「アル、ブレヒト…?」
パウロが、呆然とした様子で立ち尽くす。
「なんで、ここに…?ジークフリートじゃ、なかったのか…?」
混乱するパウロ。ただ、取り返しのつかない喪失感だけが心に去来していた。
「ルディ!」
ロキシーがルーデウスに駆け寄る。
「治癒を…!」
俯き、絶望するルーデウス。左手から流れ出る血も気にならないようだ。
ロキシーが治癒魔術を使い、傷口を塞ぐ。
「ルディ……?」
返事がない。
視線だけが。
灰になった場所を見つめている。
誰も何も言えなかった。
誰もが言葉を失っていた。
そんな中、ゼニスが囚われていた魔力結晶が砕け、解放された。
「…! ゼニス!!」
我を取り戻し、駆け寄るパウロ。
それは、現実から逃げるような、残された希望に縋るような行為だった。せめて、せめてゼニスだけでも無事でいてほしい。
ゼニスの呼吸を確認する。
死んではいない。ただ意識を失っているだけだった。
「よかった…よかった……」
ゼニスを抱きしめ、涙を流すパウロ。
ゼニスが助かった。
長年の悲願が叶った、転移災害からずっと捜し続けてきた妻が見つかった。
だが、喜びきれなかった。
アルブレヒト。最後の家族。大切なもう一人の息子。
あの子がいない。
「そうだ、アル…!アルは!?」
誰に聞くでもなく呟く。
返事はない。
「おい、アルはどこだ」
立ち上がり、辺りを見回す。
当然いないが、それでも探す。
「隠れてるんだろ」
声が震える。
「ジークフリートなんて名乗って、父さんに悪戯したかったんだろ?そうなんだろ?」
笑おうとするが、笑えない。
「頼む…頼む…!出てきてくれ、頼む!」
悲痛な声が、迷宮に響く。
「こんな、こんな終わり方は嫌だ…!」
死んでしまったのか?本当に?
なぜイーストポートで会った時、息子だと言い出してくれなかったんだ?
どうして、俺に助けを求めてくれなかったんだ?そんなに頼りない父親だったのか?
あの日、生まれたばかりの小さな身体を抱いた時、絶対に守ると決めた。泣かせないように。傷つけないように。幸せにすると決めた。
だが現実はどうだ。逆に守られて、ボロボロになるまで見ていることしかできなくて、死に目すら呆然としていて看取れなかった。
なんて、なんて駄目な親父なんだ。
「アル!!アル!!!」
息子を探して、部屋を彷徨う。
いるはずもないのに。
次第に、涙が溢れる。
「ごめん、ごめんなぁ、アルブレヒト…」
ただただ涙を流し、アルブレヒトに謝罪を続けるパウロ。
「駄目な父さんでごめん。守れなくてごめん…」
だが、どれだけ謝っても。
どれだけ泣いても。
もう、その声は届かない。
謝罪は返ってこない。
迷宮は静かだった。
ただ、アルブレヒトがいた場所だけが、空っぽだった。
■
天井を見つめながら、ただただ物思いにふける。
アルブレヒトが、死んだ。
死体は、灰も残らなかった。
遺品の一つもない。
目を塞ごうとして、左手を動かす。
だが、一向に目の前は塞がらない。
ああ。そうだった。左手が、ないんだった。
どうでもよくて、忘れていた。
あの後、どうやって宿に戻ったか記憶があやふやだ。
迷宮の帰り道では、たくさんミスをした。
うまく敵が倒せず、魔術も不安定だった。
パウロも同じだった。動きは精彩を欠き、何度も危ない場面があった。
でも、誰も何も言わなかった。
なんの文句も、慰めもなかった。
かなりの時間をかけて、迷宮から脱出した。
宿で出迎えてくれたリーリャに、何と話したのか記憶がない。
確か、エリナリーゼかギースが説明をしてくれた気がする。
リーリャは、ショックを受けた様子だった。だが、それでもパウロと俺を抱きしめ、慰めてくれた。
それから部屋に戻り、今に至る。
「どうして、俺なんか庇ったんだ…」
そんなの決まってる。優しいからだ。誰より優しい俺の弟は、どんな相手でも怯まず立ち向かってしまうからだ。
「どうして、何も言ってくれなかったんだ」
そんなことわかりきっている。俺が追い出したからだ。何度も、何度も助けられたのに、怖くて遠くへ追いやってしまったからだ。
「どうして、どうして…」
答えはわかっている。俺が馬鹿だからだ。アルブレヒトが側にいたことも気づかず、遠ざけ、傷つけてしまったからだ。
アルブレヒトに会いたかった。
でも、もう二度と、会えない。
■
翌日。
目覚めは最悪だった。
何もしたくなかった。
だが、なんとかベットを出る。
ゼニスに会わなくては。
多くのものを失った。だが、ゼニスだけは助けられた。
今は、それに縋りたい気分だった。
リーリャとゼニスがいる隣室に移動する。
パウロもそこにいた。
「父さん…」
「ルディ……」
考えることは同じらしい。…いや、夫として、純粋にゼニスが心配だったのだろう。自分のことしか考えられなかった俺とは違う。
「ルーデウス様、もう大丈夫なのですか?」
リーリャが心配して声をかけてくる。
「……ええ。大丈夫です。俺だけが休んでいるわけにもいきませんし」
「休んでくださっていても、誰も何も言いませんよ」
優しい声をかけてくれるリーリャ。
だが、今は何かをしていたかった。何かをしていないと、気が狂いそうだった。
「ここにいさせてください」
「…わかりました。椅子をどうぞ」
結局、3人でゼニスの様子を見ることにした。
ゼニスは目を覚まさない。迷宮で運んでいるときも、宿に戻ってからも、ずっとそうだった。
それでも、じっと待つ。
こうして見る限りは、ただ寝ているだけに見えた。
もしかして、このまま目覚めないのではないか。
そんな考えが頭によぎる。
アルブレヒトに続いて、ゼニスまでも。
違う。そんなことはない。ゼニスは助けられたんだ。すぐに目覚めるはずだ。きっと、きっと。
時間が経ち、リーリャに促されて食事をとることになった。
だが、空腹感はなく、ご飯はほとんど喉を通らなかった。
パウロも、同じ様子だった。
ゼニスに変化があったのは昼下がりだった。
俺たちが見守る中、小さなうめき声とともに、ゆっくりとまぶたを開いた。
「ん…う……」
「ゼニス!」
「奥様!おはようございます、奥様!」
リーリャに助けられ、自分で身体を起こしたゼニス。ぼんやりとした顔で、周囲を見渡す。
安心した。
アルブレヒトは死んでしまった。
けれど、ゼニスは助かった。
どちらが助かったからいい、というわけではないが、ゼニスを助けようとしていたアルブレヒトの思いは叶った。
アルブレヒトが死んだと聞いて、ゼニスは悲しむだろう。だが、せめて、ゼニスと、リーリャと、パウロと、俺の4人で悲しみを分かち合おう。
「母さん…」
「……?」
首をかしげるゼニス。
成長した俺を見て、困惑しているのかもしれない。説明しようとして、口を開く。
「母さん。僕です。ルーデウスです」
「………?」
疑問符を浮かべ続けるゼニス。
…何かが、おかしい。俺に気づかないのはわかる。でも、パウロやリーリャにも気づかないのはどういうことだ?
先ほどから、ずっとゼニスは虚ろな表情を浮かべている。おかしい。何かがおかしい。
「うう、ああー」
うめき声をあげるゼニス。
拙い声。
虚ろな目。
発せない言葉。
「ゼニス…お前……」
「もしかして、奥様…?」
何度も話しかけた。
名前を呼んだ。昔話をした。ブエナ村のことを話した。ノルンのことを。アイシャのことを。アルブレヒトのことを。
だが、ゼニスは言葉には反応するが、決して言葉を発することはなかった。こちらの言葉を、理解することもなかった。
「ルーデウス様、パウロ様…奥様は、失っておられます」
ゼニスは全てを失っていた。
記憶を、知識を、人格を。
人として構成される知恵を、全て。
「あ…………」
つまり、アルブレヒトの死を、悲しむこともできない。分かち合うことができない。
そんな事実を突きつけられて。
ぽっきりと、俺の心は折れた。
■
部屋でじっと、天井を見つめる。
何度も、何度も、朝と夜を繰り返した。
眠っても、眠らなくても、目を閉じれば、アルブレヒトが死ぬ光景を思い出した。
黒い膿から俺を守り、嵐と共に戦い、そして死んだあの光景を。
俺の腕の中で、息絶える瞬間を。
『俺は、立派な……騎士に、なれましたか?』
どうして、答えてやれなかったんだろう。
アルブレヒトの、最期の言葉。
何度も思い出す。その度に胸が締め付けられる。
あんなにも簡単なことだったのに。
あいつは誰よりも騎士だった。誰よりも誰かを守ろうとしていた。
誰よりも傷つきながら。誰よりも苦しみながら。
最後まで、自分より他人を優先した、立派な騎士だった。
そんなこと、ずっと前から分かっていたはずなのに。
なのに俺は、何も言えなかった。
弟なのに。守ってやらなければならなかったのに。
逆に俺は守られ、アルブレヒトは死んでしまった。
答えは今でも心の中にある。
けれど、それを伝える相手は、もうどこにもいなかった。
■
こんこん、と部屋をノックする音。
返事をするのも億劫だった。
無視していると、誰かが部屋に入ってくる。
「ルディ、いいですか?」
「…師匠」
ロキシーだった。ネグリジェを着ていた。
「気分転換に、私と出かけませんか?」
「…え?」
「ほら、この街にはまだまだ面白そうなものがありますし、先日のようにまた一緒に見て回りませんか?」
「……いえ」
首を横に振る。
「そんな気分では」
「そ、そうですか」
「……すみません」
ロキシーは少し寂しそうにしていた。そして扉を閉め、鍵をかける。
「失礼します」
ロキシーはベッドに腰掛けると、そのまま俺の隣へ座った。
沈黙。
部屋には時計の音だけが響いていた。
「ゼニスさんとアルブレヒトのことは、残念でした」
静かな声だった。
「私も、ブエナ村で過ごした日々はよく覚えています」
ロキシーは少し目を細める。
「私にとって、あれはとても幸せな時間でした」
そっと、俺の右手にロキシーの手が重なる。
温かい。
「冒険者をしていると、身近な人が死ぬことは珍しくありません。だから、辛い気持ちは少しはわかるつもりです」
その言葉に。
胸の奥で何かが引っ掛かった。
「…嘘つかないでくださいよ。師匠のご両親は健在で、兄弟はそもそもいないじゃないですか」
「そう、ですね。最後に会ったのは数年前ですが、どちらも元気に――」
「じゃあわかんないですよ!軽々しくわかるなんて言うなよ!!」
叫ぶ。みっともなく叫ぶ。
息が荒れる。
止まらない。
「アルは死んだんだぞ!」
拳を握る。
「俺の目の前で!俺を庇って!俺のために!」
声が震える。
「なのに俺は何もできなかった!」
喉が焼ける。
「何も、何一つ……!」
子どもみたいに、泣く。
「俺は、アルブレヒトを追い詰めてしまった。怖くて、遠ざけて、それでもアルは助けに来てくれて……!」
声が震える。
涙が止まらない。
「俺はそれに甘えて…アルを死なせてしまった……!」
ロキシーは何も言わなかった。
ただ抱きしめる。
子どもをあやすように、震える背中を撫でる。
「都合の悪いことから目を逸らして…また取り返しのつかない失敗をして……結局、俺は、何も……」
変われたと思っていた。
でも違った。
結局俺は何も変われていなかった。
「ルディ」
静かな声だった。
責めない声。否定しない声。ただそこにある声。
「アルブレヒトは、あなたを助けたかったんだと思います」
「それは……」
「だって、最後まであなたを守っていましたから」
あいつは最後まで俺を守った。
迷いなく。躊躇なく。
まるで、それが当たり前であるかのように。
「…ブエナ村での生活はとても幸せでした。ルディも、アルブレヒトもとても才能に溢れていましたし、パウロさんやゼニスさんも、優しくしてくれました。グレイラット家が、私に家族の温かみを教えてくれたんです」
そっと、握られた手に力がこもる。
「私にとって、ルディたちは第二の家族です」
胸が痛んだ。
家族。
その言葉だけで、アルブレヒトの顔が浮かぶ。
「だから、あなたと悲しみを分かち合いたいんです」
ロキシーは真っ直ぐ俺を見た。
「アルブレヒトのことも、ゼニスさんのことも、全部、一緒に」
優しい言葉だった。
優しすぎて、胸が苦しくなる。
「私は至らない師匠です」
ロキシーは少し笑った。
「でも、ルディより少し長く生きています。だから今だけは、私を頼ってください」
「辛いことでも、2人で分ければ、きっと薄くなります」
でも、でも駄目だ。俺にそんな資格はない。
ロキシーを振り払うように立ち上がる。
「ルディ…!」
ロキシーに右手をつかまれ、引っ張られる。
やつれた身体では堪えきれず、俺はベッドに倒れ込んでしまう。
ロキシーが俺に馬乗りになる。潤んだ瞳が俺を見つめる。
「大丈夫。今は、私に任せてください」
ロキシーの顔が迫る。
駄目だ。振り払え。
こんなことをされる資格はない。
でも、抵抗できなかった。いや、しなかった。
暖かかった。
唇が重なる。
手が重なる。
俺は、震える指で握り返した。
その温もりだけが。
今は、どうしようもなく救いだった。
■
翌朝。
目が覚めて最初に飛び込んできたのは、ロキシーの寝顔だった。髪を下ろしたロキシーはいつもより幼く見える。
「う……はぁ……」
思わずため息を吐く。…シルフィに顔向けできない。
また一つ、問題が増えてしまった気がするが、久しぶりに深く眠れた気がする。
なぜか悪い気分ではない。あれだけ悩んでいたのが嘘のような気分だ。
胸の奥にある痛みは消えていない。
アルブレヒトが死んだ事実も変わらない。
ゼニスが元に戻らないことも変わらない。
けれど、押し潰されそうだった苦しさだけは、少しだけ軽くなっていた。
「ん…」
そうしていると、ロキシーの目が開いた。
「あ、おはようございます、ルディ」
顔を赤らめ、シーツで少し顔を隠しながら、挨拶するロキシー。
「おはようございます」
言葉を交わす。
それだけなのに、不思議と安心した。
しばらく沈黙が続く。
気まずくはない。ただ静かな時間だった。
「その…少しは気が晴れましたか?」
「あ、はい…」
アルブレヒトのことを思い出す。
胸が痛む。
でも、昨日みたいに何もできなくなるほどではない。
「師匠、ひとつ変なことを聞いても聞いですか?」
「はい、もちろん」
「僕は、これからどうすればいいでしょうか?」
情けない質問だった。
もう子供ではない。結婚もしている。父親にもなる。
それでも聞かずにはいられなかった。
ロキシーは少しだけ考える。
そして優しく答えた。
「…今、目の前にいる家族を大事にするしかないでしょう。アルブレヒトだって、ルディにそれを望んでいるはずです」
ルーデウスは黙る。
アルブレヒトの最後の姿が脳裏をよぎった。
命を懸けて守ったもの。
それは家族だった。
「前を向いてください。皆待っていますから」
「…はい」
ルーデウスはゆっくりとうなずいた。
まだ前を向ける自信はない。
アルブレヒトを忘れることもできない。
きっと一生できない。
それでも、立ち止まったままではいられない。
「師匠、ありがとうございました」
ロキシーは少しだけ照れたように笑った。
「はい。どういたしまして」
その笑顔を見て。
ルーデウスは久しぶりに、本当に少しだけ笑うことができた。