ある日の昼下がり。
ラノア魔法大学の廊下には、授業の合間を過ごす学生たちの声が響いていた。
友人同士で談笑する者。
課題について議論する者。
魔術が失敗して教師に叱られる者。
いつも通りの光景。
だが、その中に一人だけ浮いて見える人影があった。
ノルン・グレイラット。
俯き気味に廊下を歩く少女だった。
以前はもう少し表情が豊かだった気がする。
最近は目の下に薄く隈が浮かび、どこか疲れたような顔をしていることが増えた。
何度か見かけ、話すたびに気になっていた。
今日もそうだ。
周囲の楽しげな空気から少し距離を置くように、一人で歩いている。
「ノルン。奇遇だな」
声をかけると、ノルンはびくりと肩を震わせた。
「あ、ジークフリートさん……」
振り返った顔を見て、ジークフリートは眉をひそめる。
顔色が悪い。
目の下には薄く隈が浮かんでいた。
眠れていないのかもしれない。
「最近、どうだ? 困ったことはないか?」
ノルンはわずかに目を逸らした。
「……また、それですか」
困ったような声だった。
「別に――」
「普通ではないな」
ジークフリートが静かに言った。
「日に日に元気がなくなっている」
「……」
図星だった。
ノルンは何も言い返せない。
ジークフリートは追及しなかった。
ただ、少し考えるように視線を落としてから口を開く。
「無理はしなくていい」
「……」
「でも、少し話してみてくれないか」
真っ直ぐな声だった。
「相談役として私は不適格かもしれないが、話してみるだけでも楽になることはある」
ノルンは唇を噛む。
話したところで何か変わるのだろうか。
そう思う。
けれど、なぜだろう。
この人は、ずっと気にかけてくれていた。
だから少しだけ。
本当に少しだけなら。
「…………その」
小さな声が漏れる。
「最近、朝、辛いんです」
ジークフリートは黙って聞いていた。
「お腹が痛くて……外に出たくなくなる」
ようやく口にできた本音だった。
「そうか」
ジークフリートは驚きも否定もしなかった。
「……少し、座ろうか」
そう言って中庭のベンチを指差す。
ノルンは小さく頷いた。
二人は並んで歩き出し、ベンチに座る。
「お腹が痛くなる、というのはどうしてだ?何かきっかけがあったのか?」
ノルンはすぐには答えなかった。
膝の上でぎゅっと拳を握る。
言いたくない。
言葉にしたくない。
口にしてしまえば、本当に自分が弱い人間になってしまう気がした。
けれど、隣に座る男は急かさなかった。
答えを求めるでもなく、説教をするでもなく、ただ静かに待っている。
だからだろうか。少しだけ、話してみようと思えた。
「……大学で」
絞り出すような声だった。
「大学で、うまくいかなくて……」
視線を落としたまま続ける。
「自分なりに頑張っているつもりなんです。授業もちゃんと受けてるし、勉強だってしてるし……」
やっている。
ちゃんとやっている。
それでも。
「でも、周りの人は兄と私を比べるんです」
胸の奥に溜まっていたものが少しずつ漏れ出していく。
「お兄さんとは違うね、とか」
「お兄さんならもっとできたのに、とか」
「お兄さんみたいになれるように頑張りなさい、とか……」
言葉にするたび苦しくなる。
ずっと我慢してきた。
そんなことを言われても平気なふりをしてきた。
「私は……」
声が震える。
「私は、あの人みたいになんかなりたくないのに!」
気付けば叫ぶように言っていた。
肩が震える。
吐き出してしまった。
誰にも言えなかった本音を。
「……………そうか」
沈黙。
「まず、ノルン。よく頑張ったな。偉いぞ」
「……え?」
ノルンは目を瞬かせた。
そんな言葉をかけられるとは思っていなかった。
「兄と比較されながら学校に通うのは辛い。兄が優秀であればなおさらだ」
「…………」
「私はルーデウスほど賢くない。だから正しいことは言えないかもしれない。だが、君が頑張っていることだけは知っている」
「……」
「イーストポートからここまで来た時もそうだ。慣れない旅にも耐えた。知らない土地にも来た。学校にも通っている」
「それは、簡単なことじゃない」
ノルンは俯いた。
そんな風に言われたことは、一度もなかった。
皆、兄を褒める。
兄と比べる。
兄ならもっとできると言う。
だが。
目の前の男は違った。
「君はルーデウスではない。だから同じになれなくて当たり前だ」
「……」
「私はルーデウスにはなれない。ルーデウスも私にはなれない。それと同じだ」
ノルンは少しだけ顔を上げた。
「でも…みんな、あの人みたいになれって」
「無責任なことを言うものだな」
真剣な声だった。
「兄のようになれと言われてなれるなら、誰も苦労しない」
「……ふふ」
思わず小さな笑いが漏れる。
ジークフリートは少し首を傾げた。
「何かおかしかったか?」
「いえ……」
本当に変な人だ。
でも。
少しだけ胸の苦しさが軽くなった気がした。
■
またある日のことだった。
大学の廊下を歩いていると、曲がり角で誰かとぶつかった。
「おっと」
「うわっ!?」
どんっ、と鈍い衝撃。
相手は勢いよく尻もちをついた。
「すまない、大丈夫か?」
見ればルーデウスだった。
その少し後ろにはリニアとプルセナもいる。
「あ、い、いえ」
どこか上の空だ。
ジークフリートは手を差し伸べる。
ルーデウスはそれを掴むと、ほとんど飛び上がるように立ち上がった。
「悪かったな。怪我はないか?」
「大丈夫です…!すみません、先を急ぐので」
言葉を交わすのも惜しむように、先を急ごうとするルーデウス。
(ちょっと待つニャ!アニキ頼むニャ!)
(なんかやばいのー!)
後ろでは、リニアとプルセナが必死に何かを訴えていた。
手で大きなバツ印を作ったり。
首をぶんぶん振ったり。
両手を広げて道を塞ぐ真似をしたり。
口をパクパクさせて、何か言いたいようだ。
(と、め、て、にゃ…?)
ルーデウスの顔を見る。血相を変えており、尋常ではない様子だ。かなり怒っている。
ルーデウスがここまで取り乱すようなこと…そこでふと、ノルンと最近会ったことを思い出す。とても辛そうで、疲れていた。
もしや――
「…ノルンのことか?何があった?」
ぴたり、とルーデウスの足が止まる。
「な、なんでそれを!?」
どうやら的中したようだ。
「最近話した。…体調が悪そうだったからな」
「そ、そうですか…」
ルーデウスの表情が曇る。
「良ければ教えてくれ。助けになれるかもしれない」
ルーデウスは少し迷った。
だが、今の彼に一人で抱え込む余裕はなかった。
「…………実は」
そうして語られたのは、ノルンが寮の部屋に閉じこもってしまったこと。そしてルーデウスが、その理由を聞き出すためにノルンのクラスへ向かおうとしていたことだった。
「まずは少し落ち着け。そのような態度では皆萎縮してしまう」
「そんな…そんなこと言ってる場合じゃないんですよ!ノルンがいじめられているかもしれないんですよ!?」
ルーデウスが声を荒げる。
「分かっている」
ジークフリートは静かに答えた。
「だからこそ落ち着けと言っている」
「っ……」
「怒りながら事情を聞けば、人は本当のことを話せなくなる」
ルーデウスが言葉を失う。
確かにその通りだった。
今の自分は冷静ではない。
ノルンのことになると、どうしても頭に血が上ってしまう。
「……最近、ノルンと少し話した」
ジークフリートがぽつりと言う。
「辛そうだった。何をしても兄と比較される、と」
「え…?」
ルーデウスの肩が、ぴくりと震える。
「自分なりに頑張っているのに、うまくいかない、とも言っていた」
「そんな…」
顔から血の気が引いていく。掠れた声。
「それじゃあ、ノルンが引きこもったのは…俺の、せい…?」
「それは違うぞ。ルーデウス、お前は悪くない。ただ、少し…お互いに会話が足りなかっただけだ」
「………」
俯くルーデウス。何も言えなかった。
そんな彼を見て、ジークフリートは続ける。
「…お前だって頑張っている。偉いぞ」
「え?な、なんで今?」
「褒めるべきだと思ったからだ。ルーデウス、貴公はよくやっている。まだ若い身空で妻を養い、妹たちの面倒も見ている」
ジークフリートは真面目な顔で続ける。
「私には到底真似できん。すごいことだ」
「あ、ありがとうございます?」
疑問符を浮かべながら謝意を述べるルーデウス。
どうやらすっかりジークフリートのペースに乗せられ、怒りは収まったようだ。
「それにまだ遅くない。これから話し合えばいい」
「でも…どうやって…ノルンはもう引きこもってしまっているんですよ」
「できることをやっていくしかないだろう」
「できること…?」
ジークフリートは少し考え込む。
そして、静かに答えた。
「一人ではない、と伝えることだ」
■
…私にとって、ジークフリートさんとはなんなんだろう。
最初は信用していなかった。
突然現れた変な大人だった。玉葱みたいだったし。
でも少しずつ接していくうちに、頼れる人で、でもちょっと抜けていて、優しい人だということがわかった。
私のわがままを聞いてくれて、シャリーアに残ってくれた。
その後も色々気を使ってくれて、素直にはなれなかったけど、嬉しかった。
……でも、私は結局駄目だった。学校に行くのが辛くて、ベッドから出るのが辛くて、引きこもってしまった。
こんな私を見て、ジークフリートさんはなんて言うだろうか。また、優しい言葉をかけてくれるだろうか。それとも怒られてしまうだろうか。
寮に引きこもっている私にジークフリートさんが会えるわけがないのだけれど、時間を持て余した私はそんな事ばかり考えてしまう。
そうしていると、ノックの音が響いた。
「ノルンさん、ジークフリートさんから小包です」
寮母だった。体を動かすのも億劫だったが、なんとか扉を開け、小包を受け取る。
中身はパンと、小さな手紙だった。
『質のいい白パンだ。食べると元気が出る』
それは、翌日も続いた。
『ノルンが好きそうな物語の本を見つけた。読んでみてくれ』
また翌日も。
『市場で見つけたお守りだ。健康になれるらしい』
ずっと。
『翠の宝石が君の瞳の色にそっくりで、似合うと思った髪飾りだ。また元気な顔を見せてくれ』
ずっと、ずっと。
毎日欠かさず、手紙と贈り物は続いた。
その中で、一際気になる手紙があった。
『何もできなくて、すまない』
「違う…違いますよ……」
何度も来ていた。
何度も気にかけていた。
何度も心配していた。
なのに、本人だけが。何もできなかったと思っている。
「ジークフリートさん…ありがとう……」
月夜に照らされる寮の部屋の中、私は泣きながら感謝の言葉を呟いた。
そうしていると、ぎぃ、と部屋の扉が開く。
「!?」
驚いて扉の方向を見つめる。
兄。…ルーデウス・グレイラットだった。
「ノルン」
「兄さん」
「…ノルン、ごめんな。お前、こっちに来てから、辛いだろ?」
兄は、ぽつりと口を開いた。
「せっかく新しい学校なのに、俺のせいでこんなになって…」
「俺、お前のこと、よくわかんなくてさ…」
「こんなことになっても、どうすればいいかわからないんだ」
そう言って口を閉じようとする。だが、それは直前で止まった。
何かを迷うように視線を落とし、しばらく黙り込む。そして、兄はまた言葉を続けた。
「…でも、お前は一人じゃない」
「迷惑かもしれないけど、邪魔かもしれないけど、側にいるから。一緒にいるから…」
それから、兄はずっと動かなかった。
何か言いたげに、不安そうにこちらを見ている。でも、何を言えばいいのかわからないようで、ただ椅子に座っていた。
そんな兄を見るのは初めてだった。
ルーデウス・グレイラット。
何でもできる兄。
天才で。
優秀で。
誰よりも強くて、私には到底届かない人。ずっとそう思っていた。
でも、今目の前にいる兄は困っていた。
私と同じように。
どうすればいいのかわからず、苦しそうな顔をしていた。
「……兄さん」
呼ぶ。
兄が顔を上げた。
「私……」
言葉が続かない。
喉が詰まる。
涙が溢れる。
「私……頑張ったんです」
ぽろりと零れた。
「勉強もしたし……友達も作ろうとしたし……」
声が震える。
「でも、うまくいかなくて……」
「うん」
兄は否定しなかった。
「皆、兄さんのことばっかりで……」
「うん」
「私だって頑張ってるのに……」
「うん」
「なのに……」
そこで限界だった。
涙が溢れる。
兄は何も言わない。
ただ私の話を聞いていた。
ずっと。
ずっと。
「う、うう…うわあああん!!」
だから私は泣いた。
今まで溜め込んでいたものを全部吐き出すように。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
兄はただ、受け止め続けてくれた。
どれくらい泣いただろう。
気付けば机の上には、あの手紙があった。
『何もできなくて、すまない』
違う。
本当に何もできなかった人は。
毎日手紙なんて送らない。
毎日会いに来たりしない。
毎日気にかけたりしない。
ジークフリートさんは、ずっと側にいてくれた。
兄さんも、今、ここにいる。
――そうか、私は…一人じゃなかったんだ。
■
大学の中庭で、ひとり思案にふける。
あの後、部屋を訪ねたルーデウスのおかげで、ノルンは寮から出て、また大学に通うようになったようだ。
結局、私ができたことといえば手紙とちょっとした小物を渡すことくらいだった。
家族というものはすごい。どれだけ苦しい時でも、側にいてくれるだけで温かい気持ちが湧いてくる…らしい。
私にはないものだ。私にはなれないものだ。
呪われ人である自分に、そのようなものは存在しないし、してはいけない。
それをどうと思うこともない…はずだった。
だが、最近は少し、ほんの少しだけ…寂しい。
「あ、ジークフリートさん……」
そんなことを考えていると、突然話しかけられる。ノルンだった。
「ノルン、元気そうでよかった」
「兄さんと、ジークフリートさんのおかげです。毎日手紙をくれてありがとうございました。…おかげで、一人じゃないって思えました」
「大したことじゃない。結局、君を助けたのはルーデウスだ」
そう言うと、ノルンは少しだけ頬を膨らませた。
「違います」
「……?」
「兄さんが助けてくれたのは本当です」
ノルンは髪飾りに触れる。
「でも」
「私が部屋に閉じこもっていた時、毎日手紙を送ってくれたのはジークフリートさんです」
「……」
「兄さんは部屋を開けてくれました」
少し考えてから、ノルンは続ける。
「でも、ジークフリートさんは…部屋の外にいてくれました」
ジークフリートは言葉を失う。
「私、毎日読んでたんですよ。手紙も、本も。くれたお守りも大切にしてますし、パンも食べました…あと、何もできなくてすまない、なんて悲しいこと言わないでください。本当に、ずっと励まされてたんです」
「……そうか」
「だから」
ノルンは小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。私、一人じゃなかったです」
その言葉に、ジークフリートはしばらく何も言えなかった。
胸の奥が少しだけ温かい。
知らない感情だった。
「……そう言ってもらえるなら」
しばらくして、ようやく言葉を絞り出す。
「送った甲斐があった」
ノルンは小さく笑った。
「はい」
以前よりも自然な笑顔だった。
そして何気なく髪を耳にかける。
陽光を受けて、翠の髪飾りの宝石がきらりと光った。
ああ、ちゃんと使ってくれているのか。
ジークフリートは思う。
似合うと思った。
元気になってほしいと思った。
だが本当は、渡したところで迷惑ではないかと少しだけ不安だった。
だから、その髪飾りが今も大切に使われていることが、妙に嬉しかった。
「……似合っているな」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「え?」
ノルンが目を瞬かせる。
ジークフリートは髪飾りを指差した。
「その髪飾りだ」
一瞬ぽかんとした後。
ノルンの顔がみるみる赤くなる。
「なっ……!」
慌てて髪飾りを押さえる。
「こ、これは別に!たまたま付けてただけです!」
「そうか」
「そうです!」
なぜか必死だった。
ジークフリートには理由が分からない。
だが、元気そうで何よりだと思った。
「ならいい」
「よくないです!」
「?」
ますます分からなかった。
そんなやり取りのあと。
ノルンはぷいっと顔を背けながらも、小さく呟く。
「……でも」
「?」
「ありがとう、ございます」
ジークフリートは兜の中で少しだけ笑った。
「どういたしまして」
冬の終わりを告げる風が吹く。
揺れた翠の髪飾りが、陽光を受けて輝いていた。
ノルンは小さく会釈すると、そのまま校舎の方へ駆けていく。
「それでは、失礼します!」
「ああ」
元気な返事。
以前より少しだけ力強い足取り。
その背中を見送りながら、ジークフリートはふと思う。
自分は何もしていない。
そう思っていた。
結局ノルンを部屋から出したのはルーデウスだ。
家族だからできたことだ。
自分にはできないことだった。
だが――
『私、一人じゃなかったです』
その言葉だけは、どうしても頭から離れなかった。
胸の奥が、少しだけ温かい。
不思議な感覚だった。
感謝されたかったわけではない。
ただ、苦しそうだったから放っておけなかっただけだ。
それなのに、どうしてだろう。
今は少しだけ、嬉しい。
「……変だな」
誰にも聞こえない声で呟く。
空を見上げる。
灰色だった冬空はいつの間にか薄く青みを帯びていた。
春は近い。
そして、自分も少しだけ、変わっているのかもしれなかった。