第27話 迷宮
薄暗い迷宮の中を、一人の騎士が歩いていた。
全身を覆う玉葱のような丸みを帯びた鎧。無骨な中盾。腰には使い込まれた長剣。
その姿は迷宮の異様な景色にも溶け込まず、ただ異物のように存在している。
カサカサ、と無数の足音が響いた。
巨大蜘蛛の群れだ。
人間ほどもある体躯。黒光りする外殻。複眼が一斉に騎士を捉える。
次の瞬間、群れが襲い掛かった。
前から。横から。天井から。
逃げ場を塞ぐように。
だが、騎士は立ち止まらない。
ただ一歩、前へ踏み出した。
銀閃。
蜘蛛たちは、剣が抜かれたことにすら気づけなかった。
脚が宙を舞う。
胴体が裂ける。
頭部が飛ぶ。
数秒後、騎士の周囲には解体された魔物の残骸だけが転がっていた。
騎士は振り返らない。
進む。ただ前へ。
迷宮の奥へ。奥へ。
何かに追い立てられるように。
何かから逃げるように。
騎士は歩み続けた。
■
ルーデウスが転移の迷宮へ潜り始めてから数日。
先頭を行くギース。その後ろにパウロとエリナリーゼ。さらに後方をルーデウス、タルハンドが続く。
迷宮の中を慎重に進みながら、ルーデウスは手にした本へ視線を落とした。
『転移の迷宮探索記』
ラノア魔法大学から持ち出してきた資料だった。
この迷宮について記された数少ない記録であり、現在の探索を支える生命線でもある。
おかげで無駄な遠回りはない。罠もある程度予測できる。迷宮攻略は想像以上に順調だった。
もっとも、ここへ辿り着くまでが順調ではなかったのだが。
ルーデウスは小さく息を吐く。
先にベガリット大陸へ向かったジークフリート。
その後を追う決意をしたものの、移動は容易ではなかった。幸いナナホシから転移魔法陣の位置を教えてもらえたため、1か月ほどでベガリット大陸へ到着できたが、もし彼女の助力がなければ、何か月かかったか分からない。
さらに、ベガリット大陸に着いてから迷宮都市ラパンへ向かう旅も過酷だった。
砂漠。
魔物。
盗賊。
過酷な環境。
エリナリーゼが同行していなければ、今頃まだ道中だったかもしれない。
それでも結果として、パウロたちと合流できた。…ロキシーが行方不明という問題はあるが、概ね迷宮で困ることはなかった。
しかし、肝心のジークフリートが見つからない。
ラパン周辺では目撃情報もあった。赤竜が飛んでいた、玉葱のような鎧の騎士が迷宮へ入った。そんな噂はいくつも耳にしている。おそらく、ルーデウスよりも先にラパンにいたのだろう。
それなのに、まだ一度も会えていない。
「それにしてもよ」
前を歩いていたパウロが振り返る。
「ジークフリートが来てくれたのはありがたいが、なんで俺たちと合流しねぇんだ?」
「うっ……」
ルーデウスは言葉に詰まった。
「色々、ありまして……」
歯切れの悪い返答になる。
説明しようにも難しい。
いや、正直に言えば説明したくなかった。
ジークフリートを追い詰めた原因の一端が自分にあるからだ。
パウロは首を傾げたが、それ以上は聞いてこなかった。
「おい」
先頭のギースがしゃがみ込む。
「またかよ」
床を睨みながら舌打ちした。
「どうした?」
パウロが近づく。
そこには砕かれた魔法陣があった。
転移用の魔法陣。
本来なら迷宮内の移動を担うはずのものだ。
「また外れの魔法陣が壊されてやがる」
ギースが顔をしかめる。
「また?」
「ああ」
ここ数日、同じ現象が何度も続いていた。
不正解の転移先へ飛ばす魔法陣だけが、なぜか破壊されているのだ。
「幸い正解の方は残ってるがな。こんなこと続けてたら、そのうち迷宮そのものが不具合起こしかねねぇぞ」
苦い顔をするギース。
ルーデウスは砕かれた魔法陣を見る。
ふと、一人の男を思い浮かべた。
迷宮の奥へ。
誰よりも速く。
誰よりも無茶な方法で進み続けるだろう男を。
「……まさか」
嫌な予感がした。
おそらく、この魔法陣を壊して回っている犯人は――
■
行方不明となっていたロキシーは、一人、迷宮の深層を彷徨っていた。
転移罠によって仲間とはぐれてから一ヶ月以上。
食料は尽きかけている。魔力も限界が近い。
それでも生き延びてこられたのは、魔術師としての経験と執念のおかげだった。
だが――
「はぁ……はぁ……」
膝が震える。
視界の先には転移魔法陣。
そして、その周囲を埋め尽くす魔物の群れ。
最後の賭けだった。
あそこへ辿り着けなければ終わる。
「やるしか……ありませんね」
杖を握る。
覚悟を決める。
魔術を放つ。
「荘厳たる大地の鎧を纏わん。『
周囲に土の壁が形作られ、魔物を遮る防壁となる。
「落ちる雫を散らしめし、世界は水で覆われん。『
ロキシーの周囲に無数の水玉が浮かび、弾丸となって魔物たちに命中する。
即座に次の魔術を詠唱する。
「天より舞い降りし青き女神よ、その錫杖を振るいて世界を凍りつかせん!『
水玉を受けた魔物たちの表面が途端に凍りつく。『
前列の魔物の一群が完全に止まる。
「霜の王、大いなる雪原の覇王、純白を纏い、一切の熱を刈り取る零の王。死を司りし冷たき王が凍てつかせん!『
氷の槍がいくつも生成され、前方へ放射状に放たれ、後列の魔物に命中する。
前列の魔物を凍らせて、障害物として時間を稼いでいるうちに上級魔術を詠唱し、背後の後列を叩く。ロキシーの得意な戦術だった。
しかし、後列の魔物が死亡すると同時に、背後の転移魔法陣から次々と新しい魔物が湧き出てくる。
倒した魔物を踏み越え、ロキシーに迫る。
「……やっぱり、だめですか」
絶望するロキシー。
もう魔力もほとんどない。
前列の魔物も、氷を砕きながら前進を続けている。
絶体絶命。ロキシーは諦めたように、目を閉じ―――
そして、魔物たちの影の奥に、白銀が煌めいた。
音すらなかった。
ただ一瞬、魔物の群れの中央を銀色の軌跡が走る。
次の瞬間、魔物たちが崩れ落ちた。
胴が断たれ。
首が飛び。
四肢が砕ける。
まるで暴風が通り過ぎた後のようだった。
さらに、黄金の雷光が迸る。
逃げ遅れた魔物を焼き払い、迷宮を閃光で染める。
ロキシーは呆然と立ち尽くした。
突然の暴威が、魔物たちを蹂躙した。
「……え?」
迷宮に、吹かないはずの風が吹く。
魔物の死骸の向こうに、一人の騎士が立っていた。風は、騎士から発されているようだった。
玉葱のような奇妙な鎧。
全身を返り血で染めた異様な姿。
だがその立ち姿には、不思議な安心感があった。
騎士は剣を払う。
血が飛ぶ。
そして、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「大丈夫か」
低い声。
「あ……は、はい」
反射的に頷く。
「そうか」
騎士はそれ以上何も言わなかった。
無事を確認すると、すぐに踵を返す。
転移魔法陣へ向かう。
「あ、あの!」
呼び止める。
だが騎士は止まらない。
代わりに巨大な大槌を出現させた。
「え?」
嫌な予感がした。
そして、轟音。
大槌が振り下ろされる。
転移魔法陣が砕け散った。
床に巨大な亀裂が走り、青白い光が消滅する。
「ええええっ!?」
思わず叫ぶ。
「な、な、何してるんですか!?」
「外れだ」
騎士は平然と言った。
「壊せば迷わない」
「そんな、めちゃくちゃな…」
ロキシーが頭を抱える。
騎士は気にも留めず、次の魔法陣へ向かう。
その時だった。
「ロキシー!!!!!」
轟音。
壁が吹き飛んだ。
岩石弾で迷宮そのものを貫通しながら、一人の亜麻色の髪の青年が飛び込んでくる。ルーデウスだった。
「え?え??え???」
突然の助け、突然の登場で、混乱の極みにあるロキシー。
「ああ、よかった…」
ルーデウスはロキシーを見た瞬間、その場に崩れ落ちそうになる。
そして、ロキシーを強く抱きしめる。
「え?」
「生きてて……本当に、よかった……」
感極まったように息を吸うルーデウス。
それを、騎士はじっと見つめていた。
ルーデウスの視線が、ふと横へ向く。
そこで初めて気付いた。
騎士がまだそこに立っていた。
じっとこちらを見ている。
「―――あ」
ルーデウスの顔色が変わる。
「ジークさん」
騎士は何も答えない。
ただ静かに視線を向ける。
その沈黙が痛かった。
「待ってください!」
ルーデウスが叫ぶ。
だが、ジークフリートは首を横に振った。
そして転移魔法陣へ足を踏み入れる。
青白い光。
その姿が揺らぐ。
「ジークさん!!」
もう一度叫ぶ。
今度は懇願するように。
だが届かない。
光が弾け、ジークフリートの姿は消えた。
静寂。
残されたのは砕けた魔物の死骸と、転移魔法陣の光だけ。
ルーデウスはしばらく立ち尽くしていた。
追いついたと思った。
ようやく話せると思った。
なのに、また離れていく。
手を伸ばしても届かない。
「…ほ、本当に、何が起きているんですか…?」
ロキシーは、完全に置いてけぼりだった。
■
行方不明だったロキシーが見つかった。
それだけで、本来なら歓喜していいはずだった。
少しでも早く休ませるため、ルーデウスたちは迷宮を離れ、宿へ戻る。
ロキシーは疲弊していた。一ヶ月以上も迷宮の奥で生き延びていたのだ。無理もない。
本当に無事でよかった。
胸を撫で下ろす。
だが、部屋に戻り、一人になると、どうしても別のことを考えてしまう。
「……ジークさん」
小さく呟く。
あの時の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
返り血で黒く染まった鎧。
こちらを見つめる青い瞳。
そして、何も言わず立ち去った背中。
ロキシーを助けたのは間違いなくジークフリートだった。
あの人がいなければ、間に合わなかったかもしれない。
…ジークフリートが、自分たちと合流しない理由はわかりきっている。
「俺のせいだ」
ルーデウスは拳を握った。
シャリーアでのことを思い出す。
シルフィが傷ついた夜、怒鳴ったこと。疑ったこと。
そして何より――追い詰めたこと。
ジークフリートは自分から出て行くと言った。
だが本当にそうだろうか。
違う。自分がそう仕向けたのだ。
家族を守るため、と言い訳しながら、心のどこかでジークフリートから距離を置きたいと思っていた。
闇霊が怖かった。
家族を失うのが怖かった。
だから逃げた。
全部、あの人一人に背負わせた。
「……最低だな」
吐き捨てる。
謝りたい。
だが、なんと言えばいい?
ロキシーのことも、助けてもらった。他にも、ずっと助けになってくれた。家族同然の恩人だ。
なのに、俺は彼を追いやってしまった。
どうすれば、彼に謝れるのだろうか。
ルーデウスは、最近ずっとそんなことを考えていた。
ごめんなさい。
許してください。
そんな言葉で済む話じゃない。
考えれば考えるほど分からなくなる。
それでも、ただ一つだけ分かることがあった。
このまま終わりにはしたくない。
ジークフリートに謝らなければならない。
逃げずに、ちゃんと向き合わなければならない。
そうしなければきっと、一生後悔する。
ルーデウスは静かに目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、シャリーアを去る時の背中だった。
『俺は、幸せになっちゃいけないんだ』
あの悲痛な声が耳から離れない。
「……違うんだ」
思わず呟く。
何が違うのか。どう違うのか。
上手く言葉にはできなかった。
ただ、あの言葉だけは間違っていると、そう思った。
だからこそ、会わなければならない。
今度こそ、正面から向き合って。
その夜、ルーデウスはなかなか眠ることができなかった。