夜が、明ける。
ラノア魔法大学、魔術研究棟。クリフの研究室。
部屋の中には、重苦しい沈黙が流れていた。
椅子に座るクリフ。
その向かいにはジークフリート。
昨夜から一睡もしていないのだろう。
兜の奥から覗く青い瞳は酷く疲弊していた。
「つまり……」
クリフがゆっくり口を開く。
「その闇霊という存在は、お前の呪いに引き寄せられて現れる」
「ああ」
「そして、昨夜あったという襲撃も」
「俺が原因だ」
即答だった。
迷いのない声。
だからこそ痛々しい。
「……」
クリフは言葉を失った。
ジークフリートは昨夜からの出来事を全て話した。
自分が異世界から来たこと。人間性という概念。闇霊。侵入。そして、自らの呪い。
どれも常識外れだった。
だが、クリフには分かる。ジークフリートは嘘をついていない。
「なんてことだ……」
思わず額を押さえる。
「君の呪いが、そこまで性質の悪いものだったとは……」
呪いの研究者として様々な事例を見てきた。
だがこれは次元が違う。
呪われた本人だけではない。
周囲まで危険に晒す。
まるで災害だ。
「だから頼む」
ジークフリートが懐から小さな人形を取り出す。
人の形を模した、影のように暗い色の像。
それを机の上へ置いた。
「人の像だ」
クリフが手に取る。
「これが?」
「ああ。闇霊の侵入を妨げる」
「なるほど……」
クリフの目つきが研究者のものへ変わる。
魔力を流し、構造を解析し、細部を調べる。
何度も、何度も。
沈黙だけが続く。
ジークフリートは何も言わない。ただ待っていた。これが最後の希望だったからだ。
もし量産できれば、誰も危険に晒さずに済む。自分も去らなくて済むかもしれない。
そんな身勝手で、だが切なる希望。
しばらくして。
クリフはゆっくりと像を机へ戻した。
「……駄目だ」
その一言で理解した。
「量産は、難しい」
ジークフリートは黙っている。
クリフは続けた。
「少なくとも今の僕には不可能だ」
苦々しく唇を噛む。
「構造が複雑すぎる。見たこともない理論が使われている」
像を見つめる。
「正直、何をやっているのか半分も理解できない」
悔しかった。
もし呪いを解けなくても。
せめて対策だけは作れると思っていた。
だが無理だった。
研究者としての敗北だった。
「そうか」
返ってきた言葉はそれだけだった。
怒りも、失望も、何もない。
まるで最初から期待していなかったかのように。
ゆっくり立ち上がる。
「待て」
クリフが思わず呼び止める。
「まだ方法はあるかもしれない」
「……」
「ナナホシにも相談してみよう。呪いの専門家も探す。何か手段が――」
「いや」
ジークフリートは首を振った。
「もう十分だ。ここまで付き合ってくれて感謝している」
その言葉に、クリフは嫌な予感を覚える。
まるで、別れを告げているような。
「ジークフリート!」
「じゃあな」
扉へ向かう。
足取りはふらついている。
まるで魂だけが先に死んでしまったようだった。
扉が開く。
そして閉じる。
研究室に静寂が戻った。
「……クソ」
クリフは机を殴った。
何もできていない。
あいつを救う方法が分からない。
机の上には、人の像だけが残されていた。
まるで、助けを求める最後の遺品のように。
■
ルーデウス邸でも、重苦しい空気が流れていた。
居間の中央には、一通の手紙。
ベガリット大陸から届いた救援要請。
『ゼニス救出困難。救援を求む』
ルーデウスは額を押さえていた。
ゼニスは母だ。
助けに行かなければならない。
だが、シルフィは妊娠している上に、負傷している。それに、闇霊がまた現れるかもしれない。
家族を置いて行けば何が起きるかわからない。
「くそ……」
どうすればいい。
頭を抱える。
その時だった。
こんこん、と扉が鳴る。
「……どうぞ」
扉が開く。
そこに立っていたのはジークフリートだった。
昨日よりもさらにやつれた雰囲気。
まるで生気がない。
「話は聞いた」
短くそう告げる。
「聞いたって……」
「…アイシャに聞いた。母さ……お母さんが、危ないんだろう?」
ジークフリートは静かに続ける。
「ベガリット大陸へは俺が行く」
沈黙。
ルーデウスは目を見開いた。
「……は?」
「俺が助ける」
当然のように言う。
「お前は家族を守れ」
「何を言ってるんですか」
「そのままの意味だ」
ジークフリートは淡々としていた。
まるで、自分の命の価値など最初から勘定に入れていないかのように。
「……俺なら大丈夫だ」
ぼそりと言う。
「食料も水も最低限でいい。極端な話、何もなくても死なない」
「……」
「補給のために街へ立ち寄る必要もほとんどない。人里を避けて進めば闇霊が誰かを巻き込む可能性も低い。もし現れたとしても、敵意の感知でわかる」
静かな声だった。
「誰かを巻き込む前に始末できる」
嫌になるほど、合理的だった。
「それに、人の像もある」
懐から像を取り出す。
「人が多い場所に入る必要がある時はこれを使う。侵入を妨害できる。だから問題ない」
問題ない…そんなわけがない。ルーデウスには分かる。
問題しかない。
目の前の男は壊れている。昨日からずっと。
壊れたままだ。
それでも。
それでも。
提案自体は魅力的だった。
あまりにも。
「……」
ルーデウスは答えられない。
母を助けたい気持ちはある。だが家族も守りたい。両方を取る方法が見つからない。
そんな時に現れた第三の選択肢。
それが目の前にいる。
「本当に……大丈夫なんですか」
「問題ない」
即答。
「俺はこういう旅に慣れている」
嘘だ。
ルーデウスには分かった。
この男は死ぬつもりなのだ。死んでも構わないと思っている。だから危険を危険と思っていない。
「……」
ルーデウスは拳を握る。
断るべきだ。
だが、ゼニスを見捨てることもできない。
それに、闇霊をおびき寄せる原因であるジークフリートが、自分から出ていってくれて、ゼニスも助けに行ってくれるなら好都合だ、なんて暗い考えがよぎる。
それに従うわけではない。
だが。だが――
「……ベガリットにいる、父さんたちが危険にさらされない保証は?」
「………………それは、俺を信じてもらうしか、ない」
「…………」
深い沈黙。
昨夜も、同じ言葉をかけられた。
その時は信じた。シルフィを、ノルンを、アイシャを救うために、ジークフリートが指す方向にストーンキャノンを放った。
そして、今回は―――
「……わかりました」
絞り出すように言う。
「お願いします」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥がずきりと痛んだ。
まるで何か大切なものを手放したような感覚。
ジークフリートは気にした様子もなく頷く。
「了解した」
そして踵を返す。
「準備がある」
それだけ言って部屋を出ていく。
残されたルーデウスは、ただ閉じられた扉を見つめ続けていた。
■
夢を見る。
白い世界だった。何もない。
空も地面も境界が曖昧な、見慣れた空間。
「やあ」
ヒトガミがいた。
相変わらず胡散臭い笑顔を浮かべている。
ルーデウスは眉をひそめた。
「……ヒトガミ」
「久しぶりだね」
「何の用だ」
「つれないなあ」
ヒトガミは肩をすくめる。
「君、今すごく悩んでるだろ?」
「……」
「お母さんを助けるべきか、家族を守るべきか、ジークフリートを信じるべきか」
心臓が跳ねる。
図星だった。
「ベガリット大陸に行かないのは正解さ!君は正しい選択をしている」
「でも、今回は少しだけ忠告しに来たんだ」
珍しい。
ヒトガミがこんな真面目な顔をするのは。
「ジークフリートを近くに置くのはやめた方がいい」
静かな声だった。だからこそ重かった。
「……理由は」
「見ただろ?」
ヒトガミは言う。
「シルフィ、死にかけたよね」
ルーデウスの顔が強張る。
「―――っ」
「次は運がいいとは限らない」
胸が痛む。
「君の妹たちも、シルフィも、お腹の中の子どもも、みんな危険に晒される」
「それは……」
否定したい。
だが、できない。
現実に起きてしまったからだ。
「…ジークさんだって、望んでやったわけじゃない」
「もちろん」
ヒトガミはあっさり頷く。
「彼は悪人じゃない。むしろ善人だろうね。だから厄介なんだ」
にこりと笑う。
「善人だから離れてくれない。善人だから助けようとする。善人だから巻き込む」
嫌な言い方だった。
だが、どこか納得してしまう。
「……どうして今まで言わなかったんだ」
ルーデウスは問う。
「そんな危険な存在なら。もっと前に警告できたはずだ」
「ああ、それね」
頭を掻くヒトガミ。
「見えなかったんだよ」
「……見えない?」
「彼さ、めちゃくちゃなんだよね。呪いのせいかな?運命がぐちゃぐちゃで、未来が見えたり見えなかったりする。まるで霧の中を覗いてるみたいなんだ」
ヒトガミは困ったように笑う。
「だから最近までよく分からなかった。でも今は違う。彼が何かを思い出した。それをきっかけに流れが変わった。だから見えるようになった」
「……」
「もちろん、外れてるかもしれないけどね」
ヒトガミは肩をすくめる。
「未来なんて不確定だ。僕だって全部見えるわけじゃない。ただ、一つだけは確実に言える」
人差し指を立て、ヒトガミが笑う。
その笑みは、妙に優しかった。
「ジークフリートが近くにいる限り、君の家族は危険に晒され続ける」
沈黙。
長い沈黙。
やがて、ヒトガミはくるりと背を向けた。
「まあ、選ぶのは君だよ。ルーデウス・グレイラット」
軽い調子で言う。
「そんなことより、本題の助言は聞くかい?」
「……ああ。一応、教えてくれ」
「それじゃ…コホン。ルーデウスよ、次の発情期を待ちなさい。そこで、リニアとプルセナがあなたに迫ってくるでしょう。この二人のどちらかと関係を持ちなさい。そうすれば、あなたは幸せになることでしょう」
「……は?ふざけてんのか?」
「ふざけてないよぉ!…おっと、そろそろ時間だね」
世界が白く溶けていく。
夢が終わる。
「お前、いい加減にしろよ!今はそんなふざけたこと言ってる場合じゃ…」
文句を言おうとするが、意識が薄れていく。
「じゃ、またね!」
最後に見えたヒトガミの笑顔だけが、妙に脳裏に焼き付いていた。
■
目が覚める。
シルフィが、心配そうに顔をのぞき込んでいる。
「大丈夫、ルディ?うなされてたよ」
「あ、ああ。大丈夫だ」
本当は大丈夫ではなかった。
眠ったはずなのに疲労は抜けていない。
頭の中では、昨夜の出来事が何度も繰り返されていた。
血塗れのシルフィ。
崩れ落ちるジークフリート。
『俺が、あの闇霊たちを呼び寄せたんだ』
そして、あの言葉。
「……あのさ、ルディ」
シルフィが遠慮がちに口を開く。
「ジークフリートさんのことなんだけど、本当にいいの?」
ルーデウスは答えない。
「一人で行かせたりして」
「それは……」
言葉に詰まる。
自分でも分からなかった。
これが正しい判断なのか。
ただ怖かっただけなのか。
「闇霊は怖いよ」
シルフィは自分の傷ついた腕を見る。
「ボクだって昨日は本当に怖かった」
「だったら――」
「でも」
シルフィは首を振った。
「ジークフリートさんも苦しそうだった」
「……」
「ずっとお世話になってきたのに、なんだか追い出したみたいでさ」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
思わず声が強くなる。
「ジークさんがいる限り危険はなくならない!俺は、シルフィたちを失いたくないんだ…」
シルフィは何も言わなかった。
ただ悲しそうな顔をした。
その時だった。乱暴に階段を駆け上がり、廊下を走ってくる音が聞こえる。
寝室の扉が、荒々しく開けられた。
「兄さん!!どういうことですか!!」
ノルンだった。怒りで顔を真っ赤にしている。
あるいは泣いた後なのかもしれない。
「聞きました!まだ1週間経ってないのに、なんでジークさんを追い出したんですか!」
寝室に飛び込んできたノルンは、真っ直ぐルーデウスを睨みつけた。
「……追い出したわけじゃない」
ルーデウスは目を逸らす。
「ジークさんが、自分で言い出したことだ」
「そんなの、追い出したのと同じです!」
ノルンは叫んだ。
「ジークさん、普通じゃなかったじゃないですか!」
「…………」
「ずっと謝ってて、何も食べてなくて、まともに眠ってもいなくて!」
声が震える。
「そんな人の言うことを、そのまま聞くんですか!?」
「ノルン――」
「言ってることを鵜呑みにして!誘導して!追い出したようなものじゃないですか!!」
ルーデウスは何も言えない。
図星だった。
自分は引き留めなかった。
それどころか、心のどこかで安堵していた。ジークフリートが去ることに。
「……っ」
胸が痛む。
「もういいです!兄さんには失望しました!私がジークさんに着いていきます!」
「駄目だ、危険すぎる」
「兄さんが行かないなら!私が行くしかないじゃないですか!」
「…ノルン、お前じゃ無理だ」
「そんなことわかってます!」
ノルンは拳を握り締めた。
「弱いことくらい分かってます!役に立たないことだって分かってます!」
「でも…ジークさんを、一人にはさせられない!本当に死んじゃうかもしれないんですよ!」
ぽろり、と涙が落ちた。
ルーデウスを見上げる。
責めるような、縋るような。そんな目だった。
「なんで、兄さんは助けに行かないんですか!?」
部屋が静まり返る。
「兄さんは、兄さんは、強いじゃないですか!ジークさんのことだって、お母さんのことだって、助けられるじゃないですか!」
叫びは悲鳴に変わる。
「なのに、なんで…なんで、見捨てるんですか……」
ノルンの声が震える。
ルーデウスは何も言えなかった。
言い返せない。図星だったからだ。
怖かった。
闇霊が、家族を失うことが、ジークフリートの呪いが。
全部怖かった。
だから逃げた。
見ないようにした。
考えないようにした。
ずっと、ジークフリートを遠ざける理由を探していた。
家族のため、シルフィのためと言いながら、本当は自分が怖かっただけだ。
…ジークフリートに任せれば、おそらく、全てがうまくいく。彼は強い。ゼニスも、すぐに助けられるだろう。
でも、でも、助けたあと、ジークフリートは側にいるのか?彼は側にいるべきなのか?
このままジークフリートを見送ったら、永遠に会えなくなる気がしていた。
俺はそれを望んでいるのか?それでいいのか?
『あとは任せろ』
オルステッドから助けてくれた時の、ジークフリートの大きな背中を思い出す。
『大きくなったな、ルーデウス』
シャリーアで再会したときの、優しい眼差しを思い出す。
『お前だって頑張っている。偉いぞ』
ノルンが引きこもったとき、諭してくれたことを思い出す。
『ふっ…ふふふ。あははは!』
最後に、誕生日の笑顔を思い出す。兜越しでも分かるくらいの、心からの笑顔だった。
忘れられない。捨てられない。忘れるには、捨てるには、思い出が多すぎる。
温もりが、多すぎる。
「…………わかった」
「俺も行く。ジークフリートさんと一緒に、行く」
「ノルン。家のことを任せてもいいか?」
ノルンの顔が、驚愕で彩られた。
だが、すぐにキュッと口元を結び、真剣な顔で頷いた。
「ノルン、ごめん。俺、間違えてた」
「はい」
「母さんを、ジークフリートさんを、助けに行く」
「俺は、ベガリット大陸に行く」
■
シャリーア郊外の森の中。
夜明け前の空気は冷たかった。
ジークフリート…アルブレヒトは一人、橙色の蝋石を握りしめて立っていた。
森は静かだった。
静かすぎた。
つい昨日まで聞こえていた声が、もう聞こえない。
ルーデウス、シルフィ、ノルン、アイシャ、クリフ、ザノバ、リニア、プルセナ。
シャリーアで得た全て。
それらを置いていく。
いや、置いていくのではない。
自分が離れなければならないのだ。
「…………」
空を見上げる。
薄暗い空の向こう。
赤い影が見えた。次第に大きくなる。
風が唸る。
木々が揺れる。
やがて、轟音と共に巨大な影が降下した。
赤竜ヘルカイト。
木々を薙ぎ倒しながら着地する。
衝撃で土が舞い上がった。
ヘルカイトは灼熱の瞳でアルブレヒトを見下ろす。
そして、少しだけ鼻を鳴らした。
まるで、遅かったな、と言っているようだった。
「……本当に来てくれたんだな」
掠れた声が漏れる。
ヘルカイトは答えない。
ただ大きな頭を近づけた。
アルブレヒトはその鼻先に手を置く。
温かかった。
赤竜山脈で出会ってから。
王龍王国で再会してから。
闇霊に追われるようになってからも。
この竜だけは変わらなかった。
「ありがとう」
小さく呟く。
「お前だけだな」
言ってから、自嘲する。
情けない。ヘルカイトを慰めの道具に使っている。
だが今は、それすらありがたかった。
「行こう」
ヘルカイトの背に飛び乗る。
もう振り返らない。
振り返ったら、きっと戻りたくなる。
帰りたくなる。
だから、見ない。
「ベガリット大陸へ」
拳を握る。
「それが俺にできる、唯一の償いだ」
ヘルカイトが翼を広げた。
爆風が森を揺らす。
次の瞬間、巨体が空へ躍り出た。
シャリーアの街が遠ざかっていく。
朝日が昇り始めていた。
その光を背に受けながら。
アルブレヒト・グレイラットは、一人ベガリット大陸へと旅立った。
第3章 シャリーア編 - 終 -
次章
第4章 転移の迷宮編