお祖父様の頼みですし、仕方ないか……」
最後の部分は小声で、うまく聞き取れなかったジークフリート。
「…?」
「なんでもありませんよ。それより急いだほうがいいのでは?」
「あ、ああ」
ジークフリートは山脈を一人進む。
地面には王竜の死骸が転がっていた。 焼け焦げたもの。 爪で裂かれたもの。 頭部ごと砕かれたもの。
赤災が通った跡だ。
そして、山脈の奥。
無数の死骸の中央で、一匹の赤竜が静かに佇んでいた。
赫灼たる鱗。山のような巨体。燃えるような瞳。
ヘルカイト。
その灼熱の瞳が、ゆっくりとジークフリートを見下ろす。
「ヘルカイト……」
低く、喉が鳴る。
“何をしに来た”
そう言わんばかりの視線だった。
ジークフリートは、ゆっくりと歩み寄る。
逃げない。剣も抜かない。
「――すまなかった」
ヘルカイトの瞳が僅かに細まる。
「あの時……久しぶりに会ったのに、一番にかける言葉ではなかった」
静かな声だった。
責めるでもない。 言い訳するでもない。
ただ、悔いている声音。
風が、二人の間を抜けていく。
ヘルカイトは答えない。
ただ、じっとジークフリートを見ていた。
「……お前は、寂しかったのか?」
ぴくり、と。
ヘルカイトの尾が揺れた。
その反応だけで十分だった。
ジークフリートは目を伏せる。
「もしそうだとするなら……私は、お前に悪いことを――」
瞬間。
轟音。
赤い巨体が爆発的な速度で踏み込んだ。
「――ッ!!」
咆哮。
怒り。
赫炎。
巨大な爪が、空間ごと引き裂く勢いで叩き込まれる。
ジークフリートは即座に黒鉄の大盾を具現化し、正面から受け止めた。
大地が砕ける。
吹雪が弾け飛び、周囲の死骸が宙を舞った。
「グルルルルルルルル!!!!」
ヘルカイトが吠える。
その瞳には激しい怒りが燃えていた。
――寂しかった?
――私が?
――矮小な人間風情が。
そんな感情など、自分にあるはずがない。
孤高の竜。 赤災。 王竜すら焼き払う災厄。
その自分が、一匹の人間を失った程度で。
胸を痛めた?
探し回った?
眠れなかった?
ふざけるな。
認めるものか。
「ッ……!!」
ジークフリートは歯を食いしばる。
重い。
一撃一撃が、あまりにも重い。
力だけではない。
この攻撃には、感情が乗っていた。
怒り。 苛立ち。 そして――悲しみ。
「……!」
後方でランドルフが目を細める。
割り込むべきか。
そう判断しかけた、その時。
「頼むッ!!」
ジークフリートが叫んだ。
「私に任せてくれ!!」
ヘルカイトの爪を盾で押し返しながら、叫ぶ。
「こいつは……話をしているんだ!!」
ランドルフは動きを止めた。
そして、僅かに目を見開く。
赤竜の猛攻。それを受け止めながら、ジークフリートは一歩も退かない。
いや。
退かないのではない。
退けないのだ。
ここで逃げれば、ここで誰かに頼れば。
きっと、ヘルカイトは二度と本音を見せない。
だから、受け止めるしかない。
怒りも。痛みも。寂しさも。
全部。
ヘルカイトの爪を盾で受け止めながら、ジークフリートが喋る。
「私は、お前をわかったつもりになっていた」
炎が盾を焼く。鎧が赤熱する。
それでも、退かない。
「共に戦っていれば十分だと思っていた!言葉などなくても、お前のことを理解しているつもりだった!」
ヘルカイトが吼える。爪撃。
大盾が砕ける。
それでも、ジークフリートは前へ出る。
「だが違った!」
叫ぶ。
「私は、お前のことを何も知らなかった!!」
ヘルカイトの動きが、一瞬だけ止まる。
「お前が何を考えていたのか!何を感じていたのか!私は何一つ――!」
言葉が詰まる。
荒い呼吸。
「……教えてくれ」
今度は、叫びではなかった。
「ヘルカイト。お前のことを」
赫い瞳が揺れる。
「今さら遅いのはわかっている」
「それでも……私は、お前と過ごした時間を、なかったことにしたくない」
「だから、頼む」
ジークフリートは砕けた盾を下ろす。
無防備に。真正面から。
「もう一度だけ、私に向き合わせてくれ」
ジークフリートは盾を下ろしたまま、ヘルカイトを見上げていた。
赫い瞳が、じっと騎士を見下ろす。
怒りは、まだ消えていない。裏切られたという感情も。置いていかれたという苛立ちも。
だが、それでも。
この男は、逃げなかった。
取り繕うこともしない。言い訳もしない。ただ、不格好に、真正面からぶつかってきた。
沈黙。
風だけが一人と一匹の間を吹き抜けていく。
どれほど時間が経ったのか。
ぼう、と地が橙色に光る。橙色の助言ろう石の力。地面に直接書かずとも、言葉を残すことができる。
"今回だけ、許してやる"
「ヘルカイト…!」
ヘルカイトは翼を広げる。暴風が巻き起こり、砂煙が吹き荒れた。
背を向け、飛び立とうとする。
「待ってくれ!」
ジークフリートが思わず声を上げる。
ヘルカイトは振り返らない。
「……まだ、話したいことがある」
その言葉に、赤い尾が僅かに止まった。
「私は、お前のことを知りたい」
「お前が何を考えているのか。何を見てきたのか。何が好きで、何を嫌うのか」
「だから……もしよければ」
少し迷って。
不器用に。
「また、一緒に飯を食わないか」
ヘルカイトは、ゆっくりと振り返った。
赤い瞳が、ジークフリートを見る。
その口元が、僅かに吊り上がったように見えた。
嘲笑だったのか、呆れだったのか、それとも――
次の瞬間、轟音と共に赤い巨体が空へ舞い上がった。
空を裂き。雲を焦がし。災厄の竜は飛び去っていく。
その姿を見送りながら、ランドルフは小さく息を吐いた。
「……本当に説得しましたねえ」
半ば呆れたように呟く。
「普通、赤災相手に“また飯を食わないか”で会話締めませんよ」
「そ、そうなのか?」
「そうですよ」
ランドルフは即答した。
だが、その口元には僅かに笑みが浮かんでいた。
少なくとも。
あの赤い怪物は、もうただの“災厄”ではないのだろう。
■
その後の顛末を語ろう。
赤災は去り、王竜たちもパックスの指揮のもと、騎士団によって抑え込みが完了。王竜山脈の騒乱は、ひとまずの終息を迎えた。
封鎖されていた街道も再び開かれ、人々は恐る恐るながらも往来を再開していく。
また、突如現れ、王竜を蹂躙し、赤災を退けた“玉葱騎士”については、国内で大きな話題となった。様々な憶測が飛び交い、中には国王自ら謁見を望む声まで上がったらしい。
だが結局、その話は有耶無耶のまま流されることとなった。
この奇妙な幕引きには、七大列強第五位“死神”ランドルフ・マリーアンと、新任指揮官パックス・シーローンによる執り成しがあったとか、なかったとか。
「はー……大変でしたよ、お祖父様……」
深々とため息を吐くランドルフ。
場所は、王竜王国の外れ。出立前の街道脇だった。
向かいには、古ぼけた鎧に身を包んだ黒髪の戦士。
シャンドル・フォン・グランドール。
――否。
“北神二世”と呼ばれる伝説の英雄。本名、アレックス・カールマン・ライバック。
「ははは、お手数をおかけしましたね。我が孫よ」
豪快に笑うシャンドルに、ランドルフは頭を抱えた。
「本当にですよ。突然押しかけてきたと思えば、“弟子の手助けをしてほしい”などと」
「いやあ、ジークくんは政治とか苦手そうですからね。ずいぶん助かりました」
「…そこまで気にかける理由はわかりましたよ。彼は強いが、幼く、危うい。アレクサンダー叔父さんによく似ています」
ランドルフは、遠く山脈の方を見る。
「あの歳で、あの強さ。あの精神性。放っておけば、いずれ自分を壊したり、道を間違えてしまうかもしれない」
「ええ。だからこそ、私が教えているんです」
シャンドルは静かに頷いた。
「まあ、彼は素直ですし、アレクのようにはならないでしょう」
「素直すぎて、ちょっと馬鹿みたいなところもありますがね」
「はは!そこも可愛いところですよ」
シャンドルは愉快そうに笑う。
「さて、そろそろ出発の時間なので失礼します」
「ええ。王竜王国には当分来ないでいただけるとありがたいですねえ…王に言い訳をするのにずいぶん無理をしましたので」
「これは手厳しい」
肩を竦めるシャンドル。
「――お祖父様」
不意に、ランドルフが呼び止める。
「なんですか?」
「彼を、ジークフリートを。どうするつもりですか?」
「彼は力だけを持った子供です。騎士であろうとしているのはわかりますが、あまりにも危うい」
風が吹く。
しばし沈黙。
やがてシャンドルは、小さく笑った。
「さて」
「それは、彼が決めることですよ」
そう言って。
北神二世は、笑った。
■
「貴様には世話になったな、ジークフリート」
パックスが腕を組み、どこか誇らしげに言った。
「大したことはしていない」
「いや、お前のおかげで余は目が覚めた。やっと覚悟ができたのだ」
「そうか」
ジークフリートは小さく頷く。
「……そういえば、ベネディクトという女性についてはどうなんだ?」
「ふっ……よくぞ聞いたな」
途端に、パックスの顔に得意げな笑みが浮かぶ。
「もちろん、バッチリうまくいっておる。余たちを嘲るものなどもうおらん!」
「それは、本当によかったな」
素直にそう返すジークフリート。
くくっ、とパックスは笑う。
以前の自分なら、こうして自然に笑うことなどなかっただろう。なにもかもに反発し、腐り、苛立ってなにかに当たり散らすしかなかっただろう。
だが今は違う。
戦場を越え。命を預け合い。友ができた。大きく成長できた。
「……で、お前はこれからどうする?」
パックスが問う。
「また旅に戻るのか?」
「ああ。私はまだ未熟だ。学ぶべきことも、鍛えるべきことも多い」
「相変わらず難儀な男だな」
肩を竦めるパックス。
「まあよい。余も余で、やるべきことができた」
「と言うと?」
「……王族として果たすべきこと、だ」
少しだけ真面目な顔になる。
「余は、シーローンで怠惰な日々を過ごしておった。それゆえ、民からも、宮廷からも、家族からも見放された」
「だが今は違う。大事なものを見つけ、変わることができた」
パックスは自らの胸に手を当てる。
「いつかシーローン王国に戻った時、数多くの困難が待つだろう。たが余はくじけん!王竜に比べればどれも大した問題ではない!」
「余はシーローンの王となる!そして、ベネディクトを王妃に迎え、民に誇れる王として君臨し続けるのだ!」
その目には、以前にはなかった強い光が宿っていた。
ジークフリートは静かに頷く。
「お前は、良い王になるのだろうな」
「ふはは!当然だ!」
胸を張るパックス。
「次に会う頃には、余の名は世界中に轟いておるぞ!」
「そうか。なら、楽しみにしておこう」
風が吹く。
王竜山脈の冷たい風だった。 だが、不思議と悪い気はしなかった。
「ではな、ジークフリート」
「ああ。達者でな、パックス」
互いに背を向け、歩き出す。
一人は国へ。一人は旅へ。
だがきっと、この出会いは、無意味ではなかったのだろう。
遥か上空。雲の向こうを、赤い影が静かに飛んでいた。
まるで、旅路を見守るように。
読んでいただき、ありがとうございました。
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