私は馬鹿だった。
何もかも忘れ、幸せな日々を送れると思い込んでいた。
どうしようもない愚行を、繰り返していた。
愚行の代償は、大きかった。
現実を思い知ることになる。
現実を思い出すことになる。
自分が呪われ人であることを。
幸せになっては、いけない存在であることを。
■
過去のことを思い出す。
私はカタリナという国で、騎士階級の家に生まれた。恵まれた生まれだったと思う。寝物語に聞いた騎士の話に憧れ、物心ついたときから騎士を目指すようになった。
父は豪放で、なおかつ優しかった。誇りを大切にし、決して民や友を見捨てない、まさに騎士の鑑だった。
母は厳しかったが、その根底にはいつも愛があった。私の騎士になりたいという夢を心から応援してくれていて、ずいぶん助けられたものだ。
友も多かった。自分と同じく騎士を目指し、あの名誉あるカタリナ騎士の鎧を一番早く着るのは自分だ、と競い合ったものだ。
尊敬する父のもとで、母の愛を受けながら、友と切磋琢磨して、夢へと向かう。
幸せな世界がそこにはあった。
だが。
私はそれらを全て壊してしまった。
私の……原点。不死の呪い。
醜く穢れた、おぞましい呪い。
神に与えられた定命の定めに逆らい、亡者となって永遠の時をさまようことを運命づけられた哀れな生き物。
私はそれになってしまった。
父は変わらず接しようとしていた。 母も、必死に以前と同じように振る舞おうとしていた。
だが、周囲は違った。
街を歩けば、視線を感じた。
ひそひそと囁く声。
最初は、まだよかった。
遠巻きに見られるだけだった。噂をされるだけだった。だが、少しずつ変わっていった。
市場へ行けば、店主が顔を引きつらせる。
子供たちは、最初こそ興味本位で近づいてきたが、親に怒鳴られ、怯えた顔で離れていく。
『近づくな!』
『呪いが移る!』
ある日、井戸で水を汲もうとした時だった。
女が、悲鳴を上げた。
桶を取り落とし、水が地面へ散る。
『いや……いやぁっ!』
まるで化け物を見るような目だった。
私は、その場で立ち尽くした。
何もしていない。傷つけてもいない。
なのに。
それを、理解してしまった。
仲間たちも、変わった。
以前は、肩を並べて木剣を振った。誰が先に騎士になれるか競い合った。
だが今は違う。
距離があった。
視線を合わせない者。露骨に避ける者。怯えたように逃げる者。
そしてある日。 一人が、言った。
『……お前、本当に人間なのか?』
静かな声だった。
責めるような声ではない。純粋な恐怖だった。
それが、何より堪えた。
記憶が消えない。
父は怒った。
私を侮辱した者に掴みかかり、人々と何度も衝突した。
だが、その度に状況は悪化していった。
『呪われ人を庇う騎士』
『穢れた家系』
『死人を抱えた一族』
そんな噂が広がっていく。
母は、毎日頭を下げていた。
“うちの子は危険ではありません”“どうか石を投げないでください”“お願いします”
何度も。何度も。
私は、それを見てしまった。
自分がいるせいで。誇り高かった父が責められ、厳しくも優しかった母が泣きながら謝っている。
耐えられなかった。
声が消えない。
『呪われ人!』
『穢らわしい!近づかないで!』
お前は周りの人を不幸にする。父はお前のせいで追放された。母はお前のせいで追い詰められた。
お前は変わらない。今度はルーデウスを、パウロを、ゼニスを、リーリャを、ノルンを、アイシャを、シャンドルを不幸にするぞ。お前がすべてを奪うんだ。
そんな声が身体中を這いずり回る。
違う。今度こそ守るんだ。
――本当に?
オルステッドに負けた俺が?
呪われ人の俺が?
―――母を殺した、俺が?
声が消えない。記憶が消えない。
首を吊った母の姿を思い出す。
ぷら、ぷら、と揺れる足。
ぎし、ぎし、と軋む縄の音。
母の傍らには、手紙があった。
『ちゃんと産んであげられなくて、ごめんね』
消えない。
ずっと、消えない。
■
宿の窓から降り、シャリーアの街を走る。
全身に鎧を纏う。
"奇跡"、敵意の感知が示す闇霊の方向は1…2……3つ。
しかもバラバラの方向に走り出している。
(間に合わない…!)
闇霊が何をしようとするか。そんなことは分かりきっている。
人に眠る温かな人間性、それを奪おうとする。
肉を裂き、骨を砕き、血をすすり、魂を陵辱し尽くす。
そんなことは許されない。
守らないと。でも、でも、間に合わない。
俺のせいで、人が死んじゃう!
「はあっ、はあっ、はあっ……!!」
考えるな。全部は助けられない。確実に仕留められる闇霊から殺せ!
馬鹿か?お前は騎士だろ、騎士なら全部守り抜け、死んでも人々を守れ!
思考がぐちゃぐちゃだ。
ぐちゃぐちゃのまま、闇霊の一人を追う。
見つけた。
返り血を全身に浴びたような、赤い、赤い闇霊。即座に腰のロングソードを抜き、斬りかかる。
だが、闇霊が振り向き、大剣を構えて防御する。甲高い金属音。剣が鍔迫り合う。
押し込む。だが決め切れない。
闇霊は嗤っていた。
まるでこちらの焦りを見透かすように。
「クソッ!」
構っている暇なんてない。
一秒でも早く殺さなければならない。
二体目がいる。
三体目がいる。
誰かが襲われるかもしれない。
剣を振るう。
振るう。
振るう。
浅く、遅い。
乱れている。
いつもなら見えるはずの隙が見えない。
いつもなら読めるはずの動きが読めない。
頭の中で声が響く。
――お前のせいだ。
違う。
――お前が幸せになろうとしたからだ。
違う。
――また誰かが死ぬぞ。
「黙れッ!!」
叫びながら斬りつける。
だが、その一撃は大振りだった。
焦りが剣に乗っている。
闇霊はそれを待っていたかのように後ろへ下がった。
「――っ!」
しまった。
踏み込み過ぎた。体勢が崩れる。
闇霊が、ニヤリと笑った。
赤い顔が歪む。
獲物を見つけた獣のように。
大剣が振り上げられる。
死。
その文字が脳裏をよぎった。
大剣が迫る。
「『
その時、岩石が、大剣を弾く。
「――っ!」
その隙は見逃さない。がら空きになった胴体を横薙ぎ、闇霊を真っ二つにする。
闇霊は赤い粒子のような残滓を撒き散らしながら、消えていった。
「大丈夫ですか、ジークさん!」
助けに入ってくれたのはルーデウスだった。
「ど、どうしてここに」
「眠れなくて少し走ってたんです!それよりあいつはなんなんです!?」
そうだ、今はこんなことをしている場合ではない。
「敵だ!東の方向に一人、西の方向にもう一人いる!東は俺がやる。西を頼めるか!?」
「―――わかりました!」
そう言うと石柱を足元に作り、西へ飛び出していくルーデウス。
俺も東へと走り出す。
「はっ、はっ、はっ……!」
肺が焼ける。
だが足を止められない。
止まった瞬間に、誰かが死ぬ気がした。
夜の街を駆ける。
屋根を蹴り、石畳を踏み砕き、ただひたすら前へ。
だというのに、余計な思考ばかりが頭を埋め尽くす。
(どうしよう)
もし間に合わなかったら。
(どうしよう)
もし誰かが殺されたら。
(どうしよう)
もし傷一つでも負わせたら。
全部、俺のせいだ。
俺がシャリーアに残ったから。
俺が呪われ人であることを忘れていたから。
俺が幸せになろうとしてしまったから。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「クソッ!!!!!」
考えるな、考えるな、考えるな。
今は闇霊を殺すことだけ考えろ!守れ!死んでも、人々を守れ!!
2体目の闇霊を見つける。
軽装の闇霊だった。
レドの大槌を具現化し、即座に叩き潰す。
だが、闇霊は消えるようにステップを踏み、回避する。
空振った大槌が街路を砕き、破片が飛び散る。
「逃、がす、かぁぁあああ!!!!」
飛び散った破片が大槌に纏わりつき、さらに大きな特大の大槌になる。
岩塊と化した大槌を竜巻のように振り回す。
何度もステップを踏み、逃げる闇霊。
「オ゛オ゛オオォォォッッ!!!!」
しかし、何度も何度も振るわれる大岩に、次第に逃げ場をなくす。
「ガアッッッ!!!!!」
上から全力で大槌を叩きつける。グシャッ!という肉の潰れる音が夜闇に響く。
軽装の闇霊は、赤い粒子となって消えていった。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ…!」
なんとか、殺すことができた。もう1体は…
敵意の感知を使う。…まだ1体残ってる。ルーデウスが苦戦しているのか…!
獣のように飛び出す。
めちゃくちゃに走り出し、街を駆ける。
屋根を踏み砕き、塀を飛び越え。
人の形を保ったまま、まるで魔物のように夜闇を疾走する。
闇霊との戦いで物音が響いたのだろう。深夜の街に明かりが灯り始めていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。
(ルーデウス、ルーデウス!兄さん!無事でいてくれ…!)
屋根を蹴る。瓦が砕け散る。
大きく跳躍する。
見えた。
3体目の闇霊。魔術師のような姿。
二人は激しく魔術を撃ち合っていた。
ストーンキャノン。
炎魔術。
水弾。
闇霊もまたソウルの槍を放っている。
拮抗している。
だが長引けば危険だ。
「ガア゛ア゛アアアッッッ!!!!!!」
咆哮と共に、大槌を振り下ろす。
轟音。
地面が陥没し、放射状に亀裂が入る。
魔術師の闇霊は避けることもできず、無残に潰されて死んだ。
「ルーデウス!無事か!!!」
ルーデウスの安否を確認する。
「あ、あ…はい。僕は、大丈夫です」
びくり、と肩を震わせ、怯えた様子を見せるルーデウス。
…まだ殺し合いの経験は少なかったのか。悪いことをした。
「怪我はないか」
長く戦っていたようなので、怪我をしているかもしれない。治療するために、ルーデウスに近寄る。
「ひっ……」
小さく引きつった悲鳴を上げ、後ずさるルーデウス。
………え?
「あ……」
俺を、怖がって、いるのか…?
俺は、俺は、ルーデウスを、守ろうと…
「あ、あの!この赤い奴らはなんなんです?」
思考の渦にのまれかけた頭が引き戻される。
何をしている、アルブレヒト。そんなことを考えている場合じゃないだろ。
「………奴らは、闇霊と言う。人に眠る人間性を求めて彷徨う獣。…いや、獣以下の屑だ」
「闇霊…なんでそんな奴らがシャリーアに?」
「それ、は……」
言えばいい。自分のせいで、闇霊が来たのだと。おそらく、自分の呪いのせいで闇霊が呼び寄せられたのだと。真実を言えばいい。
………………無理だ。
怖い。
責められるのが、怖い。
なんて浅ましい。お前のせいなのに、全部お前のせいなのに、償わずに逃げるつもりか。知らん顔して逃げるつもりか!
「わから、ない…」
でも、言えない。
怖い。怖いんだ。やっと得た居場所を、失うのが怖いんだ。やっと得た信頼を、失うのが恐ろしいんだ。
「そうですか…取り敢えず、うちに――」
ぞわり。
また、不快感。
先ほど感じた感覚と、同じ。
《 闇霊 喪失者 に侵入されました 》
4体目。
敵意の感知が発動する。
赤い光が夜闇を照らす。
ゆっくりと動き始め、光はシャリーア郊外へと向かう。
あの方向は。
ルーデウスの、家だ。
「ルーデウスッ!!闇霊だ!!!」
「!? ど、どこに…?」
「お前の家の方向だ!!」
ルーデウスの顔が蒼白になる。
すぐに石柱を出し、飛ぼうとするルーデウス。
「――っ!無理だ!間に合わない!遠すぎる!」
3体目の闇霊を追ったせいで、ルーデウスの家からは遠く離れている。どんな手段を使っても、間に合わない。
「じゃ、じゃあどうすれば――」
「俺が場所を指示する!その方向に向かって全力でストーンキャノンを撃て!」
「そんな…シルフィたちを巻き込むかも…!」
戸惑うルーデウス。
だが、迷っている暇はない。
「俺を信じろ!!!」
ルーデウスは目を見開く。
少しの間逡巡すると、覚悟を決めた顔になり、深く頷いた。
岩石弾を形成し、回転を始めさせる。岩石弾が流麗な形となり、鋭く、強くなっていく。
こちらもソウルを全力で注ぎ込み、敵意の感知を最大にする。遠いルーデウス邸の位置がはっきりと見える。特に、闇霊の姿は。
すでに家の中に入っている。細かく動いており、狙いが定めにくい。…シルフィと戦っているようだ。
焦る。戦況は明確には分からないが、倒せておらず、家の中にいるということは不利ということだ。
「……ッ!」
闇霊が大きく動く。それと同時に、シルフィと思しき反応が弱まった。
まずい。まずいまずいまずいまずい!
「ジークさん!まだですか!?」
ルーデウスの叫び。
額には脂汗が浮かんでいた。
回転を続けるストーンキャノンは、すでに限界まで圧縮されている。
あと数秒も維持できない。
だが撃てない。
撃てば家族を巻き込むかもしれない。
だから撃てない。
敵意の感知を限界まで研ぎ澄ます。
見ろ。もっと見ろ。
絶対に見失うな。
遠く離れたルーデウス邸。
壁の向こう。
床の向こう。
闇霊の姿だけを追う。
シルフィの反応が弱い。
ノルンとアイシャは別の部屋だ。
闇霊が動く。
ゆっくりと、獲物へ近づくように。
その瞬間、冷たい汗が流れた。
間に合わない。
本当にあと一瞬だ。
「ジークさん!!」
悲鳴のような声。
ルーデウスの肩を掴む。爪が食い込むほど強く。
そして――叫ぶ。
「あそこだ!!」
腕を伸ばす。
「あそこに撃て!!」
喉が裂けるほどの声。
「絶対に逸らすなッ!!!」
「――――ッ!!!!」
ルーデウスが吠えた。
圧縮された岩石弾が解き放たれる。
空気が爆ぜた。
轟音。
衝撃。
夜空を裂く一条の流星。
超高速で回転する岩石弾は大気を引き裂きながら一直線に飛翔する。
街の屋根を越え。
塔を越え。
闇夜を切り裂く。
次の瞬間、ルーデウス邸へ着弾した。
窓が吹き飛ぶ。
壁が砕ける。
床が爆散する。
木材と石材を紙のように貫通しながら、ストーンキャノンは一直線に突き進む。
そして、闇霊の腹部を貫いた。
赤い身体に大穴が空き、胴体が裂ける。
内側から爆発したように身体が引き千切れた。
上半身と下半身が逆方向へ吹き飛ぶ。
断末魔を上げる暇すらなかった。
闇霊は赤い粒子となって崩壊し、そのまま夜気へ溶けるように消滅した。
「闇霊に着弾した!!やったぞ!!」
だが、脳裏を支配したのは勝利の喜びではない。
恐怖だった。
家はどうなった。
シルフィは。ノルンは。アイシャは。
無事なのか。
「シルフィ!!!」
ルーデウスは叫びながら石柱を生み出す。
迷いはなかった。
一直線に我が家へと飛翔する。
俺もまた地面を蹴った。
胸の奥で、嫌な予感だけが膨れ上がっていた。
(シルフィ…無事でいてくれ…!!)
街を駆けながら祈る。
それは、何の祈りだ?自分のせいだってバレないように?自分がシルフィを傷つけたって思いたくないからか?なんて、なんて、自己中心的!なんて醜いんだ!!
うるさい、黙れ、黙れ、黙れ!
思考をかき消すようにルーデウス邸へ急ぐ。
しばしの時間の後、到着する。
ストーンキャノンによる破壊の跡は大きく、家は二階から一階にかけて大きく壊れていた。
「シルフィ!大丈夫か!」
扉を乱暴に開け、人の気配がする居間に入り、叫ぶ。
「あ、ジークフリートさん…」
そこには、ルーデウスに治療を受けているシルフィがいた。ノルンとアイシャも、心配そうにそれを眺めている。
右腕が切り裂かれており、かなりの深手だった。
「―――」
あーあ。これでお前は終わりだな。
「あ、あああ……」
誰かを傷つけた。シルフィを傷つけた。
「う、ううう、ううう…」
騎士失格!呪われ人!あるわけない幸せを追い求めて、無辜の人々を傷つけた!!
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
「え、ええ?なんでジークフリートさんが謝るの…?」
「ど、どうしたんですかジークさん!」
膝から崩れ落ちる。
「どこか怪我してるんですか…?大丈夫ですか…?」
ノルンが心配そうな目でこちらを見る。
やめてくれ。そんな目で俺を見ないでくれ。俺は、そんな価値のある人間じゃないんだ。
「違う…違うんだ」
言わなければ。もう逃げられない。もう隠せない。
「俺の……せいなんだ」
すべてが失われるとしても、それは当然の罰だ。
「俺が、あの闇霊たちを、呼び寄せたんだ」
場が凍りつく。
シルフィの、信じられないという目。
アイシャの、驚いた目。
ノルンの、混乱した目。
ルーデウスの、怒りの目。
ああ。
ああ。
床を見つめる。
右手に嵌めた、ルーデウスたちから贈られた指輪が、とても冷たく感じた。
■
ルーデウス邸の居間では、かつてないほどの冷たい空気が流れていた。
「どういう、ことですか」
ルーデウスが、静かにアルブレヒト――いや、ジークフリートに問う。
「……俺の、呪いのせいだ。俺が、闇霊を招いた」
「だから!どういうことなんですか!ちゃんと説明してください!」
激昂するルーデウス。
「すまない…すまない…俺の、俺のせいだ……」
ジークフリートはそれしか言わない。
まるで自分の殻に閉じこもったように。
その姿が、ルーデウスをさらに苛立たせた。
「…おい、いい加減にしろよ。どういうことだって聞いてんだよ!答えろよ!」
ルーデウスが胸ぐらを掴み、無理やり立たせる。
「や、やめてください兄さん!ジークさんを離して!」
「そうだよお兄ちゃん!落ち着いて!」
ノルンとアイシャが慌てて止めに入る。
「シルフィが怪我したんだぞ!死ぬかもしれなかった!その原因がジークさんにあるなら、俺は許せない!!」
しかし、ルーデウスは止まらない。
「俺が、俺が悪いんだ…」
「だから…いつまでそんなこと言ってんだよ!ちゃんと答えてくれよ!!」
ジークフリートを揺さぶり、悲痛な声で問う。しかし、どうしても答えようとしない。
ジークフリートの瞳はどこも見ていなかった。まるで、もっと遠くの地獄を見ているようだった。
「ルディ!!やめて!!」
鋭い声が居間に響いた。
シルフィだった。
「シルフィ……でも……」
「ルディ、落ち着いて。とにかく手を離して」
ルーデウスは言い返そうとして、言葉を失う。
シルフィは右腕を治療されながらも、真っ直ぐジークフリートを見ていた。
「状況はまだ何も分かってない。でも、ジークフリートさんが好んでこんなことをする人じゃないってことだけは分かるよ」
「それは……」
「ボクより長く付き合ってるルディが、一番よく知ってるはずでしょ?」
ルーデウスの手が震える。
怒りと恐怖で見えなくなっていたものが、少しだけ見えた。
胸ぐらを掴まれているジークフリート。
抵抗もしない。言い返しもしない。
ただ虚ろな目で床を見ている。
まるで裁かれるのを待つ罪人のように。
「ルディ。もうやめて。いつものルディに戻って」
「…………ごめん」
しばらくして、ルーデウスは手を離した。
力を失ったように、ジークフリートがその場へ崩れ落ちる。
誰も何も言わない。
重苦しい沈黙だけが流れる。
やがてシルフィが口を開いた。
「ジークフリートさん」
優しい声だった。
「ルディも、みんなも混乱してるんです」
ジークフリートは答えない。
「謝られてばかりじゃ分かりません。何があったんですか?」
沈黙。
長い沈黙。
「………俺の、呪いのせいだ」
絞り出すような声だった。
「おそらく、俺が人間性を取り戻したことがきっかけで……奴らが、この世界に来たんだ」
その言葉に、部屋の空気が再び張り詰めた。
「奴らの名前は闇霊。人間性を求めて彷徨う獣で、人間性を奪えるなら見境はない」
部屋の空気が重くなる。
ノルンが息を呑み、アイシャの表情も厳しくなった。
「ここまで多くの闇霊が一気に侵入してくることは珍しい。おそらく、これまで蓋をされていたようなものだったんだろう。…それを、俺が開けてしまった」
沈黙。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
最初に口を開いたのはルーデウスだった
「その…闇霊というのは、また来るんですか?僕の家族は……また危険に晒されるんですか?」
「来る」
短く告げる。
「やつらは人間性を持っている生者がいる限り、諦めることはない」
ルーデウスの顔が強張る。
シルフィがそっと自身の傷ついた腕を押さえた。
「………………」
重苦しい沈黙。
それを破ったのはジークフリートだった。
「……だが」
全員の視線が向く。
「これほど多くの闇霊が一度に侵入したなら、しばらくは入ってこないはずだ」
「本当ですか?」
ルーデウスが食い気味に問う。
「…確証はない。だが前の世界ではそうだった」
「前の世界……?」
ルーデウスの眉が動く。
だが今はそこを追及している場合ではないと判断したのか、それ以上は聞かなかった。
「どれくらい猶予があるんです?」
「おそらく1週間」
「1週間……」
「闇霊1体なら1日程度だ。だが今回は4体同時だった。少なくとも数日は来ない。おそらく1週間ほどは」
ルーデウスが視線を落とす。
計算しているようだった。
家族を守るために。
何ができるのかを。
「…とりあえず、1週間は猶予があるってことですか」
「一応、人の像という侵入を妨げる道具もある。…そこまで多く持っているわけではないが、もう少し長く猶予はある」
沈黙。
「…ジークさんは、これからどうするんですか」
「すぐ、シャリーアを発とうと思う。これ以上皆に迷惑をかけられない」
「駄目!!」
ノルンが大声で遮った。
「こんな状態のジークさん、放っておけません!1週間以上猶予があるって言うなら、その間に解決策を探せばいいじゃないですか!」
「…ノルン、これは大人の話だ。子供が口を挟むんじゃない」
ノルンが食って掛かる。
「なんですか、それ!馬鹿にしないでください!兄さんはジークさんを追い出したいんですか!?」
「そういうわけじゃない」
ルーデウスは即座に否定する。
「だったら――」
「俺は家族を守る責任がある」
その一言で、ノルンの言葉が止まった。
「これ以上、お前たちを危険に晒せない」
「私たちを言い訳にしないでよ!」
それでもノルンは叫ぶ。
「ずっとジークさんに助けられてきたのに!一度迷惑をかけられたくらいで追い出すの!?」
「違う!」
ルーデウスが机を叩いた。
ばん、と大きな音が響く。
誰もが肩を震わせる。
「…シルフィが怪我したんだぞ!」
ルーデウスの声が震える。
「あと少しずれていたら死んでたかもしれないんだぞ!ノルンだってそうだ!アイシャだってそうだ!」
叫びながらも、その声はどこか泣きそうだった。
「シルフィのお腹の中の赤ん坊だって!!」
「―――っ!」
ノルンは息を呑む。
反論したかった。
ジークフリートを庇いたかった。
だが、シルフィの血に染まった腕が脳裏に浮かぶ。
兄がどれほど怖かったのかも分かってしまう。
「俺は……」
ルーデウスが唇を噛む。
「俺は家族を失うところだったんだぞ……」
静まり返る部屋。
誰も言葉を返せなかった。
ノルンも。
アイシャも。
シルフィですら。
ただ苦しそうな顔で俯くことしかできない。
そんな空気の中。
「……もう、やめてくれ」
ジークフリートが呟いた。
かすれた声だった。
「俺はシャリーアを去る」
ゆっくりと立ち上がる。
「どうなろうとだ」
「ジークさん……!」
ノルンが手を伸ばす。
それを遮るように、アイシャが歩み出て、話し始める。
「では、こうしましょう」
アイシャは冷静だった。
「ジークフリートさんには、とりあえず1週間、闇霊がこれ以上入ってこれないような対策を探してもらう。1週間経っても見つからなかったら、ここから出て行ってもらう」
「アイシャ!なんてことを…!」
「ノルン姉は黙ってて。これはこの家のメイドとしてのあたしの判断です」
「……わかった。とりあえず、探してみる」
その声には力がなかった。
まるで処刑の日付を告げられた囚人のようだった。
「お兄ちゃんも、それでいいですか?」
アイシャが確認する。
ルーデウスは目を閉じた。そして苦しそうに答える。
「……ああ」
誰も納得していなかった。
それでも、今はそれしかなかった。
ジークフリートはゆっくり立ち上がる。
「みんな、俺のせいで巻き込んでしまって、本当にすまない」
誰も返事ができない。
「もう二度と、迷惑はかけない」
そう言い残し、背を向ける。
まるで亡霊だった。
生きている人間の歩き方ではない。
ただ終わりへ向かう者の背中だった。
「ジークさん!」
ノルンが駆け出す。
「来るな!」
突然の怒鳴り声に、ノルンの足が止まる。
ジークフリートが怒鳴ったのを、彼女は初めて聞いた。
「…来ちゃ駄目だ。君を巻き込みたくない」
「ジークさん……」
ジークフリートはしばらく黙っていた。
何かを堪えるように。
何かを諦めるように。
「俺は……」
声が詰まる。
「俺は、幸せになっちゃいけないんだ」
その言葉に、ノルンの胸は締め付けられた。
違う。そんなことはない。
そう言いたかった。
けれど言葉にならない。
ジークフリートはもう歩き出していた。ふらふらと、覚束ない足取りで。
誰の手も取らず。誰にも頼らず。ただ一人で。
ノルンはその背中を見送ることしかできなかった。
まるで、どこか遠い場所へ消えていく人を見送るように。