玉葱騎士、六面世界に立つ   作:プラザ合意

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第35話 迷うこと

 

 レイダとの修行は、シャンドルの教えとも、ガルとの修行ともまるで違っていた。

 剣を振るわない。

 構えもしない。

 ただ、その場に座り、静かに瞑想を続けるだけ。

 

 道場の中庭で座禅を組み、静かに瞑想するアルブレヒト。

 雪が降る。

 白い吐息がゆっくりと空へ溶けていく。

 時が流れる。

 頭には雪が積もり、肩には一羽の小鳥が止まった。

 それでもアルブレヒトは微動だにしない。

 呼吸だけが静かに繰り返される。

 まるで雪景色の一部になったかのようだった。

 

 深く集中している――ように見える。しかし、アルブレヒトの心中には様々な考えが巡っていた。

 家族のこと。闇霊のこと。龍神のこと。考えないようにはしていた。しかし、何もしていないと考えにどうしても没頭してしまう。

 

 レイダはその様子をしばらく眺めると、足元の雪を掬い、小さな雪玉を作る。

 軽く握り固める。

 そして何気ない仕草で放った。

 雪玉は真っ直ぐ飛び――

 べしゃり。

 アルブレヒトの顔面へ見事に直撃した。

 

「っ!」

 

 目を見開く。

 肩に止まっていた鳥が驚いて羽ばたき、空へ飛び去っていく。

 砕けた雪が頬へ張り付き、鼻先からぱらぱらと零れ落ちた。

 レイダはため息をひとつ吐く。

 

「雑念が多い。気を抜くんじゃないよ」

 

 アルブレヒトは顔に付いた雪も払わず、小さく頭を下げた。

 

「……はい。すみません」

「じゃあ、また始めな」

「はい」

 

 再び目を閉じる。

 降り積もる雪の中、アルブレヒトは静かに呼吸を整え始めた。

 

 

 

 ある日のことだった。

 鍛錬を終えたアルブレヒトが木剣を拭いていると、ギレーヌが隣へ腰を下ろした。

 しばらく二人とも何も話さない。

 風が雪をさらい、静かな時間だけが流れる。

 やがて、ギレーヌがぽつりと口を開いた。

 

「……家族はどうした」

 

 その一言で、アルブレヒトの手が止まる。

 返事はない。

 視線だけが静かに足元へ落ちる。

 ギレーヌはそれ以上急かさず、続けた。

 

「パウロもお前を探していた。一度戻ってやれ」

「嫌だ」

 

 即答だった。

 あまりにも早い拒絶。

 ギレーヌはわずかに目を細める。

 

「俺は……家族のもとには帰らない」

 

 その声は低く、感情を押し殺していた。

 ギレーヌは何も言わない。

 ただ黙ってアルブレヒトを見つめている。

 その沈黙が、かえって胸に痛かった。

 

 剣を振るうのに夢中で、自分のことを忘れているのか?

 呪われ人だから、家族の元を離れたんだろう?

 家族を傷つけてしまうから、逃げたんだろう?

 胸の奥で、自分自身の声が何度も問いかけてくる。

 逃げた。

 守るためだと自分に言い聞かせながら、結局は逃げたのだ。

 アルブレヒトは拳を握り締める。

 

「俺には……力だけだ。それしかない。それだけでいい」

 

 そんなわけがない。

 心のどこかでは、とっくに分かっていた。

 力だけで人は生きられない。

 剣だけでは心の穴は埋まらない。

 

 だが、それでいいのだ。

 師匠と別れた。

 家族とも別れた。

 大切なものは、もう何も残っていない。

 残されたのは、この身に積み重ねた力だけ。

 だから今は、それに縋るしかなかった。

 

 アルブレヒトは勢いよく立ち上がる。逃げるように道場を後にした。

 背中へギレーヌの視線を感じる。

 彼女は何も言わなかった。

 止めることも。慰めることも。

 ただ、その背中が見えなくなるまで静かに見送っていた。

 

 

 

 

 ガルとの修行は続いていた。

 いや、修行と呼んでいいのかすら怪しい。

 今日も首を刎ねられた。

 昨日も。

 一昨日も。

 何度死んだのか、もう数えることすらやめていた。

 光の太刀は、未だ見えない。

 見えたと思えば死に、躱せたと思えば死に、受けられたと思えば死ぬ。

 ただ死んでは蘇り、また挑み続ける。

 そんな日々だった。

 

 当初の狙いは、間違ってはいないはずだった。

 死を繰り返せば人間性は削れていく。

 そうすれば闇霊は現れない。自分が誰かを傷つけることもなくなる。

 そのはずだった。

 

 だが、ルーデウス。ノルン。アイシャ。パウロ。ゼニス。リーリャ。

 家族との記憶だけは、何度死んでも薄れなかった。

 忘れようとしても忘れられない。

 むしろ死ぬたびに鮮明になるような気さえした。

 

 人の像の備蓄も無限ではない。

 このままでは、いずれ尽きる。

 その時こそ、闇霊は再びこの世界へ現れる。

 焦りだけが積み重なっていった。

 そんなある日だった。

 

「あの、少しいいですか?」

 

 珍しく声を掛けてきたのは、一人の青年だった。

 茶髪の優しそうな顔立ち。

 腰には剣。まだ若いが、その身のこなしには確かな実力が滲んでいる。

 ジノ・ブリッツ。

 

「何だ」

「あの、アルブレヒトさんも僕らと一緒に稽古をしませんか?」

「断る」

 

 言葉少なに断り、去ろうとするアルブレヒト。

 

「え、ええ…」

 

 困惑した様子のジノ。

 どんどん遠ざかっていくアルブレヒト。

 

「あ、あの!」

 

 それに声をかける。

 アルブレヒトは少しだけ振り返り、ジノに首を向ける。

 

「…何だ」

「前から気になってたんですけど…あなたはそんなに頑張って何をしたいんですか?剣神様に毎日斬られて。辛くないんですか?」

「何も問題はない。龍神を倒すためだ」

 

 何回も繰り返してきた答えだった。

 誰に問われても、そう答える。

 そう答え続ければ、本当にそう思える気がしていた。

 ジノは少しだけ首を傾げる。

 

「…それ、本当ですか?」

 

 純粋な疑問。

 しかし、その疑念は不思議と胸の奥を貫いた。

 息を呑むアルブレヒト。

 

「いや、本当なんでしょうけど…」

 

 ジノは悪気なく続けた。

 

「それだけじゃないですよね。龍神を倒すのは二次目的でしょう?本当にやりたいことがあるはずです」

「……………」

 

 ある。

 決まっている。

 家族のもとへ帰りたい。それだけだ。

 だが、それは叶わない。

 自分は呪われ人で、近くにいるだけで大切な人を傷つけてしまう。闇霊を呼び寄せてしまう。

 だから帰れない。

 帰ってはいけない。

 

「強さって、手段ですよね」

 

 ジノは続ける。

 

「今のあなたは、強くなること自体が目的になってる気がします。あなたの本当の目的って何ですか?」

 

 答えられない。

 沈黙だけが流れる。

 

「……なんか、いろいろ聞いちゃってすみません。でも、あまりに非効率的だったので、気になってしまって」

「……非効率?」

「はい」

 

 ジノは当然のように頷く。

 

「龍神を倒したいなら、龍神を研究するべきです」

「……」

「龍神の技を調べるとか、弱点を探すとか、協力者を集めるとか。でもあなたは毎日剣神様に殺されてる」

 

 アルブレヒトは押し黙る。

 何も言い返せない。

 

「剣神様を超えれば龍神を倒せるってわけじゃないですよね」

 

 そうだ。剣神より龍神の方が遥かに強い。

 

「じゃあ、剣神様に殺され続けるのは遠回りじゃないですか?」

 

 アルブレヒトは拳を握る。

 言葉が出ない。

 

「……本当は」

 

 ジノは少し考えてから口を開いた。

 

「龍神なんて、どうでもいいんじゃないですか?」

「……何?」

「龍神を倒した先に何があるんです?」

「…………」

「倒した後、あなたは何をするんですか?」

 

 答えられない。

 龍神を倒した後。

 その先。

 その時、自分は何を望むのか。

 考えたこともなかった。

 いや、考えないようにしていた。

 家族の顔が浮かぶ。

 帰りたい。その願いだけは、何度否定しても消えてくれない。

 

 もし、龍神を倒せたとして。

 その先に何があるのか。

 その後、俺は何をするのか。

 

 わからない。

 

 ……わからない。

 

 

 

 

 道場の縁側。

 アルブレヒトは鍛錬もせず、木剣は傍らに置いたまま、一人腰を下ろし、降り積もる雪をぼんやりと眺めていた。 

 

「珍しいわね」

 

 聞き慣れた声だった。

 

「……ああ」

 

 顔を上げると、腕を組んだエリスが立っていた。

 

「あんたが鍛錬もせずぼーっとしてるなんて」

「…………」

 

 返事はない。

 エリスは小さく息を吐いた。

 

「何かあったの?」

「……?」

「何よ。心配してるのに」

 

 その言葉にアルブレヒトは少しだけ目を丸くした。

 

「……意外だ」

「何がよ」

「君から心配されるとは思わなかった」

「ふん」

 

 そっぽを向くエリス。

 普段ならこんなことは聞かない。

 自分の剣を極めるだけで精一杯。他人を気遣う余裕などなかった。

 だが、ニナやイゾルテとの出会いが彼女を少しずつ変えていた。

 そしてもう一つ。

 アルブレヒトは、ルーデウスによく似ていた。

 性格ではない。顔だ。

 その横顔を見るたび、魔大陸で共に旅をした頃を思い出す。

 いつも大変そうにしていて、気難しい顔をしていたルーデウス。当時は気づかなかった。助けられなかった。

 だからというわけではないが、エリスにしては珍しく、彼を助けようと考えた。

 

「で、何なのよ」

「ああ、いや…」

 

 アルブレヒトは言葉を探すように俯いた。

 誰かに話そうと思ったことなど、一度もない。

 いや、話したところで理解されるはずがないと思っていた。

 だから、口を開きかけては閉じる。

 

「はっきりしなさいよ」

 

 短く急かされる。

 

「…そうだな。俺は、思い悩んでいる、のだと思う」

 

「いつまで経っても強くなれない。龍神を倒せる光景が浮かばない。俺には、時間がないのに…」

「………」

 

 エリスは黙って聞いていた。

 やがて口を開く。

 

「……じゃあ、毎日お風呂入って、身体を洗って、ご飯食べて、暖かい布団でぐっすり寝てみたら?」

「…は?」

 

 あまりにも予想外の返答だった。

 思わず間の抜けた声が漏れる。

 

「ニナが言ってたのよ。私は殺気を出し過ぎだから、少し休むべきだって。最初は意味が分からなかったけど…」

 

 少し照れくさそうに鼻を鳴らす。

 

「言われた通りにしたら、イゾルテから一本取れるようになったの。…あんたも、少し休みなさいよ」

「だから、俺には時間がないんだ。休んでる暇はない」

 

 エリスは呆れたように口を開く。

 

「そんなに気難しい顔してたら、ルーデウスも困るわよ」

「―――」

 

 その名前だけで、アルブレヒトの胸の奥が、鈍く痛んだ。

 思わず視線が揺れる。

 

「なにきょとんとしてるのよ。あんた、いずれルーデウスのところに戻るんでしょ?」

「……俺は戻らない」

 

 絞り出すような声だった。

 

「強くなって、龍神を倒せれば、それでいい」

「はあ?ただ強くなってどうするのよ」

 

 エリスは眉をひそめる。意味がわからない、というような顔だ。

 

「私はルーデウスに見合う剣士になるために強くなりたい」

「龍神なんて、ただの通過点」

 

 その瞳に迷いはない。

 剣を振るう理由。強くなる理由。

 エリスの中では、それは最初から決まっていた。

 だからこそ、不思議だった。

 目の前の男が、何のために剣を振っているのか。

 真っ直ぐアルブレヒトを見据える。

 

「あんたはどう?」

 

 アルブレヒトの喉がごくり、と動く。

 答えはある。

 ずっと胸の奥にある。

 それなのに、口にした瞬間、それを失ってしまう気がした。

 

「……………俺は」

 

 龍神を倒せればそれでいい? そんなわけがない。

 でも、それ以外何を望めと言うんだ。誰かを傷つけることしかできない自分は、誰も守ることができない。

 

 本当は、本当は…帰りたい。

 あの暖かい場所へ、家族がいる場所へ。

 パウロの大きな手。

 ゼニスの優しい笑顔。

 リーリャの淹れる紅茶。

 ルーデウスの朗らかな笑顔。

 ノルンの真っ直ぐな瞳。

 アイシャの生意気な笑み。

 どれも、もう手の届かない場所にある。

 

 贅沢すぎる願いだ。叶ってはいけない願いだ。

 

「俺、は……」

 

 口をへの字にしてアルブレヒトを見つけ続けるエリス。何か言いたそうに口を開こうとするが、少し考え、ゆっくりと呟いた。

 

「……まあ、悩めばいいんじゃないの」

 

 エリスはそう言って立ち上がった。驚いたように目を瞬かせてエリスを見上げるアルブレヒト。

 これまでのエリスならば強い言葉でアルブレヒトを詰っただろう。だが、剣の聖地での交流がエリスを変えていた。

 

「自分に嘘をつくよりはマシよ」

「でも、答えが見つかったら教えなさい」

 

 それだけ言い残し、去っていく。

 アルブレヒトは一人残された。

 雪が静かに降っている。

 家族。

 帰る場所。

 考えないようにしてきた言葉ばかりが頭を巡る。

 答えは出ない。

 だが、先ほどまで胸を締め付けていた焦りだけは、不思議と少し薄らいでいた。

 ――今は、考えよう。

 

 逃げずに。

 

 降り積もる雪を見つめながら、アルブレヒトは静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 再び、水神流の修行が始まった。

 アルブレヒトは静かに目を閉じる。

 呼吸を整え、意識を沈める。

 考えない。

 力のことも。龍神のことも。家族のことも。

 ただ、今この瞬間だけを見つめる。

 

 雪が静かに降り続いていた。

 肩に積もり。

 頭に積もり。

 やがて小鳥が一羽、恐れることなく肩へ舞い降りる。

 それでもアルブレヒトは微動だにしない。

 森の小動物たちも、警戒することなくその周囲へ集まってきた。

 

 その様子を眺めながら、レイダは小さく雪を掬う。手の中で軽く丸め、雪玉を作る。

 そして、何気ない手つきで放たれたそれは、音もなくアルブレヒトへ飛んだ。

 

 その瞬間だった。

 アルブレヒトの右手が、すっと動く。

 力みもなく。

 気負いもなく。

 まるで最初からそこへ置かれていたかのような、あまりにも自然な動作。

 雪玉はその手に触れ、ふわりと軌道を変える。

 砕けた雪が静かに地面へ散った。

 小鳥は逃げない。

 周囲の動物たちも、何事もなかったかのように雪の上で遊び続けている。

 レイダは口元を緩めた。

 

「少しは肩の力が抜けたようだね」

 

 アルブレヒトは静かに目を開く。

 雪は、変わらず降っていた。

 冷たいはずなのに、不思議と寒くは感じない。

 先日まで胸を締め付けていた焦燥も、今だけは静かだった。

 

「ま、ずいぶん時間がかかったけど、ここまでできれば上出来さね」

 

 レイダは立ち上がり、肩についた雪を払う。

 

「水神流は急ぐ剣じゃない。焦れば焦るほど、見えるものも見えなくなる」

 

 アルブレヒトは黙ってその言葉を聞いた。

 まだ答えは出ていない。

 家族のことも。龍神のことも。自分が何のために剣を振るうのかも。何一つ解決していない。

 それでも、ほんの少しだけ、胸の中の濁った水が澄んだような気がした。

 アルブレヒトは深く頭を下げる。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 返事はない。

 ただ、雪だけが静かに降り積もる。

 先ほどまで肩に止まっていた小鳥が、もう一度羽ばたき、再び彼の肩へ舞い降りた。

 アルブレヒトも、その小さな重みを払い落とそうとはしなかった。

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