第32話 北神
深い森の奥。
木々の隙間から差し込む陽光が、地面にまだら模様を描いている。
アルブレヒトは一人、静かに座っていた。
闇霊を待っている。
現れては襲いかかり、倒せば消える。そんな終わりの見えない戦いを。
アルブレヒトは疲れ切っていた。
家族と別れ、食事も取らず、一睡もせず一人戦い続け、孤独に日々を過ごす。
ヘルカイトとは、シャリーアに戻る過程で転移魔法陣に乗ってしまったため、離れ離れになっていた。
橙色の蝋石で居場所は伝えているが、来てくれるかどうかもわからない。
わからないことばかりだった。
何をすればいいのか。
どこへ向かえばいいのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が重くなる。
だから考えない。
闇霊を探し、剣を振るう。
それだけに集中する。
そうしている間だけは、余計なことを忘れられた。
だが、ただただ、孤独だった。
そんな中、風が吹く。
木の葉が揺れる。
気配。
アルブレヒトは顔を上げ、立ち上がる。
だが、現れたのは闇霊ではなかった。
「やっと見つけましたよ」
現れたのは一人の青年だった。
黒髪に赤い瞳。
鍛え抜かれた肉体。
立っているだけでわかる。
強い。
間違いなく達人の域にいる。
(……シャンドルに、似ている)
ふと、そんなことを思った。
顔立ちがどことなく似ていた。
もちろん歳は違う。纏う雰囲気も違う。
シャンドルのような柔らかさはない。
むしろ剥き出しの刃のような鋭さを感じる。
それでも、不思議と面影があった。
「あなたが北神流玉葱派などという、ふざけた流派を開いた張本人ですか」
アルブレヒトは答えない。
違う。勝手にそう呼ばれているだけだ。
だが、訂正する気にもなれなかった。
「奇抜派といい玉葱派といい……どうして北神流はこうも妙な連中に付きまとわれるのでしょうね」
青年は肩をすくめる。
その仕草には明らかな侮蔑が混じっていた。
「困るんですよ。北神流の名を汚されては」
そう言って背負っていた剣を抜く。
重厚な金属音。
現れたのは人の背丈にも迫る巨大な剣。
その瞬間、空気が変わった。
ただ握られているだけなのに、肌が粟立つ。
本能が警鐘を鳴らす。
危険だ、と。
森が静まる。
圧力。
剣が、ただ存在するというだけで、周囲を威圧していた。
「名乗りましょう」
青年は剣を肩に担ぐ。
「アレクサンダー・カールマン・ライバック」
赤い瞳が真っ直ぐアルブレヒトを射抜く。
「北神流当代宗主――北神3世です」
その言葉と共に、森を揺らすほどの闘気が放たれた。
足裏の感覚が消える。
アルブレヒトが、
「……っ!」
地面が消えたように、踏み込めない。踏ん張れない。
次の瞬間、腹に衝撃。
横。
肩が裂ける。
上。
顎が跳ねる。
下。
背骨に衝撃。
「が、ッ……!」
空中で身体が回転する。受け身も取れない。
重力が味方しない。
(重力魔術…!?)
アレクは自由だった。
宙を蹴るように縦横無尽に跳ぶ。
壁も空も関係ない。
「終わりです」
王竜剣が閃く。
斬撃が四方八方から降る。
アルブレヒトの身体が血に染まる。
叩きつけられ、浮かされ、蹴り飛ばされ、また斬られる。
一方的。
完全な制圧。
蹴り飛ばす。
アルブレヒトが横に大きく吹き飛ばされる。
「地に縛られた剣では、僕は斬れない」
見下ろすアレクサンダー。
「これでわかったでしょう?もう二度と北神流を汚すような…」
「―――おい」
なんなんだ、こいつは。
いきなり現れて、まともに話もせず襲いかかってきて、偉そうに説教をする。
いつもなら、冷静になれた。
だが、これまでの戦いで傷ついた心が、ささくれた精神が、アルブレヒトを冷静にさせなかった。
「舐めるなよ」
その瞬間。
指が、柄に触れた。
ストームルーラー。
抜く。
――空気が変わる。
風が唸る。低く、獣の咆哮のように。
砂が舞い上がる。
瓦礫が震える。
森が軋む。
嵐が、来る。
(何か……まずい……!)
直感するアレクサンダー。
急接近。王竜剣を振り抜き――空を切る。
いない。
視界の端で風が逆巻く。
見上げる。
アルブレヒトは、上にいた。
自分よりも、さらに高く。
嵐に抱かれて。
重力を踏み台にしている。
いや、踏み潰している。
「な――」
嵐が収束する。
四散していた暴風が、一点へ。
地を荒らし、空を逆巻き、すべてを破壊する力が一点に集まる。
異常な圧力に空間が歪む。
(―――死)
心臓が冷える。本能が叫ぶ。
身体が勝手に動く。
王竜剣を構える。
重力を最大出力。
防御陣形を組み、自分の周囲に重力殻を幾重にも重ねる。
圧縮。固定。層化。
同時に、アルブレヒトが振り下ろす。
「ハアアアアァァッ!!!」
「――――ッ!!」
嵐が落ちる。
それは風ではない。
圧縮された大気の塊。
空そのものが質量を持って叩きつけられる。
世界が白く弾けた。
音が消える。
次の瞬間、遅れて轟音が大地を裂く。
衝撃。
重力殻が1枚、砕ける。
2枚、3枚、4枚、粉砕。
5枚目が歪み、軋み、爆ぜる。
「ぐ、ぁ……ッ!」
歯が軋む。腕が悲鳴を上げる。圧が骨を潰す。
地面が――沈む。
地盤が圧壊し、半径数メートルが一瞬で盆地に変わる。
周囲の木々が根ごと引き抜かれ、岩塊が紙屑のように巻き上がり、粉砕され、霧になる。
空が裂ける。
雲が消し飛ぶ。
嵐の柱が天へと貫通し、上空の雲層を丸ごと吹き飛ばす。
「止まれ……止まれッ……!」
さらに重力を重ねる。
圧縮。層化。固定。
だが足りない。重力殻が悲鳴を上げる。
一枚ごとに爆散するたび、衝撃波が外周へ拡散し、森が薙ぎ払われる。
王竜剣が軋む。
視界が赤い。
血が滲む。
嵐は止まらない。
それは斬撃ではない。
天災。
台風を一点に凝縮した暴威。
押し切られる。
膝が沈む。
足元の岩盤が割れ、放射状に亀裂が走る。
(――ここで、終わる?)
ほんの一瞬、脳裏をよぎる。
――違う。違う、違う。違う違う違う違う違う!!!
「う、うおおおッッッ!!!」
重力を偏向。
正面防御を放棄。“流し”へ切り替える。
重力の軸をずらす。
嵐の中心を、半瞬だけ逸らす。
嵐が横へ裂ける。
流れた暴風が大地を抉り、残っていた木々を一斉に倒伏させながら、数百メートル先の丘を削り飛ばす。
それでも、全部は逸らせない。
嵐の残滓が肩口を深く切り裂く。
肉が弾ける。血が噴き出す。
轟音。
視界が晴れる。
地形が変わっていた。
巨大なクレーター。
削り取られた大地。
森と空には、嵐が貫いた大穴。
アレクサンダーは立っている。
膝は折れかけ、腕は震え、肩から血が滴る。
だが、立っている。
荒い呼吸。
見上げる。
アルブレヒトもまた、血に濡れながら立っている。
嵐はまだ唸っている。
制御しきれていない。
アレクサンダーは考える。
さっきの一撃。
もしかすると、もしかすれば。
自分は死んでいたかもしれない。
「……わかりました」
「玉葱派。流派としては、認めましょう」
「ですが、最初から本気を出していれば、勝っていたのは僕です」
唇がわずかに歪む。
「それを忘れないように」
アルブレヒトは何も言わない。
ただ睨み返す。
嵐が一瞬、強く唸る。
緊張が張り詰める。
今、もう一度ぶつかれば――
どちらかは確実に死ぬ。
アレクサンダーはそれを理解している。
アルブレヒトも、理解している。
数秒の沈黙。
そして、アレクは踵を返す。
重力がふっと緩む。
アルブレヒトの足裏に、重力の感触が戻る。
「今日は、ここまでにしておきましょう」
振り返らない。
だが声だけが残る。
「次は、空も地も、僕のものです」
瓦礫を踏み越え、去る。
その背中は血を滴らせている。
勝利ではない。だが敗北でもない。
痛み分け。
互いに「殺し損ねた」戦い。
やがて風が弱り、嵐がほどける。
空が戻る。
更地に、アルブレヒト一人。
剣を握ったまま、去っていったアレクサンダーを見つめる。
呼吸が荒い。
身体が震える。
怒りも、悔しさも、まだ消えない。
「……なんなんだ、あいつ」
思わず呟く。
腹が立つ。
突然現れて、勝手な理屈で斬りかかってきて。
挙句の果てに、偉そうなことだけ言って去っていった。
思い出すだけで苛立つ。
だが、それ以上に引っ掛かることがあった。
ストームルーラーでの一撃は、確かに届いていた。
あと少し。
ほんの少し何かが違えば。
決着は別のものになっていたかもしれない。
仕留めきれなかった。
力が足りなかったのか。
技が足りなかったのか。
それとも覚悟か。
わからないが、ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
今の自分は弱い。
アレクサンダーより弱いという意味ではない。
絶大な力を抱えながら、その力に振り回されている自分自身が、弱い。
拳を握る。
ストームルーラーを握る手に力が入る。
「……もっと」
声が漏れる。
自分でも気づかないほど小さな声。
「もっと、強くならないと」
■
更地になった森を進んでいると、聞き慣れた鳴き声が響く。
振り返る。
そこには、赤い巨体があった。
「……ヘルカイト」
名を呼ぶ。
するとヘルカイトは迷いなく近寄ってきた。
「ど、どうした?」
赤い瞳が、ギョロギョロとアルブレヒトを見回す。
匂いを嗅ぐと、顔をしかめ、唸り声をあげる。
苛立っている。だが、アルブレヒトに苛立っているわけではない。
「お前…もしかして、心配してくれているのか?」
ヘルカイトはその言葉に反応せず、無言で頭を押し付ける。ぐいぐいと押され、思わず一歩後ろへ下がる。だが、抵抗する気にはなれなかった。
硬い鱗の感触。微かな体温。
「…ありがとう」
アルブレヒトは首筋を撫でた。
ヘルカイトが僅かに喉を鳴らす。
その音を聞いた瞬間、ほんの少しだけ、胸の奥の重さが軽くなった。
自分は一人ではなかった。
少なくとも、ヘルカイトは来てくれた。
橙色の蝋石を頼りに自分を探して、迎えに来てくれた。
久しぶりに見る相棒の姿に、少しだけ胸の奥が軽くなる。
だが、それも長くは続かなかった。
奴のことが、脳裏に焼き付いている。
アレクサンダー。
圧倒的な機動力。
空を支配する重力。
そして、自分を真正面から押し潰しかけたあの力。
足りない。まだ足りない。
剣も。技も。覚悟も。
シャンドルとの修行を通して、力だけでは何も守れないと学んだ。
それはわかっている。
わかっているはずだった。
だが。家族と別れ、居場所を失い、ただ孤独だった。
だから今は、力が欲しかった。
理屈ではない。
ただ、どうしようもなく、強くなりたかった。
そうだ。俺は強くなるんだ。
オルステッドを倒せるくらい、強くなる。守るべきものをすべてなくした空っぽの心に、その目的は驚くほど馴染んだ。
それでよかったんだ。それだけでよかったんだ。
アルブレヒトはヘルカイトの背に乗る。
風が吹く。
遠く。
ある方角へ視線を向けた。
その瞳には迷いがない。
あるのは焦燥。
喪失。
そして渇望。
強さへの渇望だけだった。
「行こう。――剣の聖地へ」
ヘルカイトが飛び立つ。
騎士を目指した少年は今、ただ強さだけを求めていた。