白い空間。
久しぶりだった。
何もない世界。 空も地面も境界が曖昧で、自分だけが取り残されたような場所。
「やあ、ジークフリート。…いや、アルブレヒトと呼んだほうがいいかな?」
「……またお前か」
振り返る。
そこには、いつものように胡散臭い笑みを浮かべたヒトガミがいた。
「ずいぶん活躍したみたいじゃないか。パウロもルーデウスも助かった。いやぁ、立派な騎士だったね」
ぱちぱち、と拍手。
まるで見世物を褒めるような態度だった。
「…………」
返事をする気にもなれない。
ルーデウス。
父様。母様。
無事だっただろうか。
気が付けば、そんなことばかり考えていた。
「おや?」
ヒトガミは首を傾げた。
「せっかく褒めてるのに反応なしかい?」
「……うるさい」
声に力が入らない。
生きている実感がなかった。
自分は死んだはずだ。いつものように蘇っただけ。慣れているはず。なのに、どこか力が入らない。
「…あっそう。…ま、あの黒い膿みたいなやつが出たのは君のせいだし、考えてみれば大して褒めることでもなかったかあ」
「…何?」
人の膿が出たのが、自分のせい?
呆然とするアルブレヒト。
「君、転移魔法陣を壊したり、呪われ人なのに何度も転移したりしたでしょ?それで迷宮が不具合を起こした上に君の呪いに影響されて、いわばバグみたいなものがおこっちゃったわけ」
「そんな……じゃあ、兄さんの、腕がなくなったのは…」
「うん。無関係とは言えないだろうね」
ヒトガミはあっさり頷く。
「君が転移魔法陣を壊した」
「君が何度も転移した」
「そして、あの迷宮で異常が起きた」
一本一本、指を折る。
「もちろん、全部が全部君の責任とは言わないさ」
にやり、と笑う。
「でもさ」
一歩近付く。
「もし君がいなかったら、ルーデウスの腕は今も付いていたかもしれないよね?」
「……っ!」
胸を掴み、うずくまるアルブレヒト。
「う、うう……兄さん…兄さん…ごめん……ごめんなさい……」
肩が震える。
視界が滲む。
ルーデウスの腕が飛んだ瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。
自分がいなければ。
自分が転移しなければ。
自分が――。
「……ふーん」
ヒトガミはそんなアルブレヒトを見下ろした。
「君、本当に家族のことばっかり考えてるんだね」
「…………」
返事はない。
ただ俯き、苦しそうに息を吐く。
「なるほどなあ」
ヒトガミは面白そうに表情を歪める。
「家族に会いたい?」
「……!」
言葉に詰まる。
「まあ当然だよね。せっかく助けたんだ。無事な姿を見たいと思うのは普通だ」
肩をすくめるヒトガミ。
「でも、やめたほうがいい」
「……なぜ」
「君が近づけば、周囲の人間は危険に晒される」
その声は妙に穏やかだった。
「闇霊はまた君を狙う」
「…………」
「せっかく助けた家族を、また危険に巻き込むことになるかもしれない」
反論できない。
実際、これまで何度もそうだった。
俺の周りでは、いつも誰かが傷ついた。
「それにさ、冷静に考えてみなよ」
ヒトガミが笑う。
「死んだはずの弟が帰ってくる」
「…………」
「最初は喜ぶだろうね」
ルーデウスの顔が浮かぶ。
パウロの顔が浮かぶ。
ゼニスも。
リーリャも。
ノルンも。
アイシャも。
「でも、その後は?」
心臓が冷たくなる。
「死んでも死なない。歳も取らない。何度でも蘇る」
ヒトガミは一歩近づく。
「そんな存在を、人はなんて呼ぶと思う?」
答えは分かっていた。
「…………化け物」
「そう」
ヒトガミは優しく頷く。
「君は悪くない。でも人間は怖がるんだ」
ルーデウスが自分を遠ざけた日のことを思い出す。
あの目を。
あの距離を。
「君は一度、家族に拒絶されている。二度目はもっと辛いと思うな」
声が出ない。
否定できなかった。
「まあ、どうするかは君の自由さ」
ヒトガミは背を向ける。
「ただ一つだけ覚えておくといい」
振り返りもしないまま言う。
「自由には責任が伴う。君が家族のもとへ帰れば、何かが起きるかもしれない」
「その結果を背負うのは、誰だろうね」
笑う。
「頑張りなよ、騎士様」
■
冷たい風が頬を撫でる。
目を開ける。
見覚えのない空だった。
砂漠。雲一つない青空。
「……あ」
生きている。
そう理解するまで数秒かかった。
最後に覚えているのは嵐だった。
黒い膿。崩れゆく身体。ルーデウスの腕。
「っ……」
声にならない。
気づけば涙が溢れていた。
蘇った。
生きている。
記憶も失わなかった。
それなのに、まったく嬉しくはなかった。
重い足音。
振り返る。
ヘルカイトだった。
巨大な身体を揺らしながら近づいてくる。
しばらく黙って見下ろし。
そして鼻を鳴らした。
軟弱者め、とでも言いたそうだった。
いつも通りだった。優しさの欠片もない。
だが、離れていかない。
黙って側にいる。
アルブレヒトは知っていた。
これがヘルカイトなりの気遣いだと。
「……兄さんが、無事か確認したい」
ヘルカイトは答えない。
「父様も。母様も。みんなも」
会いたい。
無事な姿を見たい。
抱きしめたい。謝りたい。生きていると伝えたい。
けれど、ヒトガミの言葉が頭をよぎる。
『君が近づけば、周囲の人間は危険に晒される』
闇霊。
不死の呪い。
傷ついたシルフィ。
拳を握る。
自分のせいでこうなったことはわかっている。自分のせいで闇霊が来て、シルフィが傷ついて、ルーデウスの左腕まで失わせてしまった。
それでも、それでも会いたかった。
騎士でも何でもない、ただの弟として、ただの息子として、無事を確かめたかった。
アルブレヒトは懐を探る。
霧の指輪。
ゼニスから貰った大切な贈り物。
そして、尊い温もりの指輪。
2つの指輪をつける。
不思議と温かかった。
ふと思う。なぜ死んだのに記憶を、人間性を失っていないのか。
「これの、おかげか…?」
尊い温もりの指輪を見つめる。家族や仲間たちから贈られた指輪。クリフが加工した呪いへの対抗策。
「みんな…」
たくさんの人の顔を思い出す。クリフ、ザノバ、リニア、プルセナ、シルフィ、ノルン、アイシャ、パウロ、ゼニス…そして、ルーデウス。
……少しくらいなら。そんな考えが頭によぎる。
会うわけじゃない。
話すわけじゃない。
遠くから見るだけだ。
無事を確認するだけだ。
それなら、それならいいんじゃないだろうか。
今までつけていた指輪に加えて、静かに眠る竜印の指輪をつける。装着者の発する音を消す効力があり、装着者の存在感を薄れさせる霧の指輪と組み合わせればかなりの隠密性を発揮する。
これなら、気づかれることもない。闇霊たちも、人の像を使えば問題はない。
「…俺は兄さんのところに行く。ヘルカイト、お前はどうする?」
ヘルカイトは何も答えない。
ただ赤い瞳で、じっとこちらを見つめていた。
無理についてくれば目立つ。
だから、また頭を少し下げた。アルブレヒトが乗りやすくするために。
「また送ってくれるのか?」
彼女は顔を背ける。
だが、その場から離れようとはしなかった。
「ありがとう、ヘルカイト。…お前だけだ。俺の側にいてくれるのは」
ヘルカイトは何も言わない。
ただ、長い尾で地面を一度叩いた。
■
少しだけ。
本当に少しだけだ。
無事を確認したらラパンを去る。それだけのつもりだった。
話しかけない。姿も見せない。ただ遠くから見るだけ。だから大丈夫だ。
自分にそう言い聞かせながら、アルブレヒトは陰からルーデウスたちを見つめていた。
宿を出る姿を見た。
食事をする姿を見た。
パウロと話す姿を見た。
ゼニスの部屋へ向かう姿も見た。
無事だった。
生きていた。
それだけで十分なはずだった。
なのに足は動かない。
帰ろうと思うたびに、もう少しだけ、という声が心の中で囁く。
ゼニスの様子が気になる。
ルーデウスが大丈夫か気になる。
今度こそ確認したら帰ろう。
そうやって、気付けば何日も経っていた。
自分でも呆れる。
結局、自分は離れられていないのだ。
それがどれほど情けないことなのか理解しながらも、やめられない。
そして、ルーデウスたちが帰路についた後も、アルブレヒトはその背中を追い続けた。決して見つからない距離を保つ。
砂漠を越える旅は過酷だった。
特にルーデウスは酷い有様だった。
左腕を失った傷は塞がっていても、失われた腕が戻るわけではない。
疲労も重なり、何度も足をもつれさせる。
ふらり、と身体が傾く。
その瞬間、アルブレヒトの足が反射的に前へ出た。
助けなければ。支えなければ。そう思った。
だが次の瞬間、ルーデウスの身体を支えたのはロキシーだった。
アルブレヒトは足を止める。
胸の奥が痛んだ。
自分がいなくても兄は一人ではない。
支えてくれる人がいる。守ってくれる人がいる。
それは喜ぶべきことのはずだった。
なのに、ほんの少しだけ、寂しかった。
夜。
焚き火の向こうで休む一行を見つめる。
アルブレヒトは木陰に腰を下ろした。
近づいてはいけない。
話しかけてはいけない。
それは理解している。
それでも視線だけは離せなかった。
まるで迷子になった子供のように、帰りたい場所を見つめ続けることしかできなかった。
■
ベガリット大陸での旅が終わり、シャリーアに戻ったルーデウス一行。
ルーデウス邸に戻り、報告の時間を設けることになった。
居間は、重苦しい空気が漂っていた。
暖炉のそばにはグレイラット家の面々。少し離れたテーブルに、エリナリーゼやロキシーをはじめとした迷宮攻略に協力してくれた面々が座っていた。
皆、口数が少ない。
本来ならゼニス救出を祝う席になっていたはずだ。 だが、誰もそんな気分にはなれなかった。
そんな沈黙を破るように、玄関の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん!ノルン姉連れてきたよ!」
「兄さん!」
部屋の扉が勢いよく開く。
飛び込んできたのはアイシャとノルンだった。
「長旅、お疲れさまです…!」
「ああ。ただいま、ノルン」
「ノルン…大きくなったな」
「お父さん…!!」
次の瞬間、ノルンは駆け出していた。
パウロの胸へ飛び込む。
「よかった…無事で……」
「ノルン……」
声が震えている。
別れてからずっと、生きていてほしいと願っていた。何度も最悪の想像をした。
だから今、こうして父親の温もりを感じられることが、たまらなく嬉しかった。
「ノルン……」
パウロも娘を強く抱きしめる。
以前より背は伸びた。それでも腕の中にいる娘は、あの日と変わらない。
「心配かけたな」
「本当です……!本当に心配したんですから……!」
泣きながら胸を叩くノルン。
パウロは苦笑しながら、その頭を撫でた。
久しぶりの親子の再会だった。
その光景を見ていたアイシャも、どこか嬉しそうに微笑む。
けれど、次第にノルンの表情が曇った。
家族は揃っている。そう思ったのに。
一人だけ、見当たらなかった。
「あ、あれ?ジークさんは…?」
ノルンが辺りを見回す。
ジークフリートがいない。
いや、それだけではない。部屋の空気がおかしかった。誰も笑っていない。
パウロは俯き気味で、ルーデウスの顔色も悪い。リーリャはゼニスの肩を支えるように座っている。誰一人として口を開こうとしない。
暖炉の火だけが静かに揺れていた。
「……ジークさん?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
嫌な予感が胸をよぎる。
ジークフリートは強い。誰よりも強い。
だからこそ、ここにいない理由が思いつかなかった。
「兄さん……?」
ノルンは不安そうにルーデウスを見る。
「……全員揃ったので、話をしよう」
ルーデウスはしばらく黙り込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「……まず、ジークさんは、アル…アルブレヒトだった」
「え…?ど、どういうことですか!?」
「詳しいことは俺にもわからない。ただ、事実そうだったんだ」
「そんな……」
驚愕するノルンとアイシャ。
ノルンは以前、一度だけ考えたことがあった。
ジークフリートが、アルブレヒトなのではないかと。
思い返せば、引きこもっていた自分の側にいてくれた時、どこか懐かしい声、家族を見るような優しい眼差し、初対面とは思えない距離感。
そして何より――。
『ノルンも、大きくなったな』
そう言われた時のことを思い出す。撫でられたことを思い出す。
あの言葉は妙に胸に残っていた。
ルーデウスでもない。父でもない。それでいて家族のような響き。
今なら分かる。
あれは本当に兄だったのだ。
「そんな……」
ノルンの唇が震える。
「じゃあ、あの時から……」
ジークフリートはアルブレヒトだった。
自分たちの側にいた。話していた。笑っていた。
それなのに誰も気づかなかった。気づけなかった。
胸の奥が冷たくなる。嫌な予感がした。
なぜなら、この話はまだ終わっていない。
ルーデウスの表情があまりにも暗かったからだ。
「本題はここからだ」
「アルは…アルブレヒト・グレイラットは――」
一度言葉を切る。
誰も口を開かない。
暖炉の火が、小さく揺れた。
「――死亡した」
その言葉が落ちた瞬間、アイシャの肩がびくりと震えた。ノルンの手から鞄が滑り落ちる。
鈍い音が床に響いた。
「え…………?」
理解できなかった。
頭が言葉を拒絶する。
死亡した?
誰が?
アルブレヒトが?
ジークフリートが?
「遺品は、ない」
ルーデウスが続ける。
「灰も残らなかった」
「そんな……」
ノルンの顔から血の気が引いていく。
「な、なんで……?」
震える声。
「なんで、兄さんが行ったのに、ジークさんが死んじゃうんですか!?」
「…ごめん、俺の力不足だ」
「っ!」
ノルンは唇を噛む。
悲しみと怒りと混乱がごちゃ混ぜになる。
ずっと待っていた。
ずっと帰ってくると信じていた。
なのに。
「……!兄、さんが!兄さんが悪いんじゃないですか!?兄さんがジークさんを…アル兄さんを追い詰めたから!」
言ってしまった。
言った瞬間、自分でも分かった。
これは八つ当たりだ。
でも止められなかった。
ルーデウスは反論しなかった。
「……その通りだ。すべて俺が悪い」
「違う。ルディは悪くない。アルに気づけなかった俺の責任だ」
パウロが口を挟む。
低く、苦い声だった。
「ジークフリートの正体に気づく機会はあった。息子が目の前にいたのに、見過ごしてしまった。父親失格だ…」
部屋が静まり返る。
ルーデウスはゆっくりと顔を上げた。
「……ノルン。これから、詳しく説明するから」
「に、兄さんは―――!」
ノルンの視線が落ちる。
ルーデウスの、失われた左手に。
「―――っ!」
わかっている。兄も、父も精一杯やったのだ。それでも、力が及ばなかったのだ。
袖の先で途切れた左腕。そこにあるはずのものが、もうない。
それが何を意味するのか、ノルンはわかっていた。
兄も命を懸けて戦ったのだ。
それでも届かなかった。
助けられなかった。
「兄さん、なら――」
責めようとしていた言葉が消えていく。
兄の顔を見る。やつれていた。
目の下には濃い隈があり、今にも倒れそうなほど憔悴している。
アルブレヒトを失ったのは自分だけではない。
兄さんもだ。兄さんもまた、大切な弟を失ったのだ。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
ルーデウスは首を横に振る。
「いや」
それ以上は続かなかった。
謝る資格がないのは自分の方だと思ったからだ。
ノルンの涙が止まらない。
わかっている。何もできなかった自分に、何かを言う資格はない。それでも、心が収まらなかった。
ルーデウスは、ぽつり、ぽつりと語り始める。
ラパンでのこと。
転移の迷宮でのこと。
ゼニスのこと。
そして、アルブレヒトのこと。
「――以上が、これまでの顛末だ」
語り終えた時、ルーデウスはひどく疲れたように見えた。
「じゃあ、アル兄さんは助からず、お母さんも記憶が…」
「………そうだ」
「――!」
何かを言いたそうに、口を開くノルン。
だが、ルーデウスの失われた左手を見て、やめる。
「…兄さんも、頑張ったんですよね?」
「全力を、尽くしたつもりだ」
「なら、兄さんが頑張っても駄目だったんなら、誰が行っても……どうしても、駄目で、アル兄さんが、死ん……う、ううっ……」
「うわああああん!!ああああ!!」
泣き崩れるノルン。
床に膝をつき、子供のように声を上げて泣く。
「ジークさんが……!」
涙が止まらない。
「ジークさんが――アル兄さんが帰ってくるって……!」
嗚咽で声が途切れる。
「私、ずっと待ってたのに……!」
転移災害の日から、ずっと。
無事でいてほしいと願っていた。
いつか帰ってくると信じていた。
ジークフリートと出会った時も。
アルブレヒトに似ていると思った時も。
どこかで期待していた。
あの日。
引きこもっていた自分の側にいてくれたこと。
ずっと見守ってくれたこと。
何一つ返せていない。
「嫌だよぉ……!」
ノルンは顔を覆う。
「嫌だよぉ、アル兄さん……!」
「…………………」
アイシャは俯いていた。
何も言わない。
何も言えない。
ただ膝の上で拳を握り締めている。
ぽたり。ぽたり。
涙だけが、静かに落ちていた。
■
遠くから、アルブレヒトはその光景を見つめていた。
雪の降る庭園。
ルーデウス邸の窓から漏れる暖かな灯り。
その向こうに家族がいた。
パウロがいる。
ゼニスがいる。
リーリャがいる。
ノルンとアイシャがいる。
ルーデウスもいる。
皆がいる。
自分以外の全員が。
「……」
前、夢見たことがあった。
転移災害が終わって、皆が再会して、また家族で暮らす未来を。
食卓を囲み、他愛もない話をして、笑い合う未来を。
目の前にある光景は、確かにその夢の続きを形にしたものだった。
なのに、誰も笑っていなかった。
重苦しい空気。沈んだ表情。時折聞こえる泣き声。
原因は分かっている。自分だ。
アルブレヒトは拳を握った。
今すぐ飛び出したかった。
生きていると伝えたかった。
母様。父様。兄さん。ノルン、アイシャ、リーリャ。
俺はここにいる。
そう叫びたかった。
『君が近づけば、周囲の人間は危険に晒される』
たが、ヒトガミの声が脳裏をよぎる。
闇霊。不死の呪い。傷ついたシルフィ。
自分が原因で起きた数々の悲劇。
足が動かない。怖かった。家族を失うことが。
そしてもう一つ。
家族に拒絶されることが、怖かった。
死んだはずの人間。
何度殺しても蘇る存在。
そんなものを、本当に人間と呼べるのだろうか。
その時だった。
ふと、窓際に座るゼニスが顔を上げた。
虚ろな瞳。焦点の合わない目。何も理解していないはずの目。
その視線が、まっすぐアルブレヒトを捉えた。
「――っ」
息が止まる。
見つかった。
そう思った。
胸が締め付けられる。
逃げなければ。
もし母さんが自分を見て恐怖したら。化け物を見る目をしたら。
今度こそ耐えられない。
アルブレヒトは反射的に霧の指輪へソウルを流し込む。
身体が雪景色へ溶けるように消えていく。
そして、背を向けて走った。
雪を踏みしめる音。
白い息。
荒い呼吸。
逃げる。ただ逃げる。
何から逃げているのかも分からないまま。
一方、ルーデウス邸の中。
ゼニスは立ち上がっていた。
「……あ」
ゼニスはふらふらと歩き出す。
玄関へ向かう。
「奥様?」
リーリャが声をかける。
だが止まらない。
扉を開け、雪の降る外へ出る。
「ゼニス!?」
パウロが慌てて追いかける。
ゼニスは雪の上を裸足のまま歩く。冷たさなど気にならないように。
ただひたすら、何かを探すように、何かを追いかけるように。
そして、立ち止まる。
そこには誰もいなかった。
降り続く雪だけがあった。
足跡も。気配も。
すべて白く覆い隠されていた。
「……あ」
ゼニスが震える。
虚ろだった瞳が揺れる。
手を伸ばす。
誰かを掴もうとするように。
必死に。
「ぁぁ……」
掠れた声が漏れる。
言葉にならない。
意味を持たない。
ゼニスの指が空を掴む。
誰かの手を探すように。
幼い頃から何度も握った、小さな手を探すように。
「ぁあああああ……!」
絶叫だった。
ゼニスの声がシャリーアの雪空へ響き渡る。
悲鳴のような。
慟哭のような。
胸を裂く声。
「ゼニス…!!」
パウロがゼニスを抱きとめる。
ゼニスが何を見たのか、何を感じたのか、何を失ったのか。
それは誰にも分からない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
ゼニスは全てを失った。
記憶も。知識も。人格も。
何も残っていない。
それでも。
それでもなお。
彼女は母親だった。
第4章 転移の迷宮編 - 終 -
次章
第5章 剣の聖地編
書き溜めが尽きました。