レイダとの修行は、シャンドルの教えとも、ガルとの修行ともまるで違っていた。
剣を振るわない。
構えもしない。
ただ、その場に座り、静かに瞑想を続けるだけ。
道場の中庭で座禅を組み、静かに瞑想するアルブレヒト。
雪が降る。
白い吐息がゆっくりと空へ溶けていく。
時が流れる。
頭には雪が積もり、肩には一羽の小鳥が止まった。
それでもアルブレヒトは微動だにしない。
呼吸だけが静かに繰り返される。
まるで雪景色の一部になったかのようだった。
深く集中している――ように見える。しかし、アルブレヒトの心中には様々な考えが巡っていた。
家族のこと。闇霊のこと。龍神のこと。考えないようにはしていた。しかし、何もしていないと考えにどうしても没頭してしまう。
レイダはその様子をしばらく眺めると、足元の雪を掬い、小さな雪玉を作る。
軽く握り固める。
そして何気ない仕草で放った。
雪玉は真っ直ぐ飛び――
べしゃり。
アルブレヒトの顔面へ見事に直撃した。
「っ!」
目を見開く。
肩に止まっていた鳥が驚いて羽ばたき、空へ飛び去っていく。
砕けた雪が頬へ張り付き、鼻先からぱらぱらと零れ落ちた。
レイダはため息をひとつ吐く。
「雑念が多い。気を抜くんじゃないよ」
アルブレヒトは顔に付いた雪も払わず、小さく頭を下げた。
「……はい。すみません」
「じゃあ、また始めな」
「はい」
再び目を閉じる。
降り積もる雪の中、アルブレヒトは静かに呼吸を整え始めた。
■
ある日のことだった。
鍛錬を終えたアルブレヒトが木剣を拭いていると、ギレーヌが隣へ腰を下ろした。
しばらく二人とも何も話さない。
風が雪をさらい、静かな時間だけが流れる。
やがて、ギレーヌがぽつりと口を開いた。
「……家族はどうした」
その一言で、アルブレヒトの手が止まる。
返事はない。
視線だけが静かに足元へ落ちる。
ギレーヌはそれ以上急かさず、続けた。
「パウロもお前を探していた。一度戻ってやれ」
「嫌だ」
即答だった。
あまりにも早い拒絶。
ギレーヌはわずかに目を細める。
「俺は……家族のもとには帰らない」
その声は低く、感情を押し殺していた。
ギレーヌは何も言わない。
ただ黙ってアルブレヒトを見つめている。
その沈黙が、かえって胸に痛かった。
剣を振るうのに夢中で、自分のことを忘れているのか?
呪われ人だから、家族の元を離れたんだろう?
家族を傷つけてしまうから、逃げたんだろう?
胸の奥で、自分自身の声が何度も問いかけてくる。
逃げた。
守るためだと自分に言い聞かせながら、結局は逃げたのだ。
アルブレヒトは拳を握り締める。
「俺には……力だけだ。それしかない。それだけでいい」
そんなわけがない。
心のどこかでは、とっくに分かっていた。
力だけで人は生きられない。
剣だけでは心の穴は埋まらない。
だが、それでいいのだ。
師匠と別れた。
家族とも別れた。
大切なものは、もう何も残っていない。
残されたのは、この身に積み重ねた力だけ。
だから今は、それに縋るしかなかった。
アルブレヒトは勢いよく立ち上がる。逃げるように道場を後にした。
背中へギレーヌの視線を感じる。
彼女は何も言わなかった。
止めることも。慰めることも。
ただ、その背中が見えなくなるまで静かに見送っていた。
■
ガルとの修行は続いていた。
いや、修行と呼んでいいのかすら怪しい。
今日も首を刎ねられた。
昨日も。
一昨日も。
何度死んだのか、もう数えることすらやめていた。
光の太刀は、未だ見えない。
見えたと思えば死に、躱せたと思えば死に、受けられたと思えば死ぬ。
ただ死んでは蘇り、また挑み続ける。
そんな日々だった。
当初の狙いは、間違ってはいないはずだった。
死を繰り返せば人間性は削れていく。
そうすれば闇霊は現れない。自分が誰かを傷つけることもなくなる。
そのはずだった。
だが、ルーデウス。ノルン。アイシャ。パウロ。ゼニス。リーリャ。
家族との記憶だけは、何度死んでも薄れなかった。
忘れようとしても忘れられない。
むしろ死ぬたびに鮮明になるような気さえした。
人の像の備蓄も無限ではない。
このままでは、いずれ尽きる。
その時こそ、闇霊は再びこの世界へ現れる。
焦りだけが積み重なっていった。
そんなある日だった。
「あの、少しいいですか?」
珍しく声を掛けてきたのは、一人の青年だった。
茶髪の優しそうな顔立ち。
腰には剣。まだ若いが、その身のこなしには確かな実力が滲んでいる。
ジノ・ブリッツ。
「何だ」
「あの、アルブレヒトさんも僕らと一緒に稽古をしませんか?」
「断る」
言葉少なに断り、去ろうとするアルブレヒト。
「え、ええ…」
困惑した様子のジノ。
どんどん遠ざかっていくアルブレヒト。
「あ、あの!」
それに声をかける。
アルブレヒトは少しだけ振り返り、ジノに首を向ける。
「…何だ」
「前から気になってたんですけど…あなたはそんなに頑張って何をしたいんですか?剣神様に毎日斬られて。辛くないんですか?」
「何も問題はない。龍神を倒すためだ」
何回も繰り返してきた答えだった。
誰に問われても、そう答える。
そう答え続ければ、本当にそう思える気がしていた。
ジノは少しだけ首を傾げる。
「…それ、本当ですか?」
純粋な疑問。
しかし、その疑念は不思議と胸の奥を貫いた。
息を呑むアルブレヒト。
「いや、本当なんでしょうけど…」
ジノは悪気なく続けた。
「それだけじゃないですよね。龍神を倒すのは二次目的でしょう?本当にやりたいことがあるはずです」
「……………」
ある。
決まっている。
家族のもとへ帰りたい。それだけだ。
だが、それは叶わない。
自分は呪われ人で、近くにいるだけで大切な人を傷つけてしまう。闇霊を呼び寄せてしまう。
だから帰れない。
帰ってはいけない。
「強さって、手段ですよね」
ジノは続ける。
「今のあなたは、強くなること自体が目的になってる気がします。あなたの本当の目的って何ですか?」
答えられない。
沈黙だけが流れる。
「……なんか、いろいろ聞いちゃってすみません。でも、あまりに非効率的だったので、気になってしまって」
「……非効率?」
「はい」
ジノは当然のように頷く。
「龍神を倒したいなら、龍神を研究するべきです」
「……」
「龍神の技を調べるとか、弱点を探すとか、協力者を集めるとか。でもあなたは毎日剣神様に殺されてる」
アルブレヒトは押し黙る。
何も言い返せない。
「剣神様を超えれば龍神を倒せるってわけじゃないですよね」
そうだ。剣神より龍神の方が遥かに強い。
「じゃあ、剣神様に殺され続けるのは遠回りじゃないですか?」
アルブレヒトは拳を握る。
言葉が出ない。
「……本当は」
ジノは少し考えてから口を開いた。
「龍神なんて、どうでもいいんじゃないですか?」
「……何?」
「龍神を倒した先に何があるんです?」
「…………」
「倒した後、あなたは何をするんですか?」
答えられない。
龍神を倒した後。
その先。
その時、自分は何を望むのか。
考えたこともなかった。
いや、考えないようにしていた。
家族の顔が浮かぶ。
帰りたい。その願いだけは、何度否定しても消えてくれない。
もし、龍神を倒せたとして。
その先に何があるのか。
その後、俺は何をするのか。
わからない。
……わからない。
■
道場の縁側。
アルブレヒトは鍛錬もせず、木剣は傍らに置いたまま、一人腰を下ろし、降り積もる雪をぼんやりと眺めていた。
「珍しいわね」
聞き慣れた声だった。
「……ああ」
顔を上げると、腕を組んだエリスが立っていた。
「あんたが鍛錬もせずぼーっとしてるなんて」
「…………」
返事はない。
エリスは小さく息を吐いた。
「何かあったの?」
「……?」
「何よ。心配してるのに」
その言葉にアルブレヒトは少しだけ目を丸くした。
「……意外だ」
「何がよ」
「君から心配されるとは思わなかった」
「ふん」
そっぽを向くエリス。
普段ならこんなことは聞かない。
自分の剣を極めるだけで精一杯。他人を気遣う余裕などなかった。
だが、ニナやイゾルテとの出会いが彼女を少しずつ変えていた。
そしてもう一つ。
アルブレヒトは、ルーデウスによく似ていた。
性格ではない。顔だ。
その横顔を見るたび、魔大陸で共に旅をした頃を思い出す。
いつも大変そうにしていて、気難しい顔をしていたルーデウス。当時は気づかなかった。助けられなかった。
だからというわけではないが、エリスにしては珍しく、彼を助けようと考えた。
「で、何なのよ」
「ああ、いや…」
アルブレヒトは言葉を探すように俯いた。
誰かに話そうと思ったことなど、一度もない。
いや、話したところで理解されるはずがないと思っていた。
だから、口を開きかけては閉じる。
「はっきりしなさいよ」
短く急かされる。
「…そうだな。俺は、思い悩んでいる、のだと思う」
「いつまで経っても強くなれない。龍神を倒せる光景が浮かばない。俺には、時間がないのに…」
「………」
エリスは黙って聞いていた。
やがて口を開く。
「……じゃあ、毎日お風呂入って、身体を洗って、ご飯食べて、暖かい布団でぐっすり寝てみたら?」
「…は?」
あまりにも予想外の返答だった。
思わず間の抜けた声が漏れる。
「ニナが言ってたのよ。私は殺気を出し過ぎだから、少し休むべきだって。最初は意味が分からなかったけど…」
少し照れくさそうに鼻を鳴らす。
「言われた通りにしたら、イゾルテから一本取れるようになったの。…あんたも、少し休みなさいよ」
「だから、俺には時間がないんだ。休んでる暇はない」
エリスは呆れたように口を開く。
「そんなに気難しい顔してたら、ルーデウスも困るわよ」
「―――」
その名前だけで、アルブレヒトの胸の奥が、鈍く痛んだ。
思わず視線が揺れる。
「なにきょとんとしてるのよ。あんた、いずれルーデウスのところに戻るんでしょ?」
「……俺は戻らない」
絞り出すような声だった。
「強くなって、龍神を倒せれば、それでいい」
「はあ?ただ強くなってどうするのよ」
エリスは眉をひそめる。意味がわからない、というような顔だ。
「私はルーデウスに見合う剣士になるために強くなりたい」
「龍神なんて、ただの通過点」
その瞳に迷いはない。
剣を振るう理由。強くなる理由。
エリスの中では、それは最初から決まっていた。
だからこそ、不思議だった。
目の前の男が、何のために剣を振っているのか。
真っ直ぐアルブレヒトを見据える。
「あんたはどう?」
アルブレヒトの喉がごくり、と動く。
答えはある。
ずっと胸の奥にある。
それなのに、口にした瞬間、それを失ってしまう気がした。
「……………俺は」
龍神を倒せればそれでいい? そんなわけがない。
でも、それ以外何を望めと言うんだ。誰かを傷つけることしかできない自分は、誰も守ることができない。
本当は、本当は…帰りたい。
あの暖かい場所へ、家族がいる場所へ。
パウロの大きな手。
ゼニスの優しい笑顔。
リーリャの淹れる紅茶。
ルーデウスの朗らかな笑顔。
ノルンの真っ直ぐな瞳。
アイシャの生意気な笑み。
どれも、もう手の届かない場所にある。
贅沢すぎる願いだ。叶ってはいけない願いだ。
「俺、は……」
口をへの字にしてアルブレヒトを見つけ続けるエリス。何か言いたそうに口を開こうとするが、少し考え、ゆっくりと呟いた。
「……まあ、悩めばいいんじゃないの」
エリスはそう言って立ち上がった。驚いたように目を瞬かせてエリスを見上げるアルブレヒト。
これまでのエリスならば強い言葉でアルブレヒトを詰っただろう。だが、剣の聖地での交流がエリスを変えていた。
「自分に嘘をつくよりはマシよ」
「でも、答えが見つかったら教えなさい」
それだけ言い残し、去っていく。
アルブレヒトは一人残された。
雪が静かに降っている。
家族。
帰る場所。
考えないようにしてきた言葉ばかりが頭を巡る。
答えは出ない。
だが、先ほどまで胸を締め付けていた焦りだけは、不思議と少し薄らいでいた。
――今は、考えよう。
逃げずに。
降り積もる雪を見つめながら、アルブレヒトは静かに目を閉じた。
■
再び、水神流の修行が始まった。
アルブレヒトは静かに目を閉じる。
呼吸を整え、意識を沈める。
考えない。
力のことも。龍神のことも。家族のことも。
ただ、今この瞬間だけを見つめる。
雪が静かに降り続いていた。
肩に積もり。
頭に積もり。
やがて小鳥が一羽、恐れることなく肩へ舞い降りる。
それでもアルブレヒトは微動だにしない。
森の小動物たちも、警戒することなくその周囲へ集まってきた。
その様子を眺めながら、レイダは小さく雪を掬う。手の中で軽く丸め、雪玉を作る。
そして、何気ない手つきで放たれたそれは、音もなくアルブレヒトへ飛んだ。
その瞬間だった。
アルブレヒトの右手が、すっと動く。
力みもなく。
気負いもなく。
まるで最初からそこへ置かれていたかのような、あまりにも自然な動作。
雪玉はその手に触れ、ふわりと軌道を変える。
砕けた雪が静かに地面へ散った。
小鳥は逃げない。
周囲の動物たちも、何事もなかったかのように雪の上で遊び続けている。
レイダは口元を緩めた。
「少しは肩の力が抜けたようだね」
アルブレヒトは静かに目を開く。
雪は、変わらず降っていた。
冷たいはずなのに、不思議と寒くは感じない。
先日まで胸を締め付けていた焦燥も、今だけは静かだった。
「ま、短い間でここまでできれば上出来さね」
レイダは立ち上がり、肩についた雪を払う。
「水神流は急ぐ剣じゃない。焦れば焦るほど、見えるものも見えなくなる」
アルブレヒトは黙ってその言葉を聞いた。
まだ答えは出ていない。
家族のことも。龍神のことも。自分が何のために剣を振るうのかも。何一つ解決していない。
それでも、ほんの少しだけ、胸の中の濁った水が澄んだような気がした。
アルブレヒトは深く頭を下げる。
「……ありがとう、ございます」
返事はない。
ただ、雪だけが静かに降り積もる。
先ほどまで肩に止まっていた小鳥が、もう一度羽ばたき、再び彼の肩へ舞い降りた。
アルブレヒトも、その小さな重みを払い落とそうとはしなかった。
なんとなく投稿時間を変えてみました。
基本20時あたりで投稿してきましたが、皆さんのご希望があれば適当に変えていこうと思います。